Idea
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それなりに広いアトリエの、部屋の片隅に一人。
絵の具まみれになって何をやっているのだろうか。
傾いた日差しに手をかざし、その色とりどりにこびりついた絵の具が割れてヒビが入るのをなんとはなしに眺めていると、どうも昔を思い出してしまう。



思い出すとは言っても、たったの2年前だ。
たったの2年とは言っても、2年であの楽しさを忘れたのだ。



辺りに散乱する無数のチューブ。
それらは中身をあらかた絞り切られ、容器としての役目は終え、無機質にアトリエの一つを埋めるゴミの一つ一つに成り下がっていた。

そのゴミの中央。
日南意ひなみこころは、まだ乾ききらない油絵の具が付くのも構わずに、その黒髪をぐしゃりと掻き上げて低く唸る。

本来ならば少し鼻に付いただけでくらくらとするようなウィンザー&ニュートンのテレピンも、四六時中嗅いでいれば慣れてしまった。しかしながら、慣れるほど籠ったとて目の前のキャンバスは想定の5割も進んでいない。いや、目の前のF100サイズのキャンバスは、素人目に見れば、すでにその姿を完成させてはいる。いるが、こと異常芸術アナートという視座に立って評価するそれは、どうやら完成とは程遠い代物であった。

マーク・ロスコのように、境界線の曖昧で少しでも目を離せば次の瞬間には別の姿を見せる抽象を背景に、ルネサンスとマニエリスムの過渡期のような不安定な形をとった歪な赤子が、異様に白い、ともすれば己自身が光り輝いているかのような極端なコントラストでもって、布に包まれている様が描かれている。
その姿は周囲の安定とも不安定とも取れる非常に臨界的な背景の中でもって、より一層自己を確立しているように見え、しかしその歪さゆえに、羽化不全をも思わせた。

それは確かに万人の目を惹きはするが、それだけだ。描いた自らも酔いしれることの出来るような代物ではない。言ってしまえばまだこのキャンバスは尋常の域を出ない。

日南はひとしきり俯いて唸り倒した後、そのままに後ろへと倒れ込む。自分が散々転がした空のチューブが背中に刺さる感覚、着込んだツナギのゴワゴワとした不快感。目に掛かる前髪の鬱陶しさ。それら普段なら意にも介さないような些事が積み重なり、思い通りにいかず疲弊した神経を逆撫でる。



気がつけば、日南は絵皿を掴んで思い切り振りかぶっていた。
しかし、目の前の駄作の裸婦が、絵の具を被るような事はなく。

「それはよしてくれないかな」

私の手首は、細く長い指でしかと掴まれている。私のヤケを阻んだ人は、そこからひょいと絵皿を取り上げた後、チラリと私の顔を見るや「時間」とだけ呟いた。

「……すみません、薄霧さん。すぐ片付けます」

名を薄霧希うすぎりのぞみ。形象部門の管轄する工房区画を管理する工房管理官。工房区画を利用する人間なら全員が知っている。
人からの評価はおおむね、人当たりが良く話しやすいというものだったが、こと一部の評価に関してはどの部署もどの立場でも、標語のように唱える言葉がある。「工房やアトリエの備品破壊は厳禁で、現状復帰は絶対にサボるな」というものであって、違反者が具体的にどのようなペナルティを受けるのかは明言されていない。

早急に後片付けを始めようと冷や汗を垂らしながらモップと除光溶剤を持ってきて、さあ作業に取り掛かろうというところで、少し遠くからこちらを眺める薄霧さんの姿を見とめた。彼女はどこからか持ってきた丸椅子に腰をかけ、何をするでもなく、スラリとした足を組んで頬づえをつきながら私を見ている。色素の薄く、感情の汲み取りにくい目が、くしゃりとした前髪の隙間からのぞいている。

「今すぐ片付けますので、その、ペナルティだけはどうにか」

彼女の行動に意図が掴めず、口をついて出たそんな命乞いに、彼女は少し眉を下げてから小さく笑う。

「そんなに怖がられたって取って喰いやしないよ。ものを壊したわけでなし、今掃除はしているなら何も言うことはないさ」
「……安心しました」

今ペナルティを受けるわけにはいかない。連日ここで作業してはいるが、レプリカとしての試作アノマリーを制作する進捗の結果が、あの壁際のゴミ。ここでアトリエ使用のペナルティから次回以降の申請を拒否でもされてしまえば、プロジェクトの進展はより遅れてしまう。この絵の具チューブひとつとて、プロジェクトの予算の化けたものだ。決してただの模造品を作るための資金ではないのだから、金食い虫でしかない私と今の状態は最悪と言っていい。

しばしの間、こびりついて取れない絵の具が除光溶剤でふやけるのを見つめている。普段はなんとも思わないこの時間も、人に見られているとどこか心穏やかでなく、所在が落ち着かない。
そも、なぜこの人はここに腰を落ち着けたのか。
今までずっと、時間を伝えた後はすぐに、音もなくどこかへ消えていくというのに。

