大漁たいれふ
久方ぶりの陽射しは目に眩しかった。ただでさえ瞳孔を刺すような陽の光はさざめく水面に乱反射してその煌めきを増している。
ひゅう。とぷん。
細めたまぶたの向こう側、しなる竿が鋭く空を切り、小気味よい音を立てて錘 おもりが落ちる。ひそかな楽しみ、釣りの始まりである。
「もういっちょ上がりィ」
本日n度目の整った顔。綺麗な黒目に八頭身の、釣り人を虜にするその高級魚が、カラフルなたも網の中で鱗を輝かせる。
「いや、もういいよそいつ」
竿を持ちながら一つ息を吐く。いましがた釣り上げた獲物を眺めていた高辻祐は、暫く散髪に行っていない長髪を鬱陶しげに振り払い顔を顰めた。
「んだよ高級魚だぜ? 引き締まった白身はほろろだ。塩焼きすりゃ脂がそりゃもういい匂いするんだからさァ」
「そう言うことじゃないんだよ」
疲れたように肩を落とし、ちらりと川の反対側、釣り場後方の草むらに目をやって、ため息をおかわりする。惨憺たる光景が広がっている。
「いくらなんでもおかしいだろ」
まさに死屍累々。エラと尾鰭の根本を掻っ捌かれ、分厚い唇が血泡に塗れた彼らは、綺麗に揃えられた芝生たちを無残にも押し潰し、広いはずの公園を埋めている。なぜだか酷く罪悪感が湧き上がる光景だ。俺たちが椅子を構える岸壁沿いの石畳のエリアは、行き場を失った血が溝を伝って幾筋も川に流れ出していた。
公園管理者に見つかったら出禁だろうな、なんて現実逃避のような思考がたまに湧き上がっては消えていく。
「そろそろ撤収しないか。いくらスズキが高級魚だって言ってもサイトの冷蔵庫からすら溢れるぞコレ」
「いやァ、近くの行きつけの料亭にあげるけど」
「迷惑でしょこの量は」
同僚の羽倉栄は、田舎のお裾分けのような雰囲気で料亭に押し付ける気満々の宣言をする。鼻歌を口ずさんで魚の口に指を突っ込み、慣れたように針を引っこ抜いた。
それを見つつ、竿を欄干に立てかける。ポケットから軍手を引っ張り出して、草むらを埋め尽くさんばかりのスズキの一匹を引っ掴かんだ。
「これどうやって持ち帰るんだ」
「車の方に大きめのトロ箱積んであるから」
「持ってこいってことですか。はいはい」
それなりに距離のある駐車場まで行き、発泡スチロールをあるだけ台車に積んで戻る。なんでこんなにあるんだ。一見して水産業者か密猟者のそれである。クーラーボックスからまだ硬い業務用の保冷剤を取り出して、魚と一緒に雑にぶっ込んでいく。
魚の片付けを半ば機械的にこなし、じっとりとした汗がにじむ頃、草むらには血糊のみとなった。陽射しに当てられ、魚の粘膜と混ざって赤黒いゼリー状に固まり始めている。普段平和な公園は、事件現場の様相を呈している。
「そっち終わった?」
「ばっちし」
未だ日は空高く、夕まずめ 魚がよく釣れる時間帯まで、あと数時間もある。そもそも今の時間は満ち潮で潮が留まっている。こんなに豊漁なのは驚きだった。明るい赤色のロッドケースを肩に背負い、サムズアップを決める羽倉の肩越しに、さっきまで大量のスズキを引き抜いた利根川を眺める。少し濁った広い川面かわもを割るように、ちょくちょく銀色の魚体が空中へ躍り出ては、小気味よい音で水中へ帰っていく。
「ボラが多すぎないか」
「まぁ、今日はあちこちで跳ねてるよなァ」
川縁の至近でまたひとつ、ばちゃん、と大きな音を聞き、羽倉も振り向いて柵に手をかけた。
「ナブラも多いし」
あちこちで水面がぴしぴしざわついているのを追いかける。ベイト、つまるところ捕食者から逃げる小魚の群れだ。ほらまたボラが跳ねた。
「ほらお前の大好きな生態系が死んでるぞ」
そう茶化してやれば、色落ちした黄色髪とロッドケースを揺らして抗議する。
「マクロな生物学は専門じゃないんだよォ」
実に適当だった。こちらがなんとも言えない顔をしているのを見てか、大袈裟に戯けた肩を落として利根川をじろりと一瞥する。
「ま、一応報告しとくかァ」
面倒くさそうにポケットからガラケーを取り出し、慣れた手つきで文字を打つ。大方宛先はさっき言っていた料亭なのだろう。絶対生態系異常の報告じゃない。こいつは喫緊でもない限りは仕事より趣味を優先する。そう言うやつだ。
仕方なく、奴の代わりにカバンから取り出したビデオカメラを回し、ガラケーの写メで水面を数枚撮り納める。
茨城県。利根川汽水域沿いの公園隅にある穴場ポイント。少ない業務を縫って取得した、わずか1日の夏休みは、どうやら早々に終わるらしい。
便よすか
「何もなかったなァ」
無機質な廊下。白系統で統一されたその空間に、運動靴のゴムが擦れる音と軽い声が響く。
「骨折り損だったなァ」
「2回言う必要あったか? 何もないに越したことはないだろう。単純に局地繁殖の群れだったんだから」
休暇途中で報告に来たため、私服姿の上から軽く白衣を羽織って最低限の形式は整えた姿。未だ磯臭さを漂わせる隣の男は、白衣のポケットに両手を突っ込み、そのまま裾をパタパタさせて怠そうにしていた。
「ったくよォ……仕事だぜ。かっ怠たるゥ」
「10日前には八丈島で確認されてる。沿岸魚だし、あのあたりじゃ珍しいけど黒潮で流されてきたんだろ」
「あれ、高辻?」
不満げな羽倉を宥めていると、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、ガタイのいい男が一人、体に見合わないほど小さく手元で手を振っている。
「隊長さんじゃないですか。仕事お疲れ様です」
「今は休憩だ。それより今日はなんの……あぁ」
手元に数冊のファイルケースやらタブレットやらを抱えていることから推察したが、どうやら目星は外れたらしい。俺の横を見た彼は途中で口をつぐみ、勝手に納得する。その目は何か可哀想なものを見つけたような生暖かい目で、なぜだか無性に哀しくなった。
彼は意図的に横の同僚を目に入れず、存在しないものとして私の方に話しかけてくる。いつもの事ではあるが、相変わらず横の軽薄な同僚とはそりが合わないらしい。
「貴重な休暇中なんじゃなかったのか」
「いえね、今回ひくほど爆釣で……驚くほど成果がでたので早々に引き上げてきたんです」
「どのくらい獲れたんだ」
「取り敢えず、食糧課には怒られました」
途端に彼の顔がしかめられる。ついで頑なに見ようとしなかった隣を、ウジの湧いた生ごみでも見るかのような目つきで見やる。この後の展開に勘づいたようであった。無理もない。過去何回もやらかしている。傍らの私にぐい、と書類の束を押し付け、彼は同僚を太い腕でむんずと肩を鷲掴んだ。しわくちゃの白衣にさらに皺が寄り、指が明らかにめり込んでいる。ぎりぎり、というオノマトペがよく似合う感じだ。何か耐えかねたのか、その大きなガタイを震わせながら慟哭とも怒号とも取れる大声をあげる。
