夢ゆめ
「げっとぉ〜!」
「……あの神様、死んだと思う?」
現状の混沌の中において、場違いなほどに平常な声だった。
景色さえ差し替えてしまえば談笑にも見える。声は夜気に反響し、かすかな余韻を残していく。
「ともあれ……っ! 今回は間に合ったって言っていいんじゃないの」
「言ってもいいんかなぁ……」
黒く湿気た縄を、細かく指先で繰くる。白髪の少女が現状評価を下し、私はそれに応じた。
どちらも目線を外さず、手綱の先に繋がれた“それ”を見つめ続けている。
夜闇の参道。こちらに飛んでくる何かと共に、入り口に立つ少女の姿が、ゆっくりと溶けていく。
映画の始まりのように暗転する世界、親友の目前に迫るそれに思わず伸ばした手は、顛末を見届けずに指先から闇に溶け落ちる。
「ここら辺におるらしいわ。ほんとにおると思う?」
「反応があったんだから居ることには居るんでしょうね」
気がつけば、採光の考慮された明るい廊下を歩いていた。私の足取りは随分と軽快なステップを踏んで、親友の周りを忙しなく移動している。廊下は後ろから剥がれるようにねじれて消え、窓の外には不定形の家具と薄暗いアパートが並んで見える。きゅ、と床が鳴って、景色がふっと跳ねる。
胡散臭い、男とも女ともつかない長身の化け物がそこにいた。しらこい顔した冴えない青年は、それの存在は関知したくないらしい。化け物がVサインしているので返してやるのが義理だろうと返してやった。ため息をつくその青年は、今となってはよく知る顔だが、これは初対面の時だ。
「お嬢さん方こんにちは。僕が見えてるってことは──」世界は、記憶通りに進む。一言一句なぞるように。
「……ところで」
化け物がそう言葉を紡いだ瞬間、記憶が揺らいだ。こんな展開あったっけ。
薄く透け、青年の声が遠くでぼやける世界で、白装束の化け物だけが酷く実在を伴っていた。
それは、ぐいと顔を寄せ、私の目を覗き込む。
「お前は、この先どうしたいんだい」
この先? 何を? そんな問いを投げかける間もなく、言葉と共に輪郭が白く淡く広がっていく。
黒い瞳だけが、最後まで視界に残っている。
角の丸いウレタン製のクッション材と、壁際の収納ケースが目に飛び込む。床に敷き詰められているのは、清潔な茶色とクリーム色を交互に組み合わせた柔らかなジョイントマット。 カーテンには黄色い布によくわからないキャラクターが印字されている。
どうやら広い大部屋で、左側は白く霞がかかるほどに先が続いている。子供が元気に走り回っていた。靄の向こうでは、モスグリーンのスカート丈を注意されるおさげの子が、恥ずかしそうに誰かと談笑する姿が見える。
子供の一人が、私の手を引いてカラフルな積み木で作った小さな家に連れていこうとする。にかりと笑って何か言葉を発するその子に対して、自分の表情が無意識に綻ぶのを感じながら、アーチを潜ろうとしゃがむ。肩を滑る不揃いなおさげ髪が視界を掠めて、景色が飛ぶ。
とんできた男児に蹴られて積み木が崩れていくのが見える。急に世界の音が増幅される。部屋が一面ずつ変わっていく。
狭まり、汚れ、萎む。泣き声、何かを諳んじる声、先生の怒声、笑う声。焦った男の声。うなり声。静寂。
よく知る古臭い1K。天井は経年劣化でところどころ壁紙が膨れている。
靄がかかったような揺らぎ方をする視界。きつい香水が何十にも重なったような、むせる匂いが漂っている。
杜撰な性格の家主らしい。女物の下着もシャツもハンガーに掛けっぱなしで、一人用の布団は隅に雑に押しやられていた。
外から聞こえるのは、いつもこの時間に聞こえる子供達の声。下校時刻なのだろう。開けることすら無くなった厚手のカーテンの隙間から、一条の西陽と共に漏れている。
部屋を這うように移動する。散乱した化粧品、封すら切られない滞納通知、部屋に似合わぬブランドバッグ。整理整頓のなっていない部屋は酷く進みづらい。そして何より音に乏しい。年端もいかないこの体にあって然るべき、見守る目線はない。
意識の隙間を消し飛ばしたように、私は押し入れの前にいる。薄い襖一枚を隔てて、物音。
小さな手のひらでその襖を引き動かし、ごちゃごちゃと押し込められた物の一つを覗き込む。自分の体が無意識に動いて、それを倒す。また景色が飛ぶ。
目の前にはゴミ袋が口を開けている。丸々と肥えた蝿を数匹纏っている。
べちゃり、と湿っぽい音と、生臭い香り。
目の前には赤黒く、血が固まりかけたみたいなものが溢れている。袋はいまだに、もぞりもぞりと波打って命の存在を示していた。やがて蹄のある足が飛び出す。それに私は舌足らずな言葉を発する。また、同じ言葉を、同じ場所で、同じ時間に。そして必ず、玄関が大音量で開く。
同時に、脇腹に鈍痛を覚え、世界を白く遥か下方に置き去りにする。
──意識の浮上を知覚する。
先程まで見ていた空間のいずれにも当てはまらない、バンの後部座席だ。窓の外には、郊外の商社ビルらしき建物が灰色の壁面を見せている。横には親友が降車準備をしていた。むすっとした顔をして、こちらを肘で小突いている。
「え、えへへへごめんごめん。ぼ〜っとしとったで、安心して〜」
「降りるよサキ」
「んぇ、えちょ! ま、待ってや〜!」
慌ただしく荷台からスーツケースを引っ張り出す。
──あの夢にはもう慣れてしまった。特別何か言い立てるものでもないか、と心のどこかに放置して久しい。
毎回、あの玄関の先の光景は見ることができない。
「この作戦班の主任だ。君たちは本件依頼中に限り、我々財団の結成した対神格班に編入される」
お初の後を追って入室した部屋で、そう一方的に告げられる。ここからが次の依頼の本格始動。
いつも朧げにしか思い出せない夢の景色など、早々に忘れ去っていた。残るのは、わずかな焦燥と、言いようのない不安だけだ。
広島空港に舞い降りて十数分。実に利便性に乏しいで有名な空港で、偽装バンに形式だけの合言葉を告げ、あれよという間に地方都市の町外れ。今はコンクリートの建物にいる。一見して事務所のようなそこは、しかし内装は随分と荒れていて、壁際に押しやられた机、繋げられた長机には地図とピン。
中央で周囲に指示を出しつつ、サキらに肩書きと所属を伝えた男は、名を佐伯さえきと名乗ったきり、挨拶もそこそこに指示を飛ばす作業に回帰した。
部隊特有の規律の取れた返事の応酬。さながら記録映像で見る軍の作戦風景のような光景の中に、無知で踏み込むほど不躾ではない。ただ横で情報整理に努める。
主任といった男は筋骨隆々というわけではなかったが、スーツの中にはしっかりと身が詰まっているらしい。佇まいがビジネスマンのそれではない。周囲の班員に関しても、総じて身は細めに見えるが、こちらも主任と同じようなものだろう。インテリヤクザだけを詰め込んだ暴力団事務所に見える。
「まぁ、遊撃させてはくれないんだろうね」
お初がぼそりと呟く。
遊撃が成立するのは、あくまで全体の練度が高い場合に限られる。フリーランスなど信頼関係のしの字もない連中を組み込んで、あまつさえ遊撃など、常人であればやらせはしない。お初たちが得意とするのは、臨機応変な場当たりなのだけど、クライアントがしっかりしていればいるほど制約がかかる。こればっかりはしょうがないだろう。
