事始ことはじめ
セミの小便は冷たい。
夢川初ゆめかわはつは今後使うこともない雑学を仕入れ、放尿から身を挺して乙女の顔を守った帽子を濯いでいた。あのセミも防御手段故のお漏らしであったろうことはこの際考えない。別に自ら木を蹴飛ばした制裁として引っ被った訳ではないし、もちろん意図的に食らいに行ったわけでもない。
「ほんとごめん」
自然豊かで緑が美しい オブラートを剥がすなら、何もないだだっ広い公園の水飲み場。周りはだだっ広い田畑で農作業に勤しむ爺婆と、ポツポツ並ぶ一軒家と屋敷森。その奥には次第に霞む山陵が控えている。
そんなド田舎の草原のごとき公園で、両手を合わせてこちらに頭を下げる現田げんだサキを横に立たせて洗濯に精を出すこと十数分。
ジャリ共の遠巻きな視線に対し、「見せもんじゃねえぞ」と噛みつくほど精神性は幼稚ではない自負はある。あるが、どうにも気は散った。
その原因かつ、私にセミを嗾けしかけた犯人はさっきから平謝りを重ね、溢れる語彙力で多様な謝罪を紡ぐ。そろそろ若干呆れと鬱陶しさが、ふつふつと湧いてくる頃だ。
帽子のつばに鼻を近づけて匂う。
セミの小便がクサいとか、あれが生物学的に小便かどうか、なんてのは知ったこっちゃないが、気持ち的には鳥糞爆撃と変わらない。むしろ、ぱっと判断がつかない分こちらの方が悪質である。
「え、あコレ持っときゃ〜いいのね。まかして!」
溌剌とした名古屋弁。彼女に洗った帽子を押し付けて、清流迸る蛇口の下に頭を突っ込んだ。所在不明の汚れと共に、髪に残る灼熱もすっかり浚さらわれていく。
高い陽光を薄らと透かした白髪を頬に張り付けて横に一瞥をくれる。彼女は用意よくハンドタオルを差し出し、同時にその気配りの上手さを台無しにする無邪気な声を被せてきた。
「いやぁ蹴飛ばした石でセミ飛ぶとかわからんもんね!」
まるで同一人物とは思えないあっけらかんとした声音。拳を握り込んで力を発散し、帽子をひったくって深く被り直す。気化熱の心地よさで気を紛らわせ、私は先に公園の出口に歩き出す。
「うぇ、ちょっと待ちゃ〜よ! 怒っとる? やっぱ怒っとるがやぁ!?」
「行くよサキ。まだ聞き込みすら始まってない」
「やっぱ怒っとるやん」
気にするだけ無駄だ。別に謝罪が嘘でないことは長い付き合い故に理解しているが、同時に、どうにも性格的に楽観主義のきらいがあることも嫌というほど知っている。16年間大事に育んだ若い感性は大事だとは思うが
道端の石を蹴って歩くのは小学生までで留めておいてほしい
と思うのもまた事実である。ただ、これも彼女らしさだと言えばそれまでかもしれない。
ちょこまかと纏わり付き、覗き込んでくる顔から目を逸らす。逃がした視線そのままに、野次馬根性旺盛なガキ共を目力で蹴散らそうとして、ふと本来の目的を思い出した。
聞き込み。そう、聞き込みだ。
「ねえそこの君」
言葉遣いを他所行きに切り替えて、深く被った帽子のつばを少し上に押し上げる。
「“何も 「“何もない場所”ってどこにあるか知ってるかな!?」」
無邪気な疫病神に横からセリフを奪われて、今回の依頼は幕をあけた。
聞き込みに際して色々と回ってみれば、ごくありふれた片田舎であった。野次ガキに聞けば、問題の場所は鬱蒼とした山の方らしい。とは言っても四方は農地で、見る場所全て山である。具体的にどこであるかはわからない。
度重なる部分整備で痛々しくパッチワークされたアスファルト。途切れて消えた白線。見るだけで汗の滲むような陽炎が、向かう景色を朧げに揺らす。
「みてみてお初ぅ! 刺さっとる!」
路肩のバイクの傍らに蹲み込み、溶けたアスファルトに飲み込まれたスタンドを指差してテンション爆上げのサキを引き剥がした。
「下敷きになりたいの?」
「いや、珍しかったから見せたくて……あ!」
せっかくの心配に対し、彼女は気もそぞろの様子であった。言い訳もそこそこに、今度は大きめのトンボの方に駆けていく。かと思えば農作業中のおばあちゃんに手を振って話をはじめる。実に自由気ままだ。
ズカズカと畦を降りていったサキを上からしばし見下ろして、束の間の休息を取る。すっかり彼女に振り回されて、どうも小型犬でも散歩している気分にさせられる。心配が通じていなさそうなところまでそっくりだった。
「あの人、なんだって?」
「ん〜、あっちの方は行かん方がいいよって。何でって聞いたらよう分からんけど、行っても何もにゃ〜し昔っから近づかんように注意されとったで、とりあえず守っとるんだて。田舎特有の慣習的なものっぽいや」
「……ふーん」
「あと、蛇が出るから気をつけなってさ」
蛇に噛まれたりしないように、子供に言って聞かせる怖い話みたいなものだろうか。
蔦が絡みっぱなしの電柱の傍ら。ケーブルを覆う黄色い樹脂カバーを撓たわませて遊ぶ彼女と、得た情報を共有する。なんだかんだ仕事はするので、気ままな行動を怒るに怒れない。
ぶら下がる彼女の横、視界の端に何か彩度の高いものが目に留まった。伸びた蔓葉を掻き分けると、蛍光色の黄色に黒ペンキでデカデカと手書きされた錆びたブリキ看板が姿を見せる。塗装はだいぶ剥げているが
「行方不明多数……沼田西には近づかないで……月谷、自治会」
読めないことはない。どうやら警告色は正しく作用しているらしく、錆びてもなお私の目をひいた。どうやら農作業中のおばあちゃんと公園のガキが言っていた山の方らしい。
「月谷はこの地域の名前だねぇ」
ワイヤーにぶら下がる姿そのままに、サキも看板を覗きこむ。スマホを取り出して検索をかけた。沼田というのは……はここから少し北の方。その西というと、ほぼ山だ。どうやら登山する羽目になるらしい。
地図アプリのピンに従い、看板にあった地名の方に歩き出す。
「あそことあそこ。ちと向こうの交差点にもあるがぁ」
サキが指差す方向。住宅のブロック塀、電柱、カーブミラーの支柱、三叉路の道祖神の脇、畦道。至る所に、時に木の板、時にポスターの姿で散見される注意書き。認知バイアスが働いたか、先ほどよりも町の至る所で目に付いた。余裕でこの町の人口を超すであろう量。どこを見ても、私たちに睨みをきかせている。
気味が悪い。一体近づいたら何が起こるというのか。
えも言われぬ悪寒を意識の外に追いやって、あちこち止まり、走り、路地裏に消える彼女の背中を追いかける。
「お初ぅ! 駄菓子屋〜!」
路地裏でトンボにフラれたらしい彼女は、路地を飛び出し、新たな目標に躊躇なく吸い寄せられていく。彼女の元に追いついて視線を辿れば、いかにも歴史を重ねていそうな風体をした駄菓子屋が軒を構えていた。
古い牛乳屋の、割れた広告を背もたれに貼っつけたベンチが一つ。駄菓子の詰まった缶々と並んで置かれている。
中に入ると感じる、駄菓子屋特有のこじんまりとした圧迫感。小学生ならいざ知らず、高校生女子が通るにはいささか狭すぎる通路の両脇には、4玉入りのフーセンガムやら、土気色のカエルが居座るスナック菓子やら、今はもう目にしない駄菓子が所狭しと並んでいた。
「駄菓子屋のくせにおもちゃの方が多い」
「そもそもこの田舎で黒字経営できるんかな?」
「さぁね……でもここのおもちゃ全部、旬の時代間違えてるのは確かでしょ」
上を見上げればゴム動力の飛行機模型が吊られ、棚の隙間を覗けば、日陰に置かれているはずなのにすっかり日焼けした双六が何束も刺さっている。
内装を流し見て、いざ、この駄菓子屋の主は何処かと探してみれば、中年のおばちゃんが一人。それはそれは気持ちよさそうに店奥のカウンターで眠りこけている。
「すみませ〜ん! ちょっといいですか?」
どう声をかけたものかと思案を重ねるうちに、止める間もなくサキが元気に声をかける。幸い、おばちゃんは寝起きが良いようで、大欠伸一つを、長々と私たちに見せつけてきた。恥などという瑣末な感性は人生のどこかで既に可燃ごみにでも出したらしい。
「あっっっらやだお客さん? 珍しいねぇこんなぼろっちいお店まで来るなんてもぉ! お買い物? ここの人じゃないわよねぇ旅行なのかしら? 何もないとこだけどゆっくりしてってねぇ! あぁ、そうだ。おばちゃん寝ててあんまりよく聴いてなかったけど何か用があるの?」
こちらの存在を認めるや否や、大きな身振り手振りと共に捲し立てる。その熱量に圧倒されて、品物を見るフリをしながら軒先の方に退避する。
「……むり」
対するサキはテンション高めに会話を続けていた。何か惹かれ合うものがあるのかもしれない。
先ほど見送った軒先のベンチに腰掛ける。双方共に声が大きく、ここでもよく聞こえた。たまに、「あっちは絶対寄ったらいかんよ!」という念押しが結構な語気で飛んでくる。やはり、この地域の人間にとってその場所は決して行っては行けない場所らしい。
人間向き不向きというものがあるが、現田サキと言う少女は、こと一般市民への聞き込みにおいて、どうやら天賦の才を持ち合わせているらしい。高齢者への聞き込みは、もっぱら彼女の役割だ。要らぬことまで喋ってくれる。
2丁目の誰々のところに二人目が生まれたとか、西地区の方で新興宗教にハマった人がいるから行かんほうがいいとか、最近何々さんのところの倅が耕作機で指飛ばしたとか、そんな毒にも薬にもならない話。
玉石の中で石が9から10割なその会話にいちいち最適解の反応を示すのは私には到底無理だ。さっさと核心部分に切り込む方が私には合っている。
「いや〜お待たせ!」
流れる雲をぼんやりと目で追って、時間感覚が曖昧に溶ける頃。無事に長話を切り上げてきた彼女が姿をあらわす。右手をみるに、どうやら買い物もしてきたようである。
「で、何かわかった?」
「まあまあそう焦りなさんなお初どの。ほい、アイス」
そう言ってパピコを折り、その片割れを渡してきながら彼女もベンチに腰を下ろす。いつから雨晒しかもわからないベンチは、苦しげにみしりと鳴いた。素直に彼女から受け取ったアイスを口に含む。
「セミのお詫びね」
「あぁ、そういう」
アイスのプラを齧る。別にここまでしてもらう必要もなかったけどな、と内心苦笑しながら、貰えるものは貰っておいた。なんだかんだ彼女も、先ほどの件を気にしていたらしい。アイスを口にしたのを見て許されたと判断したか、お詫びを食ったならこれでチャラだと思ったか、足を揃えて前に浮かしながら彼女は先ほど得た内容を語りだす。
「早い話が、公園で聞いたあの山の周りの地域に住む人は、絶対にあの山には入らせんってさ」
「おばあちゃんも言ってたね。さっきからたまに怒られてるの聞こえてたし」
おばちゃんは話の中で、私の方にも忠告しておけと念を押していたような気もする。
「うん。あそこは昔からよう人が行方不明になるからだって。駄菓子屋のおばちゃんも子供の頃からずっと言われとるし、実際に何回もあの山の周りで人が消えとるもんで絶対に近づかん〜って言っとった」
たびたび聞く失踪。いずれも人が消えるというのみで、何も詳しいことがわからない。山中で消えるなら遭難ということもあろうが、周囲で消えることに対する説明はなかなか難しい。
「なんだろうね。誘拐? 自殺? てか警察は動かないの?」
「それがさぁ、警察もあの一帯には近づかんのやって。昔に捜索活動しとった警官が一人消えてから、山の近くには行かんし、クマの仕業だろうって言うて聞かんらしいわ。猟友会も数ヶ月の間、体裁上は熊狩りするけど、せいぜいあの辺りを少し離れたところから巡回する程度だって言うとった」
田舎の警察組織ではたまにある話だ。大抵は自警団組合がメインに活動しているために、そもそも失踪が届けられなければ捜査はしない。面倒事の匂いがする。この依頼を受けたのは失敗だったかもしれない。かといって突っぱねたら今後に響く。嫌な仕事だ。
騒ぐセミの声のを聴きながら、少し水っぽくなったアイスを吸い切って、この依頼を持ってきた一人の男に愚痴を念じた。
禁足きんそく
「お待ちかねの小遣い稼ぎや」
愛知県某所。向かう相手は二人。初めは可愛らしい相手だと思った。蓋を開ければ底無しに気色悪かった。
いつもの商談場所で、注文した昼飯を早々に食べ終えた男は本題を切り出す。
「私は東にジュース一本!」
「じゃあ私は西ね」
流れるように賭け事を始めた少女二人を無視し、対面に座る、愛知県内ではそろそろ希少種であろう自我の強い関西弁を操る男は、ヨレたファイルケースから資料をいくらか引き抜いた。
「西や西。岡山の山あいの方やわ」
自分からふっかけた博打に負けた哀れな敗者は露骨にテンションを下げ、後ろで二つに結ったおさげを揺らしながらホットサンドをモソモソ齧る。対して今回の勝者は生真面目そうな相貌を崩さない。白になるまで脱色した髪に赤い大きめのリボンカチューシャが、着用者を真似るようににすん、と澄まして立っている。
「じゃ、なるだけ高いの頼もうかな」
勝者は硬い装丁のメニュー表を机上に開き、敗者と頭を寄せ合って賭けの賞品を吟味し始めた。男が仕事の話に入ろうというのにお構いなしだ。
「前みたいにドンキの2Lボトルでいいじゃん! そっちのがお得じゃんね」
「おい現田、後にせえ」
「奢られでもしないと高い飲み物買わないもん。ここで一番高いの頼むに決まってるじゃん」