「あの、なぜここに……?」

先ほど醜態を垣間見られたことも含め、現状に居た堪れなくなった私は、浮かんだ疑問そのままに、会話で沈黙を埋めようと話しかけようとして、彼女がそこにいないことに気がついた。ありもしない人目に勝手に気を揉んでいた自分に小っ恥ずかしいという感情が湧くよりも前に、しかしその会話を投げかけた相手は、その問いを拾いあげ、私の横のほうから声を返してくる。

「後はこの教室だけだからね。それよりも──」

いつの間に移動したのだろうか。音も気配もつかめなかった。猫のような人だ。
壁際の、あの裸婦画に顔を近づけ、こちらを見ずに彼女は続ける。

「君は最近、根を詰め過ぎているように見える。少しは別のことをした方が良い」

途端、フラッシュバックするのは学生時代。
美大で何十と聞いた助言。苦言と言ってもいい。当時の教授のそれは最終的な作品で全て封殺してきた。ただの過集中。頭の中の構想を、目の前の画布に描き出し終わるまでは作業をやめることができない性分なだけ。惰性とは違う代物だった。とはいえ今は全くもってその通りでしかない。

「……そうかもしれませんね」

小さく呟き、私は色の染みた木目に雑巾をかけようとして、またもや彼女の言葉が割り込む。なぜこうも間が悪い。狙ってやっているのではなかろうか。しかし、続く言葉に思わず手が止まる。

「この絵は完成していると思うけどね」

止めざるを得なかった。
衝動的に吐き捨てそうになった言葉を理性で留め、数回深呼吸をする。だいぶ絵の具の匂いは流れて薄まっていた。

「……完成は、しています」
「ならなんで君は悩んでるのさ」
「その作品はアナート異常芸術のレプリカであるべきだからです」
「……ふぅん」

彼女は何に属すのか感情かよく分からない表情で、もう一度、裸婦画を眇める。
自身の眉間がしかめられているのを自覚し、ごまかすように床掃除を再開した。そうでもなければ、彼女に八つ当たってしまう。



あらかたの掃除は終えた。
備品はあるべきところに返した。
最後にいち美術品の価値しか持たないそれから鋲を抜いて特殊焼却炉へ捨てる作業に取り掛かろうというところで、薄霧さんがキャンバスに手をかける。

「捨てるの?」
「はい。薄霧さんの言葉で踏ん切りがついたので、これ以上できることはないと」
「……なら、私がやっておこう」

そんな、想定外の提案に面喰らう。ただ同時に、これ以上ない提案でもあった。

「……ありがとうございます。では、それで」

会話はそこで切り上げて。
私は薄霧さんに一礼を返した後、一度も振り返ることなく、足早に工房区画を後にする。あのキャンバスはもう、見たくなかった。


Visual communication

「今日もいつもの?」

次の日。もはやここ数日のルーティーンと化した工房申請のために向かった申請窓口に彼女はいた。
この時間の人の出入りなど私くらいのものだが、この朝早くから必ず受付にいるのは、この人も私同様に身を切り詰めているような気がしている。どこで寝ているのだろう。普通に考えればこの隣の執務室がそれに当たるが、こと彼女に関してはそれはあり得ないのである。なんせ、執務室は皆口をそろえて「きったない倉庫」と揶揄する程度には資料と作品と塗料の山で埋め尽くされている。彼女の羽織る白衣が清潔であるところを見るに、まさかそこで寝るわけもあるまい。

あくびを噛み殺したやる気のない声の薄霧さんに端的に事務的な返事を返し、つつがなく申請を終える。
普段のルーティーンとの差異を挙げるとするならば、彼女が受付の窓に突っ伏して寝ておらず、私が起こすフェーズが入らなかった事。

それにもう一つ。根を詰めすぎだと、休めと言われたにもかかわらずこうして朝イチでアトリエを借りていることに小言の一つも言われるかと思ったが、それがなかったことは些か驚くに値した。
呆れて物も言えないとか、注意しても無駄だと見限ったのだろうか。
だとすれば有難いことだ。存分に自分の作業に集中できるのだから。

「それじゃ、行こうか」
「いやあの、え?」

いつものように、受付の窓口越しにアトリエの鍵を受け取ろうと待っていたのに、出てきたのは薄霧さんそのものであった。そのまま鍵を人差し指に引っ掛けてくるくると弄ぶ彼女は、こちらの状況の飲み込めないのを置いて、さっさと先へ行ってしまう。仕方がないので、その後を急いで追う。どうせ彼女が工房を開けなければ作業もできない。

早朝の工房棟はひどく静かで、普段は鍵片手に一人で自分の背丈ほどもあるキャンバスを引き摺りながら歩く廊下を、今は二人の足音が埋めている。まだ日も満足に上がっていないこの時間、工房はどこも薄暗く、点々と等間隔に並ぶ非常灯の緑が薄ぼんやりと、先を行く薄霧さんの黒髪を舐めていた。

その記憶を思い起こしながら後を追ううちに、ふと、記憶と齟齬が生じる。
そこは右のはずではなかっただろうか。

「あの、アトリエなら──」
「いいからいいから」

私の質問は適当にあしらわれて鈍く反響して消えた。
昨日の今日だ。怒っているようには見えないが、どこに連れて行かれるのか不安が募る。
まさか、職務不適あたりで人事部辺りに話でも行ったのだろうか。だとしたら、私はこの後碌な事にはなるまい。
勝手な想像ばかりが浮かんでは形を変え、別の不安を形作っていく。



