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「お疲れ様、現世では本当に頑張ったんだね?」
真っ暗な視界の中で声が響く。正確には視界だけではなく匂いも、感触も、空気の味も、音すらもついさっきまで聞こえなかった。そもそも「ついさっき」が存在していたのかすら覚えていない。意識だけははっきりとしているのに自分が世界に存在していると断言することができない感覚。
「声、出せないでしょう。僕の話だけ聞いてくれればいいから。一応アジア文化の生活をしていたみたいだけどコレ分かる?」
ああでもあなた、日本出身かあ。なら分かんないかも。そう声は付け加え、その直後に開かない私の視界に1つの丸い絵が現れた。

確かに私の生活の中では存在しないものだったが、知識として知ってはいた。六道輪廻の絵図だ。生命が死に絶えた行き先の1つに地獄という場所があり、この絵は6種類の地獄を中心に描き記している。
…なるほど。
「何が?」
口に出したつもりは無いのに問い返され、私は驚きの感情を露わにした。し、思考盗聴…?
「違うよー、ここは正常な時間空間から隔絶された世界。私の支配下にある世界だから私が神様なんだよ?神様に隠し事できないでしょ」
そう言われるとなんだか、私自身の口から発言するという行為が懐かしいように思えてきた。
「ダメ、あなたに発話の権利は与えられてません。それより何がなるほどなの?」
私は死んだってことで良いんだよなって。
「そう」
私は地獄行きなんでしょう。
「うん」
…神様から見た私は地獄行きなんだなあ。これでも色々頑張ってきたつもりだけど、その頑張りも大勢にとっては迷惑だった。そういうのが第三者目線から言われると、肩の力が急に抜けちゃって。
「随分と簡単に受け入れて諦めちゃうんならその程度の頑張りだったってことじゃない?」
そうなのかもしれない。何だったら自分だけが前に進んでいたと思っていたけど、それは思考停止で迷っていただけなのかもしれないし、何なら足を止めていたから地獄行きなのかも。
「出来てるじゃん自己分析、それに僕が神様って?」
天国地獄を論ずることができるならそうじゃないの?
「うーん、まあ部分的に合ってるけど…閻魔大王とかではないね」
どういう意味か問い返そうとした直後。六道輪廻の丸絵図が突如黒に塗り潰された。周囲の漆黒に最初紛れ込んだと思っていたそれは、ほんの僅かに白く縁取りされた丸に見えた。
まるで、日食の黒い太陽のようであった。
「六道輪廻の7つ目の道way、O/Oへ」
黒い六つの地獄に、亀裂が走る。次いで2つの小さな丸が目のように、引き戸襖の引き手のように、亀裂を線とみなし対象に現れる。
何だ、オーオーとは。7つ目の、道…?
「そう、道。あなたは自分が足を止めて地獄に連れていかれるって言ってたよね。普通なら…6つの地獄のうちどれかに行くならその考えで合っていたでしょうね」
亀裂が大きくなる。黒く塗り潰された六道輪廻の絵図が引き裂かれ、まるで開かれた扉のようであった。隠された7つ目の行き先が、私の前に姿を現す。
「でも、O/Oに来たなら進んで。清も濁も頂点も底辺も併せ呑んで。どんなに抗いたいことがあっても、足を止めたくなる時があっても、這ってでも進んで」
「だから、道。人間が死んで行き着く果ての地獄じゃなくて、さらに進むための道なの」
黒い太陽が、私を呼んでいる。その中に飛び込めと、進めと、煙る太陽が。
「じゃあ後はH.R.K.に自らを受け入れて貰えるための逆祝詞さかのりとと、『武器』のロック解除のための祝詞あいことばも教えるね…ああ、そうそう」
意識がぼやけて世界と溶けていく直前、声は明らかに苦い含みを持って別れの挨拶を告げた。
「発話禁止にしたのはあなたの、その喋り方が鬱陶しいなって思ったから。まあ直せとは言わないけどさ…むしろその喋り方含めて、祝福と呪いの道を進んでいけると良いね」
………
なあんだ、バレていたのですか。
「ようこそ、アウターオーサカへ。あなたがこの街で何を成すのか…次に会う時まで楽しみに待ってる」
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アウターオーサカ 裏難波ウランバーナ (ナンバ地区) 中層
「…というわけでお客様ですとこちらのプランがオススメなのですが」
