リレー執筆

開始 終了
2023/07/31 19:59 連載中(2023/08/17 07:00時点)

少年は空を知らない。

- by v vetmanv vetman



それもそのはずだ。宮野地区に聳え立つ幾つもの鉄塔から排出されている煙は周囲を朱色に染めている。そして、住民も皆、それを良い事だと思い込み続けているからだ。

- by FireflyerFireflyer



事実、その茜色の情景は外から金と人を呼んだ。数年前は終わりきっていたそのスラムを、今や日本でも一大の工業都市としたその煙は住民にとって既に信仰の対象だった。

- by Ryu JPRyu JP



「この朱色は人の活力の証だ」

そう言っていた少年の父は、数ヶ月前に公害病で死んだ。蛆のように人が湧き蟻のように人が死ぬこの街も、それを脳死で肯定する人々も。何かもかもを、少年は理解できなかった。

- by rokuroururokurouru



こんな感じで、身寄りのなくなったぼくを引き取ったのは、親戚を名乗るお姉さんだった。お姉さんはいつも朱い煙の葉巻をふかしていて、朱い服を着ていて、おまけに乳房が三つ横に並んでいる。ぼくはお姉さんのこともわからなかった。少なくとも、この街と同じくらいにはわからない。

「ぜんぶ同じ色だね」
「血なんでしょ。朱いんだし」



僕は血の色を知っている。父が最後に吐いた血痰を憶えている。お姉さん程綺麗ではなかったし、お姉さんもまた血の色とは程遠く思える人だった。

- by v vetmanv vetman



何も分からなくても、時間は等しい速さで進んでいく。空の色は一体どうなっているのか。どうしてこの街はこんなに朱いのか。僕には何も分からない。何も分からないけど──少なくとも、今目の前にある朱は、そんな悪いものじゃないって思えた。

- by readmasterreadmaster



お姉さんの紹介で雇ってもらった、貧乏人向けの中華料理店を見る。壁の朱は厨房の生肉を彷彿とさせる。早く帰らなくては、とオイル臭い街灯の下に出た瞬間、声をかけられた。

「そこのアンタ。1円……いや、20銭でいい。貸してくれないか。歩けるうちに治してもらわないと、働けなくなっちまう」

- by ocamiocami



厚味を欠落させた衣類は日夜吐かれる毒色と不自然な程同化を起こしている。視界を空転させた僕は漸く人影の数と発生源を認識した。逡巡の後に震わせた音声は酷く掠れている。


「悪いけれど」

何が悪いか、なんて考えて言ったわけじゃない。迷った末の定型句はあまりにも頼りなく、僕はそれを置き捨てて店の中に逃げ込んだ。

- by SyutaroSyutaro



呼び止める声は扉を区切って聞こえなくなった。少し体重を掛け、深く息を吸って吐く。厨房から店主に珍しい物を見る目で軽く見られたが、その視線も直ぐに去った。あの様な物乞いは珍しくもないと言うのに今日はどうしてここまで戸惑ってしまったのだろう。そう思いつつあまり進まない足取りで空席に座る事にした。


セルフサービスの水を一息に飲み干し、やっとのことで僕は一息をついた。脈動する心臓がドクドクと僕を攻め立てていたが無視をして拾い物のたばこに火をつける。不健康な紫煙は僕の感情を代弁するかのように肺を穢したが構いやしなかった。ただただ空虚さだけがその場に充満していた。

- by karkaroffkarkaroff



そうして微睡んだ暗闇、瞼の裏。僕の前髪に当たるのは冷たい水滴と透き通る様な風で、どこまでも聳えるような雲の中に僕は立っている。空は雄大に蒼いらしくて、軽やかな雲は塗りつぶされたキャンパスを切り裂いて。人の手に穢れた朱の及ばぬ世界に、突然光が翔ける。────雷。世界を覆すようなその一閃を、僕はまだ知らない。

- by rokuroururokurouru



「あの光……」
間もなく、行動が思考を追い越した。
駆けるコンビナート。鉄溶鉱炉のもっと上。うつろな朱すら塗り替える!

――やはり、聳えるのは昨日と同じ鉄塔群。ただ、少年に昨日と同じ迷いは無い。



そういえばあの人は言っていた。
血だから朱いのだと。

けど、僕はそれに確信が持てる程には他人の血を見た事が無かった。
朱は自分の色だ。

思い込みは迷いを打ち消す代わりに死を近づける。
なぜ僕はあの光を「雷」だと思ったのだろう?



答えは簡単だ。今日は7月の7日、すなわち梅雨明けの雷だろう。朱き空からは血のように紅く、それでもなお透き通った雨が降る。梅雨の終わりが訪れたということはこの町に取って商売時の合図でもあるのだ。

ただしかし、この朱き梅雨の間は誰も油断することが出来ない。それもそのはず、父は雨の飲みすぎで死んだからだ。公害病、と言ってしまえばそれ迄であるが、あれはただの人災で終わるものではなかろう。

- by FireflyerFireflyer



父を殺した雨滴の中を、傘も差さずに家まで歩く。透き通った緋の色が降り注いでは地面に落ちて、風景はだんだんと染められていく。どうしてこの街はこんなに朱いのか、僕はずっと掴めないでいた。赤は煙の色、空の色、雨の色。それだけじゃない。父の痰。お姉さんの服。中華料理屋の生肉と壁。気味の悪い物乞いのだらしなく開いた口。朱はこの街を支配している。茜はこの街を覆い尽くしている。緋のグラデーションがすべてを形作っていて、父はそれを誇りに思っていた。お姉さんはそれをただ受け入れていた。僕には理解できなくて、だからこの街を好きになれないのだ、どうしても。その代わりに、不健康にも紫煙が好きだった。夢でみる、永遠みたいな蒼と切り裂くような白が好きだった。

夢。夢で翔けていたあの光も、赤に塗りつぶされてはいなかった。そうふと思って空を見上げて、先ほど自分が梅雨明けの兆しだと思い込んだ雷を想起して。けれどもおかしい。梅雨はまだ終わらず雨は降っていて、自分は雷を知らないはずで、違う、知っていたんだったか、認識がぼやけて、お姉さんの乳房は本当に3つで正しかっただろうか。夢と現実の区別がつかなくなったのはいつからだっただろうか。空は元から赤かっただろうか。血の色は、本当に赤なんだろうか。