「──なみくん。日南くん?」
「あ、す、すみません……」
「構わないよ。体調が悪いのでなければとりあえず入るといい」

薄霧さんの声で現実に引き戻されると、彼女は知らない部屋のドアを開けたまま、少し猫背の姿勢で心配そうに覗き込んでいた。
開け放たれた部屋の中は暗くよく見えないが、言い口前に立っているだけでも、どうも嫌な、しかし抗い難い粘性のある感覚で充満している。

「……この部屋は?」
「入ればわかるさ。ほら」

不安を表情と声音に存分に乗せた疑問に対し、薄霧さんを見上げて聞いた私の背中をちょいと押して、一緒に部屋の敷居を跨ぐ。ぎぃと扉が閉まる硬質な音と、蛍光灯のグローライトから発せられるかちんという音が聞こえる。入り口から奥に向けて、徐々に点灯していくのを追う。いささか設備が古すぎないだろうか。

目の前にあるのは、無数の収納什器じゅうき。そこに収まるキャンバスの一つ一つには、余す物なく何かしらの番号と、ラベルが貼られている。メディウムやテレピン、にかわのような匂いも巻いていて、それらが混ざり合い、形容し難い画材集を満たしているのが、この空間だった。

「えっと。倉庫、ですよね」

ひとまず、道中夢想した部屋たちのいずれにも属さない部屋であることに安堵するとともに、一層の疑問が深まる。
なぜ今倉庫に。私は今それどころではなく、納期に追われる火の車だというのに。
こんなところで油を売る暇などないのだという文句は、口先まで出て堪えた。

「ここは低危険物収容庫だね。とは言っても一時的な保管場所だ。今から過去の作品を適当に物色して、惹かれたものを一点選んでもらう。それが今日、君がすべきことだよ」

そう言いながら、目の前の適当なキャンバスを引き出し、しばらく見つめた後、彼女はそれをこちらに見せてくる。
思わず目を伏せた私に、彼女は小さく笑う。

「研修はよく体に染み付いているようで何より。とにかく不用意に目を使わない事は大事だ。それは現地収容の際には非常に有用な防御方法だね。でも──」

そう、咄嗟に取った反射行動を褒めた後、彼女は問題ないのだと付け加える。

「これは見たところで傍にある絵の具を直で食べたくなる効果くらいしか寄越さない」

……作者の気が知れない。そう眉を顰めると、どうやら薄霧さんも同様の意見であるようだった。

「ふむ。まぁ、この意図も得体も知れない異常性は抜きにして、だ。この絵そのものには惹かれは……していなさそうだね」
「ええ。まぁ」

うーむと唸った彼女は、その手に持った洋式トイレの日本画を丁寧にもとあった隙間に入れ込むと、手を一つ叩いてこちらを向く。

「ま、そういう事で。君には異常性に寄らない興味を元に一枚絵を選んでもらう」
「これには、なんの意味が?」
「君が選んでから話そう。さ、選んで選んで。ここには目視しても構わないものしかないから」

この状況を楽しむような、そんな声音で彼女は倉庫の隅、入り口の見える壁際に寄りかかって腕を組む。これ以上は話さないから早く選べ、と全身で示している。こうなってはできる事はない。おとなしく、数十と並ぶ収納什器を、近場から適当に見ていくことにした。

無彩色でひたすら幾何学の並んでいる抽象画、塗布面が構造上あり得ない奥行きを有しているアクリル絵の具の構成平面、血液で描かれた人物画、アール・ヌーヴォー調の植物曲線が無数に分化・増減を繰り返す刺繍付き絵画……
一枚一枚引き出すたびに、何を表しているのか、何を伝達したいのか、どういう意図で制作されたのか、キャプションを持ってしても理解し難い作品の数々と対面する。

何回かそうやって作品を眺め眇めつを繰り返していると、薄霧さんから忠告が飛んだ。

「全体を見て5秒でピンとこなかったら次に移るといい。今私が君に求めているのは第一印象の興味だ。その絵の意図やらバックボーンやらに思いを馳せる時間はいらないよ」
「……わかりました」

一応、その言葉に従いはする。それでも内心では、どうも釈然とはしなかった。
絵画というものは、作者の見た、感じたあるいは考えた世界の写し鏡だと、そう思っているから。
絵画というものは、飾られて、額の中に入れられて鑑賞物として完成するものだ。鑑賞という目線を持って閲覧するのであれば、額縁のないキャンバスからは本質としての魅力を得ることはできないのではないか。それぞれの絵画にあった太さ、装飾、形をあてがって、外界と塗布面を隔絶して初めて。
そう悶々とした思いを抱きながら、また一つ、キャンバスを引き抜く。

少なくとも、直前まで考えていた物事を全否定できるものが、そこにはあった。
認識に影響するタイプの情報ミームではない。それは理解できる。額に入ってはいないし、作品意図などに思いを馳せる間もなかった。