照明が目に痛いほどチカチカと明滅する居住空間の一室、互いの携帯型IRCを介して資料を送り送られていた2人がいた。1人はスライムやジェルを想起させるような上半身を柔軟に伸ばしながら、堂に入った営業マンとしてのトークを繰り広げている。もう1人は見るからに悪魔実体であり、ささやかながらもO/Oアウターオーサカで最も栄えているナンバ地区ディストリクトで居住空間を維持できている程度にはやり手なのだろう。
「ふーん…」悪魔実体が微動だにせず、ただ目線だけは文書データのあちこちをせわしなく動かして生返事をする。
「まあ最近また物騒になったしねえ。先月だってまた流れ着いてきたじゃない、よくわからんカテゴライズ不明の概念実体どもが」
「ええ、その通りですお客様。我々はそういった不慮かつ未曾有の事故にも対応して、ご契約者様の生活を支えるご提案をさせていただいている次第です」
「まあこの保険金で本当に輪廻費用全額負担して蘇生させてくれるなら破格だよねえ…」
「本当です、よろしければ資料のどこに該当の記載がなされているか私の方で」
「いい、今自分で読んで確認してるから邪魔しないで」
「は、はい。申し訳ございません」
静寂、何らかの電子機器が稼働しているファンの音だけが酷く大きく聞こえる。保険の営業マンは爽やかな青色のスライム上半身をコポ、コポと不規則かつ静かに波立たせながら対面の理解を待っている。
「これさ」
「はい、いかがいたしましたか」
「契約方法は血肉媒介契約ブラッディギアスでいいんだよね?あんたらの所って理外研の子会社だから」
「ええ、その通りでございます。よくご存知のようで私も助かります。それでは───」
「あー、それじゃあダメだ」
「…はい?」
営業マンの軟体が一瞬強張った。契約形態の最終確認まで進んだ以上は1つ案件をもぎ取ったも同然だったはずなのに、鼻の先にぶら下げられた人参が理由もなく取り上げられては困惑が勝つのも当然だろう。
「アウターオーサカを牛耳る六頭体制ヘキサドが1つ、主導企業『理外研』。彼らがこのO/Oで生き延びて巨大に成長した理由はその契約形態にある」
血と契約による、金のやり取り。営業マンじゃなくてもある程度の知性を持っている人間ならばその理由は理解できる。アウターオーサカで生きるということは彼ら6の企業に枕を預けると同義である。
「この地が新堺ニイサカイからアウターオーサカへと変貌した際、呪術的要素が大部分の原因だった。故に西洋圏の文化実体である悪魔であっても、どれほどこの街がネオンに彩られた未来的都市であっても呪術からは逃れられないさ」
悪魔実体が深く腰掛けていたソファーから立ち上がり、営業マンの肩にわざとらしく肘を置いた。専用のスーツはスライム状である彼のシルエットを見事に社会人の型にはめているが、パリッとしているような仕上がりとは程遠い。
「理外研きみんところは上手くやったよなあ。成立直後の混乱期で縄張りを主張していたイチガ・ヤクザクランは呪術系統の荒くれものたちだ。対価をチラつかせて契約という首輪を嵌め見事骨抜きにしたそうじゃないか。呪術の契約で血肉よりも重たい媒介は限られるからね!ハハハ…」
「い、いやそんな…」
「フム、まあ謙遜するのもそうか。そのまま事が進めば理外研一強だったろうに、結局アウターオーサカとは実質無限に拡張する大地だ。取られたシマに固執するよりかは新天地を目指した方が早い」
「よく、ご存じでいらっしゃるのですね」
「見てきたわけじゃないが、勉強の一環としてね」
ある程度受け答えができる程度に回復してきた営業マン。ホッとするのも束の間、お相手様である悪魔実体の顔面が「それで?」とジャンプスケアのごとく唐突に飛び出してきた。
「仮に私がこの血の保険契約をしたとして…いつまで保険金を支払えばいいのかなあ?ひよっこ君」
「それはお渡しした資料の」
「読んだよ、1回死んだくらいじゃ契約が切れないご親切なもんだ。全財産どころか魂までむしり取るようなお付き合いをご所望らしい。まさかYakushi本社社員さながら輪廻転生まで契約に組み込むわけじゃないよな?」
「………」
「…フッ、まあ悪魔を騙して契約しようなんてハナっから無理だって君も分かってたんだろう。こんな案件でも突撃しなきゃいけないくらい業績ヤバいんだろ、営業マンは辛いね?」
すっかり意気消沈した営業マンに対して悪魔は最後に追い打ちをかけた。
「どの道私との契約は100%無理だったからそんなに肩を落とさないでおくれ。既に私は別社の保険に入っているからね。人間時間に換算して4日前くらいかな?」
「えっ…?な、ならなぜ話を…」