「は〜く〜ら〜〜〜〜〜〜? お前またか? またなのか!?」
「喜んでくださいよ隊長ォ。今回はスズキですよス ズ キィ! 江戸前の高級魚! 一週間はあの手この手でスズキ料理が並びます!」
「お前何回めだ? 前回はエイ、その前はナマズ! なんなんだお前! 漁師か? 底引きでもしてきたんか!? あ゛ぁ!?」
「喜んでもらえて何よりですわァ」
悪気のわの字もなさそうな むしろ感謝されるべきとのしたり顔をした同僚は、ヘラヘラとして詰め寄る機動部隊長の雑言をどこ吹く風と受け流す。部隊長の挙げる例には残念ながら全て心当たりがあった。心苦しいのだが、今回ばかりは自分の側にも被害は降りかかることが確定的であるため、いつもより彼に同情の念が拭えない。
「今回はサイト-吽うんの方にもお裾分けするんで、こっちだけ独占する心苦しさは覚えなくていっすよォ」
「新人に迷惑かけ……まだ余ってんのか?」
心なしか狭く感じる廊下で、二人は取っ組み合った姿はそのままにこちらを向く。かたやこの後の食に飽きが来ることを見越したような同情の眼差しで、かたや善意100パーセントの無垢な笑顔で。その顔を見ながら、隊長が一つ気になることを口走ったのを、聞き逃しはしなかった。
「この時期に新人ですか?」
今は夏。春の人事入れ替えは終わっているはずだし、二次募集は10月。この時期に新たな人員が入ってくるのは異例だろう。
「でっけえ人事異動が一ヶ月前にあったろ。今日はチュートリアル超えた奴らのオリエンだ。ほら、新たなMTFが編成されるってんでこの前何名かベテランが引き抜かれたろ。その補填だとよ」
「まぁ、神格研究サイト全般、あまり機動部隊は必要ないと言えばそうですが……ここから引き抜くってのは相当じゃないのかって神話部門の方でも話題になりましたね」
ふん、と鼻息を荒く吐いて羽倉を解放する。この間かんずっと、廊下のじつに半分を埋めて立ち尽くす我々を怪訝な目で、面倒くさそうな目ですり抜ける職員たちの視線がそろそろ痛くなってくる頃だ。
「まぁ下にゃいる事はいるが……お上の判断だ。問題無しっつう判断なんだろ。じゃあな、せいぜい互いに飯を耐え忍ぼうや」
ひらひらと後ろ手を振りながら去っていく警備長のその一言で、この動脈瘤のような集いは晴れて解消ということになった。この後羽倉のホームであるサイト-阿あを離れ、わざわざサイト-吽うんの方にまで成果物を持ち込まれ、ついでに向こうの食糧課にもお小言をもらうであろうことが容易に想像出来てしまい、うんざりする。なんであの量を釣るまで付き合ったのか、己の判断の遅さに自責の念が絶えない。
今からでも全部リリースできたらどんなに精神寿命が伸びるか、などという意味も根拠もない皮算用をするほどには後悔している。
いっそ全てサイト-吽うんに押し付けようかとも思ったが、事実上の共通サイトである以上、あまりいざこざを起こすのは好ましくない。食堂のお偉方の唾を頭に引っ被って数週間の食堂メニューが魚尽くしになるのを耐え忍べばいいだけだ。
せめて全職員に提供すれば良いのに、下手にグレードで分けるせいでこうなるのも考えものだな。
確実に蓄積されるストレスに、羽織った白衣の懐に自然と手が伸びる。煙草の箱を引き抜いて、底を叩く。望んだものは出てこない。
「……はぁ」
くしゃり、と握りつぶした箱を道すがらのゴミ箱に放り込む。ままならないもんだ。そもそも廊下で一服は禁止されている。もし一本残っていたとしても吸うことは叶わないだろうことに、今更思い至った。
だいぶ脳の容量が圧迫されているらしい、と自身の客観視を試みて気を落ち着かせる。そもそも研究とストレス漬けの脳みそのリフレッシュのために取った有給であり、まったりと釣りに行っていたはずである。にも関わらずなぜ新たにストレスを抱えているのか。本末転倒にも程があった。
ニコチン中毒であることは自認しているが、今回の元凶に煙草をせびるのも癪だ。愚痴の一から百くらい突きつけてやろうと、羽倉の方を向いて、二本指を口元で数回前後させる。当の羽倉はにやりと口元を上げ、「いいね」と呟いて鼻歌混じりに付いてきた。単純で助かる。
社内の購買でマイセンを一箱。
「お前それ好きやなァ……一端いっぱしの社会人が板についてまァ」
「羽倉サンはあかまるですか。様になってますね」
「言いたいことがあるならはっきり言うたらええのに京都人」
「そらお前もやろ」
ヤニとタールで薄く黄色が滲むガラスを押し開き、胸ポケットから取り出した半透明のライターで火をつける。ん、と図々しくも横から差し出された羽倉のタバコに、イヤイヤながらも火を分けて、なるべく汚れのないところに背を預けた。ふぅと吐き出される白煙が、上の方にしばらく揺蕩って溶けていく。
「こんな調子じゃ地元にも帰れないな」
「俺はここに骨まで埋まる覚悟でやってるけどなァ」
「お前は酵母研究できりゃなんでもいいんだろ」
「そりゃもう」
「趣味に対して本業以上の情熱を注ぐのは感心しないけどな」
吸い殻入れに数回灰を落とす。
羽倉同様、私もこの職場に骨を埋める覚悟はできている。それが研究オタクたる財団職員という生き物で、研究できる資金と設備さえ与えられればホイホイついていく。現にサイト-吽うんに異動になったときも心躍らせるままにで流れてきたものだ。
ヴヴヴヴヴ、とズボンのポケットがケツを揺らす。懐メロが一小節ほど流れた辺りで携帯を開く。目に飛び込むのは画面いっぱいのポップアップに、無駄に回るメールアイコン。仕事のメールか何かかと、現実に引き戻されてうんざりする心を抑え、決定キーを押し込む。少しバカになりつつあるボタンを押すこと数回、文面が展開された。
「……はぁ」
ため息を聞きつけて、羽倉がにじり寄ってくる。その手にはすでに2本目が用意されており、こっちに火をせびっていた。奴の顔面目掛けてライターを投げ渡す。あんがと、と一言。なんでもないように片手で受け取った彼は、咥えたタバコを火で炙りながら、面白そうにこちらへ話しかけてくる。
「また仕事か? 最近よく追ってらァな。なんだっけ? 富多らなんとかってやつ」
「あぁ。あのアホ共、どういうわけかこの数日間で大きく沈静化してるらしい」
「へェ、そりゃまたなんでさァ」
「お前管轄外だろうが。頼まれても言うもんかよ」
「同部門のよしみじゃねぇか」
なおも覗いてこようとする羽倉の頭を押さえつけながら携帯を遠ざける。その腕に縋りついてまで覗き込もうと試みるこいつに、その執念はどこにくるのかとか、ヤニ臭えとか言いたいことはいろいろあるが、全部飲み込んでやっとこさ引き剥がした。
