序二話 -『熊野』
 

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むすび



 4月。昼下がり。

 少し皺の寄ったワイシャツ。首元に少しゆとりを持たせる程度にボタンを外した襟元には、控えめに、飾り気のないネックレスを一つ下げた男が一人。隣の四つ足のスツールには、華奢な青年、あるいは年若い女性とも取れる見た目の人物が、艶のある黒髪を左後ろで結い纏め、白の袴をゆるく着こなしている。

いつき、そろそろ依頼を受けないかい?」

 無邪気さの残る声で和服姿が言う。

「どうせ神様探しに飢えてるだけだろ」

 東国斎は腕を伸ばして片目を瞑り、測り棒を静物に向ける。目にかかり始めた前髪を鬱陶しそうに避け、少々粗野かつ抑揚少なな口調で黒髪に答えた。集中しているようで、目線はひたすら、目の前のモチーフを捉え続けている。

「確かにここは閑静で過ごしやすいよ? でもさぁ、ずっといるとやっぱ退屈なんだよね」

 袴姿のそれは不満げに愚痴る。スツールの縁を掴んだ手を両足の間に挟み込んで前後に揺れるのに合わせて、滑らかな黒髪がさらりと流れた。

「退屈っつったって、その見た目でどこ行くつもりだお前。学校指定でもなんでもない服で校内彷徨ったら、守衛に見つかってつまみ出されるだろ。だいたい春休みが明けたばっかだろうが」
「見つからないように出来るからねぇ……そういう斎こそ、ネックレスが見つかったら怒られるだろうと思うんだけどもさぁ」
「乗らねえぞ。タグ置いてくバカがどこにいる」

 ぴっちりと張った水張りの画用紙に先の細ったステッドラーの鉛筆を寝かせ、薄く陰影を乗せていく。硬い鉛筆特有の、青み掛かったその影色は、昼の自然光の青とクーラーの効いたこの部屋を正しく表現している。

「その点この場所はもってこいだね。昼に美術室なんて辺鄙な場所に好んでくるのは美術部部長(笑)の斎だけだもん」

 愛知県。某中高一貫校の特別棟。中高共通の美術室。今二人が昼休みを過ごすこの部屋は、グラウンドから一番遠い特別棟にある教室だった。姦しい学生の集う箱庭で、閑寂と安寧が得られる数少ない場所。


 そのはずだったのだが、今日はどうやら違うらしい。


ここら辺におるら        しいわ。ほん  とにおると思  う?」
 応があったんだから居ること    には居るので  しょうね」

 明るい声と、対照的に静かで気真面目そうな声音が、教室の外、静寂をかき消すように響く。並行して聞こえるのは、リノリウムの床にきゅっと擦れる上履きの高い足音。それは声と同じ二人分。片方は軽快な足取りのようでリズミカルに、もう片方はあくまで規則的に機械的にも思えるリズムだ。

 どうやら、それらは美術室の方へ向かっているようであった。

「おい、早く消えろ。人でなしなんだから出来るだろ」
「はいはい。わかったよ」

 袖を揺らして黒髪の姿がかき消える。残るは少し長くなった襟足を軽く結い、肘上までワイシャツの袖を捲った無愛想な男が1人だけ。スツールに足を組んで、来るかもしれない来訪者を出迎えようと教室の引き戸の方を見つめている。

「ここかな? ここが一番匂いが強いや」
「もっと緊張感持ったら? 扉の一枚向こうにいるはずでしょ」

 扉一枚を隔てて、まだ幼さの残る声が二つ。先に入る入らないの問答を続けている。扉の磨りガラスに散乱されて、容姿は未だ判然としない。やがて覚悟を決めたのか、失礼します、と気真面目そうな声と共にドアが引かれた。

「美術部入部希望の方?」

 こちらの問いにも関わらず、二人は扉の前で立ち止まり、一向に教室に入ってこようとはしない。かたや眉根を大きくひそめ、かたやどんぐりまなこを大きく見開く。そのどちらも、目の前の状況を如何ともし難いといったような目をしていた。モスグリーンに黄金色のラインの入ったセーラー服。上履きのつま先の樹脂も同じ深緑。中等部の生徒だろう。



「あの、高等部の方ですよね」

 少し間をおいて、少し色素の薄い黒髪おさげの溌溂はつらつそうな子が、俺の方を見ずに聞いてくる。

「そうだけど。一応美術部の部長をしてる」

 そう返せば、今度は大きめのリボンがついたカチューシャをした、真っ白な髪色の少女が口を開いた。

「貴方の斜め後ろに座ってるソレは、ご友人か何かでしょうか」

 二人は俺の斜め後ろのスツールに目を遣っている。釣られるようにそちらに目を向ければ、ずずっと音をたて、スツールが僅かに、しかし確かに動いた。

「斎〜、どうする? 個人的に気は進まないけど……喰べちゃうかい」

 少し可笑しそうな声が響く。姿は美術部部長と中等部生2人のみ。その虚空の声に対して待機を言い渡し、斎は切り出す。

「……君たちには、見えているわけか?」
「黒髪のむかつく顔が。鮮明に」
「今Vサインしとるね。ぶい!」

 リボンカチューシャの子は眉根を顰め、おさげ髪の方は面白そう八重歯を覗かせ、虚空にピースを返した。



 ふぅと一息、彼女たちを誤魔化す算段を投げ出す。

「姿見せてもいいよ。この子達にはなんか無駄みたいだし」
「あいよぉ」

 床に張り付いたスツールの影に、人のシルエットが追加される。とはいえ、今この場にいる人間は全員最初から見えてはいるのだろう。

「一応自己紹介させてもらおうかな」
「いえ、別にいいです。入部に来たわけでもないですし」
「そう言わずにさ」
「お初ぅ、初対面の人と話すときゃ〜ハシゴ外さんでよ……」

 お初と呼ばれた白髪の少女は不機嫌そうにそっぽを向いた。

「まぁまぁ」

 微妙な空気を断ち切るように、不機嫌の主因であろう着物黒髪が割って入る。その一連の動作は音もなく流麗な動作で、まるで台本を読むように、芝居がかったセリフを吐いた。

「お嬢さん方こんにちは。僕が見えてるってことはそれなりの霊感持ちだよねぇ。僕は丸山結まるやまむすび。本当はむすびだけなんだけど、勝手にそこの斎が苗字も付けたんだぁ。まぁそこそこ気に入ってるし適当に呼んでおくれよ」
「俺は美術部部長をしてる。東国斎とうごくいつきだ。見逃してくれ」

 姿を隠してさえいれば、なんと言われようと戯言としか受け取られないだろうが、話が漏れないに越したことはない。だからお目溢しを嘆願した。高校で面倒事なんてのは御免被りたい。

「多分私たち喰われかけましたよね。さっき」
「“喰べちゃう”って言うとったがや」
「……いや、まぁ」

 口籠る。面倒臭いことをしてくれた。どうするか考えあぐねていれば、当人は気にした素振りもなく薄く笑みを浮かべる。そして、冗談を言うように提案した。飄々とした柔らかな物腰が実に胡散臭い。



「君たちは僕が姿を消してても明確に見えるんだろう? どうだろうか。一つ小遣い稼ぎに興味はないかい?」






賴事たのめごと



「わーお、超広いてお初ぅ!」
「暑苦しいから抱きつかないで」

 しゃんしゃん、ジジジジと蝉たちが鳴きわめく古びた市街地、がたつく門を押しあけたサキは目をまんまるにして飛びついてきた。ただでさえ名古屋の夏は暑いのだ。子供体温の生体カイロなど要らぬお世話でしかない。鬱陶しいと押しのけようとするころには、サキはおじゃましまーす、との声とともに飛びだし、石目ガラスの嵌った戸を景気よく叩いている。

「ちょっと」
「ん?」

 がたぴしがたぴしと盛大に震えた戸の安否が不安になり、サキをたしなめようとする。当の本人は我が一番にしてやったりといった表情で小首をかしげてみせた。ため息が出る。

 再び戸が鳴いた。がくがくと前後左右に揺れる。あいた隙間から差し込まれた指が戸をつかむ。やや広がった隙間から見慣れた顔が覗く。その後ろには苛立たしい笑顔も。

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「すまん、建付けが悪ぃんだ」
「古そうですもんね!」

 たしなめる気は失せた。サキの余計な一言には彼らも慣れきっているらしい。






 歪んでいると思しき戸との格闘から十数分後、2人はクーラーの効いた部屋で体に籠った熱を冷ましていた。

「これ、ありがとうございます」

 片手に持った空き瓶を示すと斎はそんくらい気にすんな、と言わんばかりに軽くうなずいてみせた。隣ではサキが瓶の蓋を取ろうと躍起になっている。さっきまでクーラーの風を全身に受けて踊り出さんばかりだったというのに忙しいやつだ。

「開かんがやこれぇ」
「そんなビー玉とってなんになるって言うの」

 眉尻を下げたサキはふん、と瓶を置くと次の瞬間あーあ、と伸びひとつしながらよく冷えた畳の上に身体を投げだした。全く他人、それも日頃世話になっている先輩の家だとは思えないくつろぎっぷりである。

「でも先輩んち、でら広くていいなー、もちょっと涼しくなったらお庭で流しそうめんとかしたい」
「準備と後片付けがアホほどめんどくせぇ」

 クーラーの涼風にうっとりしながらサキが提案した夢は、家主によって一蹴された。夢を一瞬で打ち砕かれたサキは畳の上で首をぶんぶんと横に振った。元気よく暴れ跳ねるおさげが容赦なくショートパンツの脚を打つ。

「地味に痛い」
「ごめんて」

 さきちゃんがぎゅーしたるもんで許してちょー、と擦り寄ってくるサキを両手両足で阻んで必死にいなしていれば、斎は個包装されたお菓子が積まれたお盆を長机に置いて対面に座り、肘をつく。

 鎧戸は開け放っているが、ガラス戸で縁側と仕切られた和室。日本家屋らしい風通しの良い構造も、現代ではまったく通用しない。どうにも風情に欠けるガラス越しの景色を望む一室で、3人と1匹が座敷机を囲んで揃う。

「最近の依頼はどうだ? 稼げてるのか」

 当たり障りのない切り出しで先輩が口を開いた。

「ついこの間一件片付けてきました。夏休み最初の仕事でしたね」
「今は休暇〜!」
「そこそこいい稼ぎにはなってます」
「そりゃよかったねぇ。提案した甲斐があったってもんだ」

 斎の横でニコニコと、一見すると人の良さそうな笑みを浮かべる和服姿を見て、顔を顰める。頭のリボンが静かに揺れるのを感じる。

「当時は祓おうと思ってましたけどね。顔がムカつくし」

 あの時と一向に変わらない、意図の読めない薄ら笑顔。着物の怪異、もとい丸山結は私をよくおちょくってくる傾向がある。噛み付いても体力の無駄と気が付いてからはもう諦めているが、いつかこの無駄に人間臭い怪異を祓ってやろうと心に決めていた。
 むすっとした顔でサキが苦言を呈す。

「そもそも人喰いは事実だったじゃん!」
「悪人とか、仕事の過程で処理せざるを得なかった人とか超常存在しか喰わせてないっての」

 ルマンドを机にこぼしながら頬張るサキの顔面に無言で布巾を投げつけながら、斎が心外だとばかりに反論する。
 一体その何が問題ないのか、とは聞かない。東国斎は私たちと同じフリーランス業。しかし、斡旋業者を仲介し、主に中部から関西にかけて勢力をもつ穴蔵フリーランスに所属している私たちとは違い、彼は個人業としての無所属フリーランスだ。そのどちらにおいても他人の業務へ口出しはしない。すでに依頼契約は結ばれているから、何をしようとその契約間での自己責任である。