「続いてフリーランス」
「……はい」
「は〜い!」
「我々の活動方針は理解したか、したな? していないなら後で聞きに来い。我々は今この時点からEVEの極端な励起場所を特定し、対象の位置する目的地を割り出す。先日、我々のサイトにカチコミに来た時にEVEの特性はプロファイルしてあるから、発生すれば特定は容易だ。発生地点に速やかに向かい、呪術的手段によって神性を固定し、術者の確保、神性の剥離を行う」
黙って聞きに徹していたことを把握していたのだろう。こちらが事態を理解していることを前提で話を進めてくる。彼らの指示は常に無味だ。神を縫い止める行為さえ、ひとつの業務命令に還元される。
やるべきことは、指示された場所で神様を磔にして“えんがちょ”するだけ。わからないところは後でお初にでも聞こう。教えてくれるし。
となればその手段に加えて、対処すべき神性の詳細も知りたい。差し当たっては神性が神妖どちらに近いか。
その問いに、主任は「おそらく」という枕詞をつけ妖怪に近いと判断していると答えた。
「先日の一件で、対象はEVE拡散による計器撹乱……失礼。つまり一般に神気、霊力などと言われる力で神隠し現象を引き起こし、逃走を許すことになった。その際に残した霊力EVEから、妖怪や零落神に見られる特有の情報・形状が見られたことが判断の要因だ」
「……はい! は〜い質問! それって神隠しされたら取り逃さんの?」
「肉眼での補足は可能だ。影響を受けるのはあくまで機械系に留まる。熟練した神性の神隠しであれば人間の目も誤魔化せることも今回の神性存在を妖怪側だと判断した理由の一つだ。とはいえ不確定情報も多い。逐次情報は更新されるだろう」
「おぉ〜承知しました!」
現段階で可能なことは、本件に必要な装備の受領と休養くらいしかないらしい。主任はこちらの情報共有に一旦の区切りがついたと見るや、私たちをここまで移送した運転手に指示する。装備の説明と配布はここで済ませるようだ。いつ捕捉されるともしれない対象に対して即応するには、これらを身に付けた上で就寝する方が理にかなっていると言えばそうだが、いかんせん寝心地の悪くなりそうなもので、現にお初は内心で渋い顔をしている。
私は別に気にしないけど、まあ枕変えると眠れない人もいるもんね。
装備を受け取る。一見して普通の更衣室に見える、無骨なロッカールーム。そのいずれにも重厚な錠が鈍く蛍光灯を反射している。おそらく班員に支給される装備類の収納なのだろうそれの一つを慣れたように開け、中からいくつか貸与呪具の説明と分配を行った後、早々に四畳間へ籠ることになった。この宿直室もどきの部屋に生活感はない。ペーパーカンパニー? ここにありといった感じだ。
「対象の捕捉次第、こちらに連絡が飛びますんで、すぐに出れるようにしてください。明日以降は交代制での追跡にはなりますが、今のうちに寝るフリでもしておいた方が楽です」
「はいよ〜! ありがとうね〜」
「では」
室内の軽い設備案内だけをおいて、案内は早々にドアを閉めて出ていった。あのオールバックの人は空港の送迎時からずっとそっけないが、退出時に一度会釈して出て行くくらいに社会性を残してはいるらしい。
「少なかったねぇ、人」
「人間と違って特殊な捕捉方法があるから……とは言え、それでも少なかったわね。精鋭ってことなのか、単に人員不足なのか」
「でもみんなシゴデキそうだったで〜」
そうね、と呟いてお初は支給されたばかりの護身装備を手に取る。二十センチくらいのシンプルな樹脂製グリップ。側面のストッパーを握り込むと、シャッと軽い擦過音と共に金属製の棒が伸びきった。何回か振って見て、空を切る音を聞いた後、私に目線と愚痴を投げる。
「ねぇ、いくら神格相手で一般の物理攻撃が意味をなさないからって、特殊警棒一個じゃ心許なくない?」
「……でも銃持っとってもウチまず当たらんしぃ〜」
それもそうかと、体温より数度低いグリップを数回握った後、右の腰まわりに取り付け直す。その動作は見た目に似合わず慣れたものだ。ちょっとカッコいい。
外部の人間にそう簡単に超常のハイテク武器を与えるわけもないし、よそで軽い射撃訓練しかしなかった私たちが本番で扱えるかといえばNOだ。
「なんこれぇ〜」と唸りながら支給された呪符を室内灯に透かしたり、至近で睨めてみたりと財団製のものをしげしげと眺めながら技術を盗めないかと画策したが、案の定何もわからなかった。それでいい。私たちの手製呪符だって、必要な効果は発揮するのだしストックが増えたくらいに思っておこう。
「……あ、サキあれ頂戴」
「櫛?」
「そう。神様を相手取るなら、身につけた方がいいでしょ」
思い出したようなお初の要求に、自分のスーツケースを漁って櫛笥くしげを紐解き、その中の一本をぽいと投げ渡す。
「ナイスぅ」
「ま、これくらいはね」
挽歯式の素朴な木製横櫛よこぐしだ。たまに斎先輩が補充してくれる。
お初はそれを何度か自分の髪に通して、自然に抜けた毛を巻き付けてから、後ろでまとめた髪に差す。私も同じことをやる。バッグから自分の髪束を引っ張り出して、その中の一本を使う形ではあるけど。自分の髪の毛を使えば効果は同じだ。
「やっぱ印象変わるなぁ、お初がそれつけるとさ」
「言っときなさい」
せっかくの本心からの褒めを適当に流されて、煎餅布団を敷く。
裸電球の灯りが柔く滲み、静けさが部屋を満たす。
数十分、数時間だったかもしれない。ともかく、私たちは警報音に跳ね起きる。
ここ数日で何度も聞いた音だった。すっかりだらけきって、ゴロゴロとスマホを眺めていたサキが軽やかに身を起こす。備え付けのラジオからは、特徴的な不協和音と男性の無機質な声のループ。落ちるものなど天井以外にないから、憂うべきはこの建物の耐震性程度か。
「おっきいなぁ……最近多くて困るぅ〜」「慣れるよりはいいでしょ」などと平常の延長のような会話を交わしつつ、一応ドアを開けておく。もうこの辺りは四年前の教訓で多くの人が当たり前にやるようになった。良いことと言えば良いことだが、起きないに越したことはないわけで。
小型の直置きテレビのリモコンを探して適当に情報番組に合わせる。ちょうど夕方ワイドの時間だったらしい。枠外に地震の情報が示されていて、最大震度は4。震源は広島南西部。アナウンサーが断層地震であると発表している。
「断層地震だって。ま、職員が飛び込んで来ないんだから、のんびりしてましょ」
せっかく敷いた布団に転がって、適当にSNSを流し見る。横になると急激に体の疲労が全面に滲み出す気がする。朝から熊野、千葉、そして広島。まともではない。いくら若くて体力をつけていても疲労もしよう。
「酷いハシゴ移動だと思わない? 跳躍ポータルが使えたらいいのに」
「無理だよ〜あれ高いもん。大体恋昏崎とのコネも足りないんだし高望み〜」
再び敷布団に身を沈ませて、愚痴る。
