沖縄という島が如何にして戦火に焼けたのかを、今なお正確に知る者は少ない。
1945年3月26日。関東平野への大規模侵攻作戦に必要とされた補給基地の確保を目指し、米軍を主力とする連合国軍は沖縄本島への総攻撃を開始した。
主要海外拠点の連続的な喪失、東京大空襲などを経て、その当時情報統制の只中にあった筈の国民ですら薄らぼんやりと敗戦の気配を覚えていた時代。ナチスドイツの崩壊を控える中、地球上に残された最後の枢軸国を消し去るべく、連合国軍は死力を尽くしてこの諸島の制圧に臨んだ。3月下旬の陽動作戦や小競り合いを悉く制し、4月の始めには大小合わせて200隻からなる軍用艦が10万発に迫る砲弾を本島西部目掛けて叩き込む。島の形状が一部変形するほどの超火力砲撃を皮切りに米陸軍の段階的な上陸が行われるも、その後の地上戦闘は更に苛烈を極めた。
約3か月に渡る激戦の後、6月22日。沖縄駐留部隊は継戦能力の大部分を喪失し、本島に残留していた部隊や民間人の殆どが降伏。後に『沖縄戦』と一連の戦闘は幕を閉じる。両軍及び現地の民間人も含め約20万人が戦没した。日本軍は言わずもがな、米国もまた史上最大規模の損害を被ったが、特に沖縄県民については当時の住民の内4人に1人が死滅する惨劇となった。
島袋家の末子である少女の産声はこの僅か1日後に上がった。単独出産に挑んだ母親は産後の回復手段や止血縫合の術を持ち合わせず、物資の不足もあって産前から続いていた栄養失調などにより4時間後衰弱死。防空壕の中から響き渡る産声を聞きつけた米軍兵士が遺体と新生児を回収する。その後本島に設置された捕虜収容所にて身元不明新生児の育児担当者が一斉募集され、夫と生後2ヶ月の我が子を喪ったばかりの女性がこれを担った。
結局この育ての親も終戦直後の混乱の最中に病で命を落とすが、若干6歳の少女は3人目の母親に遭遇することなく、以降ほぼ自力で少年時代を駆け抜けた。恐らくは2人の母が心の底から願ってくれたのであろう自らの生を貫徹するために、少女は島袋の姓を背負い、貪欲に生き、貪欲に学び、孤独に戦い続けた。一時は孤児院に身を寄せ、その折に米軍兵士の見様見真似からギターを極めた。成人後は食品工場での労働と米軍基地内でのバンド活動で日銭を稼いだ。
一度だけ恋心を抱く機会はあったが、女の幸せと定義されるテンプレ通りの人生は何処か他人事のように思えたのかもしれない。ギターと工場と飽くなき生存が自分のすべてと化していた。メンバーの1人が暴力団員に刺殺されやむなくバンドを解散した後も、ギターと労働に明け暮れ、その代わり以前より人との関りを拒みながら、1人で生き続けた。
それを知覚したのは23歳の夏。丁度『本土』の人間が挙って「戦後からの脱却」を騒ぎ立てていた時代、後に高度経済成長期と呼ばれた一連の時代の真只中である。育ての母が眠る集団墓地に向かう最中、ギターを背負ったスカジャン少女は三叉路の手前で目を閉じ、そしてもう一度見開く。ある筈のない海が眼前いっぱいに広がっていた。
正確に言えば、この場合「ある筈がない」のは海のほうではなくスカジャンギター少女の方である。那覇市郊外を歩いていた筈の少女は、遠く石垣島の小規模な集落の路地にその身を転移していた。わけも分からぬままこの日の内に3度の転移を行うも、日を跨いだ深夜4度目の転移でついにその法則性と扱い方を心得る。以来凡そ50年間、特に誰に伝えるともなく、この能力を密かに生活の一助としながら孤独を咀嚼する日々を送った。
転移能力者『島袋紀子』。
齢77歳、激動の時代と共に沖縄を生きる超常である。
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