「ソレが斎先輩の仕事の一助になってるのは、依頼をこなしていく上で理解はしましたけど。その事実を抜きにしても私は個人的にはソイツ苦手なんで」
「怖がることないのにぃ」

 いけしゃあしゃあと。自分が見える存在を喰うかどうかを、躊躇なく検討してくるやつに気を許せると思う方がどうかしている。大体口元を袖で隠してくすくすと笑うその動作が癪にさわる。人外のくせをして無駄に動作が様になっていて、見ていて無性に神経を逆撫でるのだ。

「先輩の方はどんな感じ?」

 不穏な気配を感じ取ったか、サキは慌てたように斎に話を振った。

「俺の方もぼちぼちだな。詳しくは省くが、まぁ人探ししたり……しょぼい宗教2つくらい潰してきたり」
「無所属ってそんな迷子の子猫捜索みたいなことからスパイ業務みたいなことまでするんですか」

 突飛な嘘みたいな業務内容が、なんでもないように語られる。

「俺の場合は丸山がいるから、その分いろんな仕事に手が回るって言うのはある」
「僕はそこそこ強いからねぇ」

 さらに夢川の機嫌が下がるのを横で感じながら、サキは丸山に疑問を呈した。

「結ってそんなに強いん? 話には聞いとるし、先輩もそう言ってるけど実際の働き見たことにゃ〜よ? 私たちに姿見られるレベルだがね」

 サキはこの得体の知れない存在を、結と気安く呼んでいる。初めて会った頃からそうだった。何か通じるものがあるのか、はたまた本能的に危機感を感じていないのかはわからないが、私とは相容れないあの怪異を普通に飼い慣らしている先輩も、気軽に交流しているサキも、私から見れば少々……いや大分おかしい。

「現田くんと夢川くんは特殊だねぇ。普通の人は僕の存在を感じても気配だけ。超常も怪異も、本来なら本能で勝手に避けていくものなんだし」
「丸山の言う通りだろ。初めて会ったあの時、丸山の気配をわかってて探しにきたよな。普通の人間は自ら危険に突っ込みには来ないもんだ。まぁ、そんなだからお前らを穴蔵に推薦する丸山を止めなかったわけだけども」
「止めなかったのは、私たちが下手にソレの情報を漏らさないように自分たちの方に引き摺り込むためでしょ」
「否定はしない」

 斎は苦笑いしながら机の上で視線を彷徨わせる。悪気はあるらしい。

「大体なんですか。『どうだろうか。一つ小遣い稼ぎに興味はないかい?』って。悪質なキャッチかスカウト?」
「まぁそれくらいにしてやってくれ俺だって自重して欲しいとは思ってるんだけどな
「なんて?」
「なんでもねぇ」

 聞き返した夢川の言葉をかき消すように適当に手を振って、斎は雑に話題を切った。丸山は特に何も言わず、ただそこに座って微笑を崩さず、楽しそうに成り行きを見守っている。高次元存在気取りか余裕さを醸していた。



 すっかり汗も引き、快適な部屋の中。からん、とガラスコップの中の氷が涼しげな音を奏でる。

 そもそも何の用あって先輩の自宅に上がり込んでいるのかといえば、先輩に呼び出されたからだった。珍しく電話が来て用事があると言われたから、用があるならそちらが来いとばかりに一度は例のカフェにでも呼びつけようとしたのである。しかし無所属フリーランスからすると穴蔵の管轄下にあるいつものカフェは肌に合わないらしく、普段の粗雑な口調からは考えも及ばないほどに丁重に拒否された。
 かくして炎天下の下、こちらから先輩宅まで出向くことになったわけだ。恨み節はラムネでチャラにしてやった。

「ところで、しばらくは暇か?」

 斎がふと思い出したように声を上げる。「ところで」と言う枕詞をつけておきながら、声音以外はこれからが本題のような表情をしているのは見ないふりをする。そも呼んだのは彼だから何かあるのは当たり前ではあった。

「暇っちゃ暇ですね〜。しばらく依頼はお休みで、学生らしく夏休みしとき〜って言われたんで」
「まぁ。当然ですが私も暇ですね。で、なんの用なんです?」


「学生らしい休暇と、お駄賃の出る熊野旅行、どっちがいい?」


 丸山と斎は同時に同じような笑みを浮かべ、私たちに問う。答えは決まっているだろうと言う心のうちが透けて見えるが、実際問題これを逃すならフリーランスなどやっていない。

「もちろん熊ぬぐ」
「内容を」

 取り急ぎサキの口を塞ぐ。
 同時に、何も聞かずに受けるほどこちらも不用心ではないのも確かだ。必要以上の用心深さたっぷりに、決断力の良さを和え、そして無鉄砲をひとつまみ加えれば、一端のフリーランスが出来上がる。サキだって、行動はあれでも人並み以上の用心深さは兼ね備えている、はずなのだ。今は横で口を塞いで余計な返事をしないようにしてはいるが。少々無鉄砲と好奇心のパラメーターが味濃いめなのはご愛嬌だろう。

「……ふむ。熊野古道周辺で霊的実体の目撃情報が増加してる。場所はてんでバラバラ。目撃談自体は昭和からコンスタントにあるんだが、如何せん地点が絞れない」
「その依頼元の人員では賄えなかったんですか」
「あぁ。問題は目撃地域が熊野全域と言っても良いレベルで広いってとこだ。あそこは大体山だし森林ばっかりで人海戦術をするわけにもいかない。それに、財団はあの周辺に神格研究系のサイトを保有していない」

 確かにフリーランスは総じて給料が安い。安価に大量雇用できる人的資源だ。人海戦術なら私たちに依頼が来るのも道理だった。
 斎は机に両腕を置き、任務概要を淡々と語る。

「あの、この依頼ってもしかせんでも財団からのものですか?」

 私の手をむしり取ってサキが問う。しかし些か遅すぎたらしい。にやりと笑う斎に、しまったと内心歯噛みする。



「その通り。この依頼は財団管轄。サイトや任務の情報は依頼受注者以外への口外禁止。お前らはたった今それを知ったから拒否してもいいことはないな」

   こいつ。
 気を抜いていた。この男はこういうところがある。最初は知り得ても問題のない内容を出してくるくせに、ちょっと気を緩めたら急に極秘内容をぽろっと溢す。常套手段だ。

「……拒否したらどうなりますか」
「口封じかなぁ……あるいは記憶処理」

 当たり前のように隣で言ってのける怪異に対して、思わず裏拳とビンタで交互に頬をシバきたくなった。振れ幅がデカすぎる。別に問題のある業務ではなさそうだから依頼は受け入れるとは思うが、手口は詐欺と変わらない。

「口封じって、また物騒ですね」
「夢川もフリーランス業やってんなら知ってんだろ。俺らの命は軽いんだ。特に俺は後ろ盾がない」
「私たちを穴蔵に入れたのは、最低限の保証は付くからですか」
「まぁな」

 今回、先輩だっておそらく承諾するのを見越して開示しているはずだし、あくまで私たちが気まぐれで「やっぱなしで」という逃げ道を取られるのを塞ぐためだったのだろうが、やり口は真っ当に汚い。


「わかりましたよ。行動費は?」
「各自持ち」
「まじですか……? え、依頼元ベンチャーとかじゃないですよね。財団でしょ?」
「なんならベンチャーの方が金払いはいいぞ」

 茶化すように斎が付け加えた。財団ほどの大組織なら、ここに支払うコストなど端金はしたがねレベルだろう。

「あくまで人海戦術のコマに過ぎないし。無論有益な何かが見つかったら報酬は行動費も負担されて支払われるさ。財団が金払い悪いのは事実だが、成果上げないやつに払う金がねえのも分からんでもない」
「歩合制のボランティアってことですか」
「なんでこんな依頼を引き受けちゃったん」
「財団から暗に要望だぞ? 蹴れるわけないだろ。そりゃ俺だって気前がいい連合辺りから受けたかったさ」

 斎は嫌そうな顔をして頬杖を付いた。
 要するに事実上の指名。超常世界の二大巨頭の一角であるGOCと財団の依頼を蹴ったらそれ以降のフリーランスは仕事がないといってもいい。無所属なら尚更だ。ただし実績を上げさえすれば、コンスタントに依頼が降りてくる太客になるし、今回の指名だって実力がなければ舞い込んでこないから相当の好取引。

 そんな機会に相乗りできるなら今後の小遣いが跳ね上がる可能性だって大いにある。決して沈みゆく泥舟ではないのだから乗らなきゃ損ってものだろう。

「しょうがないですね。出立はいつの予定ですか」
「明後日」
「もーっと前に教えてもらいたかったなぁ……」

 即答された期日に、思わず天井を仰ぐ。昔ながらの吊り下げ照明の紐の先、よく分からないキャラクターのキーホルダーが、知らぬ顔でクーラーの風に少し揺れていた。

「お初〜! 次のお掃除は熊野だってさ〜!」

 横から私の肩を揺さぶり揺さぶり、満面の笑みで鼻歌でも歌い始めそうな雰囲気で。

「きっと楽しい旅行になるさ。こっちには丸山もいる」
「心霊に会えるなんてワクワクするね。どんな見た目なんだろ。美味いのかねぇ」

 対する無所属組の2人は、まるで旅行の算段を立てているかのように、来たる任務に楽しげに想いを馳せている。






気枯けがれ



“熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず”


 後白河上皇が撰した歌謡集のなかで、熊野詣くまのもうでについての一節である。しかし、今回は別に一切衆生救われて極楽に行くために来ているわけではないから、遠かろうが近かろうが正直関係がない。とはいえ昔はさぞ参詣に至るまでの道は長かったのだろう。悲しいかな今は現代。なんの風情も感じない普通列車だ。クーラーで涼みながらレジャーで来れるくらいには時代は変わった。

 名古屋本線、近鉄、JR紀勢本線を乗り継いで、決して安くはない交通費を切符に変えて、いざ踏み入れたるは熊野の地。夏の暑さも心なしか、この地では和らいだような気がするほどには、辺りは山に囲まれて、新緑が目に優しい。



「また田舎なのね」

 普段のリボンカチューシャではなく岡山の依頼に被って行ったものと同じ、白のキャップを深めに被り、デニムと白無地によくわからない柄がプリントされたオーバーTシャツを着た夏服。それに小ぶりな濃紺のスーツケースを引いて夢川初は言う。

「こういう案件はだいたい開発が進んでないところで起きるものだからな。都心なんて見てみろ。屋内社だの、あげく立ちションされないように鳥居貼って心理的に訴えるだけの何の効果もないモンもある。あそこじゃ信仰よりも思念雑念の方が圧倒的だね」
「あの壁に貼ってる鳥居、そんな意味があるんだねぇ」

 少し遅れて新宮駅舎の自動ドアを抜けてきた東国斎は、夢川の隣に立って蘊蓄じみたことを語る。彼は黒のシャツに白のワイドパンツで固め、見るからにこの場の誰よりも吸熱性能が高く暑そうだがどこか涼しさを感じる装いだ。傍らに停められた白いスーツケースにはいろいろご当地のステッカーが貼られ、その上に行儀良く足を揃えて、はじめて美術室で会った時と同じ白の袴を纏った丸山結が座り、斎の知識に感心を返していた。こっちもこっちで暑そうだが、影はスーツケースだけ。どうやら実体化はしていないらしい。