超常社会のマスメディア、恋昏崎新聞社は日本各地に跳躍ポータルを所有している。そんなだから情報を得るのが早いのだろうが、許可を取れば一般人にも使用が可能な代物。実際に使用したことはない。斡旋業者から聞いた話だ。そもそも一度の使用料がぼったくりだった。利権ったってあれは酷い。
そんなわけで、飛行機やら電車やらを乗り継いで遠方まで行くのが常だ。
「ねぇサキ」
「何?」
「飛行機の話つながりでさ。なんか、ここまでやけに準備が良すぎない、って愚痴」
「ん〜……でも確かに? よく広島行きのチケット横並びで取れたよねぇ」
確かに今は夏休み真っ只中。遠距離旅客輸送は 繁忙はんぼう期。
機内は満室。旅行客も多いのに、今日依頼受注を取り交わしてからでよく間に合ったものだ。
「このチケット、まるで私たちを元からこの依頼に充てるつもりで買ったんじゃないかって、連中ならやりかねないじゃない」
「まっさかぁ。急ぎの依頼だったっぽいし、あらかじめ人員派遣用に押さえてたやつをウチらにスライドしたんじゃないん?」
「そう、考えるのが普通なんだろうけど」
「なんか、穿った見方したくもなるじゃない」などと不信を滲ませる。納得し切ってはいないようだと苦笑が漏れた。
やはり財団の向こうの都合の良いように動かされている感覚には、お初はムカつきが勝つらしい。フリーランスの職務的に、ある程度そういう駒としての動きは求められるとはいえ、それでも癪なのだろう。私よりも慎重な彼女っぽい不満だった。
「まぁでも、羽倉さん、だっけ。あの人は不思議な人だよねぇ」
「……サキが人の名前覚えてるなんて珍しいね」
「え、ひっど〜い!」
記憶に残る職員だった。
あのチャラついた人は、名を 羽倉栄はくら さかえと言っただろうか。
──ちょっと雑な人。
それが第一印象。だが、彼の態度は一変した。部屋に一人になって、本格的な交渉に入った途端だ。彼の雰囲気が財団のそれになったという点で、あの態度はあえてだったのだろうと言う認識に改められた。後半の職員然とした態度を見たからこそ、違和感が際立つ。
ではなぜ? と問われるとそれは掴めない。単純にこちらを子供、フリーランスだと侮っていたか、はたまた。
お初が“お膳立て”を感じた箇所はここだと言う。最初、メール問題の確たる証拠であるガラケーを出し渋ったあの仕草。あれは不可解極まりなかった。しらばっくれるなら最初からあの場に持ってこなければ良かった話だ。その後も、まるで元から提示するつもりであったかのように依頼契約書類が差し出されたのも、この感覚を一層強化している要因。
意図の掴めないまま手駒になるのは職務内容を別として私が一番避けたい部分だ。
彼は、一体何を考え、何をやりたい。
「あの男には気をつけなさいよ」
お初が背を向けて言う。
私は曖昧に「ん〜」と答えるだけだ。あまり警戒する気になれないのは、少し能天気すぎるだろうか。
瞼を押し下げようとする眠気になんとなく抗いながら色々と情報を拾うと、先ほどの地震の影響で、トレンドは地震一色。どこぞの山で土砂崩れなんかも起きているらしいから、被害は出ていそうだ。何やら陰謀垢らしきものも活気付いて、街中で撮ったであろう椋鳥むくどりの大群をあげて嬉々として予兆だなんだと喧伝している。都会じゃ駅前で無限に見るからか異常と言われてもいまいちピンとこない。自宅の窓から撮った雲ひとつない宵の空、石川や静岡の方で揚がった深海魚、政府は人工地震をやめろ、原発、テレビの専門家が素人でも言えることしか言わない、地震速報の音が嫌い、録画の邪魔……この四年で人間はあまり学ばなかったらしい。
情報と不安と楽観と愚痴で脚色された濁流を流し込むうちに、自然と意識は沈んでいく。また、夢を視る。
懐疑かいぎ
2015年7月27日。
千葉県 香取かとり市。
サイト-81SR-阿。聴取室。
白を基調とした室内。可能な限り角の削られた調度品が並ぶ。
穴蔵組を送り出し、束の間の休息を終えた羽倉栄は、対面の男を前に、どの言葉から切り出すべきかを決めかねていた。
名を暫定的に鈴木橙すずき だいと置いたその男。遭難者としては妥当だが、現状と照らせば奇妙極まりない。
傷みが目立つ煤けたベストとグレーのシャツ、毛束の荒れた白髪、銀縁眼鏡。その奥に色素の薄い瞳が不安げに揺れている。疲弊した人間の顔。どこか親しみを覚える。

彼の疲労と不安は理解はできるつもりだ。穴蔵フリーランスの報告によれば、この男が目覚めて最初に見たのは荒れた廃墟の天井。事態の把握もろくにできないうちに500キロほどを移動し、今は無機質にも程があるこの部屋で、全く知らない男が目の前で黙っている。こうもなろう。
「ア〜、なんだ。まァそうだな……」
しかし相手を慮ってばかりもいられない。
そろそろ何かしら情報を得に行かなければならない。俺だって色々一杯一杯なんだ。勘弁してくれ。
「まずは自己紹介からか。羽倉栄だ。財団の神話やらをこねくり回す部門の枝部署で管理官をやってる。質問があるなら簡単なことだけ答える」
「……では、財団」という言葉を鼓膜で捉えた瞬間、露骨にテンションを下げる。
面倒くせぇ。こいつが超常側の知識を有していなかった場合、遡る基礎部分は気の遠くなるほど順序立てて説明する必要がある。この男にとっては気の毒なことに、しばらく身柄は財団に飼い殺しだから教えることはできる。しかし、そんな労力を割くよりも聞くべきことがあるからして、その辺りの詳細はおいおい高辻たかつじあたりにでも投げよう。
「この世界は『不可思議』に溢れている」
「不可思議?」
「あぁ、大前提だ飲み込め。それらは人類に力をもたらすこともあれば滅ぼしうるものもある。だが、適切に管理し、調査することで“既知”に落とし込み、科学することができる。我々財団は、その『不可思議』を確保・収容・保護する組織だ。パンピーが知らんまま平和に暮らせるようにする──それが業務内容ってェわけだ」
控えめに首肯しゅこうするのを見届ける。どうやら、理解したらしい。そういうことにしておく。
「さて、我々財団から見た君はまさに『不可思議』なわけだが……君の携帯から送られたあのメールは一体なんだ?」
「いえ、その。私はどうやら……過去の記憶を失っている状態であると、先ほどのお嬢さんたちから説明を受けていまして」
「そうだ。そうだとも。そうなんだろうなァ。別にそこは疑ってるわけじゃねェ」
羽倉は指先で机を軽く叩きながら思案する。
可能性としては、時空間異常。でなければ、確かに10年前に届いたこのメールと、この記憶喪失者の身体的状態の辻褄つじつまが合わない。
単純かつ、一番筋の通る推論としてはこうだ。
──彼はこのガラケーを用いて10年前、俺の携帯に問題のメールを送信した。
直後、時空間異常に巻き込まれ、時間の流れが極端に遅延する。
これであれば彼の衣服の損傷具合、体毛、フリーランスの証言などが合致する。
廃墟内部の食品が腐敗しきっていないという特徴と、廃墟内植生の繁茂はんも速度に矛盾が見られることだけが、懸案けんあん事項だ。