「なんなんだお前」
「いやなんか、女っ気とかあんのかなってさァ」
「だとしても今のは止めろ」
「へいへい」
大人しく引き下がった彼は、数回煙を吐いて、「あァそういや」と切り出した。
「俺の着歴に変なもんがあるんだよ」
元の白い天井の面影がかけらも見えないほどに黒ずんだ天井を見上げて思い出すように言う。
「何。ホラー?」
「いや……まぁ言い得て妙だな。俺の知らんやつと交流があるんだよ」
「誰が」
「俺が」
奴の要領を得ないふわふわした返答に、見せてみ、と一言。俺に催促された通り、今一度携帯を開いてメールボックスをスクロールしていく羽倉。すると職場の友人や、他部署の個人的な付き合いの名前に混ざって、ところどころに橙という発信先が見られる。どうやら、彼が言う俺の知らん奴というのが、この橙という人物らしい。
「……こいつ。なんなんだろうなァ」
「おいおいおいおいその年で痴呆かよ……知らんってことはないだろう」
「いや、本当に誰だかわからん。ただ、消すに消せないんだよ」
しばらく俺の頭をフル回転させて脳内の人事フォルダをひっくり返してもなお、この橙という人物に心当たりはなかった。あるとすれば彼の脳みその中だ。彼はひとまずと言ったように一番直近のメールを開き、俺の方に画面を見せてきた。
Date: 2005/6/28 18:23
To: 高辻 祐
From: 鈴木 橙
Subject: 無題
ごめん
「何、喧嘩してるのか? 一ヶ月近く前のメールじゃねえか返信してやれよ」
「いや特に喧嘩の記憶はないなァ。だから許す義理もねぇ」
「長期放出で東京出て女引っ掛けて遊んでんじゃないのか。お前軽薄だし、顔だけは良いんだから」
「俺が愛するのは無菌育ちの酵母ちゃんだけだぜ。浮気はしねえよォ」
画面を覗くために寄せていた頭を起こし、俺は一際大きく煙を吹いた。あくまで彼の頭の中に鈴木橙なる人物の記憶が介在する余地はないらしい。
「じゃあ消せば良いじゃないか。データ圧迫するだけだろうに」
「消したくはねえんだよなァ」
「まぁ俺は関与することはないが、なにか異常性があるならさっさと窓口行けよ」
その言葉を最後にとりあえず話題を一新し、本題である羽倉への愚痴を行うこと1時間ほど。いくら言っても軽くいなされるのに辟易して、半分ほど余った煙草を吸い殻入れにすり潰して捨てた。この後いよいよサイト-吽うんへ向かう。俺にしてみれば、向かうというよりは職場兼ホームへ戻る形にはなるが、せいぜい1時間程度の喫煙で現実逃避しただけで、少々お小言までの時間を引き延ばしただけに過ぎなかった。むしろ全身ヤニの匂いで香ばしくなったためにさらに嫌な顔をされそうな具合だ。
「はぁ……いくか」
タバコに頼った数時間前の自分を呪いながら、少し霞む頭をふって駐車場へ足を向けた。
鑰かぎ
「2015年7月30日17時28分33秒、救助者1名に対し簡易的インタビューログを開始します。聴取人は穴蔵フリーランス組合所属の夢川初と」
「現田さき」
「及び無所属フリーランスの東国斎と同人に紐付く指定監視対象である丸山結」
「以上計4名。発見経緯は 」
マニュアルに沿って一通りの状況説明を終える。ロケーションは山中の廃施設跡地から宿へ移し、現在は和風情緒あふれる客室にて、中央に置かれた座敷机を囲んで救助した1名に対し聴取を行っている。
当初、サキが廃施設地下で発見した救助者は、私たちが合流して救助者に対し応急的な回復措置を行なっている最中に意識を回復した。特に明識困難なども見られなかったため、暫定的な処置として身なりを整えさせ、自分たちのとっていた宿に運んできたわけだ。
しかし、彼は意識清明と判断できるレベルには計算、判断、識別能力等に異常がみられないにも関わらず、自身の名前等、以前の記憶の欠落が発生していることが、道中の確認で判明している。いわゆる逆行性健忘。それもエピソード記憶の欠落である。
「本名が分からないとのことですが、あなたの所持品にあった名刺入れに残っていた名刺から推察するに、あなたの名前は鈴木橙だいさんである可能性が高いです」
「そう、ですか。鈴木……橙……なるほど」
噛み締めるように彼が反復するのを見届け、話を進める。健忘初期にあるような、頻発するパニックなどは現状確認されない。
「あくまでその可能性が高いだけであり、確定はしていませんが……暫定的に橙さんとお呼びします」
「えぇ」
「記憶に残っているかは分かりませんが、あなたは和歌山県那智勝浦市の熊野那智大社 和歌山県の神社ですね。そこから一キロほど山中に外れた地点に存在する、なんらかの施設の地下で意識不明の状態で倒れていました。現田さきの証言によれば、発見当初、あなたの周囲にはバリケードのように机や長椅子が積み重ねられ、障害物によってあなたの姿を見つけたのは偶然だったそうです。このような事態に陥った理由に思い当たる点はございませんか」
問われた鈴木は、しばらく座敷机の天板を見つめ、やがて首を振る。その後もゆっくりと質問を投げかけていくも、あの箇所について何か有用な情報を得ることはできなかった。期待していなかったと言えば嘘になるが、ここまで何も分からないことに、気分が落ち込んだのを自覚する。しかし落ち込んでばかりもいられない。
ズボンのポケットからキムワイプの白手袋を引っ張り出して装着し、横のサキからジプロックを受け取った。中身を取り出して、彼の前に静かに置く。
「これは発見時、あなたが手に握っていた携帯電話です。いわゆるガラパゴスケータイと呼ばれる旧型の携帯ですね。おそらくあなたの所有物ですが、パスワードがかかっており、あなたの身元を確認する情報等は確認できていません。解除できますか?」
「……すまない。思い出せない」
「大丈夫です。気に病むことはありません」
「少し良いでしょうか」
携帯を再びジプロックに密封しようと手にしたところで、鈴木が小さく手を挙げた。
「どうかしましたか」
「聞き間違いでなければ、ガラケーを旧型と言いましたか」
「……えぇ。それが何か」
いまいち要領を得ない彼の言葉に、思わず質問を返す。変なこだわりのあるタイプかと益体もないことを考える。彼は再び机の天板をしばらく見つめ、おもむろに口を開いた。
「他に携帯電話の名称が存在するような言い方だったもので」
鈴木の後ろ、客間の壁に背を預けてあぐらをかいた状態の斎が眉に皺を寄せた。
「確かにあなたの年齢……失礼、見かけの年齢でいえばガラケーというのは一般的かもしれませんが」
「今はスマホがメインになりつつありますし」