 とりあえず、人から見えない時に発言するのはやめてほしい。虚空に向かって話しかける不審者になるし、下手すりゃ私たちが怪奇現象の発生源だ。

 10時。日はもうすっかり昇り、まだ午前中にも関わらず既に暑い。2人と1匹が駅舎の屋根に引きこもっているのと対照的に、無駄に太ったヤシの木の生えた南国チックなロータリーの対岸、1人全身に陽を浴びて浮かれた少女が一人。白に薄い橙色の短パンで先を行く現田サキがこちらに手招きしていた。日差しの影響を受けないであろう丸山ですら、胡乱げな目線を送っている。

「あいつは元気だな」
「若いんですよ」
「夢川だって同い年だろ。高校生なりたてが若いとか言うのはどうかと思うが」
「じゃあ精神が若いです」
「それは半ば罵倒じゃねえか……?」

 夏休みということもあって、ロータリーにはそれなりに観光客がいる。このままだと本当に幼な子のように見失いかねないと腹を括り、2人と1匹は重い足を引き摺り日差しの元へ踏み出した。小さく吐いた嘆息は、偶然にも全員綺麗に重なる。どうやらこのメンツの大半は、いくら都心より涼しく感じたとしても暑さには弱いらしい。



 宿に荷物を置き、商店街で軽く腹ごしらえしながらも、人の波に流されながら熊野速玉神社の方へ向かう。街の中、一際目立つ朱塗りの鳥居が、鬱蒼と繁る鎮守の森々に包まれるように立っていた。

 珍しく足並みを揃えて隣を歩いているサキは、腰に手を当てて鳥居を仰ぎ「思っとったんと違う!」と文句を言う。

「なんか、人ばっかで神社特有の荘厳さというか、神聖さというか……」
「いやまぁ確かに、外から見たらそうかもしれないけどさ」

 率直な感想に、斎は苦笑いを浮かべた。確かに、観光地ゆえに白地に黒で駐車場と書かれた看板がつけられており、少なくとも外側からは、人の多さも相まって神聖さというよりテーマパーク色を強く感じる外見である。

「それじゃあ僕は外で待ってるねぇ」

 相変わらず姿を見せずにいる丸山は、参道に入る前で1人、脇に逸れた。

「結はこのレベルの神社だと希釈されるもんね。まっててね!ちと3人で回ってくる〜!」
「先輩、何であいつ宿で待たせなかったんですか」
「この場所以外でも聞き込みは続けるからな。あいつがどこで何に反応するかわからんし」

 近くの日陰に移動する怪異の背中を見送りながら愚痴る夢川に、斎が答える。返答は大きなため息ひとつ。

 近くの建物の屋根下でひらひらと手を振りながらこっちを見ている丸山の方には一瞥もくれず、さっさと鳥居をくぐっていった夢川に苦笑しながら、2人はその後を追いかけるように参道に入っていった。



 いざ鳥居を潜ると、左右の木々が頭上に被さり薄暗さと気温の低下を如実に感じる。しばらく歩けば、外からの見かけによらず広々とした境内。奥に入ってしまえば人の密度も解消されて、幾分神聖さが戻っていた。

「あいつって神社入れないなら業務に不便じゃないですか?」

 まだ納得がいっていないのか、あるいは単純に丸山を認めていないのか、夢川が再び愚痴る。

「それなんだけどな。本来ならこれくらいの規模の神社なら、あいつは境内周辺まで来たらナメクジみてぇに萎びるはずなんだわ。でもここじゃ平気らしい」
「結、全然元気そうだったよ?」
「よくないものが普通に生きてられるくらいにこの地域は現実性が通常レベルまで落ちてるってことですか?」
「断言はできないが、その可能性は高いかもなぁ。今回の依頼は心霊って話だし。そういう“穢れ”的なものが希釈されずにその場に溜まる、なんてことはしょっちゅう見聞きするしな」

 斎が「俺は幽霊の専門じゃねえけど」と小さく呟くのを聞き、参道を進みながらあの小憎たらしい笑顔とここに来た目的を思い返す。

 熊野速玉大社。熊野三社の一角。日本でも有数の大神社で、熊野古道などとまとめて世界遺産にも登録されるほどには歴史が深い。日本における自然信仰はここなしには語れないと言える重要な場所である。
 エベレスト然り富士然り、霊峰や霊場などと呼ばれ神が祀られる場所は基本的に周囲よりも現実性が高い傾向にあるが、いわゆる“霊験あらたか”というのは、風情もへったくれもかなぐり捨てれば、周囲の現実性が自身の内部ヒューム値を上回った場合の感覚をいう。
 昔から経験則上で体感していた形容し難い内容を財団流に言えばそういうことらしい。過去の依頼で得た概念だ。

 自身よりヒューム値が高い空間に入れば現実改変はできなくなるし、空間全体が神聖、あるいは圧迫的とも取られるような荘厳な空気感を持ったように感じられるだろう。神域と呼ばれる場所の場合、ここに神格の性質が加味される。単純にいえば善性と悪性。物怪の類は神の御前では無事で済まない。
 つまるところ、人喰い怪異である丸山結が、この日本有数の神域においてピンピンしているのは紛れもないイレギュラー。この地に何かが起きていることは確かである。

 いわば神域の活性化度合いや範囲を可視化する指標、それが今回の丸山結の役割という次第であった。

「途中伊勢のあたり通った時、確かにあいつ無口になりましたね」
「日本有数の霊場の称号を返上する日も近いかもな。こんな様子じゃ」
「高い現実性が保てない理由ってなんでしょう」
「俺に聞くな。夢川のほうが造詣深いだろ」

 熊野から伊勢にかけては、日本でもトップレベルの高ヒューム帯。ついで出雲、諏訪、恐山に富士山頂をはじめとする局地的範囲など、こういう地点は日本各所に点在している。そのほとんどが信仰由来か、財団やGOCの防衛、保護手段だが、伊勢から熊野にかけては、知る限りでは大きな現実性上昇を引き起こす施設のようなものはない。あくまで信仰由来のものらしい。

 それが、今。

「境内の中程に入ってやっと厳かな雰囲気を感じるってことは、一応はこの神社は死んでないってことですよね」
「現在進行形で弱ってるかもしれないけどな」

 斎は軽く腕を組んで形のいい眉を少し寄せ、しばらく思案する。神門をくぐれば、目の前には交差したバツが特徴的な千木ちぎと奥に連なる勝男木かつおぎを冠した黒灰色の屋根と、それを支える朱塗りと緑の社殿がずらりと長く並び、大きな存在感を持って私たちを出迎える。その背後には大きな社叢と左手の千穂ヶ峰が旺盛に繁っていた。

 礼殿に掲げられた「日本第一霊験所 根本熊野権現拝殿」の扁額へんがくを見て正面の社殿、熊野速玉大神が祀られている場所が望める。名前のまま、速玉大社の主祭神だ。

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「ここは相変わらず見た目が整然としていていいね。落ち着く造りで好きだ」

 一通り拝殿を覗いたのち、ひと段落着いた辺りで近くの掲示板から抜き取ったパンフを開きながら斎が呟く。その横から、彼が持つパンフを覗きこんだ。

「速玉の語源は“映え輝く御霊”ですか。……この有様じゃ、本当かどうかも怪しいですけど」
「やめろやめろ。角が立つから。少なくともこの土地と神社は代々そう言うことになって続いてるんだ。由緒ってのは何よりも、その土地とその神の信仰を集めるんだろ」
「まぁそれは承知してますけど……一般の人だって雰囲気というか、感覚でなんとなくでも神威がわかるって聞くじゃないですか。どう思ってるんでしょうね」

 物心ついた頃から人とは違う要素を持っていた私たちには、それがない人の感覚はわからない。そんな些細な疑問を抱いていれば、横から覗く私のさらに隣からサキが覗いてくる。

なぎの大樹?」

 パンフレットの境内地図の真ん中あたり。社殿の真向かいに一本、一際大きな梛の木が、境内を睥睨するように佇んでいる。太い注連縄に大きな白い紙垂がたれ、ぐるりと一周幹に巻きついて、見るからに御神木の様相を呈していた。

「樹齢千年、国内最大らしいぞ。平重盛が植えたとかなんとか……」
「先輩、詳しいね!」
「そこの看板に書いてるからな」
「そういえば、あの怪異がここの現実性にあてられないことを知ってたような口ぶりでしたけど」
「まぁ、過去にも何度か依頼でここら辺には来てるし。丸山と会ったのも熊野だよ。もうちょい奥山だけど」

 何とまあこんな地でアレを拾ったのか。というかそんな捨てられた子犬を拾う感覚で怪異を拾ったのだろうか。リスク管理はどうなっているのか。今更ながら斎が心配になった。

「安心しろ。自分が拾ったわけじゃない。懐かれただけだ」
「憑かれてんですよねそれ」
「特に害もないし」
「拾ったのはいつなん?」
「3年前」

 飄々と、何の問題もないかのように斎は言う。つまり、3年前にはすでにここの神域は弱体化縮小していたのだろう。彼は顎に手を当て少し首を捻って続けた。

「まあいいだろ。ここは撤収。他んとこも回るぞ」
「え、宮司さんとかに色々聞かんでもいいんです? この神気の発生源の調査は?」
「ここは財団の管轄外のはずだ。宮司に聞いても『ここは黄泉の国でねぇ』とかなんとか長ったらしく話聞かされるだけだ。聞くんなら本宮の方だぞ。あっちは個人的に交流もあるし、なんせ総本山だから多少はヴェールの内側を知ってる。腹割って話せるのはそっちだ」

 仕事なのだからそれくらいやって然るべきな気もするが、そんなものか。この場においては年齢不詳の丸山を除いた年長者は東国斎であり、フリーランス稼業において年の功というのはすなわち死線を潜った玄人。その行動は正しいのだろう。過去数回来ているというのだからその時に聞き込んだのかもしれない。

 ……だとしても霊的実体の目撃証言は以前からあったというのだから、正常性維持諸機関はもっと介入していそうなものだし、さらにいえば神域の縮小というのはなかなかの大事のはずである。まぁそれだからこそ、私たちが今、人海戦術で情報収集に勤しんでいるのだろう。

 先をゆく斎を追って、境内を後にした。






 手頃なバスに乗り、熊野川を右に見ながら遡上する。30分も乗れば目的地に着くだろう。無論丸山も同伴だが、実体化しなければ人一人分空間が開くエコ仕様のため、先ほどから斎に重なったりずれたりとなかなかに気持ち悪い。酔いそうだった。やはり怪異ってのはロクなもんじゃない。

 観光客もそれなりに多く、立ちんぼの足に乳酸が溜まる。

「きっつぅ……」
「あと少しなんだから頑張りなさいよ」

 そんな掛け合いをするうちに、バスは次第に速度を緩め、車掌のアナウンスが響く。境内の駐車場に入ったようで、観光客や袈裟を着た幾人かに混ざって混み行った車内から吐き出された。息を吐く間も無く、湿気った熱気が顔を包む。改めて、人の熱気に負けた車内の冷房も、与えられた仕事はこなしていたのだと実感する。
 いくら周りを木々に囲まれていても、標高が上がっても、さして近年の異常気象が齎す猛暑には些末事らしい。

「どう? 結は萎びとらん?」
「特に何ともないねぇ」

 怪異はどうやらピンピンしているようで、サキの安否確認にしっかりと応答を返す。

「……ここもしょぼい神気ですね」
「まぁバスん中で萎びて実体化解除される、てなことにならなかったしそうなんだろうな」

 聞き捨てならない言葉が聞こえたがあえて意識から排除した。一度気にしたら人型怪異は無賃乗車していいものか、とか色々出てくる。理解の埒外の存在は今まで残らず煤払いをしてきた身としては、法律が適応されるか如何の前に全て消しとばしてきたから、このイレギュラー存在が受け入れられている現状には首を傾げざるを得ない。