- by SCPopepapeSCPopepape



「この地区はさながら癌だ。数日以内に胎盘(プラセンタ)から切除せねば」
H.R.Kの嘆きは棄民廃区(ニルヴァーナ)の自他境界を微睡ませ、過去と現在は悠久に堕ちている。六体に無数の呪禁を彫った神経官僚(ニューロ・エージェント)は涙に沈んだ街並みを誰も救わずに歩み続ける。どこをどうメスを入れて宿痾を摘出すべきか、凄腕の外科医のような思考回路を走らせる。あと数日もすれば住民諸共虚空に切り出される事も知らずに、肉の塊は狂ったように空を仰ぎ続ける。口より流れ込む緋雫を甘露のように有難がり、五体投地で太虚に坐しますH.R.Kに祈りを捧げる。後数日の辛抱だ。痼離(アポトーシス)手順が済んだらネオンカクテルをたらふく浴びでやる。そんな意気込みを糧とする役人の心裡を知ってか知らずか朱色の空は脆く濁っていた。


引っ繰り返った脳味噌が元に戻る。沈んでいた意識が現実へと上昇し、ガムのようにこびり付いていた幻覚はキレイに剥がれ落ちた。お姉さんの乳房は三つだ。血の色は赤色だ。僕は体中に悍ましい刺青のあるスーツの男ではなく、ただの身寄りのない少年だ。今までは幻想、今からは現実だ。夢と現実の区別はついている。自己を確立しなおし、僕は走り出した。口から零れた煙草の火は消えていた。

- by doraTOROdoraTORO



「お姉さん!」
「お姉さんだよ」

息も絶え々々に建付けの悪い引き戸をこじ開けて、見飽きて久しい6畳1間の薄暗がりに駆け込む。背中で面倒くさがるお姉さんは、凡そ何十年も前からそこにいたような風体で、僕の方など見向きもせずに乳房を持て余していた。

見慣れた風景。それを不意に壊してしまう気がして、しかしそれをずっと前から待ち望んでいた気がして。大きく息を吸い込んで、僕は半歩踏み込んだ。

「空って知ってる?」

- by v vetmanv vetman



「おてんとさんなんか毎日見てるじゃないか」

おもむろに腕だけ上げて、お姉さんは雑に上を指差した。その体勢を数秒間続けて手を数度揺らし、怠そうに下げたその背中からは、この朱い街を当然のこととして捉えている大人の色を感じた。父親やこの街の住人の、半ば狂信とも思えて仕方ない朱への信仰と執着こそ感じないものの、擦り切れて朱が滲んだ傷のようで、手入れの行き届いていない長い黒髪も相まって、何かを諦めたような雰囲気を纏わせている。だから僕は、一種の確信を持ってさらに半歩踏み込んだ。

「あれは空じゃない。そうでしょう?」
「どうした少年」
「お姉さんは空を知ってるんだ」

おどけた彼女の声はない。胡乱げに彼女は体を起こす。振り向く彼女の黒髪は、俯いた彼女の相貌を隠して、暗がりでさらに判別は困難だった。ただいつものようにあぐらを組んだ足の中に手を置いて、酔ったように左右に揺れている。彼女は問う。

「どうしてそう思う? この世界はどこまで行ってもあの朱い空だ。君は宮野を出たことがないから知らないかもしれないね」
「空は蒼いはずだよ。夢を見たんだ」
「少年、煙草やったろ」

お姉さんの揺れが停止する。ゆっくりと、体軸が中央に戻る。髪の隙間から、鋭い目つきで見つめる目が、ひどく目立った。小さく生唾を飲み下す。

「その分じゃ乞食にも会ったな……夢売りだよ。私ら貧民街の連中は落ちてるもんは何だって一度口に入れたがるからね。そうやって特殊な煙草の吸い殻撒いて吸わせるんだ。古の記憶が宣伝文句の胡散臭い奴らのことさ」

そこまで語って、一度口を閉ざす。少し逡巡が見える気がした。

「少年も知ってるだろう。この街のどこからでも見えるのに、絶対に辿り着けない塔のこと。……確かめたいなら私は止めない。そこで盗み聞きしてる乞食さんもそれをお望みのはずだ。私の時は諦めた」

言いたいことを言い終えたか、私の仕事は終わったと言わんばかりにまた背を向けて寝転がる。カチッという音の後に上がる煙は、僕が吸ったものとは違う、この街と同じ赤灰色だった。

- by kihakukihaku



ドアに手をかけた所で、お姉さんは「ああ、忘れてた」と声をかけた。

「ガスマスクを付けたヤツらには関わらない方がいい。アイツらの話は……聞くだけ無駄だ」

僕はお姉さんの言葉に戸惑いつつも、軽く頷きを返す。お姉さんは、漸く安心したと言わんばかりに窓の方を向き、朱い煙を吐いた。

一抹の不安と謎を残して、少年はドアを開く。この異質に歪み接続したスラム街の中央、まつすぐと天に伸びた鉄塔。足元に落ちている朱く錆びたパイプを携え、彼は朱い鉄階段に一歩を踏み出した。

- by readmasterreadmaster



「絶対に辿り着けない塔」

​───残念ながら、その言葉に嘘偽りはない。少年はすぐに悟った。進めど進めど、この市街地の大路から塔の影が大きくなることはなかったのだから。

塔へ向かう路地に入って進んでも、気づけば塔に背を向けている。曲がった覚えはないどころか、一本道かつ直線で、その先も見えるというのに。その先は先程まで居た大路だ。塔に至るように見えるどの路地も、全てここに繋がっていた。

考える。歩いて考える。考えると腹が立つ。目の前に人参を吊り下げられたロバと姿が重なって、どうしようもなく今の自分が情けなく忌々しい。

少年は、準備不足と己の衝動を呪った。しかし、今更「行けませんでした」でおめおめと帰るようなら、死んだ方がマシだと少年は考えていた。

何故、この大路に出るのか。大路が原因なのか塔が原因なのか、それすらも検討がつかない。歩いて、歩いて、歩いて、歩いて……そして、声をかけられる。吐息すらもウザったく聞こえる、くぐもった声だった。