今度は鈴木がサキの言葉を聞いて眉を顰めた。
「失礼。すまほ、というのは?」
「えっと?」
何やらおかしい。今までの検査で、物の名前などを含む意味記憶の欠如は見られていない。スマートフォンだけの意味記憶が抜け落ちるなんてことも考えにくい。であれば知らないと考えるのが妥当だ。しかし、このご時世、子供から大人までスマホを持つ時代に、存在を知らないで生きることができるかといえば、到底現実的とは思えない。
「今録音に使用しているこれがスマホです。ご存じありませんか」
机に置かれた私のスマホを指差して確認を取るも、彼は存在すら知らないと言うような面持ちをする。
「これがスマートフォンですか? 少々変わった形の録音機だと思っていたんですが」
「鈴木さん。これはれっきとした携帯電話です。タッチパネル式で電話からゲーム、地図まで見れるんですよ? ご存じないです?」
横からサキが自分の携帯の画面を彼に見せる。彼は前のめりになってしばらく食い入るように画面を見つめ、一通りサキによる販売員の如き実演が終わると腰を落としてため息を一つ吐いた。
「興味深いが、知らないものだ」
「……そうですか」
万事休す。八方塞がり。解決の糸口はあの場所の探索にかけられているのだろうか。私たちが降りた地下二階分のみでも、非常に広大な敷地が存在していたように記憶している。さらに降りてきた階段にはさらに下層へ続く階段があった。地下何階の構造なのか不明ではあるが、何もないということはないはずだ。
「ガラケーって何回か間違えたらロックかかりますっけ」
「いや、試してるけど特にクールタイム以外かからんっぽいよ」
横でサキがいう。先ほどジプロックに入れ直した携帯を袋越しにいじってロック解除を試みているようだった。これで完全にロックがかかったらどうするつもりだったのだろうか。文句は後で言うことにした。
「四桁……誕生日とか、覚えてますか」
「いや、すまない」
「じゃあなんか保険証とか見せてお初ぅ」
「はい。これだけ」
丁寧に密封された名刺入れと名刺の束。驚くほどに質素なその名刺に書かれているのは“鈴木橙”という名前と企業名と役職。ちなみにこの企業は実際に存在する製薬会社のフロント企業だった。とすればあの施設はこの企業の実験施設か何かか。そうだとしてなぜあんなに破壊の限りを尽くしたような様相を呈しているのか。なぜ地図に載っていないのか。
緞帳ヴェールの内側の企業フロントの可能性もある。であれば組織間のいざこざなどでドンパチやっていてもおかしくはない。
「電話番号を区切りごとにやっても無理。メールの数字部分を入れたら あ、開いた!」
「……まじ?」
「メールアドレスの末尾四桁ビンゴぉ!」
「おおかた誰かの誕生日ってとこかな」
兎にも角にも空いたのは行幸だ。先ずすべきはメールボックスの確認。宛先から情報を割り出せる。
「from鈴木橙……この携帯の持ち主は鈴木さんで間違い無いね」
受信ボックスを遡っていくと、開封済みのメールが数個並んでそれで終わり。開けていないのは直近のもので、他は律儀にも削除したらしい。今の情報一節でも得たい我々にとって、鈴木橙の性格は全くもってありがた迷惑だった。
「最新のメールはいつ?」
「ちょっと待って……送信で2005年の6月28日になってる」
今から約10年前。そこでやりとりが終わっている。ならば通話履歴はどうなのかと、電話帳を改めることにした。
「通話履歴は……同じ日付で止まってる。相手は鈴木波……ご家族っぽいですね」
この日に使うのを辞めたのか? ならばなぜ発見当時、彼はこのガラケーを握っていたのだろう。サキから袋ごと携帯を貰い受け、カレンダーのアプリを探す。早々に発見して決定ボタンを押せば、画面いっぱいにカレンダーが表示された。30個のマスの一つに色が付いて、今日の日付を主張している。
19時30分。
2005年6月28日。
何もかもがおかしい。
「携帯自体が使えて、電池もそれなりに残ってるってことは、この時計は動いてるはずだよね」
「そもそもの話2005年から10年も電池が持つわけねぇんだからカレンダーの設定ミスだろ」
いつの間にやら近くに来て画面を上から覗いていたらしい斎の声が、上から降ってくる。同感だ。
「とりあえず電話帳の家族っぽい名前から順に片っ端に電話かけてみろ。それが終わったら上から総なめだ」
斎の助言に従い、鈴木姓の電話番号にかたっぱしからコールする。しかしそのいずれも、数コールで留守電サービスにつながるか、機械音声で丁重に現在不使用の電話番号であることが通告される。仕方なく、苦行がありありと予想できる五十音を虱潰しに試すことになった。
五十音も半分を過ぎ、電話帳も残すところあと僅かと言ったところで、そろそろキーを押し込む指が痛くなり始める頃。
ぷっ、という千切れたような電子音。橙にガラケーを渡す。波と風の雑音が混ざった声がした。
契約けいやく
「平和だねぇ……」
ちゃぷん、ちゃぷん、と岸辺に波が寄せる音が、まったりと響いている。
「潮が悪りィぜ。完全に止まってんじゃねえか」
「うるさいな。釣りなんて待ってなんぼの娯楽だって言ったのはお前だろうに」
岸辺の手すりにぶら下げた蚊取り線香が、微かに肌に張りつく生ぬるい風に、くるりくるりと舞っていた。線香の乾いた香りが時折、鼻をくすぐってゆく。川下の方を望めば、ペンキの薄くなった新旧銚子大橋の赤と、斜張橋らしいM字のシルエット。有料にも関わらず千葉から茨城の方へ向かう車でごった返して、屋根が夕陽に紅く反射しているのが見てとれる。
「あの車列はみんな旅行かねェ」
「俺たちの休みは今日明日だけだからな」
「もう今日もあと少しで終わるよォ」
Coleman製の椅子に深々と背を預け、お互い目を合わせることもなく脱力している。足を前に投げ出して、会話というよりもむしろ、うわ言とも取れるような独り言。
やるべき物事に追われる必要がないというのは、日々絶え間なく研究や論文を積み上げている我々にとっては常々待ち望むものである。しかし、日頃文献と睨めっこし続けている私は「ほい休暇」と突然空白を貰っても何をすべきか迷うのだ。それ故に、同期であり、ともに関東の端っこに異動してきた羽倉から釣りというものを紹介された時、“ものは試し”とついていったわけである。
なかなかどうしてこの釣りという趣味は、暇を潰すにはもってこいな代物であった。
獲物が掛かるまではひたすら波の音と潮の香りを感じながら、軽食をつまむなり駄弁るなりしていればいい。待つ、という事自体には慣れているから、その行動に意味があれば別に苦ではないし、たまに竿を引いて餌を動かしてやるから全くの不動というわけでもなかった。