 ただ、斎は私たちと違い神気に敏感なタイプではないから、少しの変化では気がつかない。境内に入ってやっと違和感に気づく感じだ。その指標となっている丸山結という怪異との相性は案外いいのだろう。が、重なった状態で解除された場合に斎が弾け飛ぶかもしれないなら、ぜひやめてほしい。そんなスプラッターは望んじゃいない。

「で、熊野本宮がこのレベルですか。この土地、回復の見込みありますか? 体感名古屋と変わりませんけど」
「俺にゃなんとも」

 事態は着々と手遅れになりつつあるのだろう。明らかな弊害は目にしていないため、これといった実感はないが、漠然とそんな急き立てられるような焦燥感があった。

 大きく構えた鳥居の左右に鎮座する狛犬を見送り、鳥居を潜る。参道に入れば、左右には所狭しと幟が並び、そのいずれにも『熊野大権現』の文字がひらめいている。それは、登りの石段を見上げる限り、どこまでも並んでいるようであった。

「ここの神格は? 速玉大社と同じ?」
「主祭神は違かった気がするけど」
「権現って、仏教だでなぁ」
「奈良時代に仏教が混ざったからそう呼ばれてるだけで、元々は全部神道の神様だな。でもって違うのは家都美御子大神ケツミミコノオオカミっつう神様。よく知ってる名前で言やぁ須佐之男命スサノオノミコトのことだ。これも今は阿弥陀如来の姿してっけど」

 神の御名は正直どうでも良い部分だと思うが、少なくとも異なる二柱の神格の力が瀕死まで衰えていることはほぼ確定だろう。
 この地で何が起こっているのか。今回の依頼とは異なる要素ではあるものの、気になることは気になるのだ。それが依頼の原因である可能性があるのならば、尚の事。


 だがそれとは別に、先ほどの話で引っかかるところがある。


「さっき宮司さんが黄泉の国うんたら話してくる、って言ってましたけど、もしかしてここ黄泉返りの聖地かなんかですか?」

 黄泉返り。蘇りの語源とも言われる日本神話の有名イベントの一つ。
 人は死ぬと地獄に落ちるか浄土に行くか、そんな話はよく聞くが、それは仏教が入ってきてからの思想だ。仏教伝来前は、死者は黄泉の国に行くとされていた。高天原は神が座し、葦原中国は生者が住む。常世の国は人の理想郷で、根堅洲国ねのかたすくには死と再生の地下国。そして類似する黄泉の国は地下の冥界。根堅洲国・黄泉それぞれと葦原中国、つまり幽世かすがよ現世うつしよを結ぶ坂を『黄泉比良坂よもつひらさか』と呼ぶ、と。

 そして、伊邪那美命イザナミノミコトが火の神を産んで火傷で命を落とした後、行き着いたのがこの黄泉の国。それを追いかけた伊邪那岐命イザナギノミコトは、『姿を見るな』と言う伊邪那美命イザナミノミコトの約束を破って覗き、そのおぞましく変わり果てた姿におののき黄泉比良坂を駆け戻って、キレ散らかした伊邪那美命イザナミノミコトを振り切って逃亡せしめるとかいう、壮大な痴話喧嘩の日本神話の舞台である。
 ちなみに逃げた末にこの坂は岩で塞がれ、現在も通行止めという話だ。

 現状、その黄泉比良坂の比定地は出雲と熊野。二つある。

「あー、まぁ、な。ほんとは黄泉とは違うと思ってるんだが……そういう事になってんな。さっき訪れた熊野速玉大社な、あそこの速玉大神は、伊邪那岐命イザナギノミコトって事になってる。ま、後付けだ」

 「後付け、ですか?」とサキが問えば、斎は山道を登りながら思い出すように語る。

「もともと本宮は熊野坐神クマノニマスカミ、速玉大社は早玉神ハヤタマノカミなんて呼んでた。伊邪那岐イザナギ須佐之男スサノオなんて言われ始めたのは平安の末頃だ。ま、伊邪那美イザナミは最終的に熊野の有馬村のあたりに埋葬されたって話で、それが正しけりゃここが黄泉って話も案外的を射てるのかもしれねえけどな」
「要するに、もともと伊邪那岐イザナギ須佐之男スサノオも祀ってなかったけど、後からその有名な二柱の名で祀られ始めたってこと?」
「そう言うこった」

 伝承はあくまで伝承で、これといった確証さえなければ信じるには値しないといった斎のスタンスが見てとれた。手水場に差し掛かり、一度会話が途切れる。綺麗に整えられ、丸竹の簀の上に並ぶ柄杓を手に取る。慣例に従い手と口を清めれば、ほてった体の熱を清流が奪い去っていき心地よい。

 ひと足先に手水を終え、手持ち無沙汰そうに水盤を横から眺めていたサキが、唐突に合点が言ったような声を上げる。

「速玉の神社にあったなぎの大樹って、伊邪那岐イザナギのナギなことない?」
「あぁ、うん。追いかけてくる伊邪那美イザナミから伊邪那岐イザナギが逃げる時に、地面に唾吐いたんだけどな」
「態度悪〜い」
「呪術的な意味があんだよ。……そんでその唾から生まれたのが速玉之男ハヤタマノオって神だ」

 サキは柄杓を立てて、手水場に戻しながら茶々を入れる。それを軽くいなして割と真面目に教えてくれる斎ではあるが、そろそろ話がややこしい。神仏習合の段階で色々と複雑な事情があったのか、熊野を霊験あらたかな地にするための由緒の辻褄合わせか今となってはわからないが、少なくとも名前的には、伊邪那岐イザナギの吐いた唾から生まれた速玉之男ハヤタマノオが、今の早玉神ハヤタマノカミなのだろう。同じ神格を指す異名が多すぎるのも考えものだ。

「あれ、じゃあ早玉神ハヤタマノカミは速玉大神で、伊邪那岐イザナギじゃなくないですか」
「さっき呪術的意味がある唾吐きって言っただろ」
「はぁ」

 吐いた唾から生まれたばっちい神は伊邪那岐イザナギとは別物ではないのか。現に日本の神々はそういったものから別神格が生まれ、多く信仰される。

「あの唾吐きは死霊避け、縁切り、別離の呪術だ。呪術って事はその唾には伊邪那岐イザナギの霊力が宿る。伊邪那岐イザナギの霊力を纏って生まれた神だから一緒にしちまえってこったろ。雑なんだよ。日本の神ってのはな。八百万すぎてスライムみたいに増えては一体化しやがる」
「じゃあなぎの木は?」
伊邪那岐イザナギの名前に似てるから、御神の霊力が宿る御神木だっつうもんで魔除けに使われてる木だ。実際にまわりの植物の成長を阻害してるらしいから、あながち経験則から来た伝承かもしれねえが、それでも信じるほどでもねえ話だな」

 仏教の修練場。神道の縁の深い土地。これらが合わさることで他に類を見ない混沌を呈するのが、どうやら熊野という地の持つ特徴であるようだった。



「ちなみにですけど、熊野ってもう一つ大きめの神社ありますよね。この流れで行ったらあそこの御祭神は伊邪那美命イザナミノミコトですか?」
「あぁ、那智大社か。あそこの御祭神は……現状不明だな」
「不明?」

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 私が聞き返す頃には、3人は石段も終わり、平らな石畳をしばらく歩くと熊野本宮大社総門が露わになる。重そうな屋根を持ち、門に掲げられた注連縄は、どっしりとその威容を湛えていた。その左右に開く白幕には、面いっぱいに十六弁の菊華紋が堂々と掲げられ、中央には黒い鳥の紋。熊野三社の中でも格別の雰囲気を持っている。

「不明って、仮にも熊野三社を担う大社のくせにそれでいいの?」

 総門を潜り抜けながら疑問とも苦言ともつかぬ声音でサキが聞く。広がる境内の社殿は速玉大社と似通っていて、それでも一つ、決定的な差として、社殿が丹塗りではない。映えるような朱は見当たらず、素木しらきの素朴な社殿が並んでいる。奥の木々は紀州の南から指す陽光に碧く映えているが、やはり神気は今ひとつ乏しい。と言うよりも、熊野本宮大社境内の敷地は、全体的に神気が一定であり、突出して高い場所がない。今回はあの怪異も普通に私の横を歩いて境内にまで侵入している始末だ。

「分からねぇモンをそれ以上考えたって仕方ねぇと思うが、まあ、この流れで行ったら確かに伊邪那美イザナミなんじゃねぇの?」
「そんな曖昧でいいものなんですね。文化遺産ってメインの神様の由緒が不明でも構わないんだ」

 何か釈然としないものを抱えながらも、自然信仰の総本山を思わせる質素な木造りの社殿を拝みながら、適当に砂利石を踏み散策する。突如よく通る高い声が少し後ろで上がった。

「それよりも結、なんで今回は境内入っても萎びとらんの〜?」

 振り向けば、声をあげながら円を描くようにくるくると回るサキがいた。彼女が玉砂利が足元でかしゃかしゃと軽い音を立てる。いつの間にか列から外れ後ろにいたらしい。虚空を見上げて叫びながら奇行に走るヤバいやつだ。

「それは、ここに神格存在かその概念に当たるモノが居ないからだねぇ」

 のんびりとした声音で横の丸山が答える。こっちはこっちで空から声が聞こえる状況なので会話をしないでほしい。
 
 「何してるのサキ。もう行くよ」と呆れながら彼女を呼べば、一転して私たちの方に駆け寄ってきた。

「何してたの」
「何が?」

 きょとんと小首を傾げて聞き返すサキ。彼女の奇行に、すわ霊的実体でも居たかと振り向いても、それらしき冷気を捉えることは出来ない。いつも通り、彼女十八番の奇行だったらしい。

「で、結ぃ! ここ神格おらんの!?」
「声を落とせ」

 姿を露わしていない状態の丸山の周りを纏わりつくように歩くサキは、斎に丸めたパンフで後頭部を軽くすっぱ抜かれながらも、解説を期待しているのか視線を逸らさない。おさげを揺らしながら後ろ歩きをしている。

「神格がいないって事は本宮大社は金のかかったハリボテって事ですか?」
「前からずっとだ。ここに神格の本体があったことはほぼないはずだと思う」
「……え、もうここの神格は死んだって事ですか? こんな参拝者おるのに」
「いや、そう言うわけじゃない。というか一般的には神様は本宮にいることにはなってるが」

 斎は一度話を切り、足を止める。パンフを私たちの前に広げて、指である地点をぴしぴしと突いた。

「実際に本宮の神格本体が居るのはここだな」

 熊野川と音無川の合流する中洲。『熊野本宮旧社地 大斎宮』とラベルのついたその場所を指差しながら、斎は顔をあげる。

「杉と建物で見えないが、だいたい向こうの方角だ。全部伐採すりゃ川の中洲に1箇所、それなりの広さで森とでけえ鳥居が見えるはずだぞ」
「僕は見えるけどねぇ」
「見えるん!?」
「冗談だよぉ」

 じゃれ合う怪異とサキを放って斎は社務所の方へ足を向けて歩き出す。

「行くぞ。さっき言ってた宮司んとこだ」






けがれ



 斎が巫女装束に声をかけるのを遠目に見ていれば、話していた巫女が社務所に引っ込んでいった。斎が手招きするのを見て、社務所の戸口を跨ぐ。

「ありゃ。お久しぶりやねぇ」

 アポが取れたのかと近づけば、奥からゆったりとした男性の声が聞こえた。

「お久しぶりです。九鬼さん」
「何年ぶりかいね斎くん。今回は何を調べに来たんかいの?」

 九鬼と呼ばれた壮年細身の男性は、複雑な紋の入った紫袴に白い着物を纏って、慣れた摺り足で廊下を歩み近づいてくる。

「いやね、今回も夏休みのレポートで。熊野三社について調べ物なんですよね。今ご都合どうです?」
「まぁ、御朱印は表の子たちがやってくれるからねぇ。そっちのお連れさんも、上がってもらおうかいね」
「あぁ、いえ、今回はそんなお時間は取らせませんので」