「暇つぶしだよ、暇つぶし!悪魔の楽しみなんて相手の苦痛以外にあるか?それに私がこんな加虐趣味じゃなくてもあっちを選んだぜ。高い金払った分だけちゃんとこっちに寄り添ってくれるんだよゴールドベイカー=ラインツ・オーサカ社は!」
商売敵の名を口にしたと同時に、悪魔実体はそのとんがった指を器用に鳴らした。IRCが起動し受け取った電子名刺を完全消去する。紙の名刺を本人の前でビリビリに破くのと同等の狼藉であると言えば分かりやすいだろうか。こうして最初から結果の伴わない無駄骨をさせられた営業のパスズトルス・ハラヤイ、そのプライドは悪魔の手のひらの上でビリビリに破けたのだった。
アウターオーサカ 六頭体制ヘキサド「理外研」傘下会社 アーコメイター保険会社 営業課 課長デスク前
パスズトルス・ハラヤイの周囲の評価は「仕事のできないやつ」である。その理由の1つとして、彼が上司のスチさんに怒られる様子が毎日のように見受けられる点にある。
「パズぅ!お前また駄目だったのかお前!」
「はい、すいません」
上司のスチさんは人間体ではあるが、顎部が生体機械に置換されているのが特徴的だ。本人曰く「噛んだら噛み返してくるピザフレーバーナゲットにやられた」らしい。話すたびにカシャカシャとうるさい少し前のモデルは呪い針が十数本素材となっている鋼を貫通して刺さっており、傍から見れば社会人に見えないパンキッシュな様子である。
「課長、やっぱり俺…」
「やめられんよ、お前がどれだけ会社の益にならないどころか足引っ張ってもここでお前の自由意思なんて無い」
このやりとりも毎日のように見受けられるが、これに関してはパスズトルスだけが特別落ちぶれているからというわけではない。アーコメイター保険会社のオフィスは過労や不眠で社員がデスクに突っ伏した1分後、体を流れる血液が全て針に置き換わったような激痛をもって飛び上がる。契約によって起動する最高の目覚まし時計のアラームが鳴り響く様子など日常茶飯事だ。
「それにお前ここやめてどうする気だ…助けてくれる血縁もいない、貯金だってつい最近O2PDケーサツに保釈金払ったばっかだろ?」
「まだ都市安全法ユージーンの発令期間が終わってなかったって思わなかったんですよ…!」
「確かにO2PDに見つかったのは不幸って言っていいけどよ」
俯きながらパスズトルスは耐える。悪いのは俺だ、競合でもたちの悪い客でもない、契約をもぎ取ってこれない俺だ。なら実践で鍛えていくしかないだろうが。
「もう1度チャンスをください、お願いします」
「だからお前の意思なんて関係ないって言っただろ…もう1回外行って来い、退勤は40時間後だぞ」
アウターオーサカ、O/O、外法大阪。天地逆さまにビルが生え並び、重力に従った先に大地はない。皆得体の知れないH.R.K.の奈落に飲み込まれる。それぞれ上層、中層、下層などと振り分けられる階層には明確に差別の意図があり、理の外outerなどと宣っておきながら結局はお決まりの地獄だ。外にはいつも太陽が鎮座している、朝だろうが夜だろうが、黎明だろうが黄昏だろうがH.R.K.は常に我らのことを見守っていらっしゃる。何億と天井から伸びるビルこそが住人の居住空間と街を兼任している。外に出ることは滅多にない、強いて言うなら吹き抜けの連絡通路を使うくらいだろう。そこは企業用ビークルが喧しい宣伝文句をクラクション代わりにしながら常に渋滞を作ったり時速110kmを超えて爆走したりしている。あの走法を「ナゴヤバシリ」というのだが語源を知るO/Oの住人は皆無である。
パスズトルスはそんな外をじっと見る、視界の向こう側には先ほど訪問した悪魔実体の住むビル。この中層でまだ留まっているのは自分のせい。弱さを自分の中に押し込めなくては俺みたいに力のない住人はここで生きられない。進まなくては。そう思い視界を雑踏ひしめく前方に戻すと誰かの呻き声が聞こえた。
「…う、うう…」
ネオン看板に寄り添うようにしてぐったりとうずくまっているボロ雑巾の塊、いや人影である。アウターオーサカは光差さない室内が生活圏である以上、ビル内部に光源が過剰に設置されている。眩い人口の光と対比させられているような薄汚いそれは、端的に説明すれば大柄な人間だった。
「おーい…おい、あんちゃん。こんな道端で寝てんなよ」
「あ、え…?ここ、どこですか…日本、ですよね…?日本語、喋ってますもん、あなた…」
「ああ?ひょっとして来たばっかりか。ここはアウターオーサカって言うんだよ」