そんなもんだから、普段と違って周りの色々に目がいく。晴天と、千葉方面に連綿と続く低い山地の山陵は綺麗なコントラスト形成し、ブルーライトで弱った目の奥が回復するような錯覚を感じさせた。山頂ではいくつかの風力発電が、ゆるりゆるり、気だるげに回っている。
「にしても今日はアタリ一回で全然手応えがないね」
「もう餌がねえや」
「あと数回で切り上げるか?」
「だなァ」
側のクーラーボックスは餌の箱が冷えるのみで、その容量の一割も埋まっていない。中身がないことはわかっているのに、空いた手を持て余して何回もクーラーの蓋を開けて覗いてを繰り返している。いつだったか、引くほどスズキが入れ食いだった日があったが、あれとは比べるべくもないほどにシケていた。
斜陽が視界に入ってくるほど下がる頃、自分の耳が僅かにメロディを捉えた気がした。確かスマホにデフォルトで設定されている音だがこの長さはおそらく電話だろう。同じ研究室にこの着信音を起床アラームに設定している野郎がいたせいで、あまりいいイメージがない。
まどろむ視界であたりを見渡してみれば、上をむいて馬鹿みたいに口を開けながら夢の底に沈んでいる羽倉の胸ポケットが薄く光っている。数回呼びかけても一向に気が付く様子もない。めんどくせえな、と小さく呟いて雑に肩を揺すること少し、んぁ、と気の抜けた声で口はそのままに羽倉と目が合った。
「電話来てるぞ」
「ん? あぁ……誰ェ?」
ただでさえブリーチで艶を殺し、そこに今日の潮風でキシみが追加された髪をもみくちゃにしながら、数回肩を回してスマホの画面を見つめる。
「何、間違い電話?」
後ろから覗き込むと、電話番号の文字列が黒の画面に表示されている。羽倉は一度首を捻って、画面上を通話の方にスワイプした。
「はい。どちら様。……はい。……はァ。えぇ……まぁそうだけど。なんで会わなきゃなんね……はァ?」
とても社会人とは思えない声音と口調で応対する彼が何を聞いているのかは分からないが、彼のテンションから面倒ごとの気配を感じ取る。声音は最初よりもより一層トゲを含み、その中に数割の困惑が読み取れた。時間にして僅か数分程度のその通話は、何やら一応の着地点を見つけたらしく、デカいため息を隠しもせず通話をぶっちぎる。
「訳わかんねェ」
「……もう少し礼節は弁えようぜ羽倉」
「あれでも弁えた」
「あれで?」
腰を折って竿を持ったと思えば、リールを爆速で巻いて仕掛けを引き上げ、慣れた手つきで撤収作業を始める。夢見心地が強制的に終了したところに何か彼のストレスになるような事柄を追加され、だいぶ御立腹のようである。荒ぶる気分屋に小さく苦笑して、まだ少し残った鹿沼土と餌を川面にばら撒いて、帰る方向にシフトすることにした。
釣り具や椅子を、羽倉の自家用車に積み込んで、すでに運転席でクーラー最大に設定して待つ羽倉に急かされながら助手席に乗り込む。会社からのプレスメールの類を確認するために、ポケットからスマホを取り出そうと少し腰を浮かせていれば、少し腹の虫がおさまったか、いつもの飄々とした雰囲気を取り戻した彼がぶっきらぼうに言う。
「明日朝8時、サイト-吽うん行くからなァ。もてなす準備しとけ」
「……はぁ?」
己の実に間抜けな声が、男二人、狭い車内に響いて溶けた。
朝8時。サイト-吽うん
宿舎区画を早めに出て、スーツをしっかり着こなし、ガラス越しに地下駐車場が見えるフロントの椅子でコーヒーを嗜む。別にこれが自分の毎朝仕事前のルーティーンというわけではない。そもそも本来なら休暇2日目で、惰眠を貪るなり資料庫で論文漁りなりやっていたはずである。
昨日、一方的に時間を指定して集合しろと通達してきた常識知らずの同期はまだ姿すら見せない。スーツの袖を少しずらして腕時計を確認する。
「もう5分前だぞ羽倉……」
飾り気のない、あくまでビジネス用であることが一目でわかる文字盤は、着々と秒針を回していく。内心は焦りまくりだ。
別に私がここにきた時に彼が到着していないことはいい。集合場所には30分前には現着していなければ落ち着かない性分だから、今日も1時間の余裕を持って到着している。だが5分前にもなってここに姿すら見せない彼にそろそろコールするか決めあぐねていた。奴はガキだから、もし電話した時に本人がここに向かう途中だったが最後、ご機嫌斜めで登場しやがる。
待つこと数分、依然としてチャットに既読すらつかないことに意を決し、電話をかけることにした。数回のコール。閑静な朝のフロント。人の話し声などせず、機械的な呼び出し音だけが右耳に響く。しばらく粘っていたが、最終的に電波やら電源やら言われて呼び出しが自動的に切れた。自然と乾いたため息が出る。同時に、8時の短い時鐘が響く。どうやら暫定的に彼は、はなから存在しないことにして意識から排除しておくほかないらしい。
ガラス越しに、停車した車が見えた。起立してドアの方へ向かい、降りてくる本日の客を出迎える準備をする。準備といっても、来客応対用の営業スマイルと、地声より柔らかな声作りだ。研究職たるもの営業なんてしないもんで、あっても学会の発表くらいのものだから表情筋が凝り固まっている。そんな顔でどこまで自然な笑顔ができるか疑問は残るが、眉間に皺寄せて仏頂面よりは100倍マシというものだろう。
「ようこそ。遠いところよくお越しくださいました。サイト-吽うんの神話・民俗学部門所属、一等研究員の高辻祐です」
軽く一礼して、改めて客を見れば、まだ中高生にしか見えない男女3名と、白髪丸メガネの、見たところ20代後半程度の男性1名の計4名である。バッチバチに旅行中のような私服。正直言って財団サイトにはそぐわない。
「お忙しいところすみません」
「いえいえ、こちらこそすみません。昨日連絡を取り合っていた方が不手際で遅れておりまして、担当が到着するまで少々お待ちいただく形になります。こちらへ」
羽倉がこのメンツと何を話したのかは全くもって謎である。そのせいでどう言葉をかけるべきであるか全く思いもつかない。検討はずれなことを言う可能性もないわけではないし、極論、彼、彼女らが羽倉の客でない可能性すらあるわけだ とはいってもこんな私服でこのサイトに入ることができる時点で、来賓であることに間違いがあるわけもなく、ひとまず応接室に案内する。
「本日はどういったご用件でこちらに?」
「担当の方が来てからお話ししますね」
「あぁ……失礼しました」
食えない子供だ。普通のただ小煩い子供であればまだ可愛げを感じられるものの、先ほどから私に答えているこの眠たげな目の子供はどうにも見た目よりも大人びて見える。こう言う手合いは苦手だった。