 斎はその男性と親しそうに二言三言声を交わし、しかし、話し合いの場を設けることには手を振って遠慮を返した。こちらの遠慮に特に気分を害した様子もなく、「じゃあ、ここで失礼して」と一言、袴を膝に畳み込んで正座をする。柔和に微笑んで、こちらの要件を促した。

「前回と繋がる部分もあるんですけどね、この土地で平成初期からよく言われるようになった物怪の類についてなんですけど」
「あぁ、そんな話もあったかいねぇ。ここらに住んでる神職や猟師の方々はよう見るって言うよねぇ。理由はわからんけどもさぁ」
「結局3年前は、山怪ヤマノケ木魂こだまの類だろうっていうの民族学の方面から、土地開発とアニミズム観とか、神聖不可侵な地域に対するな思い込みの見せる幻とか、何かしらの自然現象、といった仮説を立てた段階で終わってるんです。尻切れトンボだしさらに目撃が増えてるっていうもんで」
「今の人たちはすっかり観光地と思ってる節があるからねぇ。神様を思う心が大事とは言わないけど、ゴミも増えたし、ハレの日やなくとも人が多いし、神様も少しお疲れなんじゃないかねぇ」

 スマホの録音を回しながら、斎はアプリのメモ帳を開く。それを眺めていた宮司はふと、なんのためにここに呼びよせられたのか分からず直立の姿勢を崩さない私たちの方を見た。宮司も何をするでもなくそこに居る私たちを不思議に思っているんだろうか、とその視線に勝手に居心地の悪さを感じていれば、目尻に皺を蓄えた優しそうな目が、すっと細められる。

「……斎くん。そっちのお連れのお嬢さん方、なんかついとるかねぇ」
「うん? どしたの九鬼さん」

 宮司の口から発せられた言葉は、予想の範疇にない内容であった。
 斎がスマホの画面から目線を上げ、怪訝な顔で宮司を見やれば、当の宮司は夢川たち穴蔵組を見てさらに目を細める。ちょうど視力の悪い人間が遠くを見ようとするような感じだ。その視線は二人の頭上あたりで焦点を結んでいた。何か見定められているようで、どちらにしろ居心地は悪い。

 宮司はしばらく視線を留めていたものの、やがて首をゆっくりと数回横に振って、斎の方に戻す。

「いや、何かいる気がするだけだぁね。気にせんでもええよ。ただのおっさんの好奇心やから。ちょいと懐かしい気分になったから悪いもんじゃぁなさそうだ。守護さんあたりかいねぇ」

 どうやらニュアンス的には「付けている」ではなく、「憑けている」の方であるらしかった。十中八九後ろに佇む丸山のことであろうことは、想像に難くない。丸山の姿は見えないまでも、そこに何かがいることを勘付くくらいには、彼は心霊に対する受容体質を持つようだった。斎が「腹割って話せる」と評価したのも頷ける。

 宮司は首を数回降って頭から話題を追い出すようなそぶりの後に、すまないねぇ、と話題を戻した。

「いえいえ。まぁそれでですね。その怪現象についての傾向調査と言いますか、どこに出る〜とか、どんな見た目か〜とか、何時ごろが多い〜とかそんなのです。あれから新しく聞いたようなことはありますかね」
「そうやねぇ。まぁ3年も経ったからねぇ。それなりにはあるよ。最近は人が増えたからか、そういうモノを見たって人も増えてるし、お祓いの依頼も多くなってるかなぁ」

 そう言って宮司が挙げる場所は、さもありなん、と言った感想を抱くような場所ばかりであった。
 熊野地域の病院での夜間警備、墓地、夜の山道の途中、少し挙げただけでもいかにも怪談の舞台として聞くようなロケーション。しかしその容姿はある程度一貫してその場に佇んだ、古風な何者か、あるいはすでに亡くなった親族のように見えるらしい。その目撃証言のいずれも、遠くからパッと見ただけであって、相貌はどうも判然としない。何も特徴のない道の中ほどに、何をするでもなく佇んで辺りを眺め、周囲の人間は総じて気にしていない様子だという。

「こんな大神宮のお膝元でそんな話が頻発するっていうのは、なかなか考えにくいものですけどね」

 小さくこぼせば、宮司は案外耳がいいらしい。その呟きを耳聡く拾う。

「まぁ、神様っていうのは信仰する人が増えれば増えるほどにお力を増すともいうからねぇ。今じゃあ、まともに神様を信じてくれるのはご老人くらいのもんさね。それが悪いことじゃあないんだけども、やっぱりここの神様の力も、2000年ごろから若者離れとご老人の老衰で少しずつ衰えてるのかもしれんねぇ。ここ10年、一気に神聖さが欠けた気がするやぁ」

「まぁ、人の思念ってのは集まれば身を結びますからね」と相槌を打って、斎は可笑しそうに続ける。

「神様が実体化しないように押さえていたものがそろそろ溢れ出し始めてる……ってのは、オカルト雑誌に持ちよりゃ喜ばれそうな話ですけど」
「まぁ、オカルトさね」

 そう笑って気にしない風を装っているが、おそらくそういった理由なのであろうことは、うすぼんやりと把握している、そんな雰囲気が伺えた。
   宮司というものは、神を扱い奉る職であるが故に、そういった物事には代々敏感なのだろう。

 そんなことを考えていれば、宮司はふと思い出したように胸の前でぱちん、と手を合わせる。何か思い至ったような表情を見せた。

「そういえばねぇ、あの、那智の方。那智大社の方ね。先日扇祭りがあったでしょ。あぁ、まぁそういうのが毎年あるんやけどねぇ、それに毎回出張するんだよね。それでね、あそこは7、8年前から変なものを見るんやわ。ありゃこっちのもんじゃ無いなぁ。わしの母さんがおったよ。もう居らんのにねぇ」
「お母さん、ですか。それが毎年……」
「うん。あそこは神様も仏様もいるはずなんだけどねぇ。まぁあそこの神様は、お名前が分からないし、誰を祀ってるのかも分からないから、他より信仰されにくいのかもしれないけど」
「神様が不明なのに、その、扇祭り? っていう例大祭はするんだ。なんか不思議」

 扇祭り。熊野三社の一つである那智大社で行われる例大祭。那智の火祭とも呼ばれ、熊野の山中を、火篭を担いだ白装束の神職の面々がずらりと並ぶ姿はそう呼ばれるに相応しい圧巻である、らしい。質問したサキに、軽く検索したスマホの画面を見せていれば、親切にも宮司が説明してくれる。

「神様の里帰りのお祭りだからねぇ、元々那智の滝でお祀りしていた神様たちは今那智大社にいますから、それを里帰りさせるんやね。だから神様が分からなくても続くってこと。本宮大社とは違って神様ごとお社をお引越ししとるんだけど、あそこは数年前から毎回境内で見るから、もしかしたら神様はもう居らんのかねぇ……」
「今行ったら見れますかね」
「まぁ、昼過ぎだね。扇祭の火が目立つ頃から、日が落ちるまでずっとさ。まぁ今日も見れるかどうかは分からんかなぁ。私があちらに行くんは祭りん時ぐらいやから。斎くんはまあ私よりも少しそういうもんに詳しいらしいさかい、心配はしとらんけども、そっちの子達を連れて行ったら見えるかどうかは怪しいもんやねぇ。憑いてるのが守護さんでもそうでなくても、出てこないんじゃないかとは思うよ」
「あぁ、それについてはご心配には及ばないと思います。いざとなったら置いてくんで」

 斎の答えに上品に笑った宮司は、あぁでも、と思い出したような顔をする。

「最近同じようなお話を他の人たちからも聞かれてねぇ。やっぱり有名になってきてるのかもしれやんねぇ」
「その可能性はありますね……とりあえず、今日はこのぐらいでおいとまします。ありがとうございました」

 斎は話を締め、スマホをポケットにしまう。すっと手をついて立ち上がる宮司に軽く会釈を返す斎に合わせ、夢川たちも小さく頭を下げて社務所の玄関を出た。

「那智ってやっぱ変な場所だがぁ。宮司さんも先輩も言うてるように、神様がわからんのに熊野三社で一纏めだでな」
「元々滝が信仰対象だったんだろ。よくあるアニミズムだ。巨岩然り、巨木然り、自然から見出した神様に名前がつかないのは普通にある」
「……行きますか? 那智の方」
「行かない手はないな。あそこにいきゃ、三年前俺が諦めた心霊の正体が掴めるかもしれねえんだ。そのために煤払いのお前ら誘ったんだぞ」

 境内を出る方面に玉砂利を踏みしめながら向かう。私の問いに、斎は当たり前だと言わんばかりに即答した。

「三年前も、この依頼を一度受けてたんですね」
「結果は散々、遠征の土産はそこの丸山だけだ。依頼のモンよりやべえ奴を拾ったわけ。熊野の一連の超常現象がこいつの引き起こしたもんならそれで収まったんだが、どうやら原因は別にあるらしいしなぁ」
「私たちを連れて来られなかったらこの依頼は受けてました?」
「まぁ、今は丸山がいるからな。前回のソロとは違うし、どっちみち行っただろ」

 影は短く、日は天辺を過ぎた時分。暑さがピークに向かう頃。宮司のもとに心霊存在を聞き込みに来た他の人たちというのは、十中八九同業者。この分じゃ、もうすでに祓われている可能性もある。先輩には悪いが、怪異に会うのは難しいかもしれない。

「夕方までって言ってましたけど、日没まではもう少し時間ありますね」
「……つまりはお前、観光したいんだな」
「私たちを連れてきたデメリットですよ。でも熊野観光って誘ったんだからそれくらいあって然るべきだと思いますけど」
「そうだよ観光って言っとったがや」

 横からサキの援護射撃も入る。死にかけ神社巡りをしにきたわけではない。今回の依頼解決の糸口になるかは不明だが、明らかにことが進むであろう場所に行く前に、のんびり旅行らしい事はしたい。本来の雰囲気を味わえていない以上、食なり景色なり、他のレジャーで埋め合わせしたいわけだ。
 ……それに熊野全域で目撃できると言う話なら、旅行中に会わないとも限らない。
 それっぽい理由でやりこめようと試みれば、斎もそう焦っているわけでもないらしく、まぁそうか、と一応の納得はしたようだった。

「それにしても、神様ごと引越ししてる場所に怪異を見ますかね普通。ここは先輩曰くハリボテみたいなもんらしいしまだ納得できますけど。てかなんで中身ないんですかここ」
「ハリボテ言うなよ。一応神力引き継いだ神籬ひもろぎ祀ってんだから。でもまぁ、簡単なことだ」

 曰く、元来本宮大社は、宮司に聞く前に話に出た中州の方にあったと。明治の大洪水で12社殿のうち8つが流され、辛うじて無事だった4つを水害の被害に巻き込まれない山の上にお引越ししたらしい。熊野の自然信仰の源流である自然の猛威が感じられる話だ。

「なんで神様は向こうに置いてきたんですか? さっき宮司さんが言ってた那智大社みたいに、社と一緒に滝から新居に引っ越し〜なんて事はしないんですね」
「あの中州は熊野の信仰の始発点だからな。あそこに神々が腰を据えたって伝承があって、川の中に佇む森を神の島なんて呼ぶくらいには、あそこは聖地なんだよ」
「聖地から神を引き離すなんてとんでもないって事ですか。那智とは違うんですね」
「どっちかってぇと、神が地上への定着に選んだ土地なんだから引き剥がせるもんじゃねぇし、引き剥がす必要もないってのが正しいだろうな」
「そういうもんですか」