だが、目が離せないのである。

「……それか。なるほどね」

横から声を掛けられるまで、ずっと私はその絵を見つめていたらしい。どれほどの間見つめていたのかも分からない程度には、外界の一切を遮断して、没入していた。

薄霧さんは、私の手元からそのキャンバスを抜きあげて、少し眺める。

「うん、確かに美しいね。だが私にはそれ以上のことはないかなぁ。ま、そういうことだ」
「すみません。意味がちょっと読み取れず」
「うーん。私の場合は、ちょっと特殊だからね。少なくとも私は金輪際、君がさっき体験したようなことは起こり得ないと思うんだ。私が言いたいのはねぇ……」

そのキャンバスを梱包する手を少し止め、彼女はこっちに目をやる。

「絵に携わるときは純粋であるべきだってことだよ」
「……やっぱり意味がわかりません」
「ま、そこには自分で気が付かなきゃ意味がない。ほら、ついておいで。次に移ろう」


Sublimation


彼女は慣れた手つきでイーゼルの高さを調節し、カルトンバッグに仕舞い込まれた先ほどのキャンバスを立てかける。
まるで描き途中、完成品には見えない絵だ。自分でも、どこに惹かれたのかはよく理解していない。

何の説明もなしに目の前で始まった一連の作業に呆気に取られていれば、みるみるうちに作業場を構築していった。仕上げというように、その横に同じようにイーゼルをたて、フルホワイトのキャンバスを置く。ここはいつものアトリエ。

「さて。君の選んだこの絵画だが、レプリカを作ってもらおうと思う。今までの業務内容と同じだ」

無地のキャンバス面を軽くこづいて彼女が言う。張りのある面が立てた、こんこんという硬質な音が、広い部屋に響く。

「……その前に、この絵を選ばせた理由をまだ聞いていないんですけど」
「興味を持った作品のレプリカを作らせるためだよ。それ以上でもそれ以下でもない。んまぁモチベには関わるかな」
「意味があるんでしょうか」

昨日は別のことをした方が良いと助言をしたくせに、今ここで、昨日までと同じことをしろという。
てっきり有給でもとって軽く趣味やらレジャーやら物見遊山をしろという意味だと思っていたのだが。

意図の見えないお題というものを課せられた時、相手が求めている裏を勘ぐるのは、もはや受験期から刷り込まれたもはや美術畑の悪癖と言えるものだが、今回ばかりは彼女の一貫しない言動と合わせてひときわ難問であった。

「わかりました」

釈然としないままに、とりあえずはこれ以上の疑問を飲み下してイーゼルに向かう。
一度やると決めて筆を取れば、気持ちも自然と筆先へ統一されていく。淡々とキャンバスに色を乗せ、混ぜ、テクスチャを作り、厚みをつける。かつてこの絵が描かれたであろう手順をキャンバスから逆算して、無心で表面を盛っていく──



「……ふぅ」

無意識に止めていた息を吐いて、顔を上げる。昨日よりも一時間ほど早い時間だ。
目の前には、オリジナルと遜色ない再現度の絵画が、それこそ複製されたかのように置かれていた。
1日とかけずに書き上げられた。しかしそこに達成感はない。
……当たり前だ。昨日と同じ。その絵はただの模写に過ぎないのだから。

「流石だね。だけど、やっぱりまだ足らないのも事実だ」

そう言われるであろうことは、予想していたし、覚悟していた。何よりそんなことは、私が誰よりも理解していたことである。わざわざ横から指摘されるまでもない、現状の私をスランプに絡め上げている問題点は──

「君は、これ以上できることはないと?」
「……ッ! 描き直しますっ!」

拳を握り込み、唇を噛んで、彼女の問いに意思を返す。
返答が幼稚なのはわかっている。わかっているが、答えがわからないのだから、ただがむしゃらに、筆先で答えを掴むしか道がない。問題点は、打開策はいつも自分で何とか見つけてきた。今回だって大学時代と同じだ。

「ちょっと」

踵を返して、新たなキャンバスを取りに行こうとする私の前に手を差し入れた彼女は、丸いすを引いて、先ほどまで私と入れ替わるように腰を据えた。傍らに放っておかれた紙パレットを持ち上げて、作られた色を吟味するような仕草をした後、彼女はおもむろに、オリジナルを鼻が当たるほど至近で見つめる。

唐突な奇行。
呆気に取られるうちに、オリジナルをあらゆる角度から眺めて満足したのか、彼女は筆にたっぷりと絵の具を付けて一筆、すでに完結したはずのキャンバスにメスを入れるように下ろす。

一見純水に汚水を落として見えるような、そんな一手。

「あ」

仮にも私の完成させた完品。
オリジナルと遜色ない、完成した未完。誰もが認めるであろう完璧な模造が崩れたことに、思わず声を上げずにはいられなかった。
それには完璧な模造以外の意味など持ち合わせていないと腐れたのは私であるはずなのに。

なおも迷うことなく筆を入れる彼女は、私の非難と驚嘆の入り混じった音を全く意に返さずキャンバスに向き合っている。



かたん、と。静かに筆を置く音で、私を意識を現実に引き戻した薄霧さんは、一つ頷いて、前髪を留めていた飾り気のないピンセットを外した。

どれくらい時間が経っただろうか。
初めの時間を見るのを忘れたから正確にはわからないが、日が落ちていることは確かであって、少なくとも六時間は経過している。
そしてその時間が飛ぶほどには、私は目の前の人間の所作の一つ一つに目から心から、要するに全てを囚われていたと言うことらしい。