「夢川もだ」
「あ、ねぇ、パフェでもいい?」
「おい」
クソガキ……何度目かも分からない脳裏をよぎる4文字を口に出さないだけの理性を男は持っていた。
苦言を歯牙にもかけず、世間を舐めていそうな態度の二人をしばし胡乱げな目で見つめる。男は言葉で仕切るのを諦めたか、無言でメニュー表の上にどさり、と資料を積んだ。
彼女たちが目も合わせずメニュー表の上から資料を押し退けようとするのを押し留め、結露したグラスを脇にやって必要なスペース分だけ机上を雑に広げる。仕事相手をこうも雑に無視できる精神の図太さは、この仕事と幼い頃から置かれる境遇で培った性格か、年相応の生意気さか。
「ちょっと」
「仕事の話を、させろ」
「いいじゃない。気が滅入るかも知れない仕事の話の後のパフェなんて美味しくないし」
「私はジュース賭けたじゃん! ね、せめて飲み物にせん!?」
全くもって姦かしましい。女3人集めなくても十分にやかましいではないかと、漢字を考えたやつに物申したい。かといって奻かしましいと当て字をしようと思えば、すでに奻いいあらそうなんていう読みが用意されている。誠にその通りだと思う。こちらに一切意識を向けないで言葉の応酬を繰り広げるわ、一丁前に文句を言いやがるわ、面倒臭い事この上無かった。
「今回の依頼は面白みがあるかも分からんで。報酬も高い」
二人の目線が同時に男を捉え、すう、と目の色が変わる。片眉を僅かに上げて見せれば、双方ともに背筋を伸ばした。深い焦茶色の瞳の奥には、かたや隠しきれない好奇心、かたや仕事に対するお堅い責任感が伺える。
「面白さは置いとくとしても、話は聞こうか」
「最低何枚? 最高は?」
そして何より、2人には金に対する執着があった。彼女たちの稼ぎであれば学費や下宿代を差し引いても、遊び、友人、恋愛……他に打ち込める金などごまんとあるであろうくせに仕事一辺倒。ならば金稼ぎが生き甲斐なのかと思えば、賭け事はする、パフェも食う、そもそもこのカフェで飯食って少なくない金を吐き出している時点で、支払われた報酬の数割が斡旋業者の懐に流れている。
彼女らを受け持ってからずっと、宵越しの金を持たない主義のような、短い人生を知りながら人一倍楽しむような、そんな雰囲気を感じていた。
年不相応に大人を纏っている。普段のガキっぷりからは想像もできないほどに。
そんな得体の知れない気色悪さに呑まれかける。粘っこい生唾を飲み下して喉奥を湿らせ答えた。
「……出来高で左右されるが、上限は青天井っちゅう話やわ」
金に糸目がないと知った彼女らは、あからさまに喜色満面の面持ちで先を待つ。だが、気になることもあった。
「せやけど夢川、お前旅館の手伝いはええんか。コレから繁忙期やろ」
「手伝いは自主的にしてるだけだからいいわ。数日泊まりで遊ぶって言えばいいし。お金はそっちの口座に入るからバレないし」
「まぁ、お前の稼ぎは貯めてあるけどもやな……本当の遊びに使ってもええやろ」
「多分大学行かないし、今は祖父母に学費払ってもらってる状況だし。高校まで出たら怪しまれない具合に返す用のお金よ。サキは学費に加えて一人暮らしのお金もあるし」
「賃貸契約人は俺名義やからサキの分は報酬から天引きしとるわ。学費も貯蓄から出してんのに……それでも余ってるから言うてんのや」
夢川は面倒くさそうに、しっしっと手を振って「そんなの自由でしょ」と吐き捨てた。大人しく引き下がる。
モスグリーンに黄金色のラインが一本入ったセーラー服。典型的な学生服を纏う女子2名に齢30ほどの男が相対し、ともすれば若干気圧されているようにも見える光景は、人も照明も足りないこのカフェの雰囲気も手伝ってあまりに異質な空気感を醸す。目の前の仕事人たちは、どちらも目を逸らさず、黙って先を促した。
角のボックス席。猛暑。7月。平日昼。ほうと一息、斡旋業者の男は気を取り直して口を開く。
「今回の依頼は岡山の山中。まぁ安心せえ。危険性はおそらく低い。なんせ、そこには“何もない”って話やからな」
「とは言っとったけどさ〜!。ほんとに何もないなぁ!」
ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん。
角の残った岩が転がる河原に、涼しげに水を打つ音が複数回鳴る。周囲の木立からは、最近都会ではめっきり聞かなくなったクマゼミの声がしゃんしゃんと騒がしく出迎えていた。
ふもとの町からすでに大合唱だったが、ここのセミの量は正直言って異常だ。もう少し山鳥の歌声なんかをBGMにハイキング、なんてのを妄想していたのに、鳥の声一つも上がらない。さしもの鳥類も連続的な暑さにだれたらしい。
依頼三日目。明朝。
私たちは聞き込みを終え、件の場所へ向かっている。まだ日は高くないが、遠からず木陰を消し去って私たちを焼き始めるだろう。木立の隙間からたまにちらちらと瞬く陽光が、河原の水面を踊るように、青白く跳ねている。ついでに、サキのぶん投げた石ころも。
「そりゃ、依頼が依頼だし。寄り道してると置いてくよ」
山道も何もない奥山に似つかわしくない、明るく通る声と、対照的なまでに抑揚少なで物静かな声が呼応する。
私は白い帽子を深めに被り直す。長袖のインナーに白Tシャツ、高伸縮性のトレッキングパンツを合わせ、いささか体に見合わない赤のアウトドア用リュック。山仕様の装いである。
少し歩幅を緩めて木立の方を仰ぎ見た。本当にセミが私たちを出迎えているかはわからない。なんせ、そろそろ依頼の土地に足を踏み入れるであろう頃合いである。もうとっくに踏み越えているかもしれない。彼らは初日に私の帽子に対して小便爆撃してくれやがったが、これ以上進むなとおせっかいにも忠告している可能性も万に一つあるかもしれない。まさしく虫の知らせだ。野生の動物は、犬猫しかり、昆虫しかり、いつだって人間より早く災害を感知する。
ただ悲しいかな、セミの善意は届かない。私たちはそこに用があった。
「お初はもっと周り楽しまんと〜。意外な所に手がかりがある事はようあるって刑事ドラマでも言うがね」
「サキがずっとやってるその石きりは手掛かりに繋がるの?」
「これは遊んどるだけ」
しゃがみながらまた一つ石を見繕って横に振りかぶったサキを見納め、置いて行くことに決めた。後ろで歓声が聞こえる。8回跳ねたらしい。
“何もない場所”にはほんまに何も無いんかっちゅう事を確かめる依頼や。詳しいことは何もわからん。せやけどそこにゃ何もないことと、神隠しだかなんだかで人が寄らないっちゅうことだけは聞いとる。これだけみんなが口を揃えてそう言うっちゅうこたぁ民間に伝播するタイプの認識災害の一種やないかとは思っとるがそれも不明や。依頼主は匿名で詮索は無用。
カフェで聞いた斡旋業者の男の話を思い返す。
「分かっちゃいたけど危険性しかないわね」
今回のものが反ミームだとして、財団がそう呼ぶ性質の何かは開けるまで危険性がまるでわからないガチャ。そもそも姿を隠している時点でろくなモノじゃない。私たちにできるのは、数多の大凶の中から凶を引き当てられるように祈ることだけ。
何が「危険性はおそらく低い」だ。
業者の男に毒付きつつ、なんの手がかりもない以上サキの行動も案外的外れではない可能性に思い至り、腑に落ちないものを抱えながらも深く考えるのをやめた。
「ふもとの人の話じゃ、この辺りは人が入らせんって聞いとるもんで、あるとしたらこの辺だって」
「あるのが人の遺構なら、ね。それ以外なら面倒臭いこと極まりないけど」
一つ大きな岩を回り込む。道など存在しないこともあって仕方なく河原を歩いているものの、ここの歩きにくさったらない。人の営みは水場に興る。こんな山間部であればなおのこと。人の生活環境が反ミーム化した前提での皮算用のしょぼい推論ではあるが、地雷原のごとき土地などさっさとおさらばするに限る。
「立ち入らないって言ったって、ここが神域とか、神聖不可侵の聖域ってことは特に言われてないし」
「聞き込みの雰囲気じゃむしろ忌地いみちだって感じだがや」
「これだけ山奥なら部落か何かかな」
忌地と呼ばれるものの原因は実に様々。穢多非人えたひにんの被差別部落、かつての処刑場みたいなものは得てしてそう呼ばれる。ここが忌地という話なら、今回の場合は部落なんじゃないか、そう睨んでいた。
部落は明治時代に形式上姿を消した、差別階級が集まって成した集落。一般人の忌避する行いを職業にしていることが多く、またその多くは山中に隠れるように共同体をつくった。日本においては、殺生を嫌う仏教と、血を穢れとする神道が混ざりあった上に農耕民族的な共同体思想も相まって、より一層差別のきらいが強かったそうだ。
「部落かぁ。つくづく変わらんもんだね。染みついた風習ってのはさぁ」
差別が姿を消したとは言ってもそれは表向きで、そう簡単に人の意識は変えられない。平成に入っても部落差別はカビの如きしぶとさで地方に根を張り続け、『差別をなくそう』と書かれた看板が小学校前に立っていたり、地域丸ごとからよくない噂を囁かれる一家だったりが、今でもときたま見受けられた。
全く。いつの時代になっても変わらない。
「何もないなら遊んで帰ろうやぁ。何も居らんでしたって言やあ終わりだがや」
「何もないなら依頼なんてされないでしょ」
「何か掴んどるんなら無知の私たちなんか送り込まんでもええがぁ」
「鉱山のカナリアみたいなもんでしょ。何かあって帰って来なかったらここには見切りをつける腹積もりだろうね」
「う〜わ知っとったけど!」
先ほどから話かけてくる彼女は、どうやら石きりに飽きたらしい。手持ち無沙汰になったのか、すぐ後ろをちょこちょこと付いてきている。
「やっと真面目に進む気になった?」
「飽いた」
「ならよかった。子供遊びもほどほどにね」
正直やめてくれるならその方が有難かった。無論依頼に集中しろという意味合いが強いが、石きりは儀式の一つになり得ると過去の依頼で知っているせいで、どうも無害だと割り切ることができない。ただ、当時その依頼にサキは関わっていなかったから、知らないのも無理はない。
儀式内容としては、確か現世と幽世の攻防だったか。跳ねる回数で毎年土地神の鎮護安泰、五穀豊穣を占うとか言う内容だったはずだ。昔ながらの遊びなんてそんなもので、『だるまさんがころんだ』も『かごめ』も『はないちもんめ』も、当初の目的は負の継承や儀式。場所は遠く離れているが、何が起こるかわかったもんじゃない。
ときたま、二言三言会話を交わす。惰性で踏み出す足は、今日何度目かの不安定な石に苦戦する。
昨日から、若干の後悔を引きずっていた。おそらく、とんだ貧乏くじ。その分割りはいい。報酬が青天井なんて、とんでもない金脈だ。突っぱねて仕事が回されなくなるのと比べれば割に合わなさすぎる。
穴蔵フリーランスに所属する理由は数あれど、私たちは生来備わっている霊感を利用して生活の工面や借金返済のためにやっていた。私の祖父母は知らないし、サキの両親は法の元に決別しているから知るわけもない。そも穴蔵入りだって、高校の先輩による半ば強引かつ、どうしようもない配属だった。
誰が呼んだか“自主接触型ワンダー”とかいう分類のフリーランス。所属前からサキと連んで独学でやっていた霊媒ごっこが仕事になっただけで、依頼は怪奇現象やら霊的実体やらに関わるものばかり。学校でも違和感がないように、私たちの間じゃもっぱら煤払いなんて呼んでいる。
ここは特になんの気配も感じない。ごくごく平和だ。そしてこの仕事じゃそれが一番、恐ろしい。
兎にも角にも、なんだかんだ今まで死んでいないのだからこの先も何とかなるだろうなんて、テスト前の謎の自信にも似た、根拠のない確信を頼りにやっている。
「あれ? 普通に屋根っぽいもん見えるけど」
勝手に先行した彼女は、一方を指差しながら大きく手を振る。あれから十数分程度しか経っていない。案外簡単にカタがつくかもしれない。わずかに膨らむそんな期待を押しつぶすように、それ以上の不信感が覆い被さる。
「何もないんじゃなかったの」
彼女の目線の先を仰げば確かに、山の斜面に数軒ほどの茅かやを葺ふいた屋根らしきものが見える。村というほど大きくはない。集落と呼ぶのが妥当か。ただ、山奥にしてはそれなりに広く、ここだけ河岸が切り開かれていた。
何もないのに依頼が来るのも、何もないのに何かがあるのも怖い。私はいつの間にか顰めていたらしい眉間を数回揉む。
気は、乗らない。
「とりあえず、行こ!」
「そうね」
「手分けする?」
「ちゃんと仕事しなさいよ?」
「善処いたします!」
自分の両頬に一発ずつ。少しズレたナップザックを背負い直す。よしと、一言呟いて気を引き締め直した。
まるでレジャー気取りのサキも、少し真面目な面持ちに切り替える。ただ、いつまでこの真面目さが続くかはわかったもんじゃない。彼女がいつだって好奇心由来の無鉄砲さを忘れないことを私は嫌と言うほど知っていた。それが良い方に転がるかどうかは多分本人も知らない。