また、俺の携帯にメールが来たということはまず間違いなく交流はあったはずであるが、全く記憶のないことを鑑みるに、その事案発生の際、なんらかの記憶阻害系事象が作用し、我々が彼に関する知識を認識できなくなった可能性がある。
そうなると気になるのは、彼の正体だった。
調査チームが何かしら情報を得られるならばいいが、何も得られなかった場合、この男は人間でない可能性すら拭えないのだから。
俺の後方のドアから硬質なノック3回。金属質な開錠音がして、入ってきたのは高辻だった。
「片付いたのか」
「記録はしてきた。まぁ、今すぐどうということはないかな」
高辻は鈴木に対して律儀に会釈し、今後の展開をかいつまんで伝える。
「今日付けで、鈴木さんは我々の用意した区画で入院措置という扱いになります。こちらの都合で申し訳ありませんが、ご協力をお願いします」
「……警察病院のようなものでしょうか?」
「えぇ、そのように思っていただいて構いません。少なくとも、衣食に関しては問題ないよう手配されますので、心配はありません。ひと通りの検査や聴取が終了して周辺が落ち着いた頃に、また詳しいことは話しましょう。どうせこの男からは大したことは解説されなかったでしょうから」
「いえ、まぁ」
流れるような貶しを添えて、高辻は部屋のドア前に立つ。医療班が到着するまでここで待機するらしい。
そのまま二言三言、鈴木の疑問に高辻が答える形で応酬を続けていると、鈴木は先ほどの面子めんつに言及を始めた。
「私を助けてくれたあの子達は、どういった方達なんでしょうか」
フリーランスについてか。
確かに年端もいかない少女が一丁前に交渉の場に立ち、書面上の契約として責任を負うという一連の場面を見ていれば、気になるというものだろう。彼女らは今頃、広島に発った頃だろうか。
「彼女らは通称フリーランスって呼ばれてる区分の職に就いてる」
「見たところまだ若かったと思いますが……」
「中学生だ。どっちも両親はいないことがわかってる。事故死か離縁かの差はあるがな。そういった連中で、少しこっちの世界に足を踏み入れた連中のセーフティーネットにもなってるのがフリーランスって仕事だ」
違法就労や搾取じゃねえぞ、と念を押す目線を鈴木に飛ばした。
「まあ君を助けた片方は祖父母宅に引き取られて比較的マシな道を辿ってる。金が稼ぎたい理由は切実だがな」
「そういう人たちしか、いないんですか?」
「いや、古くから異常の側に属する家の人間もいる。君を助けた中に男がいたろう。あの子は……まぁ、そういう出自だ」
再びドアがノックされる。
高辻は内側からドアを開け、半身だけ出して何やら話し合っていた。
しばらく続く無言の時間に、腰を深く据えなおそうとしたところで、高辻が戻る。
「すみません、席を外していました。この後、鈴木さんにはCT等の精密検査を行なっていただきます。扉の外で医療班が待機しておりますので、そちらの指示に従ってください」
「談話お守りタイムも終いだ終い。お疲れさんだァ」
俺の言葉に何か言いたげな目配せをして、高辻は鈴木を誘導し、医療班に引き継ぎをし始める。
机の下に足で椅子をしまい込んで、最後に部屋を出る。「ではまた」と見送る高辻の隣で、鈴木の背中に「次会うまでには、なんかしら思い出しといてくれや」などと呼びかけて、白衣のポケットに片手を突っ込んだまま見送った。
研究室に戻った高辻は、連続する想定外に疲労を感じ始めていた。
自分のデスクに置いたマグカップには、普段より気持ち濃いめのインスタントコーヒーが湯気を燻らせている。
机上のラックには進行中プロジェクトの諸資料や、参考文献や論文のコピーファイルが綺麗に整頓せいとんされ、高辻の性格が色濃く出ていた。
まだ熱いコーヒーの苦さで喉を焼いて疲労を誤魔化し、起動したPCで先ほど対応してきた地下での観測結果を取りまとめる。
22の時にサイト-81SR-吽うんに配属され、もう12年ほど経っている。すっかり慣れた作業。
手早くまとめたレポートをコピー機に転送し、また一息つく。傍らのコピー機が規則的な電子音を鳴らし、稼働中を示す緑色の動作灯をしばらく見つめる。それが赤く停止を示すまで、そう時間はかからない。
高辻は、ラックから【サイト-81SR-阿吽 合同収容神格収容事例 | 第五◯七一】と表記されたテプラの貼られた無機質なファイルを抜き出して、たった今吐き出されたコピーを綴じた。
手の中のファイルは、ずしりとした質量を伝えている。随分と膨大な資料だ。この五千冊越えのデータ全てを私が記録したわけではない。かつて閉架資料室で閲覧した限りでは、サイト-81SR-阿吽が設立された時期よりも前、蒐集院の記録したものがこの資料の初記録だった。現在の観測業務を担うのが、私の所属する神話・民俗学部門の専門チームたる信仰消却対策課であり、私がプロジェクトの第一責任者であるために、偶然にもこの資料の厚みを増やす仕事をしている。
この課自体は私がこのサイトに所属する一年前に発足したもので、歴史は浅い。トップの席に、あのおチャラけた私の同僚がいることはにわかには信じ難い事実である。
ひとまずのデスクワークを片付け、今後の調査のすり合わせるために羽倉のオフィスへ向かう。
ヤツに聞きたいことは山ほどあった。
──煩雑。
この部屋に入室した人間は、誰でも似通った印象を抱く。
入ってすぐのハンガーラックはとうの昔に飽和し、溢れた上着が無造作に積み重なって撓たわんでいる。
デスクの隅にはオートクレーブや、シャーレ、パスツールピペット、培養器なんかが並んでいて、低い振動音がこの部屋唯一の環境音。デスクの上で絡み合う配線は結束バンドで辛うじて束ねられ、その狭い空白に肘を置き無気力そうなのが、この部屋の主である羽倉栄、神話・民俗学部門 信仰消却対策課 管理官。与えられた部屋に対して、あまりにその姿は小さく見える。デカいのは態度ばかりだ。
「つまんねえ用事かァ」
「つまんなかったらこんな部屋来ないだろうね。片付けたらどうだ」
不機嫌そうな彼は、こちらを見ようともしない。机上でガラケーが赤く光っている。充電中らしい。
適当に段ボールを脇に避けて、本来なら来客用であるはずのソファに腰を下ろす。財団の空調システムのおかげで、あまり埃っぽくはない。これで空調が貧弱なら病気になる。
「何モンなんだろうなァ奴はよ」
「俺に聞くなよ。一番関わりのありそうなお前が知らないんじゃな」
俺のしたい話は直近で何も掴めない鈴木橙に関わるものではないのだ。
彼の独り言とも問いかけとも付かない言葉をにべもなく切り捨てて、本題に入る。
「あのメールだが」
「……」
「お前、なんであの時忘れていたフリなんかした」
ずっと気になっていたことだ。さきほどは緊急事態が挟まって場を逸してしまったから。
耳に微かに張り付いたままだったサイレンの残響を意識的に追いやって、羽倉の方をまっすぐ見据える。
黙ったままの彼の表情は俯いていて知れないが、わずかに身じろぎをしたことだけはわかった。
「……フリってぇとなんだァ? お前、俺が芝居打ったと思ってんのか」
「この後に及んで惚けるつもりか」
オートクレーブの振動音が間を埋める。