「さて、どうだろう」

丸いすの上で体ごとくるりとこちらに振り向いた彼女は、特に自信なども滲ませず、日常の延長線に過ぎないというテンションで加筆したレプリカの出来を問う。

「……言うことは、ないです」

何とか紡いだ言葉の意味するところは、完敗。
そも、競っているわけでないことは自明であるし、頭ではわかっている。
しかし、負けた。そう感じた。

単純な技量で。しかし、その技術の差がわからない。私と何が違うのか、その要点を掴めない。
発展しすぎた科学は魔法に見えるように、隔絶した思考は荒唐無稽に見えるように、成熟した技術の前に、未熟な私は何が起こっているのかの本質を掴むことができない。

「素晴らしい技術だと思います。私には、それが非異常的な、ごく一般的な技法しか用いられていないことしか理解出来ませんでしたが……まだ、職員としてプロには及ばなさそうですね」

これは成熟した財団職員の技術精度である。
人の為すことであるから、いつかは手の届くものだ。しかし現状、経験の差から到底及ばない位置にいる。
そう咀嚼して何とか、なけなしのプライドと自信を守るしかなかった。


Cast shadow


私が加筆したキャンバスを見た日南の顔は、どこか固い。
技術を褒め、自分の力が及ばないことに悔しさを滲ませてはいるが、どこか袋小路にいて、諦めの混ざっているような。
自分にはどうやら、財団で求められるほどの技量はなかったのだと。そう、言葉には出さず、認めようとしない程度の気概はぎりぎりで保っているような。

まるで、今の私のような。

日南心の姿が、私に同じ影を落としている。



──学生時代。もう5、6年も前になるだろうか。
美大の廃材置き場に打ち捨てられたキャンバス。薄い布切れが被せられたそれをめくった時が、薄霧が最後に絵画に対して論理的でない「魅力」を感じた瞬間だった。

同時に、私が最初に絵画に対して論理的な「魅力」以外を感じられなくなった瞬間である。
この半ば自業自得とも取れる事故に曝露して獲得した疎ましい能力は、己に制御可能な物でなく、目に捉えたもの全てが構造として把握され、膨大な情報量の処理ができず、当時の私は心を病むまでに至った。
それでも財団に保護され、矯正を行えばいずれ慣れ、そうなると美術を志したものとしては、この上なく有用な認知能力であると考えるようになった。実際のところ、そんなメアリー・スーのように都合のいいものではなかったわけだが。

なんとなく美しい。
なんとなく楽しい。
なんとなく可愛い。
なんとなく怖い。
なんとなく。

それらグラデーションに位置する感情を抱く余地がなくなった。
それらを自分で考察し、悩み、選び、吟味し、理解に自らの意図や感情を交えて“こう言うことではないか”と自分なりの解釈を持って鑑賞することができなくなった。

全てが構造に起するものであると、嫌が応にも見えてしまう。
世界が全て詳らかにされるということは、興味を持ちたくとも持てないと言うことである、という当たり前の事実に気がつくのに、そう時間はかからなかった。

キャプションからの想像力が、美術を作り出す人間として一番重要な想像力が死んだ瞬間の私。



それが、今、私の前で袋小路に潜り込んだ日南心という職員に重なっていた。



レプリカ。模造。今このアトリエにいる人間は、どちらもそのためだけに筆を握っている。
美術は義務であってはいけないものであるはずなのに。
今目にしている、今目の前にあるそれは、低危険物収容庫で見たトイレの日本画も、ルネサンスとマニエリスムの過渡期のように歪で、羽ばたくにはあと一つ足りない赤子も、あらゆる美術は想像力でできている。

ならば想像力の塊を前に、想像力を捨て、ただ機械のように、構造としてのみその絵画を模造する私は。

私の「加筆」したキャンバスは、どこまで行っても美術品レプリカではなく、工業品コピー



私がしばらく口を開かないでいるのをどう捉えたのか、日南は「でも」と私を褒める方にシフトしたようだった。
沈黙が居た堪れなかったのか、はたまた沈黙を不機嫌と認識したのか、少なくとも先ほどの空気を払拭しようと努力していることだけは確かだ。
それは先ほどの技術技量から広がって、私が過去携わったプロジェクトの成果物から、今のプロジェクトにまで至っていた。

「薄霧さんはミーメティック開発になくてはならない存在だとも聞いています。詳細は私のクリアランスでは把握できませんが、少なくとも常人ではミーム解剖の時点でそれらの曝露に対する耐性の獲得や服用が必須でしょうし、開発に至ってはさらに、象形ごとの機能特定や剥離作業、無毒化や合成などにかかる総合的な技量を要求されるとも聞きます」

確かに、彼女のいうことは事実に違いない。しかし、私は常人とは言えないから、手放しの賞賛は無性に座りが悪い。

「それらが機密保持や装具強化、対抗ミームとして人命救助にも活用されているのは素晴らしいことですし、財団引いては超常の正常性維持に対して少なくない功績をあげている。羨ましくはありますが、到底届きうる技量ではないので、少なくとも、今の私にはとても無理そうですね」
「──私のミーメティックに対する関心は、そんな殊勝なものではないんだけどね」
「それでも良いと思います。私たちの持つ技術を、財団で生かすためにここにいるんですから。私も、大学では主席に位置するような技量だったはずなんですけど。自分にはどうやら、財団で求められるほどの技量はなかったようです。」