集落は、一見して普通の限界集落や廃村、人の手で整理されず自然に戻る途中の里山のような雰囲気を湛えていた。雑草が繁茂した、畑だったのだろう跡地。ウリ科特有の鮮やかな黄緑の大きな葉に、隙間から覗く黄色い花。曲がり放題で先祖返りや交雑しているのであろう鈴生りの実。畦道の塚は辛うじてかつての形が見える程度にしか残っていない。支柱は木が腐っているし、荷車が腐って、取手らしき金属だけが骨のように転がっている。
伸び放題で当初の2倍ほどにはなっていそうな生垣を回り込んで覗いてみれば、河原から見えた建物はどこも昔ながらの日本家屋だった。かつて門かぶりの松であったと思しき木は、剪定されていたであろう頃の姿を想像できないほどに枝葉を伸ばし、道の方までせり出している。
「とりあえず、反ミームの線は消えた……かな」
上を見上げ、誰にともなく独り言。まさか石きりがトリガーなどというわけでもあるまい。こんな簡単に見つけられるならば、ミーム性を持つ可能性は低いだろう。少し気が楽になる。
敷地に入ってまず見上げた茅葺き屋根は重そうに、苔むして緑に変色した庇ひさしをもたげていた。玄関の引き戸は骨組みがかろうじて残る程度で、吹きさらしの中で原型を留めることは叶わなかったらしい。土間を覗けばかまども羽釜も全て在るべきところに収まっている。中は床が抜け落ちてまともに歩ける箇所はないが、レトロチックなドレッサーやその上に取り付けられた布切れの掛かった鏡、少しくすんだラッパのついた小さいレコードプレーヤー、形をしっかり保ったままの桐箪笥なんかの家具が丸ごと残っていた。
どの家屋もそうだ。人にも獣にも荒らされたような形跡はなく、ただ当時のままが残っている。
最後の家屋を一回りして敷地の外に出た。
「結構高い……」
知らぬ間に結構高さを稼いでいたようで、廃集落のパノラマが広がっている。
川の方を見下ろしてみれば、おそらく切り立った崖の上であろう場所、森を背にして鳥居とこじんまりとした社が一つ立っているのが見えた。川の近く、低地の神社ならば水神の類か。山神も合祀 ごうしされているのかもしれない。
社のあたりはサキに任せた場所のはずだ。後で聞けばいいだろう。
あらかじめ決めていた合流場所に戻ると、すでに彼女はそこにいた。斜面を降りる私を見つけるや否や、ぴょんぴょん跳ねて手を振ってきた。すっかり陽は昇っているのに、わざわざ日向で待っていたらしい。
「お初の方は何かみっけた〜?」
「全部残ってた」
「いや、何かめぼしいもんがあったんかなってことよ?」
「全部残ってるのが異常だって言ってるの」
何もわかっていなさそうな顔できょとんと小首を傾げる彼女に思わずため息が出る。まるで全員が夜逃げでもしたのかというレベルで、高そうな家具から小物までそのまま残っているなんてことはなかなか考えにくい。
「限界集落で最後の人が孤独死した可能性は?」
「流石に集落全員身寄りが居ないことはないでしょ。遺品を引き取ってものが少ない家だってあるはず」
「まぁ、確かに? 新聞も何枚かみっけたけど、大正の物までしか見当たらんかったし、限界集落自体少ないかぁ」
ふむぅ、と言葉にならない音を漏らし、サキは大袈裟に考え込むそぶりを見せる。
昔、大正から昭和にかけてじゃなぁ。ず〜っと飢饉ば起こってなぁ。この村だってそりゃ色々と不味かったらしいや。戦争で男手取られて、老いも若えも全員引っ立てられてなぁ。そんでなんとか持ったらしいんじゃわ。皮肉なもんだなぁ。
ふと、思い出す。聞き込みでサキと老人が話していた話だ。
「……そういえば、聞き込みの時に言ってたね。大正から昭和にかけて連続的な飢饉があったって」
「じゃあ、この集落はその飢饉に耐えられんかったってこと?」
「周りの集落は認知しとらんかったんかな」
「“何もない”ってことはそういうことなんじゃない」
「見捨てとったりして〜」
うえぇ、と舌を出してゲロ吐きそうな顔をする。
しかし、否定はできない。する材料はないし、部落ならば信憑性は十分。遺体が見当たらないのは、動物に食われたか運ばれたか、あるいは家の中で静かに朽ちたのだろう。いつ崩れるともわからない家の中には入らないから憶測の域を出ないが、縁側から見る分には何も目にはつかなかった。
「誰に聞いても“何もない”の一点張りだがや」
「嘘をついてるようには思えないけどね」
「私たちは普通に見つけたよ?」
「わざわざこんな奥山までくる人が居ないんじゃない? 神隠しの話だってあるし、今はもう伝承か何かでここは何もないことだけが伝わってる、とか」
「なるほど。その可能性もあるかぁ。でもお初の言うとおり、何かは起こっとったんだろうねぇ!」
ケラケラと笑いながら彼女は言う。実に呑気なものだった。
畑によくある化繊の雀避けネットやら、金属製の看板やらも一才合切見当たらず、時代に取り残されているような村。衛星で空から地表が網羅される時代にここまで分かりやすいものがあって尚、周りの地域住民が口を揃えて“何もない”と言うのは、忌地に対する禁言タブーか何かだろうか。
「で、サキの方はなんかあった?」
疑うわけではないが、道中での行いもある。彼女の態度から成果らしいものを読み取れないことは毎度のことではあったが、一抹の不安を抱きながら結果を尋ねる。
当の本人は、おさげを揺らしながら腰に手を置き、誇らしげに胸を張った。頭上に“えっへん”と文字でも浮かんでいそうなドヤ顔を浮かべる。
「河原の削られて小高い崖になっとるとこにね、人工の洞窟っぽいのがあった!」
「……河原戻ったんだ」
「12回跳ねた。記録更新だで!」
「で、見つけたその空間には入ったの?」
「いやぁ? 一人じゃ危ないがね」
結局仕事中に遊んでるじゃないかとか、道中で飽きたんじゃなかったのかとか、そんな言葉は飲み下した代わりに、締め付けられた喉に溜まった空気がため息に変わって逃げ出した。私の内心を知ってか知らずか、彼女の態度は依然として変わらない。
「神社もあったはずよね。そっちはどうだったの」
その場所へ先導されながら、高台から見えたあの社について聞いてみる。
「あぁ、あれな〜。なんかガサガサ音鳴っとったし、野生動物が居そうで怖かったもんで後で一緒に行こ」
「調べてないの?」
「いや〜……まぁ、廃神社ってやっぱ良くないもんが溜まるっていうじゃん。熊とかが巣作っとるかもしれないし。殴っても勝てないんだから霊なら対処法のある二人で殴った方がダメージ出るって」
「霊なの?」
「わからんね」
「熊はともかく、あんた霊感あるからわかるでしょうよ」
うえへへへ、とよくわからない笑いで誤魔化すサキに頭痛を覚え始める頃、ちょうど件の場所に到着する。見れば、なるほど確かに小高い切り立った崖の下、崖の窪みに黒い空間がぽっかりと口を開けていた。部屋の骨格と思しき木材の構造物が一部分だけ露出している。入口は風雨に晒され朽ちており、小学生程度なら余裕でくぐり抜けられるほどの穴が一つ。蛇行する川の外側に位置するこの崖は、度重なる増水や氾濫で徐々に削られてきたのだろう。
スマホを出して懐中電灯にする。照らしてみれば、それなりに奥に続いているらしく、部屋の奥まで光が届かない。しかし、照らし出されたその場所の異様さを伝えるには、入り口付近だけで十分だった。
格子、格子、格子、格子、格子。
「うわぁ」
ひたすらに並ぶ、木組みの格子。簡易的な独房のようなそれらは。
「座敷牢、かな」
「やっぱり古い集落にはあるんだねぇ。こういうの」
私の肩越しにこの光景を見たサキも、若干普段より声のピッチが高い。高揚感か恐怖心かは分からない。ただ、いつも一貫してテンションが高止まりである彼女の声音が変化したことに、さしもの彼女ですら些か雰囲気にあてられたらしいことを察した。
「……いく?」
「お先にどうぞ」
「やだよお初が先に行って! 名前も初じゃん!」
「それを言ったらサキも先でいけるじゃん」
「咲だもん」
どうやら本気で一番槍は嫌らしい。おおかたこの場所を見つけた時も、危ないからではなく、一人では怖かったから入らなかったのだろう。こういう仕事に携わっていようが暗闇が怖い事に変わりはない。
既に河岸まで撤退したサキを尻目に、1人覚悟を決める。調査に来たからには入らない訳にはいかない。本当に鉱山のカナリアの如き体の張りかたをする羽目になるとは思わなかったが、ガスで窒息しても、落盤で埋まってもその時はその時。サキまで共倒れなんて事態が防げればそれでいい。
ふう、と深く息を吐き、身をかがめて探索開始。
いざ内側に入ると、入り口の近くだけは外からの光で埃が煌めきほんのり明るい。
じゃり、と砂っぽい地面が靴と擦れる。どこからか地下水でも染み出しているのか、薄く湿った石壁がスマホのライトにぬるりと薄く光る。生き物の体内のようで気味が悪い。靴音と、水滴がどこかで床を打つ音と、自身の少し早い息遣いが嫌に耳に残った。
格子の部屋を一つ一つ照らして中を確認するが、大抵は増水時に水に洗われたのか、中には何も残っていない。それでも徐々に上り坂になっているらしく、中身のある部屋が散見されるようになっていた。その中の一部屋を適当に見繕い、格子の戸と思しき箇所を押してみる。
みしっ、と湿った音をたてて、戸は難なく奥に倒れた。倒れたというより、崩れたと表現した方が正しいかもしれない。それくらい脆くなっている。
「ぐずぐずじゃん」
一言、誰にともなく呟く。自分の声を聴いたからだろうか。少し早鐘を打つ心臓は動きを落ち着けて、心なしか無駄に強張っていた肩が緩んだ感があった。
格子の中に足を踏み入れ、まず目につくのは何か干草のようなもの。元は茣蓙ござか何かだったのだろうか。地面のあちこちに散らばっている。食器も。箱も。何の用途かもわからない麻の布切れのようなものや、木製の知育玩具のような何かもある。
ふと、小刻みなリズムで擦過する靴音を耳で捉え、反射的にスマホのライトを指で塞ぐ。ふと辺りを闇が包見込んだ。光は淡くオレンジに光る指先のみ。山用に着込んだインナーが腕にはりつく気持ち悪い感触。一度意識してみればだいぶ涼しい。真夏のくせにぞわり、と鳥肌が立った。寒さか、緊張か。音の正体は少なくとも怪異ではない。十中八九サキだろうが、それ以外の可能性だって一くらいはある。
音は洞窟に乱反射し、方角の特定が効かない。
こう言った土地で一番怖いのは、月並みだが人間だ。まともでない場所にいる人間がまともな判断のもとに行動しないのは道理である。霊ならいざ知らず、生身の人間に徒手空拳ではどうやっても敵い難い。祓えないものが一番面倒なのだ。
強烈な光が一瞬背中を照らす。身を一層小さく畳み、息をころす。しばらくそのままで息を潜めれば、ふらふらと揺れる強い灯りが、歩いてきた方から近づいてくる。同時に、少し囁くような声が響いた。
「……お初ぅ…… 電気消した? おーぃ……」
最大まで張り詰めた全身が弛緩する。いつの間にか忘れていた息を吐く。吸い込めば、湿った冷たい空気が肺を満たした。まったく、肝が冷える。気を引き締めるための紐すらなさそうな彼女に、気の緩みを自覚させられるのは少々癪だった。結局入ってきたのか。後から入ってくるなら、私の配慮など無駄ではないか。リスク分散など通じなかったらしい。
ため息一つ、スマホのライトから指を退ければ、ふわりと世界に色が戻る。明順応で視界が一瞬真っ白に飛んで、ゆっくりと戻る。
ちらりと時刻を確認すれば、13時。太陽はもう落ちるのみだ。いくら陽の長い夏といえど、今日のリミットは近い。
「あぁ、生きとった〜! よかった。ポックリ逝ったかと」
縁起でもない事を言いながら後から牢に入ってきた彼女は、私を経由して、私が先ほどまで見ていた積み木と思しき木片に視線を向ける。
「子供が閉じ込められてたんかな?」
「多分ね」
「……次どうすんの」
「ここへの入口探そうか。まさか入ってきたところが正式な入り口な訳ないだろうし」
創作や怪奇体験記ではよく聞く話ではある。座敷牢なんて昔は地方の寒村なんかで当たり前のように罷り通っていたと聞くし、別に珍しいことでもないのだろうが、やはりこれほどの規模は異常。そう評価して踵を返し、牢を後にした。少し足並みが早くなっているのを自覚する。どうも暗闇にストレスが溜まっているらしい。
通路から見る限りどの牢も似たようなものだ。何もないか、布切れや食器があるばかり。何がこの村をここまで駆り立てたのだろうか。とても尋常とは言えない。
「あった。登り階段」
左右に揺らしていたスマホが止まり、サキが声を上げる。牢に向けていたライトを彼女の方へ合わせれば、彼女の正面に、こじんまりとした横穴が口を開けている。彼女は吸い込まれるようにその横穴に入っていった。
「掘り抜いたんだねぇ」
時折壁に光が反射し、彼女のしみじみとした声が響き、僅かに反射し闇に溶ける。彼女を追うように横穴に入り、壁面を照せば岩にツルハシの跡がくっきり残っていた。足元には不揃いで、明らかに掘り出したと思われる高さのまちまちな石階段。
「水流れとるねぇ」
「わざわざ端に溝掘って排水も整えたんだ?」
左右の壁際を照らせば排水のためと思しき溝。現在でも機能を果たしているようで、どこからか染み出した水が一筋流れている。