明らかに適正のない羽倉栄という男が管理官クラスのポストについた理由を、俺は知らない。
かつては幼馴染。
そして同僚。
今は、上司。
同僚から上司への関係性の変化は、彼との非接触期間を経て達成された。しかしそこには、己の記憶からして埋められないほどの溝と違和感が立ち塞がり、彼の連続性に靄をかけている。
彼のかつて吸っていたマイルドセブンと、酵母培養が三度の飯よりも好きだという二点が、こいつが間違いなく昔の羽倉と同一人物であることを確信する根拠だ。
だが、“確信”と“疑念”は両立する。
「……ダテに昔馴染やっちゃいねえなァ」
「俺はお前の下で動いてるんだ。隠し事も大概にしろ」
ありきたりな皮肉で言葉を濁す羽倉に、小さく、苦言を呈す。
諦めたようにため息をついた羽倉は、憎らしげな表情で顔を上げた。その眼差しに向けて、俺は歯に衣着せずに言い放つ。言えない事情なぞ俺には関係がない。愚痴くらい言わせろ。
「お前の行動は不可解でな」
羽倉は、片眉をぴくりと上げて、顎あごに手をやる。腹の中に何かあるときの癖だ。
大体さっきのメールだってそうだ。ガラケーだって今まで来た時に充電されている姿なんて見たことがない。ごついコネクタとリール式充電コードもなかった。IMT-2000の平型端子はこの乱雑な内装の部屋にあってもよく目立つ。明らかに釣りの時の電話を受けた後に引っ張り出してきたということになる。
電話口での会話を知っているわけではないから、その中でメールの文言を先に伝えられていた可能性はあるが、だとしてもあれだけ最初に素知らぬふりなどしたのか理解に苦しんだ。そのくせ以前の話の通り、あの穴蔵2名を派遣する方向性で準備を万全にしていたことも一層謎を深める要因になっている。
そう、そのあたりの行動が不可解。
「なぜこれだけ派遣までに時間を要した? 穴蔵を待つ必要性はあったか?」
サイト-81BK──厳島からの「信仰喰らい」発生報告は19日。
実際の派遣は今日、27日。1週間以上の差。
22日には厳島を襲撃した連中の逃走先を選出した報告と、再度の派遣要請が飛んできたが、ここから更に5日も時間を要したのは、判断ミスと言わざるを得ないのではないか。ああも遅滞させるのは、単なる怠慢ではないのか。今回派遣が間に合うのは、ひとえに相手が未だ致命的な破壊を引き起こしていないからに他ならず、薄氷の上で踊るようなものだ。
「結果論という反論は受け付けねェ。その上で、だ。あちらサン随分とロストが早ェもんで、こっちにゃ事案の発生とロストを一緒に送ってきやがった。だから初回の派遣は断念、様子見に徹したってわけだが。再捕捉される前に送ったところで専門性の異なるフリーランスが腐る。どうしたってェ後手には回るやな」
「確かに間に合わないこともあるだろう。むしろその場合が八割だ。だが、逃走者の捜索の人員補填、後詰めとしての役割は担える。それこそフリーランスならすぐにでも派遣できたはずだ。違うか?」
サイト-81BKや我々のサイトは神格研究サイトという区分にあたる。要注意団体に分類される宗教団体の監視や牽制けんせい、神格の調査や管理、信仰の観測が基本業務だ。人的リソースに余裕があるわけではない81管区において、基本的に神格研究サイトの人員は最低限に留められる。無数のオブジェクトを管理する必要がほぼないことと他にいくつか理由はあるが、どこも似たような状況だ。
だからこそ、判断は迅速でなければならない。
羽倉は脱力した全身を急に起こして、器用に散らかった部屋を歩いて壁際へ向かう。
唐突な彼の行動に訝いぶかしげな高辻を尻目に、羽倉は乱雑に壁際に押しやられたホワイトボードを引き摺りだし、落ちの悪いクリーナーでガシガシとインクを削り取理ながら言った。
「お互い忙しかったからなァ、こっから先も荒れるだろうなァ」
そしてマーカーを握り、乾いたインクの線を引いてゆく。
とん、と書き終わり特有のピリオドを打って、彼は振り向いた。
十九日──サイト-81BKが「信仰喰らい」を初観測。
報告後、対象は潜伏。
EVE観測から再捕捉を目指すと通達があり、こちらは一時静観。
出来事の要点箇条書きには、私向けに来た富多楽豊会の活性化の報告も記されている。十中八九『信仰喰らい』に対応した動きだ。サイト-81BKはそちらの監視を行うことでも対象の位置測定を試みていた。数少ない人員で良くやるものだと思う。なまじ非異常性のカルトである上に、信者も日常に多く潜む。これも非異常性だから判断がどうも困難を極める。実質的に人員を割かざるを得ない。
しかし、富多楽豊会の活性化とはつまり、本拠の連中もそちらに流れていることを意味する。内部にメスを入れて情報を更新するのにはもってこいとも言えた。ゆえに明日あたり、東国斎と丸山結と名付けられた神霊体を餌にした現状の内部事情依頼をかけようとしていたところだ。
「あちらさんのサイトが伝えてきたここからの方針と、その後の進展はこうだ」
羽倉のペン先が動く。
EVEの励起箇所を特定し、富多楽豊会の動線と照合。
目的地を推測し、確定次第速やかに『信仰喰らい』事案の本部である我々サイト-81SR-阿吽から人員を派遣。
呪術的手段によって神性の固定、術者の確保、剥離を行う。
──標準の収容手順。
21日。当初想定されていたフィールドエージェントの派遣をフリーランスに変更。
ロストによる『信仰喰らい』事案の一時膠着がサイト-81BKから通達され、EVEの再捕捉による目標推定の方針が発表された結果、より対神格において融通の効く人員を選定する時間を得たためだ。
この後、羽倉から夢川初および現田さき2名の穴蔵所属フリーランスが候補に上がる。
なお、この段階でサイト-81BKから補填人員を再度要請されている。
25,6日には何をとち狂ったか、羽倉は業務規定に則り、夏休みを強引に消化。
ただ、26日午後には例の電話が来て撤収した上、夜にはサイト-81BKから『信仰喰らい』の次点目標が「広島中東部」であること、また富多楽豊会が集結した旨を通達される。
──そして今日、契約締結。27日。
「なぜあの穴蔵2人に固執する? 何か意図があってのことか? 他にも候補はあっただろう」
「固執してたわけじゃあねェ。東国から熊野依頼の団体申請、お前んとこに来たろう。あのメンツに穴蔵二人が含まれてるのを共有された時点で、俺は別のフリーランスも選別中だったさ」
「そんなに時間がかかるもんかよ。さっさと検討段階にはいりゃいいものを、何をしてたんだ……たまたま彼女らが鈴木橙という人間を見つけてお前に連絡を寄越さなきゃ、今頃後手だったかもしれないんだぞ」
「奴らが戻ってきちまった結果として、事態は良好だがなァ」
「クリアランスだな?」
羽倉はその軽薄な表情を崩さない。しばらく見つめあって、一向に口を開く気配がないのを悟って目線を下げる。
結局何の答えにもなっていない。むしろ、整理されるほどに杜撰という言葉が脳裏に浮かぶ。利敵行為にすら。
幼馴染。そして同僚。疑いたくなどない。
羽倉栄という人間はなぜこうも変化した?