「君、塔に行きたいのかい」

- by watazakanawatazakana



「そうさ」

「何のために」

「空の存在を確かめるため」

「存在に意味があるのか?」

「意味に意味がある? 生まれた時からずっと、空の朱のことを考えてるんだ。確かめないと気が済まないだけ。他のことはどうでもいい」

そうだ。僕はそもそも少々おかしい。朱を嫌っているようなことを言っても、この街で一番頭上の朱を見つめているのは僕だ。見る人間全てが朱に見えるんじゃない、僕には朱しか見えてないんだ。声をかけてきた人間の方を振り向くと、そこには誰もいない。果たして、アレがガスマスクを付けていたのかどうかすら覚えていないし、多分碌に見てすらいない。恐らく、彼は朱色ではなかったのだろう。もしかしたら今も目の前にいて、見えていないだけかもしれない。
 
僕が興味を持てるのは朱のみ。それなのに、なぜかあの蒼だけは目に焼き付いている。あの蒼を現実に見ることが出来たなら、僕の目は新たな色を捉えられるようになるはずだ。朱じゃない人を見つけられるはずだ。もはや踵を返す理由も、歩を止める理由もない。思案を有害な大気に吐き出して、僕はまた歩き始めた。次第に、視界の塔が指数的な膨張を始める。漸く近付き始めたらしい。

- by SyutaroSyutaro



塔は近づくにつれその精彩さを取り戻していく。黒く穢れているだけだった塔はやがて鉄と錆を見せ、遥か上空のランプは朱と蒼を交互に光らせる。塔は近かった。

何かが落ちた音がして、身じろぐ。それは無視できぬ程に不快な音だった。今まで聴いた事がない、でもとても悍ましいその音の正体を確かめずにはいられず、振り返る。

ふたり、人が死んでいる。骸はひしゃげ、原型を留めていない。音の正体はあの子らだろう。
ひとりは朱い血が塗れたガスマスクを付けていた。父の血痰と同じ朱は綺麗だった。
もうひとりには翼があった。小さな翼はー恐らく彼女の血であるー金の液体を被り、輝いていた。そして何より、未発達だが、彼女の胸には3つの乳房が具わっていた。

地面で抱きあたったふたりの血は混ざり、朱く輝き、大路を染めていった。

- by yakuma324yakuma324



ひゅう、と空を切る音がする。直感、足を半歩引いた。なぜかはわからない。ただ、その行動は結果的に僕の命を長らえさせる選択だったらしい。刹那、目の前を過ぎた何かが赤錆びた地面で火花を散らし、耳障りな金属音と共に四方に散らばる。マガジン。薬莢付き弾丸。その他細かいパーツ。思わず上を見上げるが、これ以上何かが降る様子はない。

目の前の非現実な諸々に一呼吸おき、詳細を把握するために、二つの塊に近づく。手始めにガスマスクを取る。ゼリーみたいにどろりとした黒い赤が溢れる。顔は潰れてしまって判別はできなかった。咽せる生臭さに込み上げる吐き気を抑え、ガスマスクに覆い被さるように果てた羽根付きに視線を移す。下敷きになったガスマスクの方がクッションになったのか、見た限りでは損壊が少ない。その白く長い髪を避けて顔を見る。

弾かれたように立ち上がり、半歩下がった。

「お姉、さん……?」

その相貌は、間違いなくあの人だ。少し幼さが残るが見間違えるわけがないほどには、その顔に見覚えがあった。明らかなイレギュラー。眩む意識を何とか保つ。顔を直視できず目をそらす。すると、羽根付きの腰のあたり、ふと目につくものがあった。ナイフだ。宮野の朱に相応しくない、青味を帯びたガラスで、金の飛沫が映えている。どうやらガスマスクの腹にその刃を埋めているらしい。刺された側の腰には、錆びたベルトと粗末な革のホルスターがあった。中に収まっているべきの銃はない。ーガスマスクには関わるな。去り際のお姉さんの言葉を思い出す。

この二人は抱き合っているんじゃない。取っ組み合ったんだ。

- by kihakukihaku



理解困難な事象が連続する。あの塔に近づけば近づくほど世界は理不尽に絡み取られるように思える。この調子では鉄塔に辿り着いた時には何が起こるのか?塔を登るとどうなる?

あの鉄塔は現実自体に突き立てられたナイフのように非現実だ。いやむしろ逆なのか?あの塔こそが現実に存在するナイフで、ナイフが刺さったこの街は溢れ出る血で朱に染まり続けているのか?

ならば出血し続ける非現実であるこの街、宮野地区はいずれ・・・・・・

混乱した脳みそが奇妙な狂想を創り上げる中、二人の死骸に目を戻す。こんなものを見続けていても精神への害ばかりだ。ひとまず青いガラスのナイフを引き抜く。どこかで使うかも知れない。

空での闘争の末路から目を背け逃げるように、目的地である塔へと急ぐ。ナイフから垂れる朱の雫が後を尾けるように道に痕跡を残した。

- by tateitotateito



この世界はまだ死んでいない。勢いよく血が流れているからだ。僕はナイフから血液を拭った。とにかく進まなければならない。脅迫的なまでの意志に取り憑かれてしまっていた。
 道を歩く。表面が剥げて砂利っぽくなったアスファルト、そのへんに転がっている鉄パイプ、崩れかけの建物。それら全てが、雨に濡れていた。透明でも、その雨は血に違いなかった。

「おい」

 後ろから声をかけられる。女の声だった。若い女性だ。僕は足を止めて、振り返ろうとした。

「立ち止まるだけでいい」

 その声の奥からは「見るな」という意志が滲んでいた。



どうしよう。走り疲れて上昇した体温に似合わない一筋の冷汗が背中を伝う。お姉さんの言っていたガスマスク。声の主がその類であるならば、一歩選択を間違えた瞬間先程の二人と同じ結末を辿る事は想像に難くない。

右手に握られたナイフ。"止まる気は無い"という衝動。
……選択肢なんて、最初から無いも同然だ。

「誰だ」

ナイフを向けて振り返った。蒼い切っ先の向こうに居たのは、想定した通りのガスマスク。じゃ、ない。立っていたのは短髪の女性だった。青のメッシュが入っていて、耳には黒いピアスが垂れ下がっている。目線は鋭く尖っていて、心底嫌気の差した顔で僕を睨んでいる。