再三同じ疑問が付きまとう。この規模の穴を掘った当時の村人は、何に駆られてこんな地下に牢を設けたのだろう。
ゆらり、ゆらり。
石段の足元を照らす二つの頼りない光が、滑る床を舐める様に揺れる。どれほど経っただろうか。その光を目で追いながら石段を上ること暫く、先を上がる彼女が立ち止まった。
彼女が動き出すまでの間、ふと後ろを振り返る。随分と上がってきたらしく、下は暗闇に溶けて判然としない。全てを飲み込むようでとにかく気味が悪い。定期的に、水滴か、規則的にひたひたと小さな音が聞こえてくるような気がする。少し奥に向けて傾いた幅の狭い石段に立っていると、どうにも吸い込まれそうな、落ちていく錯覚に囚われてしまう。どこか、既視感があった。逃れるように上を見上げる。
彼女が照らした頭上には、重厚な木板が浮かび上がっていた。
「木板? 少しカビとるねっ、と」
それを躊躇なく手で押し上げるのに合わせて差し込む夏の陽差しに視界がチラつく、といったようなことはなく。
「どう? サキ、どこに出た?」
「ん〜、室内。多分……神社?」
サキが私の手を掴んで引っ張り上げる。夏の湿気が顔を包む。彼女の手は、さっき押し開けた木板のせいか僅かにカビ臭い。落ち着いて見渡してみれば、彼女が神社と判断した理由が分かった。
とうの昔に外れたであろう戸があったと思われる場所から、質が良いのか未だに原型を残している紫の神前幕には、この神社の社紋と思しき一つ巴があつらえている。その少し奥に苔や蔦の張った鈴緒すずおが垂れているのが目に留まり、参道の左右には苔玉と化した推定狛犬、その向こうには石造りの簡素な鳥居。つまりここは拝殿はいでんの中で、本来は御神体を下ろすための神籬ひもろぎが祀られていたのだろう。座敷牢は、拝殿の床下から降りる形だ。
「座敷牢での幽閉を神社の地下で……正気?」
「もしかして神への供物として座敷牢に閉じ込めとった……とか」
「本当にそうなら、少なくともこの村は人身御供が罷まかり通ってたことになるわね」
拝殿の床は、体重を乗せるたびにぎしぎしと嫌な音を立て、今にも底が抜けそうな不安な音を上げるが、それでも私たち2人の体重を支える程度の強度は残っている様だった。
見回した社の壁には、赤錆の激しい釘や、鉈や鋸などの山仕事の道具、木板で作られた魚型などが散乱している。紐が切れて落ちたのだろう。山神信仰によくある類の装飾品だ。その流れで流す視線の中、社の奥に置かれた朱塗りの台に目がいく。
決して高そうな見た目ではないが粗末でもないそれの上に一つ、何かがあった。
箱だ。
足元に気を使いつつ台に歩み寄る。
「これがこの神社の神籬なんかな?」
サキは無警戒にもその箱を手に取りしげしげと眺め始めた。私がその台の奥にまわり込めば、ほつれた注連縄しめなわが巻き付いた岩が、床から突き出ている。注連縄に付いていたであろう紙垂しではとうの昔に溶けたのか、どこにも特徴的な稲妻型は見当たらない。
「多分こっちの岩が神籬」
「……ならこれは何なん?」
「さぁ。置物か供物くもつじゃないの」
そういえば、地下の牢にも同じものがあった。あの時は知育玩具のような何かなのだろうと考え気にも留めなかったが。
立ち上がり、他の情報を探して上を仰ぐ。
「お、あった」
神社であるならば、と判断して探した対象は、予想通りそこにあった。
拝殿の天井には、経年劣化でところどころが薄くなったり禿げたりしているものの、未だ鮮やかな絵巻のようなものが一面に描かれている。天井画だ。
その中央のあたり、一際大きく描かれたものに目に留まった。
「半人半蛇? 妖怪なことない?」
サキも口をぽかんと開けながら上を仰ぎ見て、そう溢す。
「見た目は姦姦蛇羅かんかんだらみたいだけど、もう1匹普通の蛇と尻尾で巻き付いてる……のかな」
ずっと見上げていても首が痛い。一通り写真に収め、手元で見ることにした。拡大してみれば、半人半蛇の方は髪が長いことから察するにどうやら女性で、下半身の蛇の部分はもう1匹の蛇と螺旋状に絡んでいるようにも見える。大半は塗料が剥離し、詳細は不明。そのもう一方の蛇と女性は向かい合っている形だ。
写真だとスマホの性能限界か、どうにも画質が荒いし暗い。結局細部の確認は目視に頼ることになる。
「これがこの神社の御神体?」
「可能性は高いでしょうね。どっちも神なのかも」
「二頭一尾で一つの神様とか?」
「あるいは鵺みたいに尻尾が蛇の頭なのかもね。どっちにしろ一人の神様だけど」
少し画面をスワイプしてみれば、下には、着物姿の村人と思しき人間たちが、この蛇にひれ伏し崇め奉っている姿が描かれている。
「こんな異形が神、ね」
どちらかといえば、純粋な蛇の方が神のように思える。どうしても半人半蛇の方は姦姦蛇羅かんかんだらを想起するから、祟り神系の印象の方が強い。スマホの画面と睨めっこしている傍ら、彼女は私から離れ、朱塗りの台の方へ近づく。
「ま、後で見よ。それより取り敢えずコレサンプルで持って帰ろ」
彼女は背負っている荷物を下ろし、行きに買ったコンビニのレジ袋に無造作に突っ込んだ。祟りとか、そういう超常的な物事はこの世界の大多数よりも身近に知っているはずなのに、こういう行動に関しては、彼女は全く持って怖いもの知らずだった。
拝殿を出て、境内を周る。
奇しくもサキの要望通り、二人で神社内の探索をすることになったわけだ。
「なんも居らんかったがぁ」
「よくある管理人のいない廃神社って感じね」
末社摂社もなく、この神社は拝殿に描かれたあの異形しか祀っていないらしい。さして広くもない境内は目ぼしいものも見つからず、サキの懸念した獣臭さも特には感じない。私は、拝殿の裏に回る最後の角を曲がって見えなくなった彼女を追いかける形で歩いていた。
「……あ〜、と。お初ぅ」
社殿の角から彼女の声が上がる。いつもの能天気さの無い、弱気な声が私を呼ぶ。次いで、彼女の足が、半歩下がる。及び腰で後ずさったらしい。
「何?」
「ちとこっち来てみ」
彼女の元まで足早に追いついて、控えめに彼女が指し示す方を辿る。
開けた視界のその先。ゆらめくは真っ白い特徴的な稲妻型。
紙垂。
おかしい。
「……綺麗すぎる」
「よねぇ!?」
屋根はなく、自然木に括り付けられた注連縄。風雨に晒され、ちぎれ飛んでいて然るべきだ。拝殿の神籬がいい例だろう。室内の注連縄があの有様で、外のものが無事なわけがない。
ごく最近の人の痕跡だ。
「ん……ねぇ、あれなに」
隣で、サキが森の奥を指し示す。薄暗い木立に目を凝らせば、不自然に削れた幹が数本ある。
「何あれ。野生生物の爪研ぎじゃない……よね」
「研ぐってよりは……擦れた感じ? こう、こんな感じでえぐれとるし」
手で弧を描きながらジェスチャーする彼女を横で見ながら、紙垂で組まれた簡易的な結界門の脇を通る。所詮木で拵えられているだけだから横をすり抜けた。注連縄の下を潜るのはあまり良い予感はしない。
「え゛、行くん……」
「調査に来てるんだからこれくらいで怯まない」
渋るサキも、結局はついてきた。座敷牢窟の時と同じ、お得意のビビりを発症している。二人でいる時は大抵慣れて先行するくせに、面倒臭い性格だった。
近くに寄ると、やはりその異質さが克明に捉えられる。幹は目線ほどの高さまで楕円形に湾曲し、ただ抉られたというよりは、何かに圧迫されたような見た目だ。あたりに倒れた木々も、同じような損傷を受けている。
サキにその場の写真を撮らせるうちに、一度少し奥を視察して戻る。
「で、どの木も全部同じ感じなのね」
「……倒木も多いねぇ」
「あまりここにいないほうがいいって奴?」
「帰る? 帰ろ? ほら」
まるで何かが押し通ったような。その大きさは尋常ではなく。乾いてきた汗が再び滲む。
拝殿の天井の蛇。御神体。
まさか、まだ居るのか。
結局、写真を撮るだけ撮って、サキの急かすままに集落を後にすることにした。
神供しんく
「ねぇ、なんでラーメン食べようとしてるの私たちは」
「腹ごしらえ。こう言うところは噂が転がってるもんだで」
「ひとまず直帰して解析にかけようって話だったよね」
「まぁまぁ。これも重要な地域交流じゃん。あ、はいお冷」
ガラガラと氷が踊るスモーク加工の施されたポットを傾け、彼女はさながら上司の機嫌をとるかのようにお冷を注ぎ始める。私の忠告などどこ吹く風で割り箸と手拭いを渡してきた。
ここで飯を摂ることの何がどう地域交流なのかは分からない。そもそも、二日使ってすでに周辺の村人にあらかた聞き込んだ後だ。
「ていうか、荷物置きがないからってカウンターにそのレジ袋直置きはどうかと思う」
「じゃあお初が持っとってよ」
「え、嫌だ」
寂れたラーメン屋の店内で一際存在感を放つコンビニのレジ袋は、先ほど回収した箱が薄く透けていた。間違ってもコンビニで買える代物でないことは誰の目から見ても明らか。カウンターは布巾程度では拭い切れないのか絶妙にベタついているし、天井の蛍光灯はどれも油脂で黄ばんでいる。なんなら切れているものまである有様で、客はまばらに二、三人。夕飯時にこの人数は、店が小さいということを加味してもあまり経営がうまくいっているとは思えない。
聞き込みも何もあったもんじゃない。本当にただの腹ごしらえだ。
「お待ちどう」
淡白な言葉と共にそれぞれのラーメンが提供される。割り箸を無駄に綺麗に割って麺を啜る。
「客がいない割に美味いね!」
「隠れた名店って奴かしらね」
ちゅるんと旨そうに吸い込んで第一声。なかなかに失礼な事実をしっかりと口にしたサキに被せるように、当たり障りないフォローを被せる。店主の方をチラリと伺いみれば、なんとも言えない苦笑いでこちらを見ていた。 見たところ若い。ここに立ち上げたばかりなのだろうか。こんな田舎の村に個人店を構えるとはなかなかの冒険家らしい。
適当に店内の様子を見定めながら中々にいける麺を啜っていると、客が来なくて手持ち無沙汰になったか、店主らしき男がこちらに寄ってきて話しかけてくる。
「嬢ちゃんたち、外の人だろ」
「……わかりますか」
「そりゃあな。こんな寂れた店来るのは外部のなんも知らん人だけだ」
「先ほどは友人がとんだ失礼を」
「あぁ、いや嫌味とかじゃねえよ? 事実でしかねえからな」
そう言いながら店主はカラカラと人が良さそうな笑い声をあげる。寂れた店内には似合わない爽やかな笑い声だった。
周りの客を見回せば、地元の人間と思しき人は見当たらない。ヘルメットにバイクスーツの年若めな男性数名がいるくらいだ。ツーリング途中に寄ったのだろう。
「……で、そのレジ袋ん中身はどこで見つけた?」
店内をそれとなく観察していれば、店主は声を一段落としてそう続ける。その目線は話す中で幾度かレジ袋を経由した。それに目ざとく反応したサキがレジ袋から件の箱を取り出そうとするのを押し留め、こちらも声を落として問い返す。
「何か知ってるんですか」
「知ってるも何もな……あー、なんというか、そうだなぁ……嬢ちゃんたちはその、行ったのか?」
「行った……ですか?」
店主が聞きたいことはおおよその想像がついた。なんせここら一帯、あの地はタブーらしい。お説教でもされるのかもしれない。だから何も知らない体で聞く。聞き込みにおいて相手に先に情報を出させるのは鉄則だし、私たちは子供の無邪気さを十全に使えるのだから、使えるうちに使うに限る。
ごもる店主は少し目を彷徨わせたのちに、逡巡しゅんじゅんを振り払うように、声を落として呟いた。
「“何もない場所”に、だ」
会計を済ませ、店の軒先で適当にだべって待っている。日は下がり、西は赫く染まりつつあった。都市部では到底見れないような山麓が、黒いシルエットを空に貼り付けている。
ツーリング中と思しき男たちが「ご馳走さんでした〜」と口々に言いながら退店し、駄弁りながらやがてバイクで去っていく。それを見送って程なく、店主が顔を見せた。
「いやぁ悪い悪い。待たせたね」
店主はシャッターを落とし鍵をかける。錆が酷く、ギギィ、と頭の奥を引っ掻くような嫌な音を立てた。店内は脂っこいのに、こっちに油は差していないらしい。店主はシャッター決して上手くはない『本日閉店』の走り書きをセロハンで留め、店の脇に消える。程なくして金属製の階段を上がる硬質な鈍い音が聞こえた。
「こっち上がってきてくれ」
おそらく居住スペースであろう場所に、見るからに若い女子二人を呼ぶ男の胆力に関心もなく、同時に非常識云々と文句を垂れるほどこの二人は乙女でもないし通常の常識のもとに生きてはいなかった。一つ目配せを交わし特に躊躇なく男の住居に招かれる。
「お邪魔します」
「おぅ……なんというか、年季があるね」
「ちょっと待ってな。今座れるもん出すから」
歯に絹着せぬ物言いをするなら、みすぼらしい。そんな印象。思えば、周囲の家に対してこのラーメン屋は一段劣って見えた気がする。よくあるラーメン屋と思って気にしていなかった。これまた築40年くらいに見える押入れの襖を開けて店主が数枚引っ張り出してきた座布団に、特に遠慮せず直る。サキは、どうせすぐ見なくなるのに人様の家のテレビを勝手に付けた。
シンプルなグラスに麦茶を注いで戻ってきた店主が向かいに腰を落ち着けるのを見届けて、早速話を切り出す。