そうさせる理由はなんだ?
眉間の皺を親指で二、三度ほぐしながら「そうか」とだけ呟いて、ソファから腰を上げる。
すっかり張りを失ったソファは座っていたところが落ち窪んで戻る気配もない。
「とりあえず、掃除はしろよ」
沈黙を貫く羽倉を置いて、白基調の廊下を戻る。人のいない連絡通路は、やけに足音が反響した。
このサイトにおいて、不和は致命たりうる。ただ幸いにして、個人的な不信と疑念を滲ませないすべは心得ていた。すでにあの部屋の空気は消え去っている。
質素なビジネス用の腕時計を一瞥する。用意したチケットから考えれば、そろそろ東国は空の旅から帰っている頃だ。あとで連絡しなければならないが、その前に一つ片付けねばならないことがある。
スーツの内ポケットからスマホを取り出して、慣れたように番号を打ち込み、躊躇なくコール。
1コールで、無機質な女性の機械音声が応答した。

後手ごて
──最悪な寝覚めの朝。7月28日。
叩き起こされる覚悟はあった。が、普通に六時置きだとは思わなんだ。もう少し早ければ逆に目が冴えたものを。
いや──そんな軽率に捕捉されたということは、向こうはとことん隠密で凌ぐ腹積もりなのだ。
それなりに人気ひとけのある車内で、目を瞑ってインカム越しに流れてくる情報を頭に詰め込む。
「お初〜起きてる?」
「……起きてる」
山陽本線上り列車。その車窓からは、ちょうど潰れた県道33号と寸詰まりになったいくつかのトラックが、荷台の上面を光らせているのが見えた。昨日の地震の影響で発生した土砂崩れらしい。……あそこが通れていれば、車で移動できたのだが。
起きるや否や車に詰め込まれて駅に行ったのには驚いたが、ここは山間部、そんなこともあるし、ひとつ道が潰れると大回りを要求される。
ともかく、曲折がウヨウヨした結果として、私たちは今電車に揺られ、ひと足先に財団が割り出した地点へ急行していた。日はそろそろ山嶺を超える頃で、各駅でドアが開くたびに湿った温風が顔を撫でる。
対象は現在再び潜伏している様子ではあるものの、最終捕捉地点を照らし合わせると、鉄道を用いて瀬戸内を東へ移動している。使用路線はJR呉くれ線。このままなるべく餌となる信仰が多い場所を選ぶならば、降りる場所は三原みはら駅。山陽本線と呉線の合流する地方都市だ。
何度目かの停車と発進を繰り返し、車内アナウンスが三原を口にすると同時。荷物を持ち、席を立ってドア前に立つ。名古屋のそれより十倍は長い時間を持って、南から合流した車両と競うように並走する最中、首筋に触れる特有の気配。
「──隣やね」
並走する車両。窓越しに見える赤銀の真新しい車体に目をやる。それはほぼ同時に別々のホームへ滑り込んで、私もお初もドアが開くと同時にホームへ飛び出した。向こうの人混みの中でひときわ気配の強いところを探す。

「見つけた……ポニーテールッ!」
下階段へ駆け出す後ろ姿と靡く特徴的な黒髪。それを横目に捉えて、少し離れた階段へ飛び込む。
一段飛ばしで駆け降りて、改札へ差し掛かる頃には、気配が拡散していた。
「──あぁっ! もう気付かれた〜」
「まだ遠くには行ってないでしょ」
改札を出て呉線改札側。遅れて降りてきた会社員たちが、まばらに出てくるだけで、あの女の姿は見えない。先に出たと判断して、構内から出て周囲を見回せば、すでにだいぶ離れたところを走っていく姿がある。それは早々に路地裏に入り込まれて、ロストするまでそう時間はかからなかった。
遅まきに追っては見たけれど、やはり気配を捉えないことには見つけようがない。お初は行儀悪くも舌打ちしていた。
数時間置きに発生する捕捉報告。あの後遅れて到着したワゴンに乗りながら急行すること数回。見つけるのはいずれも食い散らかされた神気ばかりで、フラストレーションが溜まる。
御扉みとびらはいずれも開きっぱなし、中の神璽しんじは真っ二つ、左右のお狐様はいずれも首が落ちている。なんとも罰当たりなことだ。
「ゴキブリ退治よりも効率が悪い」
「口悪っ! マイルドに〜! マイルドに〜!」
「知ってる? サキ、外のゴキブリはね、黒いの。だからあのすばしっこい黒髪にはぴったり」
「そ〜なんや! また一つ賢くなったなぁ」などと納得しながら、荒らされた祠の回復を行う。
そんな作業を何回と繰り返し、二人揃って座席をリクライニングさせて全身を溶かす。
駅前に停まった軽ワゴンの中、閉められた車内用カーテンから少し見える街路樹には、椋鳥むくどりの大群がゲームセンターめいた騒音と糞を撒き散らしていた。その上では街路樹が満室なのか、あぶれた連中がマーマレーションを繰くっている。もう五回は天井から糞の被弾音を聞いた。もう夕方である。
「あいつら本当にハイドしかしないじゃない」
「だって向こうは捕まりたくないもんな〜……そりゃ慎重にもなるが〜」
耳につけたインカムは定期報告だけで、ここ一時間ほどは何もない。あっても到着する頃にはとっくにもぬけの殻。徒労感もひとしおだ。食い散らかされた料理をボランティアで片付けている気分になる。お初は、心中で何度親指を下げたか分からないだの、あと百遍地獄に落ちてほしいだのと恨み言を吐いている。
大体、最終目標として財団が目星をつけた神社で張っておくのが最適なのでは? 被害に遭う寺社は増えるだろうが、完璧を期すならば最適解はそれだろう。現に全て手遅れなのだから、あまり変わらない気もする。白昼堂々出待ちしておいて、街中で下手に暴れられても始末に負えない——そういう判断なのだろうか。
財団が目星をつけたのは『信仰喰らい』依頼受注の時に言及された中抜き鳥居が目印と言われた場所だが、名前は知らない。祭神に関しては、ここらの土地を鎮守する産土神、そして五穀豊穣の神らしい。宇迦之御魂神ウカノミタマノカミ、つまりお稲荷さんと呼ばれているが、本来の産土は別の神だろう。なんでも気性の荒い神だったらしく、たびたび山肌を崩したり下流を氾濫させたりするものだから、祀って祟りを鎮めた祟り神なんだそうだ。
「昨日の土砂崩れだって、そこの神様のせいだったりするんじゃないの」
「そういった報告は上がっていない。まぁ、土砂崩れだの洪水だのは、古代の農耕にあたっては新たな栄養素を運ぶ貴重な手段ではあるからな。祟り神であって、豊穣の神なんだろうさ」
喃語じみた曖昧な返事を運転席に返す。別に返事を求める呟きではなかったのだけど、運転席の職員も暇をしていると言うことだろうか。少し見える指は、ハンドルをテンポ良く叩いて、FMで誰かがリクエストした音楽にノっている。暇なんだな。
確信して、また窓の外を覗く作業に勤しみ、船をこぐ。
結局、今日再びこの車両がエンジンを吹かすことはなかった。
降車。心許ない街頭が照らす住宅街の小道。
──最悪な寝覚め、再び。7月29日。
全身に微かに纏う虫除けの残り香と、朝露。深夜4時の三原。
既視感があった。お初は暗い画面でマップと睨めっこしながら私を呼び止めるけれど、目的地は間違いなくこっちだ。一度も訪れたことなどないのに。