「……本当に誰?」
「なんでこっち見たんだよ。あぁもう面倒な手間増やしやがって」

そう言いながら彼女は懐からなにか機械の様な物を取り出した。ガスマスクに近い物、でも明らかに構造が違う。呆然とその絵面を眺めていると、機械を口に装着した彼女が「これでどうだ?」と話しかけてきた。途端に空気が変わる。背中が粟立つ。この声には、確かに聞き覚えがある。

「あんたは───」
「お察しの通り"夢売り"だよ。依頼されて乞食に変装してた、それだけの輩。ったく、俺は例の女に用があったってのに」

- by rokuroururokurouru



「用?」
「振り返らなけりゃ話した。その分1個増えるからな」
「あんたはお姉さんを知っているのか」
「2度も言わせるな。動かずその場で立ち止まれ」

何処から取り出したのか、見覚えのあるボロ布を片手に夢売りは続ける。

「手短に聞く。お前はこの朱に疑念を抱くか」
「解らない。……けど受け入れるつもりも無い」

本心だった。僕はこの町の朱が嫌いだ。

「だから塔を目指している」
「そうか」
「……ッ!?」

呼吸を忘れて目を見開く。夢売りの身体は遠目から見ても明らかに透き通っていた。

直感で理解した。彼女は間も無く消え去ってしまうのだ。それも僕が振り向いてしまったばかりに。

「使い方は知っての通りだ」
「何が言いたい?」
「1度に1つまでしか遺せないんだ。次は気を付けろ」
「……待て!」

.

夢売りは完全に消えて失せた。乞食が着込んでいた青鼠色のボロ布1枚を路面に残して。

- by v vetmanv vetman



 僕は昔からこうだった。肝心な場面で何かを取りこぼしてしまう。そして取りこぼしてしまったものは二度と戻ってこない。今だってそうだ。僕が振り向いたが為に夢売りは消えてしまった。自分のせいで彼女は消えてしまったのだ。
 心の中に後悔が募る。どうして彼女の忠告を無視してしまったのか。どうして僕は動きを止めなかったのか。自問自答を繰り返して答えを探る。それでも有意な答えは浮かばなかった。「どうして」の問いにすら答えられない自分に嫌気がさす。

- by teruteru_5teruteru_5



このまま進み続ければまた誰かを失ってしまうのでないか。それでも本当の空を知りたいのか。一体何のために?自問自答。真っ赤な空はまるで僕を嘲笑っているかのようだ。

彼女が遺したボロ布を手に取ると何かが落ちる。手を伸ばして拾い上げると、其れは煙草だった。もうどうにだってなればいい。僕は煙草に火をつけた。紫煙が視界を霞め、意識が遠のく。

- by sian628sian628



瞼を上げると、そこは空だった。

こんなふうに夢をみるのは2度目。だからだろうか、ここが現実ではないという自覚をはっきりと保有できている。

視界一面に広がった永遠みたいな蒼は、世界に果てなどないと錯覚させるかのようだ。翼を持たない僕は、その中をただ仰向きになって落下する。掌にはあの蒼色のナイフ。ガラスの透き通るままにこの空に溶けていってしまいそうに見えて、なぜだかそれは駄目な気がして、握る手を強めた。

お姉さんの顔をしたあの誰かのように小さくとも翼があったなら、羽ばたく能があったなら、墜落は免れただろうか。しかし夢の中で夢物語を語ることに意味などなく、僕はただ落ちて行くばかりだ。

やがて吹いてきた風に僕の身体が回転すると、眼下の光景に見覚えのある鉄塔が現れた。塔の周囲からはドーナツを象ったような朱い煙が広がって、幾たびも拡散と消失を繰り返しては周囲を朱色に染め上げている。

先程脳裏を漂った、荒唐無稽な思考を想起する。もしも本当にあの鉄塔だけが現実に存在していて、非現実たる宮野地区が流す血こそがこの忌々しい朱色なのだとしたら。現実と非現実の境界線は、どこに引かれているというのだろうか。

この夢は非現実だ。そう、自覚している。いまこの夢の中を墜ちている僕の身体も非現実だ。現実と共有されているのは僕の思考とこの蒼いナイフ、ただふたつだけ。では、仮説の再演はどのような結果を生むだろうか。

落下する身体を制御しながら右手を振りかぶって、一突き。その刹那にも思考は回転していた。僕にこんな夢を見せるあの夢売りは何を望んでいるのだろうか。朱ではなく蒼を選ぶよう誘導されてはいないか。そもそも、塔の下が現実の一部である保証はあるか。僕の思考は本当に明朗か。この懐疑の感情すら、夢に与えられたものである可能性は?

思考の輪郭が幻とともに溶けて行く。

意識が再浮上する感覚があった。

- by SCPopepapeSCPopepape



「…」

「お〜〜〜っ?起きた?」

浮く意識のまま、僕の右手は掴んでいた蒼色を探そうと無意識に動いていた。どうやら身体は布団と毛布の隙間にいるらしい。

「起きたよね?しめしめ…ドリー?ド〜リ〜?」

さっきまで近くで聞こえていた声が遠ざかっていった。緩慢に起き上がり周囲を見渡す。なんて事はない、剥き出しの鉄骨、阿弥陀籤みたいなパイプ、そしてそれらを蝕む赤錆。工業地区宮野ではありふれた光景。

「マジかよ…どういう生命力?」

「俺の勝ち〜!おっれの勝ち〜!」

「まあ待て愛するバカ兄弟、確認する事あるだろ?」

その見慣れた光景の中で目に付く所を挙げるなら、とても良く茂った葉が蔦として赤に絡み合い、その上からマスタードの様に鮮やかな黄色ペンキがぶちまけられている。2つの色は赤を否定する様に…というよりかは互いに喧嘩し合った結果そうなったという印象を受けた。

「とりあえずおはよう、後ろのバカに変なことされなかったか?」

「この子ねー、生命力すごいから傷の止血以外は看病しなくて大丈夫だったよ!」

「見てただけかい」

2人の男が僕の寝ているベッドに駆け寄る。どちらも工業労働者の姿であったが一方は身振り手振りが過剰であり、もう一方は眠そうに目を開いて落ち着いた雰囲気だ。

「傷…?」

「ああ、そうそう」

落ち着いている方の男が、上体を起こしていた僕の胸元をトンと叩く。瞬間、今まで経験した事のない激痛。脂汗をかきながら僕は服を少しはだけさせて確認する。

僕の胸には、深く赤黒い傷跡が出来ていた。

「見たところ刃物…多分ナイフくらいの刃渡りぽいんだけど、それ誰かに付けられた?」

静かな男が質問している後ろで、もう1人が忙ソワソワとしている。2人の態度は正反対だったが、僕から1番聞きたい事らしい。

ナイフという単語を耳に入れた瞬間、僕の記憶は鮮明に甦った。目まぐるしく変化していく理解不能な事象と絵空事の様な荒唐無稽な思考、そしてそれを実行した「蒼を振り下ろす」感覚。

