チムコン
鉄道というのは思うに、乗っていて安全であることがその運行上第一条件である。
もちろん安全第一は電車に限った話ではないが、利用人口、載積人数、移動距離、さらには安定性、その他諸々の面から見れば他の交通機関で電車に追随するものは少ない。
そんなもので万一事故が発生すれば、まあ当然多大なる被害をもたらすのは周知の事実である。その『万一』が毎日のように『事故』という形で起きてしまうのも鉄道の恐ろしさなのだが。
く
だから。
だから一つだけ今言えるのは、眼の前に今広がっているこの地下鉄内の光景は決して現実なんかじゃないということだけだ。僕が知ってる地下鉄は、死体なんかないし、床は血みどろな訳ないし、ましてや一抱えもある化け物が跋扈している空間では決してない。これが『事故』か、とぼんやりと思う。事故だとすれば、これは脱線並みの大惨事であろう。
何をどう間違えればこうなるのか全く見当も付かないが、鉄錆の香りに支配された脳で、なんとか記憶の糸を辿っていく。
LINEで「おやすみ」のスタンプをグループチャットに送ると、すぐさまに既読マークが現れた。
何気ない12月末。カラオケの帰り、時刻は五時半。東京某所。千代田線のホームで、僕はコートのポケットに手を突っ込んだ。高校生にはあまり遅く帰ることが許されない。地下鉄のホームとはいえ実質屋外と一緒だ。寒さが末端に刺さる。ひび割れた口の端を舐めた。錆の味が僅かにする。と、同時に電子的なナレーションが流れた。何行きだろうと関係はない。向かうべき駅に辿り着けさえすればいい。開いたドアからは人の雪崩が滑り落ちる。雪崩の勢いが止まった所で乗り込んだ。椅子取りゲームに勝ち座る。
家からの最寄駅はあと一時間はかかる距離にある。寝てしまうか。
そう決めるが早いが僕の意識は一旦去ることを決めた。首が重くなると同時に睡魔が背中から現れて、全身の力を抜いていった。
電車に揺られていると、ふと頭に浮かぶことがある。
ありきたりで似たり寄ったりなレールを、他の事故に影響されたり時には自ら事故に遭ったりしつつ、毎日同じ時間に回る。そっくりだ、と思う。
僕という人間の、生きてきた道に、あまりにそっくりだ。レールを廻る生き方しか分からないのは、果たして単なる成り行きか。それとも僕が望んでいたことなんだろうか。
騒音レベルの足音と叫び声、そして何かしらの緊急放送らしきものが聞こえ、身体が動き出したのはいつだったのか。ドアから身を起こし、状況を把握しようとした。
違和感。
窓の外の光景はライトがぽつぽつと点灯していてほの明るい。どうやら地下内らしいが、問題は別にあった。
腕。
脚。
肉片や、臓物らしき赤の塊。
人体のパーツが、車内のあちこちに落ちている。
眼を擦る。なんだ?幻覚か?ついでに頬も抓る。夢ならさっさと醒めろ。
駄目だ。消えない。
それどころか。
散乱した死骸、その上。何かがいる。
「……ぁ」
人の脚だの内臓だのを齧っていた黒い”それ”は、こちらを出来の悪いフィギュアのようなぎこちなさで回すと、振り向き逃げ出していた冒頭に向けて弾丸のように飛ぶ。左肩に鋭い痛み。
突き刺さったのは、黒い牙。その主は、どうやら巨大な昆虫らしかった。昔図鑑で見たアリの拡大図にそっくりなような。反射的に牙に手を出して引き抜きそれを思い切り投げ捨てた。ナイフのような鋭さだ。幸い分厚いコートを貫通し、肩は浅く刺されただけで済んだらしい。熱い血が滲む感触が伝わる。
叩きつけた巨大アリは、逆さまになったままがさがさと脚を蠢かせている。よく見れば一抱え、猫ほどのサイズだ。昆虫にしてはあまりにも大きい。死体がゴロゴロ落ちているような状況ではないことを見るに、食われたらしき乗客は一部で、ほとんどは事が起きる前に逃げ出したのだろう。そうとでも信じないと気が狂う。現状、この状況自体充分に気が狂っているのは置いておくとしても。
がさ。