「結局ここが残ったのね」
低木の垣根のなかほどに設けられた木製のフェンスゲートに手をかける。鍵などはかかっていない。特段腐食もなく、地域住民の手で綺麗に管理されていそうだ。
内側に入ると風景はがらりと変容を見せる。私たちの入り方は一般参拝客としてみれば邪道も邪道であるが、ともかくこの境内であのポニーテールの子を待ち構えるわけだ。
まず私たちが神性を固定して、職員が後を詰める。一番槍、捨て駒とも言えるだろう。だが同時に神格相手に慣れている少数精鋭であることも事実。境内は祭りの準備途中らしく、参道は組み途中の屋台が連なっている。一番拝殿に近い屋台影に身を隠して、参道入り口を見張れる位置を取った。
各々、ベストを隠していたオーバーサイズの衣服を脱ぎ、装備の確認を行う。
「準備はいい?」
「ばっちし!」
お初の確認に、私も元気いっぱいのサムズアップを返して、参道を挟むように左右に展開する。あとは待つだけ。
途端に生まれる手持ち無沙汰。深呼吸と装備の確認を無意味に繰り返す。この光景には既視感があった。ちょうどこの前の禁足地のような。
……そういえば、あの時も蛇だったな。
時計を見れば午前5時。そろそろあちらのリミットになる。
対象は人目を気にする。これ以上は向こうの隠密に支障をきたすだろう。来るとするなら──
──きぃ。
真ん中のない鳥居と、徐々に青の混ざる空を見上げる私の耳が、そんな音を拾った。
咄嗟に足に力を入れて、音の出どころを探す横目でお初を見ると、彼女も抜け目なく警戒に入っている。
数秒もせず、原因は目に留まった。拝殿の観音開き。ゆったりと、しかし明確にそれは開き切って、中から白いものが抜けてくる。
自然と息を殺し、身じろぎもせずそれの動向を追う。その白いものの足元で落ち葉が渦巻いているのを見て、風を知る。背後で屋台の垂れ幕が揺れていた。

三面九尾。
──これがここの、祭神。
それは私たちに目もくれず、横を抜けて参道入り口へ向かう。祭神の目的は、ポニテ。予想通りだ。リュックサック、竹刀袋、首元の蛇。蛇は首元が薄らぼんやりと発光して見える。
女は微動だにしない。肝が据わっているというより、どこか怯えて見えるその女と祭神の距離は刻一刻と縮んでいた。あの神格が解決してくれれば世話はない──そう楽観しながら、ここまで微動だにしないことに一抹の不安を覚え、緊張の帯を締める。
だからこそ、だろう。次の瞬間、拝殿の目の前でかろうじてこの蛇を空中に縫い留められたのは。
それは、ある種フリーランスとしての経験からくる──勘、ともいえた。
邂逅かいこう
──ぷつ、ぷつ。
音が鳴る。掌の中、綱がささくれ立つ。指の薄皮に刺さっていく。握り込んだ指先に絡んで鬱血うっけつする。
──限界が近い。
この縄はサイト-81BKからの供与品。人の髪で編んだ綱であって、呪術的措置の施されたもの。左撚りの毛束をさらに左巻きで綯ない、非実体に神妖問わず接触できる呪具。現に今、拝殿まであと少しというところで、靄もやのような蛇は止まっていた。
しかし本来は半日持つはずの綱は、靄に触れているところから徐々に解け始めていた。
デジャヴュ。
一昨日の夢を思い出す。まただ。私はこの景色を見たことがある。
「随分と好き勝手やってくれたじゃない?」
お初は軽口と共に次策を模索するために存在の特性把握に努める。
対する靄が笑う。
目の奥に鈍痛。夢の景色が重なる。
寸分違わず、同じ景色だ。
だから叫んだ。
「お初しゃがんでッ!!!!」
ばつんっ。
「っ……は!?」
サキの声に反応したのは本能だった。彼女が本気で焦った声を出した時は、いつもそうだったから。
まだ少し持つ目算の綱は、数コンマ前まで私の頭があった場所を過ぎ去った何かによって、あっけなく寿命を迎えた。
想定外。手の重みが消える。思わず目で追う想定外の正体。拝殿の半開きの戸に突き刺さったのは、太刀。
なぜ太刀──ッやば「お初っ!」
切羽詰まったサキの声。同時に夢川は理解する。優先順位を違えた──っ!
「──ぐぅ」
脇腹に衝撃。鈍痛。喉から空気が漏れる。夢川が相手の方へ顔を回すと、視界になびくポニーテール。据わり切った切れ長の眼と交錯する。潜り込むように姿勢を低くして私の脇腹に押し当てているのは、鞘さやか。
しかし今分かったとて対処のしようもない。そのまま横殴りに突き飛ばされる。無理やり受け身を取り、流れで体を起こした。
来るべき追撃は、来ない。
私を殴り倒したポニーテールは見向きもせず拝殿の太刀に駆け寄ってそれを抜いていた。
一人、今も耐えているサキへ呼びかける。
「綱は!」
「もう無理っ!」
「あ〜もうっ」
ポーチから無造作に紙をばら撒く。「斬水鬼勅轟鬼」「斬精急奉紫微帝君」「勾雷」の文字。手製の呪符。
「唵吽吽をんほんほぅ」
真言マントラを呟き、片手で手印を組む。それらは青白く発火し、自立して靄の方へ飛散する。数分絶えれば御の字。同時に、私は太刀を回収し終えたポニーテールに走った。
彼女が太刀を構え切る前に。自分の右腰に下げた棒状のガジェットをむしり取る。残り3メートル。
握り込む。金属が擦れて星が散る。
「ふッ!!」
踏み込み、脇腹に一振り。キンと硬質な手応え。
また鞘ッ!。
認識するや、踏み込んだその足で、相手の右足の膝裏目掛けて己の右足を差し込む。体勢を崩す彼女の背後に滑り込み、ポニーテールごと上半身を引き倒す。その後頭部に膝を入れようとして、逆手に持った太刀が見えた。
@
「チッ」
咄嗟に特殊警棒で刃先を滑らせ、飛び退すさる。鼻先三寸を、刃先が掠めていった。
くそっ。リーチ差が痛い。ただ、相手は刀の扱いに慣れていないらしい。そこだけが救いだ。
「ねぇポニーテール。水蛟みずちなんか従えて何が目的?」
「みずち……? とんべ様を返してほしい。それだけ」
間合いを図りつつ、言葉をかわす。
肩で息をしながら、彼女は太刀を握り直し、中段に構える。殺陣のように最適化されたものでない。刀身も揺らいでいて、重心の取り方がなっちゃいない。まさか、真剣全般を扱ったことがないのか。
「とんべ様?」
「貴女に答える義理は、ないでしょッ」
左足を軸に踏み込み。先に仕掛けたのはポニテ。太刀を横薙なぎ。それをバックステップで回避する私に間髪入れず、返す刀で逆袈裟けさ。白い髪が宙を舞う。間一髪。
「ガキがっ」
「あなたよりは……っ!多分年上ですけど……!!」
相手の踏み込みで玉砂利が飛んだ。どこからか、サキの声が聞こえた気がしたがそれどころじゃない。咄嗟に足元のそれを掴めるだけ掴んで、顔面へ投擲とうてき。散弾のように拡散する礫つぶては、刀の扱いで精一杯の人間であれば、怯む。
目論見もくろみは、どうやらハマったらしい。
幸い彼女は一瞬目を瞑って顔を防御した。一瞬できた隙に、一気に距離を詰める。
「手こずらせないでッ!!」
ガラ空きの腹目掛けて、特殊警棒を突き払って。
それは虚しく、くうを切る。
──ッ消えた!?