「…鉄塔を、刺そうとしたんです。蒼色のナイフで。とても高いところから落ちていくその時の僕ならそれが出来るって気がして、落ちて行く感覚に身を任せながらナイフを塔に突き刺して、気がついたらここのベッドで寝ていて、僕の胸に傷がありました」

正直に話した、反応は期待していない。嘘をつこうと思えば出来たはずなのに何故だろう、信じてもらえないだろうけど僕はこう言うしか出来なかった。

「…へぇ」

「グッ…フッ…アッハッハ!ダメだ!我慢の限界!ドリーこの子「喫煙者」だよ!完全にラリってる!アハハ!…」

…期待していなかったけどここまで言われるとなあ。

「キイ」

落ち着いている男…ドリーが落ち着かない男…キイの目を真っ直ぐ見て呼びかけた。

「な、何だよ」

「そうやって理由付けて賭けを有耶無耶にする気か?」

「いやしょうがないだろ!本人の証言が信憑性ないんだから!」

「ラリってるから?」

「ラリってるから!」

ドリーはキイの顔面をぐいっと僕の前に寄せた。

「お前もわかってんだろ。こいつに煙草の症状なんか出てねえよ。1から10まで本当のことって確証を持ってる」

「ぐぬぬ…ち、ちょっと待ってよ!」

「今度は何だよ」

「その少年が言うには自分自身を刺したつもりはなかったんだよね!?じゃあ賭けは俺の勝ちだ!」

「バーカ、傷跡見ただろ?」

「その少年が言っている事は本当のことだって確証を持ってるって言ったのはどこの誰ですか〜!?」

「…俺、だが」

「んで少年は自分じゃなくてテツトウ?って人を刺したつもりって言ってるから、自分で刺したわけじゃないんだけど!?ドリーの理論だと!」

「いや…でも傷跡あ、るし」

「カタコトになってんぞ我が兄弟!」

2人の言い争いを聞く限り、どうやら僕の胸元の傷を自分で刺したか誰かに刺されたかで賭け事をしていたらしい。なんだかこっちまで申し訳ない気分にさせられる…

「あの、手当てしてくれてありがとうございます。そして、その…ごめんなさい」

「え?」

「ん?」

「僕の話、要領を得なくて。でも本当なんです。あとテツトウは人名じゃなくてまんま鉄の塔です」

「えっ…?」

「鉄の建造物にナイフ突き刺そうとしたの…?なんで…?」

「あー、落下していく時思いついたからですかね…?」

自分の返答で2人がヤバいものを見るかの様な目で見ている。正気であると分かっている分とても引いている様に見える。

「えっと、あの…」

今更自分の世間体を気にするのは馬鹿らしかったが、何より目の前にいるのは恩人であるため、僕はこう返答した。

「…お礼として、何か僕に出来る事があればお手伝い出来ませんか?」
——————

「なるほど、ご両親の遺産相続」

「そうだ。これくらいの工場建てれるくらいはやり手だったみたいだけど、2人して同じタイミングだったから息子の俺とキイで仲良く分けようって話だった」

「揉めたんですか…?」

「いや?割とすんなり決まったよ、金に設備に家のものに。でも1つだけ、我が家の家宝だけは1個しかなかったからそれを賭けで決めようとした所に少年が空から降ってきたわけだ」

「そ、そんな大事な賭けをめちゃくちゃにして…」

「俺としては家宝はどうでもよかったから、賭けっていう不確かなもので決めようってしたわけ。だから気にしないでくれ。元々キイの案だしな」

「なるほど…えっ、僕落ちてきたんですか?」

「空からな」

「えっと…」

「なんで生きてるのかって面してる。ゆっくり落ちてきたんだよ、あれは確か煙…じゃない、液体だったか…?とにかく包まれてゆっくりと落ちて、ぽよーんって地面に叩きつけられた」