「先ほどの話についてですが……何か知っていることがあるんですね?」
男はカウンターの時と打って変わり、目を泳がせる様な優柔不断さなどは微塵も見えず、真っ直ぐに私達に目を合わせる。しばらくの沈黙を経て、彼はおもむろに口を開いた。
「その前に、まずはこっちの質問に答えてくれ」
私たちの顔を交互に見てくる店主に首肯を返す。
「よし……嬢ちゃんたちはここら一帯で“何もない場所”って呼ばれてる所に行った。それで合ってるか」
「確かに行きましたね」
「そのレジ袋の中身、それはどっから持ってきた?」
「多分神社の拝殿だと思いますけど、そこからです」
サキがレジ袋から箱を取り出す。若干の土塊と共に顔ほどの大きさの木箱を3人の中央、囲んでいるちゃぶ台の上に置いた。自分でも罰当たりなことをしているとは思う。それでも、特に霊的な存在も残留思念も感じられなかったから特に咎めずここまで持ってきた。所詮はなんの効果もない箱だ。
「この木箱が何か?」
「いや、まぁ持ってきても問題はない、んだとは思うけどな……そうだなぁ。嬢ちゃんたちは違和感なかったか? なんで揃いも揃って周りの村の奴らが、明らかに集落の跡地がある場所を“何もない場所”なんて言い張ってるのか」
どうやら怒られるわけではないらしい。
「あんな山を分け入った場所、まともな道もないところにわざわざ地元の人は確認など行かないし、聞き込みや町の看板から推測する限りでは、忌地的な扱いを受けているような印象を受けました。そういった負の伝承だけが残って今に至る、と考えていますが」
少し思案して、結局探索時に話していた内容を口にする。
「あながち間違いじゃねえ」
店主は麦茶で喉を潤して、片手間にコップを軽く揺すりながら続けた。
「嬢ちゃん達みたいな外の人らには何も言わないだろうけどな、今伝わってる伝承はこういうもんだ」
“奥山は山の神の神室かむろにて、年八つまで立ち入りを禁ず。
禁を破りて山に入いらば見初められ隠される。
死人、大罪人出た時は山に送りて彼の地鎮護の礎とすべしと言い、これもまたまた隠される。
山の神の御使いは、この地に恵みを齎し穢れを祓う。
幾年も文月の初めに村三つより神輿みこしを選び、これを神に召し上げた。
神はこれを望みはせず、自ら神輿を返すに併せ、以降御使みつかいと共にお隠れになられた。
以降、彼の地は禁足不踏の聖域と相成った。”
店主はゆっくりと、しかし詰まる事なく言葉を紡ぎ、なんとも表現し得ない表情を浮かべた。不満げな色が含まれているように感じる。
「神は生贄を望んでおらず、生贄を送り返して山に籠った……そういう認識でいいですか?」
「よくある伝承だね。善性の土地神様ってところかな?」
「善性、と言えばそうだったんだろう。ただこれは伝えた奴の立場に都合の良い形で改変されてると俺は思ってる」
伝承の形が変わること自体は別に珍しいことではない。長年の口伝ゆえに細部が徐々に省かれたり、逆に飢饉や天災などで信仰が追加、変性することもある。その中には、信仰の内と外で視点の違う口伝が行われることも、暗に書き換えられることもある。今回は、そう言う類のものだと男は言う。
「俺のじいちゃんがな、よく言ってたんだ。その伝承の文句はこうだった」
そう言うと先程と少々異なる語りを紡ぐ。
“奥山は穢多の忌地がため 年八つまでの立ち入りを禁ず
禁を破りて山に入らばぐし誘はれ殺さる
死人 大犯人 蛭子ひるこのいでしは 穢多にやりてこの地の神鎮護の礎としろと言ひ これも神への供物となる
山神祀りの穢多郎党は 我らの食を潤し穢れを祓いしき
さるやむごとなき立ちところなれば 姥捨うばすての非道おびただしきわざに祟りを畏れし村人は 山神様が贄にえ求め 贄足らずと言はば 幾年も文月初めに村三つより贄選び これを神に召し上ぐとし 間引かれし人の魂を神にやりて慰めむと亡骸を供物にて捧ぐ
とばかりし 御上の勅令に穢多の区分を撤廃するが伝へられき
年代を経るごとにこの風習は隠しがたくなりく
されど神の要求に贄をさしいでたりしき仕方のありし以上 うちつけにそれを取りやめば 何の起こるやなど絶えておもひかけのつかぬため 止めやうにも止められず
されど年ごろ捧げらるる人のいづるよしもなく 我々が贄をおこさぬ年ありき
されど何の起こるよしにもあらず
これに祟りなどなしと知るれば 以降人は遣らざりき
十年ごろ後 穢多ははた絶えきべかりき
元より山の神は我らの神ならず
かの神も音沙汰なく 我ら土地神たる天照の御元にも下らむ
穢多は絶えず 共に召し上げられけり
彼の地ははやく神在らず
ただ何もなく またこれよりも何もなし”
じいちゃんとやらに死ぬほど聞かされたのかもしれない。古い言葉で流麗に、しかしなんの痞つかえもなくつらつらと、遊び唄の如く語られた。
「私理系だから古文わからんがやぁ」
サキは早々に意味を理解する試みを放棄したようで、はなから私に聞く気で途中からテレビを見ていた。テレビのデジタル表記が指す時刻は19時も半ば。彼女はクイズ番組を相手にたまにケラケラ笑っている。それでも話の一区切りはしっかりと聞いていたようで、私に翻訳しろと催促の目を投げかけてくる。仕事の最中であることを忘れているわけではないらしい。
つまり、この話はこうだ。山の神に贄を捧げる風習は実際のところ、蛭子や大罪人を穢れとして穢多集落の人々に殺させて処理するなどという
「非人道的な所業に対する祟りを畏れて、殺した人達を神の元へ祀り慰める風習だった、ってことですか」
後々穢多非人の区分が撤廃されると、この風習はいよいよ表に出せなくなり、差別を隠蔽するために伝承を捻じ曲げた、ということなのだろう。
店主は自らの後頭部を複数回撫でつけて、何と口に出すか困っているようであった。
先ほどまで男の手の中でくるくるちゃぷちゃぷ揺れていた麦茶は、いつの間にか机の上で凪いでいる。男は言葉を選ぶように喉の奥で複数回語彙を反芻する様に見え、喉仏が不規則に上下しているのが見てとれた。
およそ普通の学生の様な見た目に似合わない知識を持ち、オカルトじみた話にも真面目に答えを返してくる。不気味に思うのも分からないでもない。
彼は結局、何か、オブラートに包みながらもこの子供に適する言葉を見つけることは叶わなかった様であった。
「……物分かりがいいな。正直気持ち悪いわ嬢ちゃん。古い言い伝えをそう簡単に理解できるってこたぁ、そういう調べもん専攻か何かかい」
「似たようなものですね」
「若いのによく知ってんなぁ。なら少し込み入ったことも教えてやろうか」
店主は、切り替える様に話を続ける。目は微妙に合わない。
「当時は日本全体で飢饉があったらしくてな。周りの村は率先して爺婆を贄にしたそうだ。要するに体のいい姥捨。それに祟りを鎮める人柱っていう正当な名誉をくっつけたもんだな」
「あぁ、聞き込みでお年寄りの方から聞いた話ですね。村全体で公認の行いだったんですか」
案外穢多集落の人々は、被差別ながらも存在を活用され、一定の地位を築いていたのかもしれない。そんな予想に、店主は首を横に振る。
「ところがどっこい、そもそもこの風習は穢多集落でのみ行われていたそうだ。風習が始まった理由も飢饉が原因じゃない。ちょうどいい風習があったから、そこに乗っかる形で周りの村ぐるみでやり始めたってことだ」
「飢饉以前からですか?」
「あぁ。穢多ってことは被差別階級だろ? 被差別階級と婚姻を結ぶ奴はそういない。するとどうしても同じ身分の集落を作ってその中で世代を継がなきゃいけなくなる。するとどうなる?」
「なるほど。血縁が濃くなって病死などで早逝が増えると」
「そうだ。これは日本各地にありふれた話だろうな」
近親間での婚姻を続ければ血は濃くなり、遺伝病や奇形が多くなる。必然的に薄命になり、死人は増え、早逝で浮かばれない魂がその場に留まらぬように神の元へ送る。おおまかに言えばこう言う流れで生まれたのか。
言ってしまえば実にありきたり。隠れ里や穢多集落で発生する信仰としては目新しい点はない。ただまぁ、探索時の予想より、真相は二回りほど血生臭いようだった。
「昔は山の神も供物を要求はしなかったんだ。それでもどうしても未来叶わなかったこの子らを慰めてやってくれっていうもんでそのうち許容し始めたらしい」
今一般に伝わっている伝承では、山の神は供物を拒否して山に籠り、それ以降は出てこなかったとされている。店主が語った、いわく正しい伝承とされるバージョン おそらく手を加えられて今の伝承になる前の、オリジナルなのだろう もまた、周囲の村落視点での語りではあることに変わりはない。どちらも最後に神は“何もない場所”を去ったことになっている。
この二つの伝承で違う箇所は今店主が言った、神があの地を去るまでの間の生贄の許容というフェーズが挟まれていることだ。
「今の伝承でその期間が伝わっていないのは、周囲の町村からしたら、神が生贄を許容していたことがバレれば、自分たちの姥捨の歴史も露見する可能性があるからその箇所だけ削除した、ということでしょうか」
「そう俺は思ってる。いわばこの地域全体の隠されるべき忌みの風習だからな。最近の子供にゃ伝承すら知らねえやつが多い」
「時が経つにつれて、本格的に事実は闇に葬られるんでしょうね」
神も押しには弱いのだろうか。人に情をかけたのだろうか。随分と人間臭いものだ。GOCと関わりのある同業者からは神格にも個体差が存在すると聞くことがある。そういうこともあるんだろうと納得できないことはない。
「あの座敷牢ってさ」
「多分そう言う人たちを収容する場所だろうね。周囲の村からも送られてくるから大きな収容場所が必要だったんでしょ」
「あぁ、やっぱり知ってるのか」
しばしの間部屋に沈黙が降りる。安物のテレビからテンションの高いMCのツッコミが聞こえ、それに併せて差し込まれるゲラ。若干ノイズ混じりのそれは、古臭いリビングに、嫌によく響く。キッチンの蛇口は栓が死にかけているのか、先ほどから錆びついたシンクに定期的に水滴を落とし、それが反響して鈍く重い音を発する。あの牢窟を、あの暗闇を鮮明に再構築した。心なしか、あの場の涼しさが戻った気がした。
話を聞いていながらも、ずっと思っていたことがあった。私が問う前に、サキが口を開く。
「……あの、貴方はなんでそこまであの場所に詳しいんですか?」
「あぁ? 言ってなかったっけか。俺ぁ、あの集落の住民の直系だよ。嬢ちゃんたちが何を調べてるのか知らねえが、この辺りの村ん中じゃ一番有用な事を話せる人間ってことだ」
首の後ろを指で掻きながらそう言い放った。
“何もない場所”の語り部は、結局サキの読み通り、寂れたラーメン屋に転がっていた。彼女の言う通り、場末のラーメン屋の地域交流も馬鹿には出来ないらしい。
「あなたは神を信じますか?」という有名な文言がある。宗教勧誘などでもはやテンプレ化した常套句。実際に第一声でこの発言を聞いたことはないだろうと言うくらい使い回され、ネタとして鉄板化したこの文字列。そもそも最近じゃあインターホン越しに確認して無視する家庭ばかりだから、ああ言う宗教勧誘の人たちもさぞ難儀しているんだろう。
もし実際にこの問いをされたとしたら、私もサキもこう答えるだろう、と言う話題が出たことがあった。その時に行き着いた答えは
「「神は色々な定義がありますけど、神道で祀られるような神々は大抵、実在しますね」」
であり、今まさに目の前の男にそう言い放ったところだ。
対する目の前の店主は、ノータイムで紡がれたこの回答に、愛想笑いを浮かべる。さもありなん。フィールドワークに来た物好き程度の認識でありたかった女学生二人が、いよいよもって真顔で『神は実在する』と宣えばそう言う表情にもなる。
こればかりは相手が悪い。私たちは緞帳ヴェールの内側を知る人間。この世界に超常現象や存在がありふれている事を普通のこととして捉えている。
「それで、その質問をするって言うことは、やっぱりあの集落には神が実在したわけですか」
「単に団体の有力者を神と呼んで伝承したわけじゃないってことだよね」
店主は問われてようやく平常心を取り戻したらしく、若干の戸惑いを隠し切れないまでも口を開いた。
「嬢ちゃん方は……神を見たわけか?」
「えぇ、一応それに類するものは何度も」
「何度も、ってことは、別にあの場所で神を見たわけじゃないんだな」
「あそこでは特に何にも。それっぽい痕跡がある事を除けばなんの変哲もないただの村だったね。なんか今も人が立ち入ってるっぽいけど。神気も霊気も何も感じなかった、よね?」
「そうね」
店主はその会話の中で、一部引っ掛かったようで手を上げて話を制する。
「今も人が? 何をしに」
「神社裏に真新しい紙垂がありまして。何を祀っているかは分かりません。神気は感じませんでしたが、わざわざあの僻地まで出向くにはそれなりの理由があるでしょう」
「何かがいる可能性は拭えんし、居らん方がおかしいねぇ」
顎に手を当て、自身の髭を擦り始めた店主を見る。しばらくその様子を観察していれば、店主は徐に口を開いた。
「なぁ、嬢ちゃんたちは明日以降もあの場所に行くのか」