これはまずいと理解して身体が咄嗟に横に避けたのはほとんど幸運と言っていい。直後に音の主はこちらへ飛びかかってきたから。化けアリは別車両からもわさわさと歩み出る。僕を砂糖か何かと勘違いしているらしい。
脚が竦むことがなかったのもまた幸運だった。後ろに駆け出した丁度その瞬間に、奴らは一斉に僕がいた場所に跳ぶ。ゴムの床にはその顎が突き刺さる。アリなら大人しく地面を這っていろ。バッタじゃないんだから跳ぶな。硬い床なら抜けなくなってくれないか期待したがあっさり引き抜き、メトロノームにも似たカチカチという音を鳴らしぎこちない動きでこちらを見た。ここで運を使い果たしたかもしれない。
手摺りの横、ドア前まで駆け抜ける。幸い遠いお陰でとりあえずは見つかっていないようだ。ひとまずは息をつける。
横に「非常用ドアコック」の文字。
使ったことなんてないし未使用ということは乗客がどこに行ったのかも分からないがこの際どうでもいい。アクリルの透明な板を開き、中の赤いレバーを引いた。これで手動でドアが開けるようになるはず——
背後。耳に焼き付いて離れない、あのがさがさ音。
足を止めるな。見るな。速やかに、そっと、進め。
そう叫ぶのは生存本能か、はたまた竦みかけた脚か。どちらにせよ僕が重いドアをそっと開き飛び出そうとするのにそれほど時間は要しなかった。
がさ。
終わった。そう思った。
奴らがいきなりこんな地下鉄の車内に自然発生する訳がない。奴らの侵入路は、この地下路線からだ。何せあの脚力と顎の力だ、猛スピードで走る電車にすらへばりついて外壁を破壊し侵入するなど難しいことではないだろう。
つまりは手早く要点をかいつまんで言うと、今僕の真下の周囲、線路上には奴らがいる。それも数十匹は軽く超える程の数が。未だに気づかれていないらしいことだけが救いだ。この調子だと生き残りなどいないかもしれない。
そっと、慎重に、背後に退こうとした。
無駄だった。
愚かなことに忘れていた。奴らの独壇場は、線路上だけではないことを。
「がっ……!ぐ、」
衝撃と鋭い痛み。ガラ空きの背中は余程旨そうに見えたらしい。
喉から掠れた悲鳴が出る。その情けない声に釣られて奴らは顎を鳴らして集まってくる。背中にひっついた奴の頭らしき部位を掴み、引き抜く。激痛。かなり浅い筈だが牙は嫌がらせのように鋭いくせにギザついているらしく、傷口がほんの浅くても肉が持っていかれる感触がする。思わず込み上げた胃液を必死に戻す。出血がそこまでないこと以外最悪の状況だ。引き抜いたもがくアリを床に叩きつけ、足で踏む。ぐしゃ。カブトムシを踏み潰したような感触がした。
ああ、これは死ぬな。
そうどこかで理解した。
頭が必死に否定したがる。諦めるな。諦めたらそこで死ぬとどこかの誰かも言っていた。考えろ。考えるんだ。そう叫ぶ。
無駄だ。
肩と背中からの出血。鉄の香りに釣られて集まるアリども。竦んでもはや動かない脚。血塗れの車内。歪む視界。働かない頭。生き残る為の要素が圧倒的に足りていないのは明白だ。
「はははっ……せっ、せめて、楽に殺してくれよ?喉元噛むとかな?」
震え声での無意味な懇願。生きたまま内臓をゆっくり貪られるなんて御免だ。通じるとは当然思っていない、神に祈る時に似ている。こんな神がいたら間違いなくまともな神ではない。五、六匹でじりじりと近づく奴らと、脚が動かず棒立ちする僕。
「死体になったら何してもいいからな?頼むよ?なぁ?」
奴らは脚を止め、こちらに狙いを定めたようだ。いよいよか、とやけに冷えた脳みそで思う。
下らない人生だったな、と諦めがついた、その刹那。
足音。
アリどものものとは明らかに違うと分かるその駆けるような乾いた足音は、電車内の奥から近づいてきている。それも、何か物騒な騒ぎを起こしながら。
さっき奴らを潰した時と同質の、ぐしゃぐしゃという湿った音が何重にも聞こえる。
ドアの窓から、小さい人影らしきものが出現する。何が起きている?どうせもう死ぬ僕の邪魔はしないで欲しかった。
黒の弾丸が飛び掛かる。
頬を伝る血液の感触で意識が引き戻る。血?死んでいない?なぜ?