「な、なるほど…?」

「あーほら、手止まってる」

「あっすいません!」

「君から手伝って欲しいって言ったんだぜ?ふふふ…」

——————

「あや少年、本当に工場仕事俺の分やってくれたの?ありがとう〜」

「そりゃ看病してくれましたし…キイさん、こんな所にいたんですか?」

「うん、ここ宮野が丸ごと見えるんだよね〜」

「本当だ」

「…少年はさ、あの鉄塔が嫌いなの?」

「はい…キイさんは、好きですか?」

「そりゃなんで?」

「あの塔は、塔から上がるあの朱い煙は、工業労働者にとっての発展のかたちですから」

「…」

「キイさん?」

「俺の両親さ、2人揃ってタバコの過剰摂取で錯乱して死んだんだ」

「えっ?」

「ずっと近くで見てたから、タバコでクルクルパーしちゃった奴の見分けなんか俺もドリーもすぐにつくんだ。夢よりもうっすい煙に呑まれた哀れな人間がそうでないかって」

「そう、だったんですか…」

「末期の時なんか酷かったよ。鉄塔の方向に手合わせて「我々宮野の工場にいる人間がここまで繁栄したのは鉄塔様煙様のおかげです」って。神様かなんかみたいにさ」

「…」

「バカと煙は高い所が好き、って正しいんだなって思うわ。煙はバカだから高い所にいるし、人間はバカだから高い所に登る朱色の煙を神聖なものだと思ってる」

「…なら、血はどう思いますか?」

「血とは?俺たちの身体を流れる血?」

「宮野に住む人たちは、自分たちの血が煙になって宮野の繁栄を象徴しているって言います。あの朱色が自分たちの朱色だって言います」

「そう思う奴らはバカだからそう思ってるんだよ!少年は同じバカなの?」

「わかりません…色々な人と会って色々な事に出くわして、自分が何者なのかもわからなくなってしまった」

「そう言えるならまだ大丈夫!」

「そうですか…?」

「他人がなりたいものに自分自身がなる必要ないでしょ?それを見つけるために俺たちの血潮は流れてるわけだから。血は血のままで構わないさ!」

「血は血のままで、構わない…」

「そう言う事。サボらせてくれて本当にありがとうね、俺らに見送りくらいさせてくれや!」

——————
そうして僕はドリーさんとキイさんの工場を後にすることにした。

「本当にお世話になりました、ありがとうございます」

「気にするなって…良い刺激になった」

「そうそう!あれくらい朝飯前だって!」

「お前はもうちょい感謝しろ」

「あはは…自分がお手伝いしたいって言ったので」

「全く…さてと」

2人は工場の奥から何かを持ってきた。それはミリタリー色のリュックサックで、僕の肩にピッタリはまるサイズだった。

「これは…?」

「すまないな、あいにく中には水とか食料とか、そんな大層なものは入ってない」

「結局あの後賭けの勝敗決めれなくてさ〜、だったら景品は少年が持ってってくれた方が後腐れないかなって結果になったわけ!」

「えっ…!?」

このリュックサックの中に例の家宝があるらしい。背負っている感じ確かに重いが、それがリュックサックの重さなのか家宝の重さなのは判別がつかない。

「いいか〜少年?もし絶体絶命のピンチが訪れて、自分がどうすべきか分からないほどに打ちのめされた時にそのリュックを開け。それ以外のつまらん用途で使ったら承知しないからな!」

「脅かすなバカ。でもまあ…そうだな、あながち言い過ぎでもない。そんな事がないと思ってリュックサックごと捨てても構わない、君の持ち物だからな。ただ使う時は相応の覚悟を持って欲しいだけだ」

2人はいつもの口調でそう言った。それが冗談だとも中身はなんなのかも言わなかった。

「何から何まで本当に…ありがとうございます」

「いや?我々も君から貰ったものがあるからな」

「はー臭い事言っちゃって!少年はこれからどうするの?」

「とりあえず…お姉さんと夢売りにもう一度会いたいです。この地区の人たちから話を聞いて目的地を決めます」

自分が何者であるのか、自分の血の色を知るために、僕はもう一度話をしたい人がいる。血は血のままで構わないのなら、それを伝えたい人がいる。

「そうか、頑張れよ」

「はい!」

地を張って歩き始める。上にある朱い空の色を睨みながら。馬鹿な煙の朱色と自分の血潮の紅色は違うことを証明するために。

——————

「…行ったか?」

「うん」

「よし…聞こえてますかムラサキ様?例の少年と接触、意識が戻る前に彼が所持していた蒼色のナイフを回収」

「こんなもん回収して何になるんですかね〜?」

「静かにしてろ、彼に持たせたリュックサックに盗聴器を仕込みました。ムラサキ様が我々にそうしている様に少年の動向は盗聴器を通して把握できます」

「独り言みたいに会話できるのは楽だけど気味が悪いですけどね〜…ああドリー」

「何だ?」

「ムラサキ様に言っておく?」

「…そうだな。ムラサキ様のご命令を全て推敲した上で我々の独断になります為、命令違反にはなっていないとは思いますが念のため。我々が少年に家宝を手渡したのは本当です。彼の道先に必要かどうかは分かりませんが、少年が望むのならばアレはちゃんと力を貸してくれるでしょう」

「我々ドリーとキイは少年と意気投合しちゃいまして!少しでも力になればいいなってナイフの代わりにしたんですよね〜!」

「…まあ盗聴器だから会話できないのは当たり前か」

「どういう反応してるんだろうね、やっぱキレてる?」

「知らん、仕事に戻るぞ」

「は〜い」





――状況を整理しよう。

僕は塔に登ろうとした。この朱を造り出した、そして皆に望まれて産み出された非現実を破壊する為に。しかし、それは夢でしか成功しなかった。そして、結果的に私は大きな怪我を負う事になった。何も得ることは無かったし、結局塔に登るまでの妄想の通り、荷物でいっぱいのリュックサック以外は何も持ち帰ることは――

「少年!?何処をほっつき歩いてたんだ!バイトもサボって」

……おかしい。塔で見た光景が真実なら、お姉さんはもう……

「ガスマスクと話しては居ないだろうね?」
「はい。話しては……」

と口に出した後、ハッとする。塔へ導いたアイツがガスマスクだったとしたらどうだろうか?煙草を私に含ませていたらどうだったろうか?

「少年?しっかりしろ。やられたというのならそう言いなさい。しっかりと」

そういえばさっきのドリーとキイも……

「不味いことになった。急いで店に行くよ、少年。」

私はお姉さんに引き摺られそうになりながら走る。重いリュックを背負い、足取りも覚束無いまま。

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——————

色のない世界、ほの暗い水面の底で私は塔を見下ろす。マスクのレンズ越しに紅く染まった地表は何度見てもシャボン玉のような儚さをと砂の城のような脆さのなかで滑稽に漂っている。

”今回は”あの少年は紅を選んだらしい。沈み続ける夢の中で選ぶ紅と蒼の道、彼の主観に世界が紅く染まったのを誰一人として不思議に思わない。『旧からそうであった』とでも言うように当たり前の色の中で働き続けている。

ゆらゆらと揺れる小賢しい小売業のソレは塔がまだ塔であることを確信するとゆっくりとマスクを外す。水面に水泡が放たれ心地よい苦しみと共にそれは空に堕ちていく。

覚醒か、はたまた堕落か。夢と現の余剰を刈り取るそれは苦しみの中で嗤い、そして……

——————

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────その……不味いことって?