「本来ならば、美術とはそういうものではないはずなんだよ」



私は、これ以上日南に口を開かせる前に、そう差し込んだ。
彼女は、口を開けたまま、呆けた表情で固まっている。半ば衝動的に出た言葉だ。少し威圧的に感じてしまっただろうか。

だが、ここで私は言わなければならないのだと、思ったのだから仕方がない。構造の把握ができない会話において、私に残る、まだ人間味のある部分において直感がそうさせたのだからこれは正しいはずなのだ。

「美術は、義務であってはいけないものだ」
「……義務、ですか? ですがこれは仕事ですから」

かつて、偶然異常芸術アナートに出会う瞬間までは、私は正しく美術に向かい合っていた。

「美術とは美に向き合う術だというのは貴女も理解してくれると思うんだけれどね。その術というものの過程は機械的ではなく、楽しんで行うべきものであるはずだとは、思わないかな。美術は言葉で表せない美しさを自分で噛み砕くために、ありとあらゆる角度からオリジナルを観察し、色々と試行するもので、実際、私はかつてそうしていたんだけどね」

それが『楽しさ』だったから。

「今の貴女は、その『楽しさ』をどこかに置き忘れている。納期、仕事、義務感。美術学生から仕事に急に切り替わった影響かもしれないけれど。そういったものに興味を抱くことができていない状態で。ある種の呪いとも言えそうなものだ」
「呪い……そうでしょうか。私は今、技術を磨きたいのです。お言葉ですが、薄霧さんの仕草を見ていて、引き込まれこそしましたが、『楽しさ』を感じはしませんでした。ならば技量は、『楽しさ』を介在させずとも身に付くのではないですか? 美に向き合う術はなにも一つ限りではないと思っています。そのために、ひたすら完璧な模造をするのが近道ということはないのですか」
「……少なくとも、私はその『楽しさ』というものを、大学の時に永遠に失っているからね。君はミーメティック開発に携わる私を褒めてくれたけど、さっき言ったように功績や誰かのためなんて、そんな殊勝なものではないのさ。いうならば、そうだな……夢を見に行っている、とでも言うのかな」
「夢を見ている……その失った『楽しさ』とやらのですか?」

そう。夢だ。
私はまだ、あの頃を思い出し、囚われている。

「私は美術品の持つ美を形作る構造と要素をすぐに理解してしまう。財団のおかげで廃人を避けて、今こうして管理官なんぞ大層なものをやっているけどね、美に向き合う術という点ではこの上なく無法者だ。その点ミーム構造という、無限のパターンと可能性を秘めた、世の中の構造では捉えきれない未知が生み出すものに興味を持つことで、私は今、かろうじて美術従事者としての自我を保っている状態というわけだね」

未知のアノマリーに度々携わらせてもらうことで、新たな可能性を夢想できる環境に、自ら首を突っ込んで延命している。
決して彼女の思う義務感などではない。誠に自分本位な理由。少し調べれば基本的な要素と生い立ち程であれば、日南レベルの職員なら普通に知ることができる。それを読めば、私が補助人工心臓で生きながらえている末期患者のような有様であることなど、簡単に察しがつくのだ。



「君は最近、根を詰め過ぎているように見える。少しは別のことをした方が良い──と。この前そう言ったのは覚えているかな」

しばらくの沈黙を破るように問いかけた内容は、答え合わせのようなものだった。
彼女は一つ「はい」と頷く。

美大で何十と聞いた助言だろう。そして彼女の場合、それらの言葉は実力と結果で全て返してきた人間だ。
一つの物事に対する集中力はずば抜けていて、脳内の完璧を画布に表現し切るまで、決して終わろうとしない人間。それは、私が彼女を見る中で十分過ぎるほど理解していた。なんせ朝一番に来て夜最終で帰るのだから、必然的に目に入るし、すぐに察する。そして美大の環境において、周りを黙らせることができる実力と結果はすなわち、魅力を備えていたということに他ならない。思うに、今の『楽しさ』を忘れた惰性の美術とは違う代物だったのだろう。

「私が今日、君に対してこのレプリカを作成させた意図は、掴めただろうか」

意図の見えないお題というものを課せられた時、相手が求めている裏を勘ぐるのは、もはや受験期から刷り込まれたもはや美術畑の悪癖だが、これは往々にして『楽しさ』を生むのだ。相手の求めるものは、所詮こちら側で答え合わせするには完成した作品を提示する以外に術はなく、つまり

「自分で考え、観察し、色々と試行することを期待していた、ということですね? それが、美に向き合う術だと」
「そうかもしれないね」
「……そこすらも、解釈の余地というわけですか?」
「君の見つけることだ」

財団形象部門において、美術は仕事だ。根が真面目な優等生であればあるほど、美術に対する携わり方は歪んでいく。
しかし、幸い彼女は私とは違う。全ての物事になんらかの美を見出してしまう私とは違う。
解釈の余地も、そこから生まれる余剰も、彼女は存分に持っている。本来の美術が持つ『楽しさ』を、今から探して拾い直すことができる、可逆性の人間だ。