「2、3日くらい彷徨ってた気が、します…でもずっと夜だし…時間間隔が、おかしくなってる~…ここ、本当に大阪なんです…?栃木じゃ、なくて…?」
「生憎トチギなんて地名は聞いたことないね…ハア」
パスズトルスはそう言って自分の鞄を軽くまさぐると、底にあったケミカルビューティー味のゼリー飲料と缶コーヒーを床に置いた。
「こりは…」
「いらねえよ、俺には。だから捨てたんだ。俺のものじゃなくなったのに、俺にお伺い立てて拾う必要ないだろ」
「ありがとう…かたじけない…なんかめっちゃ変な色してるけど…ケミカルビューティーって何…?」
「元でも持ち主の目の前で文句言うのも違うだろ!?」
数回言葉を交わしたパスズトルスの第一印象は「気味が悪い」だった。出会ったばっかりでさらに憔悴している相手にこのような感想を抱くのは自分のメンタルがよろしくないか、デバフすら貫通するほど相手は底知れないか。アウターオーサカへ落ちてくる存在というのは得てしてどこか欠落していたり、飢えていたりするので警戒は無意味ではない。
ではなぜ助けたか、パスズトルス自身ですら分からない。それこそメンタルの不調か、ただの気まぐれか。あるいは…
『お前ここやめてどうする気だ…助けてくれる血縁もいない』
下層に置いてきた家族を思い出したか。打算のような感情的行動で何かが恋しくなったのか。
「はあ…自分で自分がきっしょいわ」
なぜこうまで自己分析が下手なのだろう、なぜ自分のことなのに他ならない自分が見てやれないんだろう。沈んだ足取りのまま急いでその場を後にしようとした。
最初に響いたのはガラスの割れる音、そして鈍い振動だった。次いで爆風が体の前に吹き荒れて立っていられなくなってしまった。何が起こったか脳が処理できないまま数秒意識を手放し、目に飛び込んできた光景からパスズトルスは察してしまった。
「ヌーメヤ…」
ああ、今回もアウターオーサカで何人も死ぬ馬鹿騒ぎが起こって、俺はその祭りに巻き込まれる側か、と。
「ヌーメヤ!!」
謎の単語を呻き叫ぶ化け物、その大きな鈎爪の下に踏み潰された数人の中に見た顔があった。あの悪魔だ。
「は…?だって、いや、噓だろ…?」
悪魔の身体構造が───少なくとも外見は同じだが───人間と同一なら呼吸を止めただけで死ぬし頭を砕けば死ぬだろう。そういった観点で判断するなら間違いなく悪魔実体は息絶えていた。
「あいつが住んでたビルって…あそこだよな…3km近く離れた場所からここまで吹っ飛ばしてやってきた…ってのかよ…?」
「ヌーメヤ…」
化け物のそこまでデカくはない。アウターオーサカで化け物に分類されている存在で言えばこいつの3倍以上はザラにいる。にしたって目測でも2mは優に超えているが。問題は明らかに我を失っている凶暴性と周囲の惨状から予測される身体能力、そして全身を覆っている泥のような物体だ。
「確定で神聖汚泥ホーリータイドじゃねえかよ…!」
神聖たるO/Oの唯一神H.R.K.が発する余剰な奇跡エネルギー放射や瘴気。それらを極限まで中和し、安定したものの形を神聖汚泥ホーリータイドという。しかし人智が必死こいて編み出した「極限」など神の領域には程遠い。神聖汚泥は呪術的かつ物理的に腐食性を有し、泥にまみれた不浄な地区ディストリクトは崩落し、奈落たる下層へと落ちていく。その危険性からパイプを通じて管理・廃棄されており、生命体が直接接触することなど考えられていない。
「あ」
コネコネと、悪魔実体だった肉塊を潰していた前足が残像を持つ速さでパスズトルスに迫った。当然神聖汚泥に塗れている。怯えた目で死期を悟ったパスズトルスは、ああせめて「相棒」をここに持ってくれば足掻くくらいは出来たのかと僅かな後悔───
「絶対、ダメえええええ!」
横からの衝撃、そして聞いたばかりの声。パスズトルスは骨を持っていない、さらに神経各種がスライム状になって体と同化している生命体であるため衝撃には非常に強い。ゆえに何が起こっているかを平常時と同様のスピードで判断できた。
「ちょとちょっと~!その御仁は拙者の命の恩人なんだからあ…」
先ほど物乞いのように蹲っていた男がぼろきれを脱いで立っている。こいつも相当の大柄だ。泥の怪物とパスズトルスを挟むようにして、手に持っている「何か」を怪物に向けていた。
「あっスライム氏!先ほどは本当に助かりますた!貴殿の施し、どんなものより心に染み渡りましたぞ!」
「ほいでこの四つ足のドロドロは…怨敵ですかな?それとも初対面?」
«<祝詞あいことばをどうぞお願いします»>