胸ポケットからスマホを取り出し、再度電話をかけようとしたあたりで、後ろからきゅっきゅっ、と肌が泡立つような音と共に、単語一つに何の責任も載せていなさそうな声が聞こえた。
「いやァすまんな高辻ィ!」
大股に歩いてくる彼の姿を認めるやいなや、内心頭を抱えたくなる。
「羽倉お前、来客対応にその服装はないだろ」
赤フチのメガネを頭に引っ掛けているのはまあいい。白衣も彼の本職が研究員であるからそれもまあ正装だろう。問題は、昨日と同じシャツを着て、皺だらけでくしゃくしゃの白衣に袖を通していることと、明らかにセットもしていない跳ねっぱなしの髪の毛。明らか着の身着のまま寝て、今起きた容姿である。
勘弁してくれ。
来客の手前、表立って口にはしないが、あからさまに嫌な顔をしておく。
「何だァ? ミルク臭そうなガキ3人引き連れて。ガキはお呼びじゃねえぞ」
私の後ろの4名を確認するや、静止する間もなく彼はそう言い放つ。
「馬鹿野郎お前」
「俺が電話で話したのは男だぜ。4人で来るとは聞いてたけどよォ。旅行かよ……まいったなァ」
後頭部を数回掻いて、さァどうぞ、とばかりに応接室のドアを開けた彼は、営業スマイルに真っ向から反する仏頂面である。昨日から機嫌が悪かったが、今朝まで引きずることもないと思いながら、来客が室内に入ったのを見届けて小声で尋ねる。
「何でお前そんなに機嫌悪いの」
「休日が潰れたから」
「……さいですか」
聞いたのがバカだったなと自虐し、気持ちを切り替える。すでに着席している4名の向かいに羽倉と共に腰を下ろす。さて、と億劫そうに羽倉が切り出す。
「本日の要件だが……、鈴木橙と言う人物と私に面識があった記憶はない。これでこの話は終了すると思うが?」
「ですがそれでは、このメールの説明はどうなるのでしょうか。あなたの苗字は先ほどのお二人の会話から察するに羽倉さんですよね。メールの宛先の名前からすると名前は栄さんで間違いないはずです」
「……確かに私の名前は羽倉栄だ。それに間違いはない。しかし直近のメールボックスに鈴木橙なる人物からの着信はないし、着信拒否にも迷惑メールにも振り分けられてはいなかった。通信ログにも存在していない。これが全てだ」
事情を飲み込めない私を差し置いて、明らかに電話口で話したであろう情報を前提とした会話の応酬が繰り広げられている。初っ端からアクセルベタ踏みで会話に入る余地がない。無理やり会話を遮る。
「すみませんね。どう言う話でその議論が展開されているのかをお尋ねしても?」
「あぁ、すみません。お話ししていませんでしたね」
「なんてこたねぇよ。俺の知らんやつが俺の電話番号に 」
隣の煩い同僚を手で制し、先ほど苦手に感じた女性に先を促した。
一通りの顛末を聞き終わる。確かに、羽倉がこの人を知らないと言うのはいささか無理がある。
「そのメール、見せてもらうことは可能でしょうか」
「えぇ。まだ電池も残っているはずです」
そういって荷物の中から、今はもう見なくなって久しいガラケーが密封された袋を取り出してこちらに渡してくる。ご丁寧に新品の手袋までついている。受け取って中身を取り出し、パキッと軽い音を立てて画面を開いて操作する。パスワードは同封された紙切れに書いてあった。
メールボックスの一番新しいものを開く。彼女が話していたものだ。宛先は確かに羽倉栄で、題名は無題。文明はわずか3文字「ごめん」のみ。
顔を上げる。ふと脳裏によぎったものがあった。鈴木橙。この名前には聞き覚えがある。既視感もある。横で腕を組んでむすっとしている彼を見やった。
「お前、橙ってやつ知ってるじゃないか」
「……あ?」
「ほら、あの何? 数年前にさ、知らない人からメールが来たって話してただろ」
しばらく天井の鳩目を見上げ、記憶を一通り走査したらしき彼は、あぁ、と一声、俺の方にそれだとばかりに指を指してくる。
「あったなァ。まァ……おんなじ文面だった気がするな確かに」
「当時のガラケーどこやったんだお前。捨てたのか?」
「いんやァ? 多分研究室のどっかにはあるだろ。なんせ5年くらい前に乗り換えたし忘れてても可笑しかねえやなァ!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
焦ったように少女が身を乗り出す。
「何か?」
「ありえません。この携帯電話の発信は2005年になってはいますが、おそらく直近の送信です」
「……ふむ?」
「発見当初電源は入った状態でした。この携帯は2005年の設定になっていますが、この携帯の型番を調べたところ、設定しない状態で電源を再起動すると初期設定になるタイプです。ですからそういった要因で年月がずれている可能性が高い」
少女は尚も続ける。口は挟まず一通り説明させることにした。羽倉も上をむいて目を閉じて入るもののしっかりと聞いているらしい。
「電池残量が二つ残っていることから考えて、前回の充電から、あまり使わなくてせいぜい2日、頻繁に使用していた場合は1日程度でしょう。最後のメールと通話履歴を見るとその携帯の示す時間で昨日の2005年6月28日ですので昨日送られていることになります。5年前に乗り換えた携帯にそんなメールが送られるはずないんです」
彼女の言葉にカレンダーとメールボックス、着信履歴を確認する。嘘はない。続いて設定画面を開く。時刻設定画面を開くと確かに自動補正機能欄がOFF表示になっているのを確認した。次いで購入証明の画面を開く。表示年は2002年。
「今購入日を見たが、初期設定に戻るとすれば2002年になるはずだぞ」
「前回から3年間電源を切っていない可能性は 」
「めんどくせェめんどくせえなァ。俺のガラケー見りゃいいんだろ」
唐突に組んでいた腕を解き、椅子の背もたれにかけた白衣のポケットをまさぐる。懐かしい携帯を取り出して画面を開く。
「お前さっき研究室のどっかっていってたろ!」
「そりゃ俺が知らねえっていってあちらさんが素直に引きゃァ楽だったからなァ。意外と食い下がるもんだから仕方ねえから現物見せるんだよ」
「お前のせいでむしろ回りくどくなってるんだが」
小言に耳を貸さず、ロックを解除したその携帯を彼女らの方に滑らせる。新着欄を見ろと促す羽倉に従い、しばらく画面と睨めっこしていた彼女らは、次第に困惑した様子が表情に現れていた。どうも数年前 今が2015年であることを考えればもう10年前になるらしい の例のメールが最新らしい。
「……日付も同じ。宛先も文面も同じ。橙さんのガラケーは当時の時刻を表示し続けていて、メールの送信は確かに昨日のはずなのに、受信したのは10年前……」