 さて、と一声。そこそこの声量で怪異と駄弁っているサキを呼び戻し、早々に本宮を後にすることにした。中洲を巡り、土地的に少々遠い那智大社も回るとなると、観光を含めてそれなりに時間に余裕を持たせておきたかったのが一割、斎曰く前回と変化のないここに止まるのは無駄であると判断したのが一割、そして何より、サキに対する周りの不審な目に居た堪れなくなってきたのが八割だ。
 他人のふりを決め込んで静観するにはあまりにリスキーすぎるサキと、一般に見えない怪異の声はそろそろ誤魔化せない。ガムテでも貼るべきだったか。

 夢川は手綱持ちとしてサキの口を、斎は宿主兼管理者として丸山の口を塞ぐ方法を、各々割と本気で考えながら、フリーランス一行は中洲を経由し、一度神宮市内に戻ることになった。ここまで巡礼ルートなど全くもってガン無視で周ってきたわけだが、どうせだからと、本来の巡礼コースである熊野川の舟下りだ。

 舟上でのんびりとガイドの話を聞きながら、広い河面や険しい崖を眺め、時折過ぎ行く滝の音を聴き、至極平和な道中であった。ガイドの話では天照と熊野権現が囲碁を打った島なんてのも川の中程に存在し、この巡礼道には至る所に神話や伝承の流れが組まれているものだと実感する。

 そもそも依頼は熊野広域で頻発する異常実体事例の究明だったはずだが、丸山もフリーランス組の霊感にも特に引っかからず、完全にただの観光と化している。たまにはこう言う依頼もいい。船頭の捌きを見つつ揺蕩う船に身を預け、降り注ぐ陽光と、たまに頬で弾ける河の水に少しばかり頭が船を漕ぐ。

 微睡む意識の片隅で、船縁に寄りかかった怪異が南の方を見つめ続ける姿が、ほんの少し脳裏に焼きついていた。

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「ほら、着いたでな〜」

 肩のあたりを揺さぶられる感覚に意識が浮上する。周りを見ると、舟はどうやら終着点。最初に寄った速玉大社の、蒼々とした鎮守の森が見える。結局最後の最後まで寝こけたらしい。
 「ほら見てお初の寝顔〜」とか言いながらスマホの画面を見せびらすサキの手から、彼女のスマホを強奪して慣れた手つきでデータを一括削除しながら、怪異の方に目を遣った。

 そいつはあいも変わらず斎の少し後ろから、糸目にうすら微笑みを浮かべ、面白いものを見るようにこちらを見物している。サキと小競り合いをする時はいつもそこからこちらを覗いている野次馬根性たっぷりの存在が、丸山結という怪異だった。前世が人間なら火事場見物で火に巻かれるなりしてくたばったんだろう。どうせまともな死に方ではあるまい。だからこうやって未練がましく憑き物やってるんだろうし。

 あくびで大口を開けそうになり、ここが外であることに思い至り全力で噛み殺していれば、後ろから、私たちの荷物を抱えた斎が雑に荷物を押し付けてくる。

「結局寝たなお前」
「いや、まあ疲れが少々」
「飯食うか」

 荷物を受け取りながら雑に応え、帰ってきたスマホ片手に嘆いているサキを横目に市街へ向かう。この後の目的地はしっかりとご飯を食べられる場所などない山だ。屋台があるかも分からないが、ここで補給しておくべきだろう。

 適当に歩いて目に入った暖簾をくぐる。夏休みの繁忙期らしく、観光客と思しき家族連れや老夫婦などで繁盛する店内。クーラーは動いているらしいが、あまり涼しくはなかった。しばらくして通された席で各々メニューを頼み、今後の行動計画を詰める。

「この後那智駅に移動したら駅前のバスで那智大社に行く。あそこは16時半に閉まるから、そこまでは観測のために粘る。その後は一応街中で聞き込みってところか?」
「まぁ、そんな感じですかね。帰ってくるのが夜でしょうし、居酒屋あたりで聞き込むのがいいでしょうか」
「どの程度心霊の目撃者がいるかってところが問題だが、まあそれが安定だろうな」

 しばらく駄弁っていれば、「はいお待ちどう」という声と共に、海沿いの街らしい鮮やかな色をした、瑞々しい赤や桃色が大盛りで飾られた海鮮丼が並べられる。差し色に発色の良い緑の山葵。上に乗った細い海苔がまだ暖かい米の湯気に踊っている。スーパーで並ぶ刺身と本場はこうも違うのかと思いながら、わさびの突くような辛味と魚醤を絡ませ、米と共に舌鼓を打つ。今回は怪異も姿を表して、食卓に腰を据えていた。見た目が和服のせいで一人浮いている。食費が浮くから消えていてもよかったのに、こういう時だけは存在を主張してくる。

「このホタテ甘……んで、九鬼さんの言ってた心霊ってのはあの人のお母さんだっけ?」

 刺身を口に放り込みながら、斎は傍に置いたスマホのメモを見返す。

「行儀悪いですよ先輩」
「その怪異は境内にずっと居るって話だったが、なんだってそんなとこにいるんだろうな」

 注意された本人は、苦言の一切をまるで受け流して米を掻っ込んでいた。暖簾に腕押しという言葉がよく似合う無視っぷりである。

「はいいはへいはいひひれ」
「飲み込んでから喋ってくれない?」
「怪異が境内に居続けられるもんなの?」

 お冷で口の中身を流し込んだサキが隣で質問を言い直す。

「あそこは主祭神がわからないからな。九鬼さん曰く神気が弱いんじゃないかって話だろ。なら、怪異が入り込む余地はあるんじゃないか」
「でも、弱まってると言っても本拠地ですよ? ある程度の神気が担保されたエリアに入り込める怪異なんて相当の高位存在です」
「手を出すかどうかはそんとき考えりゃいいだろ」
「そんな心構えでよう生き長らえとるなぁ先輩は」
「僕が守ってるからねぇ」

 斎に擦り寄る丸山に呆れた目を向けながら、当面の問題に意識を傾ける。テーブルマナー云々は抜きにしても、斎の主張もサキの疑問も至極もっともな内容だ。いくら熊野の神気が通常レベルまで下落しているとは言っても、境内にすら怪異が出るなんてことがあり得るのか。
 答えで言うならあり得るだろう。そのエリアの神気、詰まるところ現実性を上回るレベルの現実性を有する怪異であれば、存在は可能だ。だがそのレベルともなると、戦闘するなら命を引き換えにする格だ。ネームド怪異、あるいは低位神と言って差し支えない。

「人の姿をとれる怪異っていうのはそれなりに高位なモノが多いですけど……」
「僕は高位存在ってことだぁねぇ」
「ちょっと怪異は黙っててください。で、人系の地縛霊ってのは、祓うのが面倒です。縁がありますから」
「まして境内に居座る地縛霊とか、いわば敵地のど真ん中だで」

 斎は食べ終わったどんぶりの上に箸を置いて、こちらに耳を傾ける姿勢をとる。
 今回問題となるのはやはり、その怪異はなぜそこに居続けられるのか、と言う話だ。

「宮司さんは、7、8年前からその霊的実体  宮司さんのお母さんを見るようになった、とそういう話でしたよね」

 あぁ、と返す言葉を聞いて、情報を積んでいく。

「あの宮司さん、そこの怪異の存在に、朧げにだけど気が付いてましたね」
「そうだね〜。私たちの守護さんとか言っとったけど、結は先輩の守護さんだでな〜」
「守護といえばそうかもねぇ」
「親ヅラうぜぇぞ」

 丸山の存在は見えないくせに、その母親の姿をとる怪異の存在は見えている。それも明確に。存在の認知しかできないとしても、この世の理を外れたものを認知できる体質の、それも神職関係の人間は得てして霊気や神気に感度がある。
 宮司は「神気が10年前から急激に低下している」と言っていた。決して無視できる要素ではない。本来あり得ぬ場所にずっと現れると言うのなら、10年前になんらかの契機があって、神気が弱まった場所に後から居着いたと考えるのが妥当だ。

「あの宮司のお母さんが亡くなったのは10年以上前だと聞いてる」
「……とすると地縛霊の存在はますます成り立たなくなりますが」
「8年前の境内に、地縛霊が存在できる余地はないがぁ」

 机を囲む全員が頭を捻っていれば、食器を下げにきた恰幅の良い女将が話題に乗ってくる。

「変な話してるねぇ。まだ夕方かてなっとらんのに霊がどうのって」
「あぁいや、すみませんね居座っちゃって」
「ええのよぉ。で、霊が出たなんて話してるってことは」

 女将は腰を屈めて声を落とす。

「お客さんたち、街のどっかで見たってクチかい?」

 片手を口の横に添え、これ見よがしに秘密事に踏み入るようなポーズのまま私たちを一瞥する。かと思えば、途端に弾かれたように姿勢を戻し、「ごめんねぇ!」とさほど悪くも思っていなさそうに豪快に笑い飛ばした。

「いやいや、そういう話を聞いてここに来たんですけどね。そういう女将さんはなんか見たんです?」

 そう問う斎の顔には、ちょうど良い、といった思考が窺えた。

「あぁ、見たなぁ。ありきたりだけど着物姿の何かがが突っ立ってたわ。山の方でよう見るけど、やっぱ深夜に見る人の方が多いって話やんな。怖いから遠目やけどねぇ」

 そういっておもむろにあたりを見回して誰かを探すそぶりの後、お目当てを見つけたのか、女将は店の一角で真昼からジョッキを煽る男に馴れ馴れしく声をかける。

「何。どったんや女将ぃ」
「いやね、こっちの子らが幽霊探してるんだと!」
「何、変なことやってんやなぁ。まぁ、ここはよう見るようになったさけな。にいちゃんらは幽霊を見つけてど〜するん?」

 赤ら顔でそう聞いてくるおっさんは、酒の影響か、声の調整がいささか狂いつつあるようで、それなりの喧騒に包まれた店内でもはっきりと通った。一瞬店内に静けさが下りる。こうなると気まずさがある。
 その空気を断ち切るように、明るく斎が話を進めた。

「フィールドワークに来てまして。神宮のお膝元でなぜ幽霊の目撃譚が多いのかを調べに来てるんです」

 取り繕うように当たり障りのない嘘を並べた斎に対し、対しておっさん客は、「なんや学生さんかぁ。偉いなあ」と大仰に腕を組んで頷き、色々と語りはじめた。やはり地方の居酒屋とか、酒入りの気のいい客を相手にすると効率が良くて助かる。そして大抵の場合、日の沈まぬうちから酒を飲んでいるタイプは日頃から入り浸っている確率が高く、酒の場での色々な雑談から無駄に詳細に情報を持っている可能性も高い。いわば、聞き込みのカモだ。それは今回も例外ではないらしい。

「あ〜そいやったらさ、あれや。滝の方行ってみぃ。那智さんトコや」
「……那智大社ですか?」
「そうやな。明らかこっちのもんと違うやついるよ。見えやん言うてる奴もいたけど、俺は見えたなぁ」

 斎の眉が少し潜められる。眠たげかつあまりいいとは言えない目つきが、より一層細められる。同じだ。宮司さんの言っていたものと同じ。

「人間じゃない奴、ですか」
「そうやな。言うたら何? 死んだ婆さんっぽいんやけどな。真っ黒い羽みたいなもん生えとるわ」
「あっこにおる奴やろ? オメェの婆さんとちがうって。うちの家内やでありゃ」
「オメェの家内は呑んだくれのオメェ恨んで出てきたんやろ。ちゃっちゃと職つけて成仏させちゃれや。今に祟られるど」