同時に首を縦に振る。もうだいぶ苦しいが、あくまで民俗学のフィールドワークの体を装って、目立った成果が得られるまではあの場を探索するだろう。
男は、逡巡するように口籠もり、思案を重ねた後に、バツが悪そうに切り出した。
「……悪いんだが、嬢ちゃんたちはそう言うもんが見えたり分かったりするんだろ? だから、調査の過程でその何かがいるってことが確認できたら教えちゃくんねえか。俺はできればあそこには近づきたかねぇ」
顎にしきりに手を持っていきながら頭を下げる店主を見て、そんなに気になるならば自分が行ったほうが良いのではないか、との考えがよぎったものの、一般人に死なれるのも寝覚めが悪い。いわく付きの土地に出向くのは心地が悪いという言い分も理解できる。
「それは構いませんが、なぜそれら超常の存在を知りたがるんですか? 理由によっては危険性があるので辞退しますが……」
店主は尚も手を動かし、何か言いにくそうな空気感を漂わせる。先ほどから、あの場所に行きたくは無いと言いながらも、やけに関心がある様子。彼の意図が分からなければ、緞帳ヴェール外の一般人に、仮にその人が神の存在を確信していたとしても教えるわけにはいかない。
事情によっては教えることもあるが、大抵調査後には穴蔵の斡旋業者を介して記憶処理措置を申請するため、あくまで私の自己満足。真実に手が届かずに全て忘れるよりは良いだろうなんて、ただのエゴだ。
男の返答を待つ間、少し頭を回すことにした。
今あの場所には神と称されるものが存在しないとされている。伝承を信じるならば、山の神は穢多集落の住民が信仰していた神であって、明治に入ってしばらくすると周りの村が信仰していた天照大神に編入、融合、あるいは平定、討滅されたのだろう。本当に安直に考えれば、だが。
「私たちは、あなたが語った伝承の通りに天照大神のもとに編入されたとは思っていません」
天照大神あまてらすおおみかみは今や日本全土で広く信仰される太陽神かつ、天津神あまつかみの住まう場所である高天原たかまがはらを治める最高神の一柱。かの高名な伊勢神宮の御祭神ごさいじんでもある。神話に詳しくなかろうが、日本国民なら一度は聞いたことがあるだろう知名度ナンバーワン、神社の御祭神指名率トップ帯を誇る神だ。
天皇の祖とも言われているそんな高位神格が、こんな辺鄙な片田舎の神をわざわざ平定になど来ない。神と呼ばれる多くの存在は、そんなに社畜的な性格をしていない。
私の予想に対して店主はしばし首元を擦る手を止め、やがて覚悟を決めたか、こちらの方をまっすぐ向いた。
「……予想の通りだ。山の神は誰かの元に属することも平定されることもなければ、取り込まれてもいない」
店主は一呼吸おき、真面目くさった顔で言い放つ。
「山の神は、俺のひい爺ちゃんが殺したはずなんだ」
「……殺した? 神を?」
「ほうほうほう?」
サキは途端に興味を示したようだが、私は数瞬思考が止まる。
鼓膜は脳死で耳から受け取った情報を耳に伝え、なんの理解も解さずに口からただ反復するのみに留まった。さらに数瞬を理解に要し、意味を噛み砕いてもなお、やはり男の発言は現実味のないものであることに変わりはない。
この男がただの一般人であるかは大いに議論の余地を含んでいるが、少なくとも緞帳ヴェールの外側の人間からおいそれと出る発言ではなかった。
「それは、どうやって」
「そうだな……神が死ぬ時ってどんな時だと思う?」
店主の問いかけに目線を下げる。神格実体と呼ばれるものも様々だが、大抵の場合、少なくない犠牲のもとに連合が拡散させたとかいう脳筋な噂ばかり聞く。
ただし、曽祖父の代といえば戦前だから、今回連合は関与していない。財団もそうだろう。蒐集院はわからないが、曽祖父が構成員ということも考えにくい。ごく狭い地域で信仰を受けて生きているタイプの存在は日本全土、世界全体で数えきれないほど居るはずで、正常性維持機関も、僻地まで手が回らないことはままある。
ならば、彼ら機関の影響のない場所で神が死ぬ条件は。
「……“誰からも信仰されなくなった時”でしょうか」
「当たりだ。誰からも畏怖されず、存在を認められなくなった時に神は死ぬ。現代科学が発展してきた今だって、競馬やら受験やら、ことあるごとに人は神に祈る。でもその対象はこんな片田舎に引きこもった山の神じゃない。こう言うところの土地神さんは、忘れられたら最後なんだ」
「つまり、あなたのひいお爺さんが『殺した』と言うのは、信仰を捨てたってことですか」
「そう言うことになる」
そう首肯して、彼は膝に手を置いて立ち上がった。
「ちょっと待ってな。見せるべきもんがあるから」
そう言って男は襖を開け、奥の部屋へ消える。少し見えた奥の部屋は、煎餅布団と畳、それに小さな神棚らしきものに、富多なんとかという文字が書かれたお札が載っている。知らない神名だ。氏神様か何かか。
どうやら寝室兼和室らしく早々に視線を外す。それでも壁が薄いのか、部屋で何か開け閉めする音がはっきりと聞こえてきた。
ぼーっと、いつの間にか変わっていた番組を眺めて待っていると、不意に脇腹を小突かれる。サキは好奇心を全面に宿し、私の顔を覗いている。仕事モードは忽然とどこかへ消え去ったらしい。
「お初、どう思う?」
「どうって……嘘つく理由もないし事実なんじゃないの」
「伝承じゃあ村人全員息絶えたんでしょ?」
「そんなのあくまで伝承だし、あの人のひいお爺さんが殺ったって言うならそうなんじゃない?」
地方の土地神といえども、神は腐っても神な訳で、ただの人間が殺すのは至難だ。しかし、信仰に限っていえばそう難しいものでもない。信仰を持つ者全員を殺すか記憶喪失にさせるか認識を改変するなどという、非常にシビアな条件が達成できればの話ではあるが。
そして今回はそれが可能な状況が揃っていた。考えられない話ではない。曽祖父が集落の人間全員殺して逃亡せしめた可能性もあるにはある。普通に老衰による自然消滅だと思いたい。
「言っただろ。俺はあの集落の直系だ」
襖の開く音と共に降ってきた店主の声にそちらを向けば、腕には見覚えのある、と言うより今まさに机の目の前に置かれているものと同じ木箱。ただ、私たちの持ってきた箱のそれより明らかに小綺麗だ。
「これはひい爺ちゃんの頃から家にある木箱だ。それと同じやつだな」
「なぜそれがこの家に?」
「これはもともと次に捧げられる神輿になるはずだったらしい。ひい爺ちゃんはこれを持って村から逃げた」
店主はまた対面にどっかりと座り直し、箱の蓋をとってこちらに見せてくる。中身は空で、真っ黒。
「黒いばっかりで何もないとか思ったか? これな、黒く塗られてるわけじゃねえ。全部文字なんだよ。達筆すぎて何も読めねえけどな」
見るか? と箱を差し出される。受け取って見てみれば、確かにミミズがのたくったような字が細かくひたすらに書き連ねられていた。山神への 祝詞のりとか何かなのだろうが、流石に読むのは難しい。
「そっちのは確か拝殿に置かれてたんだろ?」
「そうですね」
「じゃあ中身詰まってるかもなぁ。開けないほうがいいぞ」
「振っても音はしませんでしたよ」
「詰まってるって言っただろ。文字通りだ。神は死んだから引き取る奴もいねえさ」
そう言って汚い方の箱を軽く小突き、彼は言う。言葉を濁すのは、そういうことだ。
「この箱はやはり」
「あぁ。さっきも言った通りだ。早死にしたり周りの村から捨てられた人の神輿だよ」
「ってことは、現代でもこれを交番にでも持っていこう物なら確実に聴取ってことだね」
微妙にズレた感想を横目に件の箱をまじまじと眺める。
この箱からは何も感じない。感じないが、その箱が碌なものである可能性は限りなく低い。先ほどの話の後では、土塊とカビの汚れでさえ、血の乾いた跡に見えてきてしまう。難儀なものだ。
「さっきも言ったが、最初、神は供物を要求しなかった。そもそもあんな社殿すら建っちゃいなかったらしい。それでもずっと、人が死んだら魂を慰めてほしいってお願いして磐座の前に護摩ごま焚いて一晩置いて、その後は丁寧に埋葬してた。そうすると山からあの拝殿の岩に神様が降りてきて、魂を引き取ってくれたって話だ」
それ故に、あの神社の神籬はあの床から突き出た岩なのか。後付けの社殿。自然に根を張る磐座いわくらを動かすわけにもいかない。だからああいう形を取った、と。
店主は斜め上を見つめながら思い出すように、なおも淡々と言葉を紡いでいく。
「いつからか、一晩経つとご遺体は綺麗さっぱり無くなって、神様の元に連れて行ってくれたんだってことで形式を整えた結果がこの木箱らしい。送り神楽にして御先みさき送りに見立てたってことだな」
神の使いか。死者を神の傘下に加えるような思想だったのだろうか。いずれにせよ、この木箱は棺であり神楽。呪術的な供物であることには変わりがないが、所詮はごくありふれた自然崇拝が転じた信仰体系。
「ひいお爺さんはこの風習が嫌で逃げ出したとして、その当時はまだ神を信仰する集落の住人はいたんじゃないですか?」
「いや、もう当時は集落としての体は保てなくなってたらしい。ガキの頃のひい爺ちゃんと足腰立たねぇ老いぼれ数人なんて有様だったらしいからな」
周辺の村からすれば、ご時世的に秘匿されなければならない村。闇に葬られて静かに消え去るべき村。そんなところに新たな血は入らない。住民は病弱が加速し、寿命は縮み、最終的には絶える。幸運にもそこそこの健康体として育った曽祖父は、村の因習に見切りをつけ、村を捨てて逃げたのだろう。部屋を見回して店主は続ける。
「この家はひい爺ちゃんの代からあるんだ。増築補強はしてるけどな。だから周りから比べても部屋の内装はぼろっちいし壁は薄い。そっちの嬢ちゃんはさっきウチの店を繁盛してねえって言ったっけかな」
「え、あいや、すみません……」
唐突に失言を掘り起こされ、バツが悪そうに謝罪をするサキを店主は軽く手を振って受け流す。
「怒ってないさ。……ただまぁ、どうしようもないんだ。この家は代々村八分でよ。“何もない場所”から逃げてきたやつの家。ほとんど伝承を知る者はいなくなって形骸化したとはいえ、いつまでも不穏分子であり続ける。寄ってくれるのは旅先の人らくらいのもんなんだよ。嬢ちゃんたちみたいなね」
「今も、ですか」
「今はまだ昭和の頭が固えジジイどもが自治会やってるんでな。子供の代が育つ頃には緩和してるといいけどなぁ……まぁまた食いにきてくれや。調査以外でこんな辺鄙なとこに来る用事もないかも知れねえけどよ」
朗らかに笑う彼の顔を見て、凝り固まった部屋の空気が少し和む。時計を見ればもう21時も近い。数駅離れた街中央部のホテルに戻るにはちょうど良い時間になっていた。田舎の終電は早い。
店主も、垂れ流されたテレビの時刻を見て、よし、と一声立ち上がる。
「今日は貴重なお話しをありがとうございました」
「あぁ。本当は駅まで送ってやりたいんだがな」
「幼い子供じゃないですから。大丈夫ですよ」
机の箱をレジ袋に放り込み、私たちも立ち上がる。
「そうじゃない。言ったろ。俺は不穏分子だって」
「はぁ」
「要するに、こんな時間まで長いことくっちゃべってたあんたらは最高に怪しい余所者だ。そこに俺が送り届けまでしたら俺も嬢ちゃんもどうなるか分かったもんじゃねえんだなぁ」
まさかそんな大袈裟なと思いながらも、否定できない自分がいた。神が実際にいるように、こういう村の因縁も、荒唐無稽とは一蹴できないのも事実だ。
「俺は年頃の女子二人連れ込んだって風評が立つだけの方がよっぽどマシだからな。ただ、物影と背後にはくれぐれも気をつけな」
「ありがとうございます。神の件、成果が上がれば報告しますね」
「ありがてぇな。ひい爺ちゃんの後始末がミスってて今の神隠しがあるかもしれねえと思うと気が気じゃなくてよ」
最後の最後まで脅すだけ脅してにこやかに玄関のドアを閉じようとする彼に、にこやかに最後の質問を投げる。
「ところで、あの場所につい最近行った人に心当たりはありますか」
「いや……このあたりの奴らはガキでも近づかねえからなぁ。村の奴らはみんなあそこへ行くのを嫌がるし、余所者じゃねえのか」
「そうですか。変なことを聞きました。では」
ドアが閉まるのを見納め、錆びた鉄階段を降りる。彼の話はこれ以上ない収穫ではあった。あの客足でどう食い繋いでいるかは知らないが、また寄るのもいいだろう。先に鉄階段を降りるサキのつむじ二つを何とはなしに眺めながら、全くもって合わなかった彼の目線と、心の奥に引っ掛かる僅かな蟠わだかまりに思いを馳せる。
何ら先ほどの話におかしな点はないはずだ。あの異質すぎる座敷牢窟は周囲の村から委託された処分人、つまり供物を入れて置く場所で、本来往生できなかった者や蛭子の魂が、山の神のもとに上がれるように供養する風習が利用されたもの。店主のいうことは辻褄が合っている。しかし、あの廃集落の紙垂をつけた犯人として一番可能性が高いのは店主だ。あるいは、異常なほどにサキに忠告していた駄菓子屋のおばちゃんか。
だとしても、店主がいまだに神を信仰する理由はなんだ? 曽祖父が逃げた土地に行きたがる理由があるか?