「何か」が機械的な、だがどこかで聴いたような音声を発する。
«<声紋での祝詞を確認 【星に誓う永の愛】起動»>
「ま!どっちでも相手方が正気を失ってる状態には変わりないですな!」
男が恐らく祝詞と思われる一言を発する、「我々は流されない」。その言葉の持つ意味や相手をパスズトルスは知らなかった。ただ分かったのは、それが事務的な祝詞だろうと確固たる意志を感じたことだけ。「我々は流されない」。パスズトルスは…自分の心の奥底、無意識の領域、すなわち自分のイドに言語化しようのない感情を感じた。それは自暴自棄かもしれなかった、正しい感情ではないかもしれなかった。ただ、彼を意気消沈の状態から復帰させるには十分だった。
「お前っ…逃げろバカ!あの泥に絶対触れねえように!」
「ほ~?言われてみれば厄介そうですな。この匂いは嫁降臨のため10年間風呂に入らなかったあのスレ主に負けず劣らず!なぜ画面越しにスメルを感じられるのか今考えても原理不明の超技術でしたが」
パスズトルスの「あの泥に触れるな」という発言が言い終わるか否かのタイミングで男はパスズトルスを担ぎ走った。非常に良く動けている。まるで自重がないかのようにネオン看板に飛び乗り、飛び移り、それでいて担がれているパスズトルスに衝撃は皆無である。
「なんでわざわざ上を走るんだ!?」
「ひた下見てくだはれ~、ほろはひれ泥まみれへふそ~」
「…なに口に咥えて走ってんだ?拳銃…?さっきバケモンに向けてたやつか!」
「ふらいうひスライム氏がほっへへ持っててふははれ~…ペッ!助かりましたぞ!スライム氏を片腕だけで担いで走るのは流石に骨が折れるので…」
パスズトルスはその獲物を間近に触って分かった、これは拳銃というより…
「砲台のミニチュア…?ぼ、暴発とかしねえよな!?持ってて大丈夫なやつか!?」
「んはは、仮にそんな欠陥品であれば祝詞の意味がありませんな。拙者以外に扱える人間はいないので安心してくだされ!」
男の走りはさらに怪物を翻弄するものになっていく。看板を大きく踏んだかと思えばさらに上の階へ連絡通路伝いに上がり、数秒だけだが壁走りまで行う。それでも怪物の追跡を完全に振り切らないのは…
「今度はご質問こちらからよろしいですかな?俵担ぎして申し訳ありませんが…」
「早よ言え!」
「スライム氏は逃げろと仰っていましたが現状それで自体が好転するとは思えません。拙者はあの怪物でも対抗できるであろう手段があるのですが、この場で他にも頼れる戦力があると?それとも逃亡発言は本当に切羽詰まったものですかな?」
「対抗できるであろう手段」で男はちらとミニチュア砲台を見た。それがフカシの類ではないことはパスズトルスも理解できる。
「あれは神聖汚泥を纏ってるか内部から精製してる。神聖汚泥っちゅうのはアウターオーサカが街全体、六頭体制が複数ぐるみで管理してる問題だ。O2PD警察どころか東弊の警備員まで出張って鎮圧しても可笑しかねえと俺は思ってる」
(後者は可能性すら考えたくねえけどな、神聖汚泥を精製できるってそれはO/Oの唯一神H.R.K.と同じ御業ができるってことだ。そんな神の冒涜が起こればこの街そのものがどうなるか分かんねえ…!)
「警察や警備員の肩書を持ったマンパワーでどうにかなるものとは思えませぬが…この大阪では警察もあの怪物みたいな奴らばっかりだったりするでござる?」
「ああそっかお前O/Oここ来たばっかだったか…都市安全法ユージーン発令の余波でどこもピリピリしてる。時間かかるだろうけど絶対に解決するだろうよ」
「時間…」
男の顔が曇る。
「もひとつ質問しますぞ、そいつらが来るのにどのくらいかかりますかな?」
「知らねえ、高っかい通報料払ってくれる善良な市民がこの騒動に巻き込まれてるのを祈るしかねえ」
「は?警察を呼ぶのにお金がいるのですか?それも高額の?」
「そうだよ、だから大半は待ってるんだ。厄介事が通り過ぎていくのを。そもそも激流に自分から飛び込みさえしなきゃ流れに翻弄されることはないから」
流れ、意図的にパスズトルスはその言葉を会話の中に織り交ぜた。もう知らねえ。俺はこの現状が、目を背けたい過去が、何より自分自身が本当に嫌になる。使えるもんは何でも使ってやる。それがアウターオーサカに来たばっかの無知な新人だったとしても、悪役気取って利用してやるよ。カモを相手するのは元々仕事でやってたんだから今更清廉ぶっても何も得しない。
「う~~~~~…でも、でも!怪物の通った痕が腐って地面が落ちていきますぞ!」