 同卓に座る友人と思しき数人が茶化すように会話を差し込んできて馬鹿笑いを響かせるのを見届け、一つ可能性に思い至る。

 熊野の神の使いとして知られる三本足の烏。有名なもので言うなら日本サッカー協会のシンボルになっているアイツだ。熊野本宮大社の神門にかけられた幕の烏紋もこの八咫烏である。
 真っ黒の鳥の羽、神様の使い。彼らの話からは、その怪異、心霊が神の使い的特徴を持っているらしいことが読み取れる。ならば八咫烏に関係するものか。

「その何かは、いつ頃見られます?」
「夕方あたりまでず〜っとぼっ立ちしてるわ。今行きゃいるやろ」
「観察するくらいやったら声かけちゃれや。感動の再会やろ。暇人やなぁ」
「暇やなかったら今酒飲んでないわ。第一幽霊に話しかけるなんざ呪われそうで敵わんわ。触らぬ神に祟りなしっっちゅうやろがい」
「下手に深入りしたら黄泉まで持ってかれそうやさけなぁ……ここは黄泉や。あんちゃんらも気ぃつけな持ってかれるどぉ」

 なおも店内を満たす笑い声をあげて心底楽しそうな彼らは、女将に酒の追加を頼み、どうやらさらに酔い潰れるつもりらしい。話すことは話したとばかりに談笑を始めた彼らに内心で頭を下げながら、私たち四人は顔を突き合わせた。貴重な情報を得られたのは確かである。しかしそれよりも大きな疑問が湧く。

「ねぇ、さっきの宮司さん、亡くなったお母さんが見えたって言うとったよね?」

 机に組んだ腕を置いて、背もたれのない丸いすを前後に揺らしながらサキが疑問を呈する。私と同じ疑問だ。
 夕方あたりまで境内でひたすらその場に居続ける心霊。宮司のいう心霊と飲み客の言う心霊の二つはおそらく同一の存在。問題は、大きな共通点があるにも関わらず、「目にした心霊の姿が三者三様である」と言うことだ。
 人によって姿形が変わる心霊。一般人の多くが見ることのできる心霊。場合によっては複数存在する可能性がある心霊。どれも一様に死んだ人、あるいはやはり古風な見た目で見えている。

「物怪がわざわざ神の使いみたいな見た目をとるか?」
「というか、人によって見る姿が変わるなら、宮司の奥さんみたいな地縛霊の線も消えますよね」


「なら、そいつはなんなんだ?」


 しばらく降りる沈黙。その静けさは周りの喧騒がすぐに埋めていく。得体の知れないナニカ。どう対処すべきか何もわからない。いくら事前準備したとして、完全に安全ということはない。唯一ポジティブに捉えられる点と言えば、一般人がこれだけ目撃し、観察する人間もいて、祭りの只中におかれても、なんら被害らしきものが存在しないという点だ。

「まぁどっちでもいいか。この目で見りゃ済む話だろ。そろそろ出んぞ」

 とりあえず一括で斎が会計をして、あまりいいとは言えない建て付けの引き戸を開ける。「うちの扉よか滑りがいいな」と呟くのを聞きながら。軽快なウェルカムベルの音と共に背中に掛けられる、女将の豪快な送り声を受け止めて暖簾をくぐった。






残穢ざんえ



 陽が長い夏らしく、太陽はまだ高い位置にいる。商店街の大通りを駅前に向かって歩く。それなりに往来の多い道を行くにあたり、立ち止まっている存在、それも道の真ん中に佇む存在はいやがおうにも目を引いた。その姿はいやに見覚えがある。古風な姿。

「……丸山?」
「ん? 苗字で呼ぶなんて珍しい事もあるんだねぇ」

 横から声が聞こえる。あたりまえだ。先ほどから丸山は、私たちと共にいる。ならあれは  今回の依頼における心霊か。

 全員に怪異の所在を共有する。道ゆく人に紛れるため、歩みは止めない。少しずつ距離が縮まる。逆に、雑談を続ける斎たちに少しずつ置いていかれる。すれ違う人に視界が遮られては、またその姿を捉え直す。何度目かのすれ違い。視界から怪異の姿が外れる数瞬。再びその姿を捉える。

 その着物姿は、うつろにこちらを向いていた。

「那智駅行きって何分発でしたっけ」
「2時27分だ。ちと急ぐぞ。そっから那智駅13分発のバスだな」
「シビアすぎるて」

 斎は手早くスマホで時刻を調べ、歩幅を広げる。それに合わせ、私も歩みを早める。横の怪異は着物のくせをして特に苦も無く横を歩いて付いて来ていた。


 無事目標の電車に乗り、バスへ乗り換えて一息つく。乗り換えをミスるとこの田舎、40分台はザラだ。早足で正解だったと言える。ただ、万事平常というわけにはいかないようであった。

「やっぱり、死んでるねぇ」

 唐突にバス内で丸山がポツリと呟いた。

「死んでるって何が」
「ここら一帯の現実性ですよ。一般レベルまで落ちてます」
「なんか、熊野にいるって先入観で変な感じになるね〜」

 時間も時間だからだろうか。そこそこ空いたバスから降り、人の少なめな道を行く。両脇に絶え間なく聳える熊野杉は、太く巨大なその姿は幾本も静かに佇んで、林間は日光を和らげる。宮駐に入ってもその現実性に変わりはなかった。閉場の時刻が迫る頃、境内に入場する。

 日の傾いた境内に、人はまばら。閑静で、神気が死んでいても、その境内の整然とした玉砂利と朱の社殿のコントラストが厳かな雰囲気を生み出していた。

しばらく散策して、ふと全員の足が止まる。



「結がおるわぁ……」
「あれが、件の心霊だと思う……けど」

 死人の姿をとるのではないのか。私もサキも、祖父母、両親ともに死んでいるわけではないから見えないのだとして、なぜ丸山の姿なのか。それよりも、あの霊的実体からは、怪異特有の気配を感じ取れない。あの存在は一体。

 その正体に覚えた違和感と疑念に、対処手段を考案することも、まして実行に移すこともできず、一定の距離を保ち動けない。視界の端で何かが動く。

   サキ。

 待って、という言葉は音を成さず、息として抜けた。彼女の手から手榴弾のごとく放られたのは岩塩。古典的かつ汎用性の高い清め塩。それは、怪異の体を捉えることなくそのまま放物線を描いて地面に転がる。
 瞬間。今まで微動だにしなかったその顔が、丸山の写しのようなそのナニカの両目が、現田サキの目を捉える。

 彼女は、唐突に軽い足取りで足を踏み出して、心霊体に突っ込み、そしてすり抜けた。

「……は?」

 間の抜けた声。それが自分から出たものだと理解するのに数瞬。そのまま少し先に行ったサキが、こちらを振り返り手を振っている。「早く探索に行こう」と急かす。
 
 見るな。本能がそう警告している。次いで頭が、本能で勘付いた事実を理解する。  今まで人海戦術で滅多な情報が上がってこなかった心霊の目撃情報たち。

   情報は全て目撃で、除霊、戦闘記録は上がっていない。

 それは何故か。接近したら記憶から抜けるからだ。正確には、目を合わせた瞬間に認識が不可能になる。今までのフリーランスも、情報を深追いしなければ報酬が上がらない歩合制に眩んで接近したんだ。住民は遠目で見るか、すでに目があって忘れている。

 ダメだ。目を合わせるな。この情報を持ち帰れ。次に活かせ。絶対に。自分に必死に言い聞かせる。

 向かいで少し不機嫌になりつつあるサキが見える。彼女は無防備にも目を合わせ、あの心霊体をもう認識出来なくなっているだろう。本宮境内でのサキの奇行の時、ずっとそこに奴はいたのだ。私はすでにそれと目を合わせていたことで認識できなかった。

「あいつは怪異じゃねえのか」
「わかりません。ただ、間違いなく高次元体です」
「現田はあれ、どうなってる」
「目の前の心霊を認識できなくなったと思われます」
「俺はどうすれ  

 斎との小声の問答。中空を眺めていた丸山もどきの目が動く。

  あ? あぁ、現田は落ち着けよ。閉場までには境内は一回りできるんだから焦んなくても見つかるだろ」

 持っていかれた。先輩の認知も外された。
 奴と目の焦点が合う数瞬前。背が泡立つ。暗い。昏い。虚無だ。あれは怪異じゃない。肌には何も感じないが、本能に訴えかけるその特性には覚えがある。それは神。

「ピスティ  

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かぎ



「ねぇ斎。 こっちの方からねぇ、神様の匂いがする」

 閉場間近の16時半。那智大社の境内から一つ奥の飛瀧神社への道中、唐突に丸山が言う。那智大社境内を一通り見て回ったが、証言にあったような心霊体らしきものを確認出来ず、結局のところ張り込みは不発に終わっていた。

「神様の匂い……って、飛瀧神社の方に主祭神がいるのか?」
「いやぁ、いないね。匂いだけ」
「はぁ?」

 容量を得ない丸山の物言いに、斎は意味がわからんという顔を全面に出して聞き返す。

「神様がいねえのに匂いは強いのか?」
「上手く言えないけどねぇ。この辺りから急に強くなってきてる感覚だぁね」

 あたりを暫く見回して、怪異は一方を向いた。山道から外れた山奥の方だ。少し傾き始めた陽光が林間を抜けて差し込み、散乱した光の帯が幻想的な景色を作っていた。

「行くか」
「もう夕方だがね。遭難するて」
「……どうだ、丸山。場所は近そうなのか?」

 答えを返す代わりに、着物の袂を揺らし、山道の脇に一歩踏み出した。

「じゃあ、行こうかぁ」



 暫く歩いていると、自分でも肌で実感できるほどに周囲の空気が張り詰めているのが実感できるようになってきていた。山道ではほぼ何も感じなかったから、やはり丸山は人間以上の感覚野を持つのだろう。もうだいぶ那智大社、飛瀧神社の境内からは大きく外れた山中にいる。暫く道なき道を丸山の先導で登っていて、来た道を振り向いても山道も人の声も聞こえない。

 ふと気付く。虫の声も、鳥の声もしない。さらに言えば、足を踏み出すたびに下草から飛び出す虫の類も見当たらない。いつもなら脛らや腕やらに当たり屋の如くぶち当たってくるその諸々が、ここには一切見られない。
 奥に行くにつれ、下草が高く多く密度を増し、歩きにくくなってくる。サキがふと屈み込んで、来た道の方を向いた。

「おかしくない? 変よね?」
「何が?」

 彼女はこちらを見ずに指を足下から麓の方に滑らせる。

「全部向こう側に傾いとる。ここらの杉も。全部そうだがや」

 足下に目を落とし、辺りの杉を見回す。柔らかな土壌に沈み込む運動靴の底の、冷やっこさが伝わってくる。麓側に這う様に流れたシダ。斜面に根を張る杉たちは、皆一様に同じ方向、来た方向にかしいでいて、倒れやしないかと不安になる。
 こう言うのは見覚えがあった。防砂林だ。成長の過程で海風にひたすら煽られて傾いた松と似たような。そんな光景。嫌な想像が思考の大部分を覆い、冷静な部分を圧迫する。

 今、ここに麓へ向かって吹き下ろす風はない。これが通年のある時期、時間帯に吹く恒常性のものでない場合は、ここら一体を、木の根から傾けるレベルの指向性の風あるいは衝撃が通ったことになる。