Ideaアイデア


薄霧工房管理官との対話から数日。
あれから彼女を相手に貪欲にその手法を聞きただし、知らない視座に対する純粋な興味をもって制作に勤しむ姿を見てか、プロジェクトへの復帰を本日付けで許可されるに至り、明朝、いつも通りの一番乗りとして申請窓口前にいた。

常に受付にいる薄霧さんは、今日に限ってそこにいない。
軽く辺りを見回っても見当たらず、落胆を抱えながら、ダメ元でいつもの癖で工房等の中を歩く。ここを右に曲がれば、いつもの場所だ。
アトリエの引き戸に手をかけると、抵抗なく横にズレる。

鍵は開いている。

「薄霧さん?」

いつもより丁寧に扉を開けた目線の先、いつもの景色。
色の濃いフローリングに丁寧にワックスの掛けられたその部屋の壁際。私が作業に使う区画には



──F100号。



あの日、絵皿を投げつけようとした、あのキャンバス。歪な赤子がそこにあった。
その傍の丸いすに腰掛けて、くぁ、とあくびを噛み殺す薄霧さんは「おぉ、来たね」と笑いながら、手を招いている。
予想外を飲み込むこともせず、困惑の混じった声で彼女に問うた。

「あの日、処分したのでは?」
「処分なんかしないよ。むしろ、あの時処分されそうになったのをサルベージしたという方が表現として妥当だね」
「F100なんて、管理するのにも嵩張ると思いますが……」
「事務所の作品棚にしまい込んでたからね」

 ──事務所。中を見た人間全てが口をそろえて「きったない倉庫」という例の魔窟。

「サルベージした作品を例の倉庫に……財団の保護の理念は適応されないんですか」
「わりかし綺麗なところに置いといたんだから汚れの一つもないよ」
「まぁ、そこは別に問題ではないですね……ですがなぜ?」

当然の疑問に、彼女は少し悩んだ末に「ここまできたらいいか」と呟いて、事の次第を共有してくれた。

「ただのおせっかいだと思ってもらっていい。君の所属するプロジェクトチームに打診をしたんだ。数日間ひたすら作業場に缶詰だったから、君の所属するプロジェクトチームに進捗を尋ねて、レプリカを何日遅らせても構わないか、今の状態から持ち直すまでこちらで面倒を見る時間を用意できないか、ってな具合にね」
「随分と、面倒見がいいんですね」
「おせっかいだと言ったはずだよ……打診した時には今日明日がデッドラインだったけど、どう?」
「1日で仕上げてやりますよ」

苦笑しつつ、そう意気込んで、床に座る。
筆を手にして、着々と加筆を重ねていく。

彼女の描き方を思い出し、試す。
鼻先に油の独特の香りがするほど、オリジナルに顔を寄せる。
ひび割れから、おおよその絵の具の濃度を決め、塗られた絵の具の厚みを見る。左右の目を交互に閉じて、光源に左右される色の変化から混ざる色を推定する。白く滑らかな陶磁製の絵皿の中で、選んだ色を混ぜ合わせ、ヨーグルト程度のゆるさになるまで水を差す。そして作った色を、キャンバスの然るべきところへ、乗せる。

私が今描いているのはマニエリスム。
マンネリの語源であるマニエラmanieraを名に冠した、美術史における芸術の頂上ルネサンスのその先の潮流。
かつて、ルネサンスマナーを模倣し、パターン化し、型にはまったモノマネでしかないと批評家に謗られた様式。しかし、筆を取るもの自身が模倣の中で観察し、試行し、独自の解釈で再構成し、注目と評価を得た美術。

──この美術品レプリカは、同じなのかもしれない。

ふと、そう感じる。
キャプションのない絵画。だからこそ、それを見て万人の感じるものは異なる。誰だったか、絵は、それを鑑賞する人間の内面を当てはめる枠だといった。私がこの絵を廃棄しようとした日、この絵に抱いた印象は、羽化不全。あの時、私はまさに、蛹に籠って美術の形を見失い、成形に苦悩していた。
私の作ったものは、マニエリスムのマニエリスム模倣に留まり、それはオリジナルとは比べるべくもないほどに別物。本来のマニエリスムとは、模倣の中で観察し、試行し、独自の解釈で再構成することに重きを置いた美術なのだから。そして私の解釈した『楽しさ』とはそれだ。

それを理解し解釈した今、この作業は苦行などではなく、どことなく楽しい作業。
薄霧工房管理官と決定的に違うのは、私が『楽しさ』を得て加筆していることだ。



「──そういえば私、倉庫でキャンバス選ばされましたよね」
「あぁ、そうだ。君はあのキャンバスのどこに惹かれたのかな」

断続的な雑談の一つ、薄霧さんが興味を向けた話題はそんなものだった。
あの選択を行う行為は、その後の『楽しさ』の再受容とは、また違った枠組みを測っているような気がした。
直感による選択。
認識よりも一歩手前にある何らかの情報処理感覚。