「泥には腐食性がある、アウターオーサカ成立直後はああやって下層の奈落に落ちていく地区ディストリクトも多かったらしい」
「どうにかできんのですか!?住んでる人たちだって巻き込まれてるんでしょう!?」
「話聞いてただろ、早よここから逃げるぞ」
腐ったような酷い匂いと、電線がバチバチと千切れる音。そして建物の地面が瓦礫になって落ちていく様子を居たたまれない様子で見た男は苦渋の決断をするかのように叫んだ。
「私は!末裂まつざき 亮牙りょうがって言います!日本の栃木県出身です!名乗りが遅れてごめんなさい!」
「えっ?ああうん、どうも。…何で今名乗った?」
「最期の質問です!スライム氏の名前を教えてもらっていいすか!」
「パスズトルス・ハラヤイ、生まれも育ちもアウターオーサカ」
「ハラヤイ氏、拙者は今からあの怪物を倒します!本当にすいません、食べ物を恵んでもらっただけじゃなくて…色々教えてもらったのに!」
…やっぱりか。コイツ元の世界は相当平和だったに違いない、判断に甘さが見て取れる。一瞬「私」って一人称が変わったのもあれが素なんだろう。コテコテの口調も全部噓だ。恩を忘れず、他人を見捨てられない。利用させてもらうのに申し分ない性格だ。お前の強さを見極めてから、恩を売って俺に逆らえないようにしてやろう。
パスズトルスはダメ押しでわざとらしいため息を末裂の前で吐いた。悪く思うなよ、この街で生きるってのはこういうことだ。
「…好きにしろよ、どうせ何言っても聞かなそうだ」
「…!すいません、ありがとうございます!キャノンも持っていてくださって!」
「キャノン?ああこの砲台か。どうせお前にしか使えないんだから別にいいよ。よしなら早速俺をここに降ろしてお前は心置きなく戦ってこ───」
その瞬間、パスズトルスの体は末裂の背中にぴっちりとくっついた。「ん?」
片手でも末裂の腕力は明らか異常で、どれだけスライムの体で力を込めても離れることはできない。「あれ?」
末裂は同志を見つけた笑顔で、さながら何段もある跳び箱を飛ぶかのように全身のバネを伸び縮みさせる屈伸運動を3回行い、「おーい末裂亮牙?降ろすんだよな?俺を降ろしてくれるんだよな?」
「じゃあ早速行きましょう!行くぞおおお!!」
そのまま下にいる神聖汚泥の怪物に向かって飛び込んだ。
「いや降ろせやあああ!!」
「【星に誓う永の愛】 - cannon発動!」
末裂は叫ぶ、このアウターオーサカへ共に流されてきた廃棄物の名を。自らの武器として、再び這い出ようとする同志として、理外の別世界として。
「さあ…そんじゃあ」
なぜならば、協力することは革新の王道だと彼らは知っているから。たとえそれが、無駄なことであると分かり切っていても。
「実技試験の始まりですかな?"センセイ"」
泥をかき消すように、紫煙が視界を埋め尽くした。
アウターオーサカ 裏難波ウランバーナ (ナンバ地区) 中層 崩れゆく連絡通路前
«<今回の試験での持ち込み可能カノンを発表します 泥酔者 平衡者 敗北者 葬送者 これらの持ち込みカノンは【星に誓う永の愛】によって再現できます 試験合格の一助にしてください»>
「ん~~弱いっ」
真正面に対峙する怪物を改めて見やる。泥を警戒して目測70mほど離しているが、上から観察した身体能力であれば一瞬で詰められるだろう。
そうなる前の威嚇射撃も兼ねて1発、末裂の背後から巨大な砲口を具現化させて液体を直撃させる。当然その程度で腐食を洗い流せるわけでもないし、発射した液体はそのまま気化して消えていった。
「実質3つみたいなもんだし…ひょっとしてアナタ雑魚だったり」
「ヌーメヤ!!」
「…そうは見えないんですよね~!」
じゃぶ、じゃぶ。慌ただしい獣の足音と同時に黒光りする爪が切り裂いた…愚かにも下に降りてきた獲物ではなく、何もない虚空を。
「?ヌ?」
「とりあえず『アブサン』は効くと…」
混乱する四つ足を挑発する目的で踏み込む、飛ぶ。助走なしに怪物の背は越えられないので「식당」と書かれた虹色ネオンをさらに踏んづけて高度を増やす。
「3」
掌に収まっていた砲台がわずかに浮いて、ブロックノイズの形成と共に消失した。元より触れれば死ぬような相手にまともに付き合ってやる算段は存在しない。ならどうするか。
「2」
怪物がもう1度突進してくる。しかし今度は見当違いの方向ではなく、カウントダウンが聞こえる方向へ。狙いは正確、ある程度座標がズレていても巨大な腐食の津波が全てを飲み込む。
「1」