カレンダーが3年前に一度初期にリセットされ、そのまま使用していた結果偶然日付が同じなどと言うことはほぼありえないのは事実だ。そもそも今手元にあるこの鈴木橙さんとやらの私物携帯の送信欄に残されているこの「ごめん」という文字列だけのメールは、アドレスも彼の旧携帯、今彼女らがにらめっこしているものに相違ない。ふと疑問が浮かぶ。
「羽倉、あの携帯解約してるなら今送られたメッセージは全部アドレスなしで送り返されるよな。返されてないってことはまだ契約続いてんのか?」
「あァ」
「使ってないのになんでまたそんな金かかることを」
そう問えば、フン、と鼻息荒く吐き出して、勢いよく上体を起こして居住まいを正し「俺の勝手だろ」とだけ言って彼女らに声をかけた。
「よぅし分かった。これは異常事案だ。それは認めよう」
「なんだ急に」
彼女らも、彼の態度の豹変に対し、虚を突かれたように顔を上げる。
「それで、お前たちは俺らに何を要求するつもりなンだ?」
「……はぁ」
イマイチ状況を飲み込めていないような表情をする彼女らに対し、尚も畳かめるように羽倉は言う。
「だからなァ。俺に連絡つけてきたってことは、そこの記憶喪失の不審者をどうにかできる人間を探してるってこったろ」
「え、えぇ。知る人に身元引き受けができればなお良い、とは」
「オーケー。なんとかしてやる」
「あ、ありがとうございます!」
明らかに晴々とした顔をして、肩の荷が降りたのか深いため息を一つついて胸を撫で下ろす。もはや彼女の手の中に握られた羽倉の携帯の存在は返却を忘れられている。
呆れ以外の表情の薄そうな顔つきと雰囲気の割にコロコロと表情が忙しい。存外子供らしいところがあるらしいな、と観察していれば、羽倉の声音が少し下がる。
「ところで、だ」
彼女は気が付かないようで未だ清々しい顔をしているが、先ほどまでは沈黙を貫いていた横の黒髪の青年の目の、あまり良いとは言えない目つきが、黒縁メガネの向こうですう、と細められた様に見受けられた。
「無論ただでは引き受けない。まだこいつがただの不審者で、今高辻が持ってるその携帯がイカレポンチなだけかもわから分からねェ。交換条件だ」
「……どうぞ」
「君たちフリーランス諸君には、とりわけさっきから喋ってる嬢ちゃんとその隣のおさげの君。その2名には頼みてェことがある」
羽倉が一呼吸おく。一度その2名と目を合わせる。おさげ髪の少女は大きな黒目に好奇心を満たし、白髪の少女は警戒心をあらわにする。白衣のポケットから四つ折りにされた髪を取り出し、開いた上で机に広げる。三本指でくるりと彼女らフリーランスの方へ文面を向けてまじめくさった調子で言った。
「信仰喰らいって、知ってるか」
「信仰喰らい……」
「最近日本各地、で発生してる神格消失事案だ」
神格の消失。その結果を産む原因は数多ある。信仰人口の衰退による弱体化からの消滅、世界オカルト連合による強行消滅、信仰対象の統合、簡略化による神格の融合あるいは弱体化。瑣末な要因やイレギュラーを合わせればパターンは膨れ上がるが、おおまかにはこの3つが挙げられる。
「神格が消える……跡形もなく、ですか」
「これ以上を聞くならば、まず契約書に目を通し、所定の位置に名前を書くことをお勧めする」
「我々はすでに熊野の調査依頼を受理しています。多重契約は 」
黒髪の青年がにべもなく断ろうとするのを手で制する。続けてニコリと笑って口を開く。
「大丈夫だ。熊野の件は本件をもって履行とする。こう言ってはなんだが、あの依頼はいくらでも変えがきくからね」
さらに言えばハナから期待していない。面と向かっては言わないが、それは彼らも理解しているところだろう。4年前から始めた人海捜索で、遠景で捉えた画像媒体は数多収集に成功しているが、人によって認識が大きく変化し、近影は誰も見たことがない。あれ以上は現状得られるものがない状態だ。今更何かが動くことに期待するだけ無駄である。
「今回は財団からの依頼をこちらで履行扱いで処理し、さらに新たな優先度の高い依頼を指名契約する形になる。何も問題はないよ」
目線を横に滑らせて、しばらく考え込むように黙る彼女の前にボールペンを置く。しばらく時間を設ける心算であった我々の想定に反し、紙面の内容にはすでに目を通していたらしい。彼女は木製の天板の上で乾いた音を立てて転がるペンを目で少し追い、顔を上げて横の黒髪の青年と目配せを交わす。黒髪は肩をすくめるだけで、言えることはないと言った様子であった。
その様子を見てか、迷うように目線を少し彷徨わせたのちに、乱雑にボールペンを引っ掴み、波立っているであろう内心に見合わないほど静かにペンを走らせた。カチリ、とペンの後ろを叩く音を聞き、誌面から目線を上げれば、警戒心の中に、先ほどまでは明らかに感じなかった、見定められるような視線がある。
「受けます。詳細を」
「話が早くて助かるねェ」と、一瞬素の顔を覗かせた羽倉は、その答えを聞いて両ひじを机に置き、腰を深くに据えて前傾になる。
「我々サイト-阿吽あうん両サイトは、神話・民俗学部門を基本とした数部門で構成された神格研究サイトだ。隣の高辻は神・民部門の一等研究員。博士に成り損ねて2年の堅物だが、まぁ、このサイトでは有数の神格対処ノウハウを兼ね備えたやつだな」
「……はぁ」
「そんで、今回の依頼はサイト-阿吽あうん……こいつの所属から考えればサイト-吽うんからの依頼になるわけだが、先ほども少し口に出した、信仰の消滅を観測することだ」
羽倉が話を進めているこの依頼は、当初フリーランスを使う予定はなかった。依頼が長期雇用の部類に入る場合、フリーランスでは技術面でも信頼面でも正規のフィールドエージェントには劣るからだ。フリーランスが優っているのは雇用金額の削減と、補填のしやすさ程度のものだろう。
だが、羽倉はフリーランス雇用を選択した。現状置物になっている記憶喪失者、鈴木橙の保護との交換条件という契約かつ、彼女らが親財団派閥である穴蔵に所属することが原因だろう。話す羽倉をよそに契約書のサイン欄をざっと流し見る。夢川初と現田さき。両名ともに16歳。契約事や会合系の取引は、もっぱら夢川の仕事なのだろう。すまし顔でちょこんと座って一言も発言しないおさげ髪の方を見てそう判断した。
「ちょっといいかい羽倉」
「なんだ」
「彼女たちは両方学生だ。現在は夏休みだろうが、学業が始まった場合はどうするつもりだ」
「こいつらにやらせりゃいい。週6だとしても日曜が空いてんだろ」
なんの問題がある? と言いたげな顔で横目で見てくる彼に対し、反論を ピリリリリリリリリリリ!!!!