疲労で鈍りつつある頭を回し、想いに耽りながら先の後ろをついていく。夏とはいえすっかり陽が落ちた街中。どこか近くの田んぼから聞こえてくる牛蛙の低い声を聞きながら、定期的に街灯が明暗を繰り返す蒸し暑い住宅街を歩く。踊るように伸び縮みする影が落ちるアスファルトは砂っぽく、歩くたびに少し滑る感覚があった。
同じような生垣が続く中、疑念が堂々巡りをし始める頃、サキが思い出したように声を上げる。
「でもなんで、神様は遺体を引き取ったんだろうねぇ。それまでも一度供えた後に普通に埋葬されてたのに」
「神が考えることはわからないわよ。そもそも近年の日本の神々が人柱を求めるのはそんなに珍しい事じゃないし」
「まぁ確かに?」
でも、と彼女は呟き、口角を少し上げた。
「お初らしくないねぇ」
「……何が?」
「そんな、考えを放棄したみたいな答えはさ、いつものお初と違うなって。もしかして……眠い?」
実際のところそれはその通りだった。つまみ食いで人の味を覚えると言った話はたまにあるが、どちらかといえばそれは物怪の類だ。贄を求める神は最初から求めるし、古来の神はそもそも贄を求めない事が多い。生贄文化は、近代に自然を切り開き、町村レベルの共同体を形成し始めた頃だ。
日中も石きりなどして遊んでいたくせに、私とは対照的なまでに元気が有り余っているように見える彼女は、何度目かの街頭のスポットライトのもとに照らされる。死にかけたナトリウム灯が明滅するのと同瞬、私の方へ振り返る彼女の長いおさげが二つ、綺麗な螺旋を描いて流れた。
「ねえ。お初!」
彼女はさも楽しいことを思いついたかのような笑みを浮かべている。生ぬるい風が一陣、彼女の後ろからこちらに抜けた。軽く張り付く前髪に鬱陶しさを感じつつも、彼女が次に紡ぐ言葉を待つ。
長年一緒にいればわかる。この笑みは絶対に碌なものじゃない。彼女はいつだって好奇心に実直なのだ。
「これ、開けてみん?」
彼女を照らすにはあまりに心許ない光の下で、レジ袋が一つ揺れた。
彼女の提案から数時間後。
安宿の一室。風呂も歯磨きも腹拵えも完了し、座卓を囲む。私とサキは胡座をかいて、卓上の箱に視線を落としていた。私のささやかな抵抗は彼女の前ではまるで無意味だったようで、終始耳を貸さないままここまで来た。
それなのに。
「お初、私怖くなってきたんだけど」
「さっきあんなに楽しそうだったのに」
マイナスドライバー片手に、若干強張った表情で何とも情けないセリフを発した彼女を無言で促す。
「やっぱ、お初がやらん? レディーファーストっていうがや」
「……レディーファーストを原義で用いることもそうそうないけどね」
「いやぁ……やっぱ危ないじゃん」
「危ないのは私もそうなんだけど」
大体どっちも女だ。座敷牢窟の時もそうだったが彼女は中途半端にビビりだ。そのせいで大体調査の一番槍は私。そろそろ張り手で喝の一言でも入れてやろうか。大体、彼女の内心は私でも掴めない。
彼女の欠点であり武器でもある無鉄砲は、無鉄砲のくせに今みたいにたまに気力がジャムるし、仕事も遊びも全力がモットー。好奇心が全ての動力源の様な気もするし、その裏に私の掴めない勘がある様な気もする。彼女の瞳の裏はいつも、吸い込まれるように黒いのだ。まるで、あの座敷牢窟のようなどこまでも落ちて行きそうな黒。
あぁそうか、あの時の既視感はこれだ。好奇心の裏に全て見えているような、何も見ていないような彼女は、たまに気持ち悪いぐらい核心をつく。依頼も、私の内心も。それが彼女の出自にあるものなのか、元々の性質かはわからない。わからないからより怖い。
彼女の目から逃れるように、手元の箱に、視線を流した。
兎にも角にもこのままでは一向に進展しないので、ビビり散らかすサキからドライバーをぶん取って、土のこびり付いて固まった蓋の隙間に差し込む。
“何もない場所”の調査拠点のために数日借りた宿。学校にあるような丸い壁掛け時計の針だけが、かちり、かちり、と一際大きく耳に残る。
「ちょっとタンマ。テレビ付けよ」
「そうね」
雰囲気など知ったこっちゃなかった。肝試ししているわけでもないのに怖さなんぞ必要としていない。軽くチャンネルをザッピングし、知らない芸人がボケているチャンネルを適当に垂れ流す。
「そい」
一息ついて、軽い掛け声と共にテコの原理でドライバーを押せば、ぱきん、という乾燥した音と共に蓋が開いた。水気のない土の薄片がパラパラとレジ袋の中に剥がれて散る。蓋を恐る恐る取り除き、中を覗いた。
「何もないね」
中身は真っ黒。何も入ってはいなかった。店主が見せてくれたものと同じだ。
つまらんなぁ、と嘆いて、サキは胡座のまま後ろに体を投げ出してため息と共に寝そべる。
「何もなくてよかったじゃん」
そもそも拝殿で振った時に音はしなかったし、店主の家にあった箱を持った時と重さはほぼ変わらなかったから、はなから何か入っているという期待はしていなかった。今回のサキの勘はハズレだったようだ。
「でもさ、中身が何もないならなんで、この箱はあそこにあったの?」
彼女は頭の後ろで手を組んで、そういえば、と言ったふうに疑問を上げる。
……確かにそうだ。店主の曽祖父が持ち出した木箱は何も入っていなかったとしても、拝殿の台にわざわざ置かれた箱に何も入っていないなんて事があるだろうか。いや、話によればこの箱は供物だったはずだ。
神前に置かれた遺体は一夜経つと消えたと言っていた。ならこの箱の中身も消えたと考えるのが自然。
「店主の人が言った通り、山の神に捧げて食われたんでしょ」
「じゃあ、何であの人は『中身が詰まってる』なんて言ったん?」
「……神は彼の曽祖父によって殺されたと思ってるから」
「殺されとったらその箱の中身、消えんがや。てか、捧げられるはずの箱はその人が持ち逃げしたって言っとったじゃん! なら既に置かれてた箱は儀式に使用済みじゃんね」
矢継ぎ早なサキの言葉に、少し気圧される。
サキはいつの間にか体を起こして座卓に腕を組み、その上に顎を乗せ私を見ていた。私と目が合うと彼女は組んだ腕を解いてレジ袋の中に放置されていた箱を手に取り、頼りない白熱灯の下に翳す。そのシルエットがまるで天井画にあった神に捧げる村人みたいで、いい気分はしない。
「ねぇお初、物事はそう単純には行かんみてゃ〜がね」
あまり彼女の奇行を直視できないでいると、彼女はしばらく中を見つめ、私を見て箱を私に渡してくる。
「よく見てみぃよ」
渋々受け取った箱の中は依然変わらずに真っ黒に塗りつぶされている。光量の足りない部屋の照明のもとで目を凝らす。黒味の強い赤茶の下に墨の黒。それは文字のようで、先ほどの箱にもあった細々とした筆文字の一部だろう。なら赤茶は
「今回は、中身が消えてる方で正解っぽい」
血は、ヘモグロビンの鉄分と酸素が結びつくと茶色に変色する。この焦茶は、恐らく血液。かつて確かに中身は存在していたのだろう。
「でも、足腰立たない老人ばっかって言ってたしコレも奉納できないはずじゃないの」
「じゃあコレはいつ奉納された物? やっぱり山の神は死んでなかったってこと? あの村は廃村で、信仰は途絶えてるはずなのに」
そう口には出すものの、神社の裏の真新しい紙垂が、薙ぎ倒されて削れた木々が、脳裏をよぎる。
「とりあえず、今日はもう寝よう? 明日調べに行きゃいいがね。お初、いつもの頭のキレがないもん」
普段自由奔放な彼女に諭されるのはいささか癪だったが、今は言い返せる言葉がない。確かに明日のことは明日考えるべきだ。人間、疲れた脳みそで100%の能率が出せるわけがない。彼女が情報収集を得意とするなら、私は推測と、それに基づく致死性の低下を担う。能率は必須だ。
「そうする」
蓋を戻す。何となくレジ袋を硬く結んで布団に潜り込んだ。
御姿みすかた
気持ちいいほどの夏晴れ。
前を軽い足取りで先行する長いおさげ髪の少女と、その後ろを少し離れて考え込みながら、生真面目そうな少女が歩く。短い影を田んぼの畦道に落としていた。
今朝は蒸し暑さで目が覚めた。最悪だ。あの安宿はクーラーの効きもすこぶる悪い。それでも若さゆえか、一晩寝れば疲労は抜けて、頭の回転もいつも通り良好。
「サキ、落ちないでよ?」
「だいじょぶだいじょぶ。体幹には自信あるし〜」
道すがら拾ったカエルに話しかけ、楽しそうに畦道の端を歩く後ろ姿を眺めながら、昨日に続いて思考に沈む。
山の神を殺したとされるのは店主の曽祖父が子供の頃。そこから集落に残されたご老人が天に召されるまで信仰が続いていたとして、死んだ老人を新たに木箱に詰めて供養するほどの体力が、他の足腰立たない老人たちに出来たかといえば疑問だ。
曽祖父が次の供物となる箱を持ち逃げしている以上、拝殿から持ってきた箱の出所はあの紙垂を垂らした何者かだろう。現場怪しい店主は、村八分相当の扱いをされている現状、あの場所はそれこそ忌むべき地であり、わざわざ行くのは考えにくい。
「どこ行くつもりで」
とすれば誰か別の、かつてあの場所を知っていた何者かがいるのか。あの箱の中身が消えているということは神は死んでいないということになる。
では神が信仰を受けていた時期が集落の老人たちが生きていた時期だと考えて、その時期の間に奉納されたものだと考えた場合ではどうか。この場合でも当時の老人たちは足腰立たないといっていたから、奉納儀式をやったのは老人以外の何者かだ。
店主のいうことはだいぶ胡散臭さがある。丸め込まれるような、詐欺のような感覚だ。
あの集落に何が起きている?
「そこの嬢ちゃんたちに言ぃよるんじゃ。どこ行くつもりで」
声を聞いた気がして後ろを振り向けば、ネコ車を押してほっかむりをした、腰が直角の老婆がいた。農作業中らしく、収穫した野菜が山と積まれている。
「サキ、ちょっと待って」
先行して気が付かない彼女を呼び止め、老婆の方へ向き直る。
「少し山の方へ涼みに」
「そねーな理由ならやめてーたほうがええ」
顔を顰めながらかけられた声は、厳しい響きだった。
「……どうしてでしょうか」
「そっちに行っても何もねえだけじゃねえ。昔っから人も消える始末じゃ。蛇が出るて、近寄らんほうがええ」
「神隠しの伝承ですか?」
「そうじゃ。じゃけぇこの森の周りにゃあ、男も女も子供もワシみてーな老耄おいぼれもみんな近づかんのよ」
「そうなんですか」
老婆はふと目を細め、顔を少し寄せてくる。全くもって潤いの尽きた肌だ。
「そっちの嬢ちゃん……お前さんたち、もしかして昨日あの男の家に入っていったっちゅう女の子か? この前聞いてきやった子じゃろ」
「え? えぇ、まあ……」
サキが後ろで、あ、と声を上げる。あぁ、初日の聞き込みの時の農作業していた老人か。勝手に脳内で合点がいった私をよそに、ただでさえしわくちゃな老婆の顔の眉間にさらに皺が増えた。
「あの男んとこだけはやめときぃ」
汚いものを思い出すような、そんな顔。
「……なぜでしょうか。話した感じでは悪い感じはしませんでしたが」
「あんたら外の人なら知らんかもしれんけどなぁ、あの店はけったいな宗教団体と繋がっとるっちゅうんで有名じゃけぇの」
「……そうだったんですか。だからあの人は村八分のような扱いを」
納得しかけた私の意識に「はぁ? んなわけねえがよ」と呆れの声が横入りする。
「今のご時世そんなことやっちょったら村が持たんわい。あの宗教がいかんのもそうじゃけんども、あんの男を夜に見たっちゅう日にゃ人が消える。でもお巡りさんも証拠がないから動けんちゅうて何もせん。わかったらさっさと引き返しぃ。死にたいんなら別じゃけのぉ」
一方的に忠告するだけして、老婆はネコ車をキィキィと小さく鳴らしながら、小さな歩幅で畦道を向こうに抜けていく。-若干の上り坂は、少しキツそうだった。
- —全く、田舎はおせっかい焼きなのか排他的なのかわからないな、としみじみ思いながらも、私たちがあのラーメン屋の店主と話し込んでいたことが一夜にして伝わっていたことに空恐ろしいものを感じる。
田舎の情報網は光回線より速いとはよく言ったもので、この現象はどこでも同じようだった。プロセスを解析したら穴蔵の通信網に転用できそうなもんだ。
「人が消えるって?」
「依頼の説明にあった神隠しのことだね。あのおばあちゃんが言うには老若男女関係ないっぽい。それにあの店主」
「やっぱ関係ありそうだねぇ」
老婆の背中を見送って、森の方へ踵を返す。
宗教団体。そういえば、駄菓子屋のおばちゃんが、宗教付けの人がいると言っていた気がするが、それかもしれない。あのラーメン屋が潰れない理由と何か関係があるのだろうか。いずれにせよ、店主の発言がより一層きな臭くなった。
昨日とは違い、サキも石きりや寄り道をすることなく集落へたどり着く。二度と辿り着けない、なんてことはなかった。相変わらず、神格の気配は存在しないし、セミたちは騒がしさを増している。
ふと脳裏に疑問が浮かぶ。老婆の話で疑いが現実味を帯びる。
私の違和感は、そうだ。神格の存在。
なぜあのラーメン屋の店主は、神格というものが実在することを何の疑いもなく語っていた? 店主の曽祖父の代で殺したというなら、店主自身がその神とやらを見られるわけがない。しかし店主は神が死んだことを信じていたような話ぶりで話し、私たちに神の生死確認を依頼した。かつて神が生きていたことを知るものの視点じゃないか?
村八分の現状だって、あくまで慣習の延長に潜む形骸化した差別意識のせいだと片付けられる問題だ。昭和頭の、硬い自治会のお偉方だってその神を見ることは叶わないはずだから、「忌神を纏った集落の系譜だから村八分されている」と判断を下すのも考えにくい。これもかつて神が生きていたことを知るものの視点だ。
そもそも彼の語った村八分の理由が嘘か? 本人はずっとそう思い込んでいる可能性は? 思い込んでいるなら、そう思わせる理由は? やはりあの境内裏の真新しい紙垂は
「まさか、ね」
なぜこんな単純な違和感に気が付かなかった?
自明だ。私たちが緞帳ヴェールの裏側、舞台裏の魑魅魍魎を知っているからに他ならない。一度知ってしまったら、それらは当たり前の存在になってしまう。そして、それは彼も同じ。
「サキ、一応聞くけど、この集落に神格存在の気配はないよね」
「ん? ないなぁ。 昨日もそうだったし」
サキも言う通り、この村に神気は確認できない。現状この土地に神がいないことは事実で、伝承通り“何もない場所”なのだろう。
「この場所に神がいない理由は、店主の人が言ってた通りなら集落が廃村になった時に死んだんだよね」
「そうだねぇ」
小高い崖の上、自然に帰りつつある神社の石鳥居が見える。
「もしその神がさ、廃村になる以前から死んでたとしたら」
「……前から死んどった?」
「そう考えれば、山の神が一時期を境に『遺体まで持っていった』って話にも説明がつく」
「どゆこと?」
石鳥居をくぐる。垂れた蔦が首筋を撫でる。
「神様が死ぬのって、どう言う時だと思う?」
「それは、信仰がなくなって忘れ去られた時だって」
苔むして表情のわからない狛犬と思しき像の横を過ぎる。
「それは神にとっては衰弱死みたいなものでしょ」
「衰弱死と違うっていうたら……突然死、殺害?」
「その通り。この土地の神は、別のナニカと争って負けたのかなって」
口に出しながら一つの推測を組み立てる。
神というものにも色々ある。天災や疫病、飢饉だったりの厄を鎮めてくれと祀られるもの、祟りを恐れて祀られるもの、そして、他の何らかを封じるために祀られるものだ。
「山の神は元々、その何かからこの土地を守ってくれとった神様だったってこと?」
「うん。争って死んだ神の代わりに、この土地にそのナニカが居着いたんじゃないかなって」
神道は血を穢れとして扱う。月経も敷地内での狩りも、怪我もタブーだ。だから神が血肉の詰まっている供物を貰い受けるとは考えにくい。ゆえに伝承では神は供物を拒否したのだと考えた。なら正体は、血の匂いを好む別のもの。
地面に転がった鈴を避けて階段を上がり、一つ巴の神前幕をめくって拝殿の床に立つ。拝殿奥。朱塗りの台。
「ここに置かれた多くの箱は、魂の供養なんて行われず、そのナニカに喰われたのかもしれない」
「山の神は最後まで人を喰ってはなかったのかぁ。勝手に人が信仰して、自分たちの行いの罪悪感を神に縋って和らげて……そんな人々でも神は守り続けたんかな」
「わからない。けど、この土地にはまだ何か居る。さっき私たちに忠告してきたお婆ちゃんも、依頼の説明でも言ってたでしょ? まだ、この土地の近くでは人が消えてる、神隠しの噂がある、って」
餌がなくなった野生動物は、人里に降りて餌を探す。一度人の味を覚えた熊は、それ以降人しか襲わない。超常存在だってそうだ。
社殿の天井を見上げる。天井に大きく描かれた天井画。長髪の半人半蛇と尾を絡ませて向かい合う蛇。山の神は醜女しこめの姿をとるという。ならば半人半蛇は山の神だ。とすればこの画が表すのは、決して一つの神などではなく。
「そもそも山の神を祀って封じられる存在なら、そのナニカは人に不都合を齎していて、それはもしかしたら人喰いとかだったかもしれない。それなら現代まで続く神隠しの原因にも説明がつく」
「山の神を倒してその座に居座ってみたら、周りの村ぐるみで処理とか言って生贄が送られるんだもんなぁ。気付かず信仰してる人間を殺すのはデメリットしかないがぁ」
一度言葉を切る。全て推測の範疇だ。それでも。
「で、あの男はその何かに、今も供物を捧げてるかもしれない」
「あ〜……なるほどね」
「もちろんもう男のところには行かない。生死不明で一生悩んでおけばいいし」
あの男は、自らがいまだに村八分されている理由はこの集落の直系だからだと言っていた。しかし実際のところ村人からは、は宗教にどっぷりで、よくない噂が絶えないから避けているだけだった。私が違和感を覚えつつも違和感に気がつけなかったように、あの男も自身の行いが原因だと誤認していたんじゃないか。明確な根拠はない。ないがどうにも、そんな気がするのだ。
彼自身は一般人で、対象の本質が神か妖かの判断などつかない。自分はあれを神だと確信していたから、私たちが“何もない場所”で神を見たかどうかを聞いてきたのかも知れない。幸いその存在を私たちは見ていないから、昨日は命拾いした可能性がある。見たと言ったら口封じでもされたのだろうか。
それに、だ。あの店主に箱のことを聞いた時、彼は何と言っていた?