「おい、おい!なに悠長に数えてんだよ!避けろって!」
「あ~かたじけないパスズトルス殿、どの持ち込みカンペが効くか一先ず初手総当たりするのがカノン装填者の定石なのです!」
「じゃあ攻撃しろって早く!」
「もうしておりますぞ?」
足取り不確かに、粘性の毛皮を纏った獣が爪だけを剥き出しに迫った瞬間───
「へいらっしゃい!」
末裂の背後、怪物の尻尾の斜め後ろ、天井の3ヶ所に砲口を出現させる。青白い閃光によって射出された3つの皿と6貫の伝統的なスシ・ニギリが、人間の膂力では出せないような豪速を以て怪物を抉った。
「ヌー、メヤァア…!」
「『スシ』も効いてる…?魔財?マジで雑魚だったりするでごんす?」
「前!前から神聖汚泥ホーリータイド!」
ホームレスの塒や煌々とした看板、地面すらも溶かしながら迫る泥の津波。相対した末裂は一瞬何かを思案した後、ひんやり冷たく握っていたスライムを勢い良く上へ放った。
「うおおおお!はあ…!はあ…!」
「ナイス着地~!思ったより空中で動けるのを見るに、ひょっとして飛行能力とかお持ちでしたかな?」
なんとか建物の外縁に捕まった命の恩人に末裂は軽く声をかける。死の腐敗まで10mもない。
「お前は!?お前どうすんだ!?」
「いやあちょっと耐性面で試したいことが───」
その試したいことが何なのか聞けずじまいのまま、どぷん。と鈍い音によって末裂の姿は消失した。それを合図に床部分の崩落が静かに、だが確かに始まる。
「おい…おい!」
「は~い!ご心配大変おかけしました!」
「はあ!?」
汚い色をした波が引いても、末裂はそこに健在だった。いや、健在というには衣服や皮膚に爛れた箇所が点在しているし、明確に顔面をガードするような態勢を取っていたあたり完全なガードは不可能だったのだろう。それでも五体満足で立っていることができた。
パスズトルスからしてみても、ともすればヌーメヤの怪物も化け物であると思うのは自然なことだろう。
「ほいで?崩れちゃうから拙者は上に昇りますが…ヌーメヤ殿もよじ登るのですかな?」
「何はともあれ早く上がってこいバカ!」
「拙者がバカぁ!?手厳し~!避難しませんよ、【星に誓う永の愛】を使って攻撃した以上この戦闘は試験を兼ねるようになったので」
「避難じゃねえ、作戦会議だ」
受験者は目をぱちくりさせながら上にいるスライムを見た。先ほどまでぎゃあぎゃあ騒いでいた相手が突如として肝が据わった提案をしてきたため、自分がこの戦場をコントロールしていると思っていたことも相まって意外に思ったのだ。実際は半ば不貞腐れた、思考を放棄したような声色なのだが。
「それとも何だ?その試験とやらに俺がいるとカンニングになんのか?」
「…いいえ~、心強い限りですぞ!」
「いいか、俺の質問に答えろ。お前は無理に言語化したり、説明に使った専門用語を説明する必要はない。そういうのを理解するのはこの窮地を脱してからで全然間に合う」
「ええ~?理解できま」
「余計な例え話をするな、聞いてないことを答えるな?俺の質問に答えと簡潔な理由だけ話せ、いいな?」
「りょ、了解…」
瓦礫といっても遜色ないほど崩落していったビルのうちの1つ、そこの縁になんとかよじ登って半分尻が虚空にはみ出しながらも2人は座った。
「よし、まず最初に試したいことって何だった。推定だが神聖汚泥を全面に被って何が分かった」
「今回の試験にあたって使用可能だった『アブサン』『ちいさな』『スシ』『タナトマ』のうち前者2つがヌーメヤくんに有効でした。なのでともすればと思い腐乱死の『タナトマ』を自分から摘出したのですが、結果は中途半端に有効だったということです」
「『タナトマ』…タナトーマのことか?」
「この大阪?にも存在するのですね!部分的に同一です。拙者が使用したのは【星に誓う永の愛】から生成された模造です」
「お前の武器の名前か?ああそれ以前にそのミニチュアがお前の武器か?」
「双方ともにイエス!」
「パッと見でも無法なことをやってる、その武器の使用にリスクは?」
「我々には、ありません。むしろ【星に誓う永の愛】の積極的な使用が我々には、推奨されています」
我々には。2回ともわざとらしいほど強調した言い方だった。
「お前のこと信じていいのか?少なくとも今この局面だけでも」
「言葉でしか証明できませんが、それでもよろしいですかな?」
「最初にそう警告した」
パスズトルスの力強い言葉に末裂は、わざとらしいほど不自然に口角を上げた。それがどこにクリーンヒットしたかは理解できないが。