「本当に向かっていいやつ?」
「てか丸山、お前この現実性ん中で具合はどうなんだ」

 少し先をゆく着物姿は、結った髪を小刻みに左右に揺らしながら歩き続けている。

「大丈夫だねぇ。僕も守護として少し強くなったんだよぉ。それより、ほら、もう少しだから頑張ろうねぇ」

 いつになく弾んだ声で一向に止まらないどころか、振り向くそぶりすら見せないその背中を見失わぬように、諦めて追いかける。なんであんなにテンションが高いんだ。なんでこの高い現実性の中であんなに元気なんだ。そもそもこの現実性の高さはなんだ。
 徐々に陽の勢いが弱まり、次第に杉の林冠が薄黒く霞む。いくら夏といえど、熊野は産地の東側、日が翳り始めれば途端に独特の閉塞感が滲みだすらしい。

「あいつ、神様探しに浮かれてやがる。帰ったら説教だな」

 私たちですらそこそこ手間取る柔らかい土の斜面。中程から折れた太い幹や、増える倒木を横目に最新の注意を払いながら一歩一歩踏み出す。進むにつれ明らかに若木の増えていくその山肌を軽々と着物姿で登る丸山の足元に目をやれば、草木が動いていない。今は実体化していないらしい。いつの間にやら一人だけ楽をしてやがる。内心で唾を吐いた。そうやって、先ほどから首をもたげるネガティブな想像を追いやっている。

 それが功を奏したか、心象を反映するように、徐々に上の方が明るさを増していた。


 やがて、木立を抜けた。







 コンクリ。迷彩に塗られた壁。少し錆びた有刺鉄線。







 およそ森の中に似つかわしくない、あまりに人工的な構造物。

 高い。自分の背丈の倍いくかどうか。見たところ3メートルほどか。緑や黄土の塗装が剥げて、下地の灰色が剥き出しになっている場所が散見される。見上げると後ろに転げ落ちる錯覚を覚え、早々に見上げるのをやめて丸山の姿を探す。

 居た。

 左側、数十メートル離れたところでたおやかに手招きしている。顔はおもちゃを見つけた子供のような、ただひたすらにこの現状を楽しんでいる様な晴々とした表情だ。

「待ってよ結」
「いくぞ」

 呼び止める声をかける前に物影に消える。自由すぎる。消えた辺りまで早足で寄れば、圧迫感のある壁は直角に曲がり、少し広く確保された土地が現れる。白茶けた土からは、控えめな山地の植物が花を咲かせていた。例に漏れずこの建物から離れる方向に向けて倒れている。ところどころ途切れた白線を見るに、ここは駐車場か。

 ぎぃ、と甲高い耳障りな音に顔をあげる。少し離れたあたり、コンクリの壁が途切れたところに門が構えられていた。その門を斎とサキが開けた音だ。茶色に塗られたその門は、鍵がこじ開けられた痕跡や、大きく歪んだ部分が目立つ。蔦で緑に彩られ、壁面には再度様々な苔が根を張っている。

「なんなんですか? ここ。さっきの外壁、迷彩まで施されてましたけど」

 自然と声をひそめる。別に誰かにバレるかもしれないとか、そう言った理由からだけじゃない。境内では騒がしくしない方がいいとか、大自然の異様を目にすると言葉が出なくなるとか、そう言った系統のものだ。周囲の現実性は一定して非常に高いが、特定の維持装置や発生源らしきものが見当たらない。なぜこのエリアだけ。その疑念は、目の前に広がる光景によって一層謎を増した。

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 打ちっぱなしのコンクリート造り。窓の外に広範囲に散らばったガラス片。周囲を伝う植物のおかげで森林に溶け込んだ建造物は、窓という窓が全て割れ、内部は若木が瓦礫の隙間から顔を覗かせている。

 屈んで土をひとつまみほど手のひらに乗せた。
 黒く炭化しているような、炭のような匂いと、腐葉土のような香ばしい香りがする。少し大きなかけらをつまんで見れば、原型を保てずに粉々に砕けた。

「何かと争った様な痕跡が多いですね」

 おそらく建造物の入り口部分であろう場所の割れたガラス戸を跨いで侵入する。扉に張られていたバリケードと思しき物品はあらかた破壊され、ガラスは全て外側に散らばっている。サキが、芝の様な植物を掻き分けてガラス片を摘み上げて日にかざした。斜陽に煌めき、彼女の顔にいくつもの光を落としている。

「なんで外側? 侵入するために割ったんなら内側に散らばるもんだがや」

 確かにそうだ。外から見る限りでも、窓ガラスはその尽くが外に散乱している。つまるところ、ここで発生した何某かは内側から衝撃を与えられるような現象だろう。それが人為的である可能性は低い。人ならば、バリケードで固めた戸やガラスをわざわざ破壊するなんて行動は一貫性が見られないし、脱出のためだとしても2階以上の階層で窓を全て破る必要はない。

「爆発事故ですか」
「それが妥当だろうな。ただ、このレベルの爆発がニュースならないってのは考えにくい」
「そもそも何時こうなったのかもわからないですけどね。昔のことまではそれこそ図書館で漁らないとなんとも」
「ウチは先に入っとるね〜」

 さっさと建物の中に下ろしていたナップザックを放り込み、自身もいそいそと瓦礫を跨ぎ始めたサキに「危ないことしないでね」と念押しする。斎は玄関に迫り出した屋根に腰掛ける丸山を呼び寄せて、お目付役がわりとしてサキに同行するよう命じた。



 入ってすぐの廊下は荒れ放題であった。足場はしっかりして入るものの、細かい瓦礫が散乱して非常に歩きにくい。

 薄暗い部屋、書架は不自然なほどに何もなく、蔓を小型のナイフで切り払いつつ業務机と思しきアルミ色の机の引き出しを片っ端から開け放っても、引き出しを抜いて机の奥を覗いても、紙切れ一つ残っていない。斎とともに片っ端から情報を集めようと捜索しているが、机上にありそうなデスクトップPCの類も、モニターと、切断されたケーブルがあるのみで、どれもデータを取り出せるものが残っている様子はなかった。かなりの手際でファイルを全てひっくり返し、鍵のかかった棚はドアごとテコでひっぺがし、結構散々なことをやっている。

「空き巣かよ」
「こういうのは時間命ですよ先輩」
「手馴れてんのがなんかヤダ」
「手を汚したことはないですよ。あの怪異と違って」

 そういう間にも、部屋を改め同様の作業を続けていく。2階は崩壊の危険があると探索範囲を一階だけに絞った影響か、早々に最後の一部屋、建物の最端の部屋に踏み込んだ。

「っ……!」

 心臓が跳ねた。部屋の隅、青い合皮が張られた椅子  地方病院の待合室にあるような長椅子に、腰を落ち着けた丸山がいた。動機バクバクの私をよそに、相変わらず軽薄かつ胡散臭そうな微笑みでこちらを見ている。茶屋で団子でも持っていそうな雰囲気だ。
 どうやらこの部屋は2階へ上がる階段があるらしい。

「……っくりしたぁ」
「そんなに驚かれるのも心外だねぇ。僕はここに座ってるだけの無害な守護さんだよぉ?」

 ほざけ。こんな高現実性の領域にいて希釈されない怪異存在に気を許せるわけがない。目つき悪いよぉ、と大袈裟に肩をすくめ、その怪異はおもむろに地面を指差す。

「何。てかサキは?」
「現田ちゃん、先行っちゃったからここで斎たちを待ってたんだぁ。連絡係は必要だしねぇ」
「……はい?」

 指差す先を追いかける。ひっくり返った長椅子やらが積まれた瓦礫の山に隠れて見えなかったが、どうやらそれらは手すりにせき止められているようで、近寄ってみればそこにはぽっかりと広い穴が空いている。地下へ降りる階段だ。耳を澄ませば、奥から微かに靴音のような規則的な反響音が聞こえた。……待て。サキ一人で行ったのか? バカじゃないのか。流石に無鉄砲がすぎる。
 お目付役すら全うできないこいつもこいつだが、こればっかりはサキの方が悪い。

 やることが決まれば行動も早くなるというもので、手早くナップザックを下ろし、斎にヘッドライトを投げた。リュックの脇に差した懐中電灯を抜き取って紐に手を通し、目配せ一つ、意外と高さと幅の確保された広い階段を下る。
 照らされた壁面や階段は、細かくヒビこそ入っているものの、白く塗装されて清潔な印象があった。外の荒れ放題の廃墟からは想像もつかない。

 植物というのは生命力逞しいらしく、光の届かない地下においてもそれなりに進出していた。こんな暗所で葉緑体がどう仕事をするのかはわからないが、光にあたったそれらは瑞々しい緑色を目に返してくる。さらに階段は下へ続いていたが、ひとまず上の階から探索をすることに決める。

 タイル張りの廊下はところどころ大きく捲れ、その隙間を埋めるように苔が覆っていた。完全な暗所でヘッドライトの丸い光が複数、忙しなく壁やら床やらを走り回る。どことなく病院のような研究室のような、公共施設の類が持つ整然さを感じさせる作りだ。
 試しに覗いた給湯室らしき場所のシンクには、バキバキに折られたハードディスクが水没している。上で薄々勘付いてはいた。

 明らかに証拠隠滅の痕跡。

 斎が屈んで、シンク下に備えられた冷蔵庫らしきものを開ける。いい予感がしない。こういうのは虫の巣窟になっているというのはゲームでの常識だ。黒いアイツがわっさ〜と湧き出す姿を幻視し、少し距離を置く。

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「……あ?」

 足元に冷気は感じない。電気がつくようなこともない。ひとまず斎が虫にたかられないことを確認して近づく。
 扉に手を置いて固まった彼の傍から見た光景は、異常。


「なんで腐ってねえんだ」

 絞り出すように呟いた斎が、冷蔵庫から一皿取り出す。ラップに包まれたカレー。香辛料の効いた食欲を刺激する香りが廃墟に漂う。奥には少し傷んだサンドイッチも並んでいた。付箋に書かれた人名は取り分主張の名前だろう。

「この高現実性空間の影響、ですかね?」
「周りの植物の繁茂具合から行って、これが腐らずに残れるとは思えないぜ?」
「植物側が異常性を発現してるとすればどうです」
「植物の成長速度が異常だとして、生ものが少し痛む程度の期間のうちにここが廃墟化したってのはなかなか無理がねえか?」

 わからないことが多すぎる。そもそも私たちの依頼は心霊実態の調査だったはずだ。この局地的な現実性異常、熊野全体の現実性低下。神気の弱体化。結局心霊実体の目撃情報の場所にそれらは確認できなかったくせに、それ以外の、主要因に関連はしているだろうが決定打に欠ける部分ばかりが積もっていく。

「ねぇ、現田くんの足音が聞こえないんだけどねぇ。探すんじゃなかったのかい」

 廊下から丸山が呼びかけるのを聞くや否や、斎は雑にカレーを冷蔵庫にぶち込み直して立ち上がる。直近の異常事態に、思わずサキのことが頭から飛んでいた。足早に、行く道の扉を開け部屋を覗き、不在を確認しては次の部屋へという動作を繰り返す。このフロアにはいない。

   ふと、耳に小さく声が聞こえた気がした。呼ぶような声だ。

「サキ?」

 聞こえた方へ急ぐ。階段を駆け降りる。今度は明確に声を捉えた。サキだ。

 病室のような横引き戸。ステンレス製の取っ手を握る。汗ばんだ手のひらから熱が奪われるのを感じながら、思い切り横に開け放つ。

 他の部屋よりも幾分整った部屋。その隅。一つの光円。膝をつくのは現田サキ。

 私が安否の声をかけるより早く、弾かれたように顔を上げた彼女は。普段のにへらとした雰囲気を微塵も漏らさず、叫ぶ。





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