裏路地の細道、やや乱暴に手を引くお姉さんに問う。帰ってくる答えは簡潔極まりないが、不可解極まるものだった。

「ムラサキが行動を起こした」
「紫?」
「厄介者だよ。ある意味ガスマスクの連中よりもね」

お姉さんはこの場で自分の知識を全部明かすつもりはないようだ。時間が惜しいのか、それともどうせ子供にはわからないと諦めているのか。だんだんと明瞭になる思考ですら判断がつかない。判断がつかないから、それ以上訊けない。訊けないから、会話がそこで途切れる。

気まずさを感じる沈黙がお姉さんと繋いでいる手にのしかかった。

「塔に行ったんだろ」

先に沈黙を破ったのはお姉さんだった。

「……はい」
「どうだった?」
「……よく、わかんなかったです」
「だろうな」

簡潔でぎこちないやり取り。それきりお姉さんは黙り込んで、僕も自分から口を出せるほどの元気はなかった。再び訪れた沈黙は、この細い路地の突き当たり(即ち、バイト先の店)で八つ裂きにされた。

スライド式のドアを開けると、暖簾とドアに貼り付けられたお品書きで隠されていた客の風貌が明らかになる。それは、青を置き忘れた夕焼けの色。美醜に疎い僕でもわかるくらいには美しいグラデーションをした髪の色。夜明けを服にしたような和装。目は何もかも見透かしているような超然で、紅い瞳孔が僕たちを射抜く。お姉さんと同じくらいの背丈の女性だ。乳房は二つだった。お姉さんは近年稀に見る勢いの舌打ちで出迎えた。

「……遅かったか」
「やぁ。塔に手を出した不届きの色が2人、揃いも揃ったね。元気にしてたかい?」
「注文は」
「したさ。好い匂いがするだろう?もう直ぐありつける頃合いだね。其れで、元気にしてたかい?」
「しつこいな、テメエで判断しろ」
「ふむ、では『大大大好きなムラサキ様に出会えてウッキウキの絶好調』と云った処か」
「殺す」

今にも飛びかかって殺しそうな勢いのお姉さんをなんとか抑えつつ、推定ムラサキを見据えた。

「君が新しい色か。私はムラサキ。先々先代の色だ。ドリーとキイが世話になったね」
「あの2人を知っているんですか」
「ああ、私のお遣いをいつも熟してくれる、良い子たちだよ」

無愛想に出されたチャーハンに礼を言って、そのまま食べるムラサキ。会話のペースは一段落ちる。

「今回、私が動いたのには訳が在ってね……」
「どうせ『蒼』が見つかったって話だろ。それしかない」
「……おや、佳く知って居るね。色は総じて聡いから助かるよ」

蒼……ぴくりと手が反応する。

「少年には心当たりが在るようだ。先先代が奪い、先代が根絶やしにしたはずの蒼。私が到達できず、一度は諦めた色……君は紅を選んだとはいえ、蒼の可能性も十分に示して呉れた。其れは、誰よりも少年自身が知って居ることだろうね」

お姉さんのぎょっとしたような視線が、僕を貫いた。今、訳がわからないこの会話の中で、僕がお姉さんの地雷を踏まされた気がした。冷や汗が噴き出る。

「ああ、其の辺りは後々君の姉と話すが好いだろう。私もこればかりは部外者だ」

かちゃ、と、蓮華を皿に置く音がした。食べるのは意外にも早いようだ。

「そろそろ要件を話すとしよう。私は、今代の色……少年に訊きたいことが在って来た」

僕に?

正直、色だの何だの言われて、僕には訳がわからない。答えられる自信は皆無だった。

「君は、あの塔にもう一度登る気は在るかい?」

超然としたその視線は、きっと嘘を許さない気がした。だからこそ、心情をそのまま吐露した。せざるを得なかった。

「僕は───」

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「登ります」

本当は登らない方がいいのだろう。だけど、知りたい事をそのまま放置するほど怠けたりはしていない。

「ふうん……」

ムラサキは曖昧に相槌を打った後、ニヤリと笑った。

「よろしい、それは立派な判断だよ」

ムラサキはそう言いながらスライド式のドアを開ける。店の中の黄色の柔らかい光が飲まれるほどの朱に思わず目を細めた。

「どこに行くんですか?」

「そりゃ準備に決まってるだろ?塔に登るための準備。私も一緒に同行しよう」



店を出て、後について歩く。沈黙が流れる中、ただひたすらに歩く。見慣れた路地を離れ、見知らぬ道を人目を避けるように進んでゆく。家のようなものの中を通り、倉庫と工場の隙間を抜ける。だんだんと人通りもまばらになってきたころ、ムラサキが口を開いた。

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「君にひとつ問題だ。赤色に黒色を混ぜたとき、その色はどうなる?」

瞼と揃いの、夕焼け色の紅を引いた唇がふたつに開いた。影を踏みながら後ろに続く僕へ、首だけ傾けた時に覗いた耳飾りが何故か印象的だった。

「色が暗くなります」

「その通りだ。ならば、その赤色に更に黒を混ぜればどうなる?」

ムラサキの問いに、紅のひとつも塗ったことの無い、ややかさついた唇を大きく開く。僕の頭の中には、以前に何度か見た印刷所の様子が流れていた。

所々ダクトテープで雑に補強された、煤けた容器からどろりと出された安っぽい赤色の塗料と、目分量で量られたやや不純な黒色の塗料が混ざる様子。

ねじが数本足りていない、がたつく機械で混ぜられたその2色はマーブル模様に組み合わせられながら、だんだんとひとつの色になっていく。

「更に、暗くなります」

「では、もっともっと黒を混ぜれば、最終的にはどうなる?」

油でぬめったタイルの床の隙間をあみだくじのように見つめながら考える僕の頭の中で、機械はよりごうんごうんと回り続ける。もっともっと、更なる黒。

その容器からとぷとぷと流れる黒色は、みるみるうちに赤色を飲み込んでいく。消えていく赤を眺めていた僕はやがて、ひとつの答えを出した。

「黒に──あれ?」

「ははは、こっちだ、少年」

勢いよく上げた目線の先には夕焼けの背中は無く、太陽のように光るライトが光を遮るものもないこの瞳を直接刺した。

腕を顔の前にかざしつつ恐る恐る声のする方を向けば、辺りは何らかの屋内で橙色の電灯のぎらつく飲み屋街であった。

とは言いつつも、多くのテナントがシャッターで遮られたその場所はもう『飲み屋街』とは言えなかったが。

ムラサキは数階分吹き抜けになった天井の2階から控えめに手を振っていた。僕が目を逸らしたわずかな時間の間に、どうやってあそこまでたどり着いたのか。

「そう。赤色に黒を加えると、やがて全て黒になる。赤色も、他の色も、全てが黒に染まるんだ」



赤色も、その他の色も、全てが黒に染まる。

彼女が言いたい事は依然理解できない。だが、根本的な意志は肌で感じ取れた。奥深くて悍しい、陽の光に殺される前の、薄暗い闇。それに近しい何かは、確かに彼女の奥に渦巻きながら此方を睨んでいる。