「ビューティーケミカル味、慣れれば全然美味しかったですぞ。缶コーヒーも!」
「一飯の恩義ってか?そのわざとらしい口調はカビ生えたオタクエミュレートじゃなかったってことかよ」
「フヒヒ…腹いっぱいになる以上の信頼ってないですぞ!」
沈黙が流れた。アウターオーサカの空中にはまるで何もなかったかのようにビークルの駆動音や宣伝映像の謳い文句が繰り返し流れ、どこか遠くでは翼をはためかせるような音がする。
「…ハラヤイ殿?」
「1ヶ月前、複数の概念実体が流されるようにしてアウターオーサカに落ちてきた」
末裂のヘラついた笑顔が一瞬にして消え、彼は口をへの字にしながら眼前のスライムを見つめる。
「カノンっちゅう分類コードに属する超巨大概念だ。都市安全法ユージーンが発令されてそいつらを鎮圧するために 六頭体制ヘキサドは決戦用途兵器を解禁した。独立抗争時代の骨董品まで持ち出してきやがってよ。分かるか、ああ?TL-998のプロメテウスによる最後通告から独立を勝ち取ったあの戦場を」
「…何を仰りたいのでしょうか」
「わざわざカッチョエエ必殺技を出す前に叫んでくれたよな。その情報のおかげで、お前の持ってる力がこの街を危機に晒したそれと同じじゃねえのって思い至った次第だ」
口に手を当てて呼吸する末裂の目は泳いでいた。バサバサとうるさい環境音に負けない息の吐き方だった。
「ゴメンな、想像以上にものを知ってるスライムでよ?俺自身巻き込まれた被害者Aに収まりたくない質なわけだ。んで、答えは」
「その、通りです」
「そうか」
パスズトルスの目は人間と同じく2つある。流動体であるその体躯は主要な臓器を固定することなく体内で流動的に動かしているが、今だけはがっちりと青年の前で固定されていた。
「正直に言ってくれてあんがとよ、じゃあ俺からの作戦提案に移る」
「え?」
「え?てお前…何、その力で俺のこと犯したり殺したりすんのか」
「いやいやいやいや絶対にしません!」
「じゃあいい。俺の飯代は庶民には支払えない高級品だから、それに見合ったお前の言う信頼ってやつを見せてほしいだけだ」
「はい…はい!」
「オラ!もっかい俺んことおぶれ!来るぞ!」
「そっか、落ちてなかったんだ…この翼がはためくような音は!」
翼を広げた泥まみれの怪物が、2人に向かって突貫してきた。
「ヌーメヤアッ!!」
空中戦ができるからといって、それは空中戦の方が強いというわけではないようだった。軌道の読めるシンプルな体当たりを躱す。こちらのパルクールの方が速度も小回りも上だ。
「正規品じゃねえタナトーマで耐えられる程度のヘッポコ腐食性ならあの泥は神聖汚泥じゃねえ…かテメエでも扱えるようにデチューンされた劣化版だ」
「舌噛みそうならお申し付けを!いやそもそもベロあるのですか!?すいません無駄口でしたね続けてくだされ!」
「それでさっきやってきた泥の津波攻撃、あれは間違いなく大技なんだろう。よく観察すりゃあさっきよりも二回りくらいちっこくなってら」
「なら大技を誘って攪乱し続けますか!?」
「そんなナンバ中央电脑劇場ナンバセントラルエレクトシアトルのメインステージが興醒めになるような演目マネすっかよ。博打に勝って速攻で片付ける」
塊が飛来する。横に避け、空いた穴からまだ健在そうな足場を確保し、そこでパスズトルスは背中から「止まれ」のハンドサインを出して、暴れ馬末裂をその場に留まらせる。
「泥を撒き散らすには限度がある、だが相変わらずバケモンの周囲をコーティングできる程度の容量は維持できる」
「すなわちだなァ、あのバケモンは泥を生成する臓器だか外付けの機能だかを持っていてそいつが消耗してる状態なんじゃねえのか?じゃあ消耗している今そいつを完全に損傷破壊しちまおう」
「なるほど!でも全部過程の上に立てた過程では!?」
「だから確認してこいよ」
「へ?」
「今度はあのバケモンそのものに飲み込まれろ。お前腐食は大丈夫なんだろ?最低限目視で確認、手探りでそれっぽいモンがあると分かりゃあ上々だ」
「ええ~!?」
「水泳メガネねえと目空けらんねえタイプだったか?貧弱だねえ末裂亮牙」
後先考える間もなく化け物が突進してくる。近づくほどに全長が小さくなっていること自体はその通りだと確認できるが…
「オラお出ましだ、早よさっきの要領で俺をぶん投げて避難させな。多少の衝撃なら吸収できる体だから思いっ切しな」
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