「え?」
黒服に包まれた腕が、僕の胸元を強く掴んでいた。
背の高い、ポニーテールの女。黒スーツを着用し、僕の胸ぐらを掴みつつ座り込んでいる。
「え?あの一体誰
「じっとしてろ」
彼女の腰、そこに位置しているのは、警官が持つようなハンドガンと、何らかの刃物らしき鞘。日本刀に形は似ているが、デザインは黒く味気ないものだ。彼女は僕の胸ぐらを離し、代わりにその無機質な柄にそっと手をかけた。
まずい、奴らが——
奴らの動きが止まる。
ずる、と擦れる音を立てて、周囲のアリの頭が落ちた。別れた頭と体から透明な体液が流れる。脚などの部位がまだぴくりと僅かに動いている。
彼女が消えている。振り向くと、そこには血塗れの床にぼとぼとと落ちた黒い頸と体、ぬるぬるした体液、地獄絵図のその奥に、彼女は立っていた。入ってきたらしきドアを前にして、彼女は胸元に向け何かを話している。遠くて聞き取りにくいが。
「……この辺りは鎮圧しま……た……一般人……ダメだ繋がんない」
彼女の頭が振り向く。
「おい」
「——は?」
胸ぐらと右肩を再び掴まれた。眼前に黒光りする金属筒が向けられる。細い腕なのに、逃げ出すどころか抵抗が不可能だ。ここにきて初めてドッキリの疑惑が脳裏に浮かぶ。怪我させられてるから傷害罪だぞ、などとあり得ないことまで同時に。
「一ミリでも動いたら、殺す。これはオモチャじゃない、本物だ。弾も装填してある」
銃声。頭を無理矢理後ろに向かされる。穴の空いて半分吹っ飛んだアリの死骸。
「ああなりたくなかったら質問に答えろ。最初の質問だ。『お前は何をしでかした?』」
何の話をしている?僕はただ、遊びに行った帰りの電車で寝落ちて、起きたら何かとんでもないことに巻き込まれていて——
「何のGoIだかテロだか何だか知らないがとんでもないことしてくれたな?お陰で隠蔽作業が難航中でベール崩壊の危機だぞ?」
「ごい?何を言って
「起動部隊は既に出動している。さっさとアイツらを止めて、大人しくお仲間と投降して来い」
「いやそもそもどういう状況なのか全く理解できてないんですが」
「は?」
彼女の顔が明らかに疑惑を孕んだものになる。こちらはきっとぽかんと間抜けな面になっていることだろう。
「とぼけるな、どう考えてもお前が実行者だろう!!この状況下で逃げずにこんな長く生きてられる訳がない。お前以外の一般人は我々が既に保護してあるのに。お前がなんかのアノマリー使った以外原因が分からない、考えられないんだよ」
知るか。原因なんてこっちが聞きたい。でも歯向かえば確実に脳天が吹き飛ぶので言わないでおく。訳がわからないが状況は呑み込めてきた。僕はどうやら生存者兼犯人だと疑われているらしい。
「いやあの、僕は何もしてない、です。寝て起きたらこうなってて何がなんだか」
「何ぃ?……じゃあ検査させてもらうぞ」
彼女はそう言うなり銃を手早くしまい、僕の体を手探りで調べ始める。税関のボディチェックのような感じだ。
「服脱げ」
「え、下着もですか」
「下着はいい。荷物全部出せ。怪しい挙動したらすぐにでも殺るからな」
言われた通り服を脱ぎ、手提げ鞄を渡す。肩と背中に包帯を巻いた彼女は、がたがた震えている僕に調べ終えた服を一枚ずつ返してゆく。暇つぶし用の文庫本の中身を確認し終えた所でボディチェックは終了した。終わる頃には痛みと出血はかなり良くなっていた。
「怪しいものは何もないな……疑惑が晴れた 訳じゃない。最後の質問だ。『あの状況でどうやって生き延びてた?』他の一般人が逃げてる中君だけ取り残されてるっておかしいよな?」
「……確かに」
冷静になって考えると確かに変だ。僕は座ったまま眠っているという無防備な状態だったのにも関わらず、起きて異常に気づくまで奴らには食われなかった。こっちに反応し始めたのは僕が起きてからだ。となると、
「あの、推測なんですが」
「なんだ?言ってみろ」
「僕はここで、異変に気づく前ぐっすり寝てました。あいつら、寝ている僕を襲わなかったんです」
彼女は考え込む素振りを見せた後、言った。
「つまり奴らは動いているものにだけ反応するってことです。逃げ出そうとした僕を襲ったのは走って逃げようとした時だったから」
「……君凄くないか?」
いきなりの賞賛に脳が停止する。彼女の眼は、玩具屋に入った子供のように大きく、輝いていた。
「正解だよ。あのオブジェクトは匂いと体温の存在する動くものに反応する。全ての条件が揃わないと奴らは反応しない。それを初見で見抜いたの?本当に一般人?」
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