天井のガラスから差し込む光に目を細めつつ、彼女は続けた。

「君はこの朱い空を疎ましく思っているんじゃないかな。でも私は、この夕焼けの世界もまた美しいとは思うんだ。朱に支配された世界もそれはそれで悪くない、とね」

ムラサキが目を伏せる。

「だが、いつからか黒が混ざった。いこれは自然の摂理なのかもしれないね。例え朱に支配されようとも、陰はどこまでも黒く闇は深いのだから。このままでは、朱が黒に堕ちてしまう事になる」

「そうして、終わらぬ夜が来る」

終わらぬ夜。その言葉で僕の脳裏に浮かんだ物は、死んだ父親の骸だった。業者が回収しに来るのを待つまで、冷えていく父を近くに一人明かした夜。世界が終わってしまう様なあの錯覚を、僕はこの目に焼き付けている。

「私はそれを防ぎたい。黒に満ちた世界はさ、些かつまらないと思うんだよ。少なくとも私はね。なあ、今代の色よ。君の持つ蒼に私は惹かれている。だから──」
「あの」

口を開く。ムラサキがぴくりと今一度こちらを見下ろした。

「……お姉さんは貴方の事を随分と嫌っている様でした。でも僕は嫌いじゃないです、貴方の事。今のところは」

本心である。紛れもない本心だが、微かに秘めた感情も僕の発言は含んでいた。僕はムラサキという彼女の事をよく知らない。お姉さんの事もだ。

「いつか見た翼の死体とお姉さんは同じ顔をしていました。それが何だったのかを僕は知らない。貴方がどういった人なのかも知らないし、あの日の夢売りが誰だったのかも知らないんです」

そうだ。僕は何も知らない。何も知らないまま、精一杯生きてきたんだ。だからこそ抱いた衝動は大きかった。初めて僕を衝き動かす物があった。そこには、理由も真実もいらない。

「僕はそれでいい。第一そんな事はどうでもいいんです。僕は鉄塔を登る。理由だとか事情だとか、ゴチャゴチャ言ってる暇なんて無いんです」

「───僕は、空が見たいんだ」

ムラサキは呆れた様に笑った。

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廃れた飲み屋街をムラサキと歩く。砕けたタイル床に転びそうになりながら付いていくと、妙に狭い路地や壊れて歪んだシャッターを抜けて行ったりする。鉄塔は遠く背後に屹立している。

「塔に登るための準備ってなんですか?こんなところに何が?」

マンホールから下水道に降りようとするムラサキに尋ねる。

「あの塔はね、近づこうとすればするほど遠ざかっていく性質があるんだ。影というか反射というか、逆説的な存在なんだね」

ムラサキは薄暗く汚い下水道の先を行く。下へと続く階段が道の途中で見え、そのまま降りて行った。暗がりの中では全ての色は弱められている。

「具体的には?こんなところに潜ってどうしようと?」

階段の途中にある洞窟のような横穴を進む。懐中電灯で照らされたそこには朱色もない。薄ぼんやりとした灰色ばかりだ。

「もうすぐわかるよ」

そうしてしばらく歩いていると舗装された道へと続き、そのまま外へと抜けた。日は既に落ち、辺りは黒に支配されている。上を仰ぎ見ると、ありえないことにあの鉄塔の下にいた。また白昼夢の類かとも思ったが鉄塔には圧倒的な現実感がある。

「え?鉄塔から遠ざかっていったとばかり思ってたのに……」
「そういう風になっている、というしかないな」

鉄塔には保守用と思われる階段が敷設されている。あそこから登ればいいのか。

「残念だけどここから先は一人で行ってくれるかい。ああそうそう、これも返しておこう」

ムラサキはいつか拾ったガラスのナイフを返してきた。

…… そのナイフは紫色だった。

- by tateitotateito



「これは……」
「蒼のナイフに私なりのメッキを施したものさ。紅は君が選んだ色だ。そんな色の雲の中を君の蒼が触れたらどうなるか……判るものではないからね」

餞別代わりに、訊きたいことがあれば答えよう。

ムラサキは僕の手にナイフを握らせながら、そう言った。特に知りたいことはない。知らないことは沢山あるが、紅の居心地の良さの中にある違和感……即ち、蒼への探究以外に、重要なものはなかった。

「ありません」

ムラサキは、その答えを見越していたようだ。ゆっくり目を細めて、「では、ひとつ老婆心故の忠告をするとしよう」と言った。

「次、落ちたら君は間違いなく絶命する。君が塔から落ち、尚も生還したと云うのは、君に宿る別の色の可能性が所以さ。既に片方を叶えてしまった以上、君はもう、普通の色の資格を持つ凡人と変わらない。君が見たと云う死体と何ら変わらない。故に、足場には気を遣うと良い」
「……ありがとうございます」

何かと親切なのは、ムラサキの願いが叶わなくなることを懸念しているからなのだろうか。それにしては少し手放しが過ぎる気がするが。

「君のラストクライムが成功することを祈って居るよ」

変わらない笑顔を見せて、彼女はひらりと背を向けた。まるで何も無かったかのように、一般市民がたまたまそこを通りがかったかのように、ムラサキはその場を後にした。残ったのは、他人の家宝一つ背負った自分本位な僕だけであった。


- by watazakanawatazakana



──ふと、足元を見降した。今僕が立つ遥か真下から太く、力強く、紅く錆びついた鉄骨が、人工物とは到底思えないほど雄大に伸びている。視線を、ゆっくりと上のほうへと戻しながら、できるだけ考えないようにしていた、或るひとつの可能性を強く意識してしまう。……もしも。僕が全体重を預けているこの鉄骨が、ふいに崩れ落ちてしまったら。

そうなってしまえば、ムラサキの言う通り、僕は間違いなく潰れて死んでしまう。ただ、今迄崩れることのなかった鉄塔が、子供ひとりの体重がかかることで"偶然"崩れ落ちることなどはあり得ないと、この小さい頭でも考えられる。それでも、どうしても。僕が鉄骨に足をかけると、その力を受けて紅い錆はパラパラと音をたてながら落ちてゆく。その音が、死を恐れる僕の本能を煽っている。この塔に命を預けているという事実を再認識したことで、宮野の人間が鉄塔を崇め讃える感情を少しだけ理解したような気になれた。

文字数: 22225

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