そういったものを彼女は。

だから、あの日の対話の後、私は再びこれに対する考えを巡らせていた。
むろん、先ほどの彼女の問いも自分なりに吟味した。結果は

「わかりませんでした。どうしても」

何に惹かれたのか、どこに視線が吸い込まれたのか、自分の嗜好と照らし合わせても、当時の目線を再現しても、本質的な部分には至らなかった。「わからない」が最終的な答えだ。

「そうか。そういうものかな」

そう、短く返す薄霧さんの声には、どこか期待外れの気が乗っているような気がした。


──夢を見に行っている


彼女の表現した、彼女の求めるものの輪郭。
彼女のいう夢の核は、失い、二度と戻らない『楽しさ』ではないのだろう。もちろん、それは夢の中には含まれるのだろうが、本質はきっとその先──その楽しさを得るために手を取る動力源となる『純朴な感性からくる“惹かれる”という感情』の要因。

「わからない」と答えを結した後、それでも自分の思う考えを組んでいた。
多分、彼女はもうこの推論など何遍も辿っては破棄しているのだろうけど。これは取るに足らない思いつき。

「薄霧さんは、芸術をモノとしてしか捉えられない状態なんだと思います」
「……続けて」
「美術品全ての“正解”がわかってしまうから。そこにいくら人の過去や感情を想像してみたところで、結局最初から確固たる答えが見えてしまうから。薄霧さんが財団に加入したのは、自分自身の能力を制御するためだったそうですね。矯正下で見た美術品は、いずれ『楽しさ』の感じられない構造物に成り下がり、美術品は美術品ではなく、構造物としての「モノ」として見るようになるのは必然とも言えます。芸術が19世紀以前はただの珍品でしかなかったように、あなたの目線も、そういうものに落とし込まれてしまった」

彼女のこぼした話に興味を抱き、クリアランスの許す範囲で彼女の出立や抱えた問題を調べ推測した結果だが、彼女を見て、言葉を交わすに、この憶測はおそらく的を射ている。

「これは私の勝手な推論に過ぎませんから、気を悪くされないでほしいのですけど」と、いささか遅きに失した気もする前口上を置いて。

「美術が美術として成立する条件は、例外なく人が価値を与えるからであり、人が芸術に価値を見出すのは、礼拝的・展示的価値を見出すからです」

美術は、人が見なければ美術為り得ない。そしてそれは、未完成であろうと適応される。私が倉庫で惹かれたあの絵画もそうだったのかもしれない。

「薄霧さんのいう、その廃材置き場の絵からは……“自分の人生や生きていることの意味に関係があると感じてしまった”のではないかと思うんです。廃材置き場ということは、その絵を描いた人間はその絵に価値を見出せなかったわけで……自分の理想を描き出せなかったはずです。でも、赤の他人がそれに対して価値を感じる何らかがその絵にはあった。たとえば、未完の美術が何よりも伝達するものは──」
「過程。足掻いた足跡に見出される価値。美に向き合った全員が経験し、共通概念として存在し、理解の及ぶ、『楽しさ』の羽化不全。どろどろに溶けてこごった、『楽しさ』の結実しなかった成れの果て。そんなものを無意識に自分の記憶が受け取ったんじゃないかと、君はそう言いたいわけだ」
「……まぁ、これも薄霧さんが私に言った、『解釈の余地や、そこから生まれる余剰』を使って私が無遠慮に想像しただけの一つですけど」

そう付け加えて、今までの言葉をただの戯言に直す。
薄霧さんは、目を閉じて壁に背をもたれたまま、小さく息を吐いた。



それから暫く、私の美術品レプリカが出来上がった後、彼女はアトリエの入り口からそれを一瞥して去っていった。
最後に「いいレプリカだ」とだけ言葉を置いて。

薄霧希工房管理官。
正しく工房の管理官であり、誰よりも最適で、誰よりも美術から遠い人間。それがあの女性に抱いた感想。

珍しく開け放たれたままになったアトリエの引き戸の先、すっかり日も出て、白く日差しが差し込んでいる。
ふとテレピンが鼻先を薫って、開いた戸の方に流れていく。久方ぶりに、くらりときた。


Ideaイデア


薄霧は、未だに人の気配のない廊下を、どこへ行くでもなく歩いていた。

先ほどから日南の答えを反芻し、次第に落胆していく。
今となってはもう、その答えを探すには過去の記憶を遡って考察するしかないもので、そのモデルケースはこれ以上増えることはない。
結局、これまで無数に反芻した中で得た答えが正しいのかどうかの確証は得られないし、今回他者から得た答えとて、私が過去に自問した可能性の一つに大差はなかったからだ。

あのとき、ゴミ捨て場の美術の「美」たる核を一遍も理解できず、触れることすら叶わなかった私は、それでも『美術』を喪失する直前、確かにそれに惹かれた瞬間があったのだ。あの美術に、そのような術式も、構造も、与えられてはいなかったというのに。

あの刹那に捉えた何らかの感覚。それこそが私の追いめる何らか。見えないものというならば、例えば魂などというものがある。努力の堆積というものがある。辿った時間がある。そんなものはいずれも実態を持たず、流動的で、把握などしようもないから、大手を振って有ると断言などできない。「美」の核とはそういうものなのだろうか。

その答えは、未だ見つからずにいる。






結局のところ私は、形象部門の誰よりも、美術を知らない。

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