身体の芯に響くアラート。無意識下で弾かれたように上がる腰。スーツの内ポケットにしまった携帯を素早く取り出せば、そこに大きく表示されるプレスメール。
「すまん羽倉。急用だ」
「例のか」
「あぁ。あとは頼んだ。くれぐれも失礼のないようにな」
羽倉の返答に二つ返事を返し、来客4名に対して即礼一つ、部屋を足早に飛び出した。全くこういう時のスーツは動きにくくて敵わない。
慌ただしく遠ざかっていく革靴の硬質な音が聞こえなくなる頃、羽倉は視線を彼の出ていったドアから正面へ戻した。
「さて、少々イレギュラーがあったが、まあいい。君らは高1であればそこまで教育は圧迫されないものと見る。契約はそちらの事情は考慮するが、なるべく迅速に……具体的には、夏休み終了を暫定的な期限に設定し、一定以上の成果を上げることを期待する」
「それは内容次第です。信仰の消失事案の観測と言われましても、契約書面を読めばそれだけではないことは読み取れます」
高辻の置いていった契約書を一瞥。書面で要求された依頼内容は単純な観測と記録以外にいくつかある。
- 天津神系信仰の消失要因の特定
- 可能な場合は信仰消失の阻止
- 要因の解消
という内容だ。高辻がフィールドエージェントを派遣する方面で調整していた理由には上記の成功率向上の意図があるのだろうが、正直、危険性が現地で判明する性質の調査である以上、正規職員の消耗を抑えることは難しい。
「熊野依頼は、ある程度神道に通じていることを選考基準にしている。君らにはその基準を満たしたが故に、たった数分前までその依頼を受注していた。実際のところ、どの程度精通している?」
「過去独学で霊媒系の仕事をしていました。あなた方がいうところの自主接触型ワンダーです。元本職ですし、肝は誰よりも座ってます」
若干誇るかのような声音を感じ、鼻を鳴らす。フリーランスに誇りは要らない。冷静な判断を欠き、凝り固まった思考に固執する要因。捨てるべきものであることを理解していない。まだ青臭い。高辻はすごい形相をしていたが、何も間違ったことは言っていない。あいつは甘すぎる。
「……早速一件目。事態は一刻を争うから巻きでいこう。場所は広島県三原市前山。中抜き鳥居が目印だ。契約にある通りある程度の額までは支給品のバックアップを行う。穴蔵の斡旋へはこちらから通告するから心配の必要はない」
「了解しました。では改めて」
差し出された夢川の手を握り返す。手のひらに、子供特有の高い体温を感じる。お互い握り潰さんばかりの、友好的とは言えない握手を交わし、正式に契約は完了。あとはやるだけだ。
フロントで待つ運転手に、香取駅まで送り届けるように頼み、地下駐車場をキュルキュル嫌な音を立てて去る姿を見えなくなるまで見送る。ふう、と大きなため息一つ、こわばった肩をぐるりと回し、先程握力比べをした右手のひらを見やる。どうやら初対面で感じたミルク臭さは間違っていないらしい。
「俺のカンもまだまだ現役だなァ」
人気のない駐車場に、そのお気楽そうな呟きを置いて、白衣のポケットから久々に見た携帯を開いた。数回ボタンを操作して、青白く光る画面をしばらく見つめる。
「橙、ねぇ……」
パチンとバネがイカれ気味の携帯を畳む。「面倒くせェなァ」と呟いて、携帯をポケットに放り込み、ロビーに引き返した。
神座かむくら
「状況は?」
緊急を示す赤色灯が、空間3軸いずれの方向にも遥かまで広がった広大な地下空間の壁や床を定期的に走り抜ける。地下空間の外縁部は、至る箇所に入り組んだ点検廊下が張り巡らされ、これまたその至る所に白衣姿、あるいは重武装の人間が散見された。高辻もまた、その点検橋の一つに駆け込み、下を眺めてタブレットに何かを打ち込む職員に声をかける。
それに振り向いた職員は略式の一礼の後、ハキハキとした口調で簡潔に現状を伝える。現状を把握したことを示す首肯を返し、その場を離れようとしたその一瞬。目の前が歪む。
衝撃。コンマ遅れて轟音。
足が浮いて、背後の手すりに腰を打ち、体勢を屈めて堪える。金属製の点検橋は空間全体が同時に軋み、ギャリギャリと悲鳴をあげる。少し遅れて一斉に鳴き出す携帯の速報、一斉に所定の持ち場に駆ける職員。
蜂の巣を突いたような騒ぎの中で、ただ微動だにせず銃を下方に構え続ける機動部隊の中に、ガタイのいい壮年の男を見つける。
「部隊長さん!」
「高辻遅ぉい! 奴の動向の研究がお前ら神・民部門の役目だろう!」
目線は全くよこさず、ひたすらに下を見つめる部隊長に端的に「すみません」とだけ謝罪を返す。横に並んで下を見下ろす。
サイト—阿吽あうん両施設の中間地点。利根川とか関東ローム層のその下に広がる広大な地下空間。外縁部に点検橋が密集し、中央を下まで突き抜ける柱二本。
皆、一様に下を見る。
「身じろぎの程度は」
「あのご立派な髭一本」
その中央に座しますは
幾尋の見立てもつかぬ互い柱
神座に縫われし神代の怪物
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