もうすぐ夏だというのに。
サイトの廊下を歩きながら、神恵凪雪は呟いた。やけに冷え切った廊下に足音が反響する。温度計は-3℃を示している。神恵がいるから気温が下がっているというのもあるが、それを抜きにしてもここは冷えている。はあ、と吐き出した息は白く、ここがどれだけ寒い場所なのかを表しているようだった。
ふと窓の外を見る。外では雪が降り積もっている。季節外れの雪を見ると同時に神恵は憂鬱な感情を抱いた。このまま世界は雪と氷に覆われてしまうのだろうか、と考えながらその場に立ち尽くしていた。ちかちかと点滅する照明に照らされながら、神恵はなんでこうなったのかを思案した。
数ヶ月前、財団の収容下にあるアノマリーが収容違反を起こした。財団は即座にアノマリーを再収容しようとしたが失敗。結果として地球上の気候が狂い、世界中で常に雪が降るようになってしまった。当然、ヴェールも捲られてしまった。
危機に直面した人類は様々な行動をとった。先の見えない恐怖に耐えかねて自死をする人もいれば、生き延びたい一心で備えを進める人もいた。家族と最期まで過ごそうとする人もいたし、どうせ死ぬのだからと非倫理的な行動に走る人もいた。そうして緩やかに社会構造は崩れ去り、人類は数を減らしていった。
もはや地上に生命は残っていない。数少ない生き残りは地下シェルターに閉じこもっている。それは財団職員も同じであった。
多くの財団職員はサイトに籠ることを選んだ。サイトには食料も居住スペースもある。ここにいれば生き延びられると考えて留まることを選んだのだ。
でも、中にはサイトから出ていく人もいた。
長期的な閉鎖空間での生活はやはりストレスになるのだろう。一人また一人とサイトの外に出ていく。そうしてサイト内にいる職員の数は徐々に減っていった。今やこのサイトには数名しか残っていない。
それでも、神恵は諦めていなかった。
諦めなければ打開策が見つかるだろう。財団がこの事態をずっと放置するわけがないのだから。
自分にそう言い聞かせてひたすらに耐えていた。元々アノマリーとして収容されていたのだから、閉鎖空間での長期的な生活にも耐えられるだろうと考えていたわけである。そして、実際のところその通りであった。
多少のストレスはあるが、気が狂ってしまうほどというわけではない。知り合いがサイトから去ってしまうのは心苦しいが、止めたところでどうにもならないのを知っていたから黙って見送っていた。そう自分に言い聞かせて数ヶ月前が経った。
この生活をいつまで続ければいいのだろう、という疑問を抱えながら今日も生きていく。
サイトのカフェテリアにて。
水の入ったペットボトルを持ちながら、神恵は窓の外を眺めていた。今日も今日とて雪が降っている。一体いつになったら雪は降り止むのだろうと考えながらペットボトルの封を切る。
カフェテリアも廊下と同じく冷えている。電力消費のために空調を切っているからだ。当然、照明も最小限しかついていない。消費リソースを減らすためには仕方がない、とはいえ少しくらい空調をつけてもいいのではないかなどと考えながらペットボトルの水を口に含む。そもそもの気温が低いため水も冷たい。神恵は身体の芯が冷える感覚を覚えた。
何もすることがない。だからカフェテリアに来たわけだが、だからといって暇がなくなるわけではない。もしかしたら何かあるかも、という淡い期待はあっさりと消えてしまった。消えない憂鬱を抱えながら神恵は窓の外を見つめている。その時だった。
「ああ、ようやく見つけた」
後ろから声を掛けられる。誰だろうと思いながら振り返った先には見知った男の姿があった。
「……志文」
「どーも、ここでなにしてんの」
「別に。外見てるだけだけど」
その男──志文ハルジは神恵の隣の席に座った。長めの前髪の隙間から緑色と琥珀色の瞳が覗いている。つっけんどんとした態度を取りながら、神恵は問いを投げかけた。
「なにしに来たの」
「ちょっと最近の様子について話したくてさ」
「ふーん」
そう言って志文は話を始めた。神恵はそれを聞きながら外の様子を変わらず眺め続けている。
「調子はどうよ。元気してる?」
「別に。普段と変わんないけども」
「そっか。俺はちょっと辛くなってきたかな」
「流石にずっとサイトにいるのはキツいわ」と言いながら、志文は指の骨を鳴らした。ポキポキという音が二人しかいないカフェテリアに反響する。
「やっぱ家に帰りたかったりすんの?」
「そういうわけじゃなくてさ」
「じゃあなによ」
神恵の問いかけに志文が答える。
「いや、自由に動けないのが割とメンタルにキてね」
「あ~ね。なるほど」
「んで、ちょっと考えてることがあるんだよ」
「考えてること?」
志文が「うん」と相槌を打つ。そこから更に数拍開けて、彼は言葉を続けた。神恵は、彼の髭がいつもより伸びていることに気付いた。
「ここから出てこうと思ってるんだ」
「……は?」
「ずっとここで過ごすわけにもいかないだろ? だから──」
「いや……出ていくって本気で言ってる?」
神恵はやや困惑した様子で問いかけた。「また知り合いがいなくなる」という寂寞感を覚えながら、神恵は志文の顔を見つめていた。
「本気だよ」
「でも、ここから出てったら死んじゃうじゃん」
「それも理解してる」
「だったらなんで──」
そこまで言いかけて、神恵ははっとした。志文の表情を見て、彼のこの決断が悩んだ末のものであることを理解したのだ。どのように言葉を返せばいいか分からずに悩む神恵に対して、志文は言った。
「最後にみんなに感謝を伝えようと思ってたんだ」
「……それでここに?」
「うん。何も言わずに去ることなんてできないから」
そう言って志文は腕時計を外し、それを差し出した。神恵が「これは?」と言いながら腕時計を受け取る。
「その腕時計を墓に埋めてくれないか」
「墓って、まるで死ぬみたいじゃない」
「だってそうでろう? この寒さに人間は耐えられない。きっとどこかで凍え死んでしまうだろう」
「でも分からないじゃん。もしかしたら助かるかも──」
志文が首を横に振る。ここで神恵はようやく悟った。志文は諦めたのだ。諦めて死ぬことを選んだのだ。言葉が上手く出てこず、思わず黙り込んでしまう。志文は微笑みながら神恵に言った。
「お前は諦めるなよ」
志文が席を立ち、カフェテリアを後にする。神恵はそうして去っていく彼の背中を眺めることしかできなかった。
志文がサイトを去ってから数か月が経った。
この数ヶ月の間に多くの人がサイトを去っていった。今やサイトに残っているのは神恵だけとなっている。数人分の食料などの備蓄を一人で消費するだけの生活に寂しさを覚えながらも、神恵はひたすらに耐え忍んでいた。異常性も相まって冷え切ったサイト内を歩きながら、神恵は思案する。
諦めずに耐え続ければ、いつか解決策が見つかるのだと。そう信じながら、彼女は今日も一人で生きていく。
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