嬢ちゃんたちは違和感なかったか? なんで揃いも揃って周りの村の奴らが、明らかに集落の跡地がある場所を“何もない場所”なんて言い張ってるのか。
そう言っていたはずだ。思えばこの時はまだ、私たちが町の人たちに聞き込みを行っていたことを店主に話してはいない。……いつからかは分からないが、三日目に“何もない場所”に行くまでの聞き込みで、跡をつけられていたのだろうか。あの真新しい紙垂は、ここに人が定期的にきていることを裏付けるものだ。彼は今も、神に成り変わったなにかを神として祀っている。
リュックからライターを取り出し、サキに渡す。私はレジ袋を解いて箱を出し、適当に河原で拾ってきた石を詰める。次いで鋏で指の腹をなぞれば、一文字に朱が浮かび上がり、やがて鮮やかな赤い玉が溢れた。指先を伝い滴って石の表面をなぞりながら、箱の底の方へと流れていく赤を、ただ見つめる。
指先が自然に止血される頃、枯れた下草や木材のハギレを抱えて戻ってくるサキ。
「あの男の話が正しければ、これでいいはず」
つくづくあの店主の話には世話になる。今は彼の行動に関する不確定な推論の一切合切を思考の外に追いやる。
サキは適当なタッパーに枯れ草と木材を積み、朱塗りの台を挟むように置き、そのどちらにもに火を灯した。
蓋を閉じた箱を台に置き、形だけの魂の救済を、ここにかつていたであろう山の神に、台座の裏の神籬に対して祈る。
護摩火、中身の詰まった血染めの箱。山の神への祈り。伝承通りの季節。おそらくあとは、離れればいい。
粗末で結構。嘘で結構。私たちの仕事は神殺しでも、異常物品の蒐集でもない。ただ、その地の実態を調査して、結果を持ち帰り、時に魑魅魍魎を祓うだけ。それが私たちフリーランス煤払いというものだし、斥候として求められていることだ。
後の諸々は正常性維持機関なり、超常諸技術の肥やしにするなり、依頼主がどうとでもするだろう。そこまでは私たちの知ったこっちゃない。
「いくよサキ」
「りょーかい」
河原。集落の対岸の茂み。回す霊体射影機が捉えるものは、小高い崖上の小さな社。読みがあっているなら結構。外れていたなら別の手を考えるだけ。ただ、今回の私の推測は自信があった。
周囲は静寂。
ずるり。木々が騒ぐ。
どうやら今回は
大当たりを引けたらしい。
事納ことおさめ
「 報告は以上です」
「ご苦労さん。仕事は無事完遂されたと判断してもええやろ。上出来や」
スーツ姿の三十路近くに見える男は、女子二人から提出された記録と報告文に目を通して、その仕事内容を労う。二人を見て会話を試みているが、目線を合わせる気はさらさら無い様子だ。仕事依頼でもなけりゃこれが常だった。
「後で報酬は個別に支払われる。数日後に確認しとき。もしかしたら色がつくかも分からんで」
「マジで!? やっっったぁ〜! 仕事しっかりやってよかったねお初ぅ!」
「まだそうと決まったわけじゃないわよ」
男は対面で資料を眺めながら、談笑する彼女らの顔を軽く見る。現田を嗜めている彼女も心なしか、誇らしげな気持ちと喜びをないまぜにしたような表情をしていた。決して口に出さないながらも、こういうところは素直でないあたり、年相応に思春期らしい。少し口元が上がっているのを自覚する。
「にしたってよう分かったな。神が入れ替わってるなんて」
「あぁ、それは」
夢川は咥えていたストローから口を離して男の疑問に答える。
「私個人で受けた依頼で石きりが原因のものがあったんだけど、その村落では儀礼的な風習があったんだよね」
「風習?」
「水面は現世うつしよと幽世かくりよ、あるいは常世とこよ つまりこの世とあの世の境界で、水面を切る石は厄とされる。その儀式のとき、私たちの立つこちら側は幽世として扱われて、逆に水の中は現世に見立てられる。石が水面を跳ねるとき、厄は土地神の結界に阻まれたことになって、逆に水中に没した時、それは土地神の結界を突破したことを意味する。少なくとも跳ねていた回数の年月は土地神が安泰だ、っていう内容の呪術的な物」
「へぇ」
「でもこれには決定的な破綻が存在するの。毎年行うから、その度に土地神の鎮護が保つ年数が変わる。だからどうしたって去年より2年以上減ってしまうことがある。これを気が枯れているとして貢物が増やされる、んだけど」
「けど……?」
「これさ、失敗して一度も跳ねずに終わったらもう終わりってことなんだよね。これで村は一つ消えた。文字通り、全員死んでる」
サキの相打ちはない。
「原因は、実際に出てきちゃったから。儀式は本物だった。土地神が負けて、厄の何かが出た。そういう話。 ありがとね。サキの言う通り、意外な所に手がかりがあったよ」
ずごっ、と音がして隣を見やれば、氷ばかりになったグラスの底を吸ったサキがいた。昔の子供遊びの類には、得てして儀式的側面があることに、今更ながら思い至ったような顔をしている。
「あの集落の有識者を発見できたのも、彼女の手柄ですね」
「……まぁ、役に立ったなら……うん」
彼女は夢川の方を見ようとしない。おおかた思慮の浅さに居心地が悪くなっているんだろう。所詮子供の遊びであって、今この瞬間もどこかで誰かがやっている。気にすることもないことだろうに。夢川曰く、探索中に遊んでいたらしいから意趣返しの側面があるのだろう。経験値は十分なのだからもう少し思慮を覚えるべきだったと反省すればいい。
「なるほどなぁ。で、有識者、か。“何もない場所”の集落の末裔やらいう男のことやんな」
男は味のある革鞄から一冊、丁寧にファイリングされた資料を抜き出してめくり、男の詳報を探す。紙面には、年齢から交友関係、家系や趣味嗜好に至るまで、恋昏崎の伝手を用いて網羅した情報が並んでいる。
「怪しい新興宗教と裏で繋がってる、と。村八分状態で繁盛のしようがあれへんラーメン屋がなんで破産せえへんのかって言うたら裏でそれなりの金が回ってるんやて」
「やっぱりそんなもんだろうと思ってましたけどね」
「あそこのラーメン美味しかったんだけどなぁ」
足をぱたぱたと前後に振りながら、今日も今日とていつものホットサンドを齧りサキがごちる。
「その宗教ってのはどうにも、神様を顕現させたいっちゅうけったいな新興宗教でな。まぁ、一般人がそうそう神なんて顕現できるもんじゃねぇが……もし成功したらGOCあたりに色々洗われて粛清が入るやろ」
「ふーん」
「欠片も興味なさそうやなお前」
新興宗教に肩入れしてもいいことはない。あの店主に固執してもなんのメリットもないだろうから、サキの対応も妥当だ。あの神社の中だけは、他の家屋と比べて色々と物持ちが良かった。床は一応全て貼られているし、強度もままあった。人の手が入っていなければ、いくら屋根の下であろうと床は腐る。その他の民家がそうであったように。そこだけ店主が管理していると見ている。
店主の男が私たちにいろいろ話したのは、私たちが嗅ぎ回っているのを知っていたからだろう。隠したところでいずれはバレると判断したのかもしれないし、もしかしたらあの場に行かせて贄にでもする腹積もりだったのかもしれない。あの時は深く入り込みそうな雰囲気を纏っていた気もするから、勝手に自滅するのを望んでいたのだろうか。
そういえば、サキは一度、探索の時にあの神社に野生動物の気配を感じたと言っていた。あの場にもし、店主がいたとしたら。私たちの行動を全て見ていた可能性もある。聞き込みで既に捕捉していたようだし十分にあり得る話だ。自分なら殺す。
「お初が座敷牢の場所で言ってた足音、私だけじゃなくてその誰かの足音だったりしてねぇ……」
「ねぇ、やめて」
たとえ店主があそこを管理をしていたとしても、神格の顕現という本懐を遂げることは出来ない。アレは神は神でも堕ちた神以下のナニカ。対極の存在だ。
「興味ないんは別にええねんけど、この資料は夢川たちも目ぇ通しとき。今回の報告書には要らんけど、正常性維持機関への情報提供で恩売れるかもわからん」
「それって、見せていいものなの?」
「せやなぁ……まぁ別に見せるぐらい構わんやろ」
目だけを動かして店を見回した男は、ファイリングされた厚い資料を1冊渡してくる。
夢川は、それを訝しみながらも受け取った。
「最近ちょっと物覚えが悪くて。このファイルはくれないわけ?」
「あかんで。持ってけ言うたら俺の首がこうや」
そう戯おどけながら首の前で手を横に滑らせながら、目は笑っていない。
「つまり今私が持ち逃げしたらあんたはチェンジ出来るのね」
「お前、やめろや? なんか不服か? 専属として長い付き合いやろが……で、そろそろ読んだか」
「そう言うせっかちなとこが嫌なんですけど。すぐに仕事に戻ろうとするところが」
「そら当たり前やろ。解散するまでがお仕事やで」
うだうだ反論してくる斡旋業者の小言を右から左に聞き流しながら、サキと共に内容を頭に叩き込む。役立つと言うからには役立つ可能性がくる可能性があるんだろう。向こうさんの調査ファイルをやすやすとこんな若年フリーランスに引き渡すわけがない。見せるのだってグレーのはずだ。
男から受け取ったそれをパラパラと流し見してみれば、ふと見覚えのある文字が目に止まった。
“富多楽豊会”
店主の寝室の神棚に見た文字。富多の二字しか見られなかったから神の名前か何かかと思っていたが、そうか。どうやら新興宗教の名前だったらしい。大方あの神棚も神を顕現させた後に神籬を据えるためのもので、今は空座なのだろう。
「それよりさ、“何もない場所”には、新しく居着いたアレの気配を感じられんかったけど、あいつどこにおったんだろうね」
「そんなに広範囲の霊感を持ってるわけじゃないもの。あの場所よりも奥にいたら私たちに感知はできないわよ」
向かいの男にファイルを突き返しながら答える。私たちがあの場所に行った時、霊気も神気も感じなかったのは事実だ。そして神気ならいざ知らず、霊気のようなものは神気のそれとは比べるべくもない程に微弱。霊感で小遣いを稼いでいると言ってもあくまで毛が生えた程度の超常性しか持ち合わせていない私たちに、あの山全体の気配を感じ取るのは到底不可能だ。
「山の神が山奥から磐座に出てきて姿を見せるみたいに、居着いたその何かも、それなぞっとったんかな」
儀式手順というのは意外に強制力が高い。手順をミスれば何も起きないことはザラだし、場合によっては呪われることだってある。
「その何かも固定された信仰形態には逆らえないのかもしれないわね」
「だから普段は山の神を真似て山奥に籠っとるって? 信仰ってのはめんどくさいね」
「平たくいえば今回は世代交代みたいなものだけど、以前のルールには縛られるって窮屈そうだけれど」
「……世代交代かぁ。なるほどねぇ、しっくり来た!」
腕を組んでうんうんと合点がいったように頷いた彼女は、この話はここでおしまい! とばかりに顔の前で手を叩き、メニューを開く。
「じゃあお金もいつもより入ることだし……パフェ入れるかぁ!」
彼女の中ではすでに報酬の上乗せは確定事項らしい。ただまぁ、仕事はやった。清々しい気分だし、今楽しまずに何時楽しむのか。今なら食うもの全てが美味しいだろう。金も入る目処がついた。いつ死ぬかも分からないから、宵越しの金は使い切る。
「すみません、このパフェを二つ。はい。お願いします」
「まぁ、なんや。繰り返しになるがお疲れさん。次の依頼が入るまでのんびり夏休みを謳歌しぃや」
角のボックス席。猛暑。7月。休日朝。頼んだパフェを頬張る穴蔵の女子高校生二人と、資料をファイルケースにしまいながら、年相応の反応の二人を眺める斡旋業者の男。
照りつける日差しはアスファルトを焼き、それに負けじといつにも増してセミが騒がしく、暑苦しさを増大させる。しかしカフェのステンドグラスに染められた陽光は鮮やかに机を彩色し、その熱はほぼ届かない。
緞帳は、静かに上がる。
文字数: 55838