辺りを見渡しても姿はない。サキの方を見ると、無惨に溶け燻くすぶる綱を投げ捨てて、サキが走り寄ってきた。
「お初ごめん逃した!」
「サイトの連中は何してんの」
「何や知らんけど外で制圧中」
「何を!」
「知らん急に出てきた〜って」
簡素な情報共有。同時に周囲を見回す。
穴が開いて燻っている呪符。
きれて散らばった髪綱。
社裏の山中から飛び立つ鳥の群れ。
──あれか。
すぐ背後まで来ていた、組み途中の屋台。紅白幕の白い部分を小刀で手早く切り取り、筆ペンで「急準雷師火師勅」と書き記す。最後に息を吹き掛ければ、それが浮いて、山に飛んでいく。道教において掃討符そうとうふに類する術式。
目を閉じれば、簡易的な視覚共有ドローンになる代物。視覚を用いない念視に近く、集中を切らすと全くもって景色が見えなくなる問題があるが、安全面の確保された場所であれば安全に追跡が可能。つまり、周囲の職員からの援護がなかった現状では、リスキーすぎる行為だ。
サキに周囲の護衛を頼み、インカムを手早く装着。
戦闘中、五感を活用するために外していたそれと付属するピンマイクで、合同作戦中の人員に通達する。
「犯人逃走。追跡中につき、応援を求みます」
返答は、班の半分に満たない。
「……っ! なにこれ!?」
目を醒ませば、とんでもなく視界を揺さぶられていた。
混乱。先ほどまで切り結んでいた境内など影も形もなく、湿っぽい森の香りと共に、木々と緑が、相当のスピードで後ろに流れ去っていく。
私は、子供の肩に抱えられる形で、山の斜面を駆け上っているらしい。お米様抱っこだ。
子供の背中側しか見えないが、足元は草履で、下草の多い山中を苦にもせず駆け上る。
「とんべさま? 無事だったんですね」
「奴らはまだ追ってきているぞ」
「助かり、ました」
「ふん。契りを結んだ以上はな」
直前の光景。負けたと思っていた。砂利の礫に怯んで視界を外した次の瞬間には、鈍く光る特殊警棒が迫っていて、あのままであれば確実に貰っていた。あそこからどうやって?
「奴らの拘束を解いて君を攫った。それ以上でも以下でもない」
「……やっぱり、伊達に神妖じゃないですね」
「当たり前だ。あんなしょうもない拘束で止まるほど柔じゃない、が」
とんべさまは、前を見据えたまま愚痴る。その足はいつまで経っても速度が衰えることはない。
「どうにかせんと、撒くのも難しい」
「え」
顔を上げる。木々を縫うように走る私たちの後ろ。何か小さなものがひらめいている。それはまだ弱い木漏れ日に当たるたび、薄青く反射していて、それはぴたりとこちらを追尾しているようだった。
「何、なんなんですあれ」
「式神の類だ」
「……式神」
とんべ様は忌々いまいましげな声で「どうせあの童二人の仕業だ」と愚痴る。ああいうものがあるとはとんべ様から聞いてはいた。いたが、少なくともこのような公おおやけで行使しないものと思っていたのだが。
距離は、一向に離れない。あれは切り落とせるものなのか? そう考えて、アドレナリンが過剰に分泌されているのを自覚する。だいぶ血気盛んな思考回路になっているらしい。
思えば、真剣を振り回して人に振るうのは初めてだ。剣道でしか習ってこなかったし。
あの時は勝手の違いに苦労して自らの身を守ることと、とんべ様を取り戻すことだけに躍起になっていたからか、人を斬るという事象の重みに鈍感になっていた。
自覚して、手の力が抜ける。冷や汗が浮かぶ。動悸が上がり、呼吸が浅くなる。彼女は、怪我をしていなかっただろうか。
「お前にも気骨があると思ったが、間違いだったようだ」
とんべ様が呆れたように呟いた。
「人殺しになるならヘタレのままがいいです」
「ふん」
面白くなさそうに鼻を鳴らしたとんべ様は、それから会話を続けようとはしなかった。気分を損ねてしまっただろうか。私は人殺しをしたいわけではない。ただ、家柄を解消したいだけ。ここは譲れない。
そして、そのためには今、あれをどうかしなければならない。
しかし、どうすればいい? 人間が追っているならまだしも、とんべ様の速度に追いつく程度の式神。とんべ様のいう通り、どうにかしないことには撒けない。
明確な対処法も見つからず悩んでいると、にわかに体の重心が移動する。傾斜が下りになったらしい。徐々に緩やかになる斜面。とんべ様の脇から垣間見た進行方向は開けている。
数秒後、あたりが一気に開けて、世界が急に俯瞰ふかんになる。
崖上から道路に出たらしい。同時に、内臓が浮く感覚と、重い衝撃。
「ぐぇ」
慣性を無視したような挙動で停止し、内臓が戻ってくる感覚。
涙の滲む視界の端で、旋風に巻き込まれるように千切れる式神。
「え、なんで」
「よぉ。また会うたな嬢ちゃん」
事態の飲み込めない私に向けられた、聞き覚えのある声。情けない姿で視線をやったその先には、
「元気そうでなによりじゃ」
「おぇ、お、お久しぶりです

「……でも、なんで」
袖を肩まで捲り上げた、肩幅の広いシルエット。力強い広島弁。
ワゴンの窓から顔を出すのは、厳島での脱出を助けてくれた女性だ。
「対象……ロスト」
サキに身体を支えられるような体勢で、目を開ける。頭痛がする。
突如何かに式神を割かれた。あの子供……もとい変化へんげしたとんぼ様とやらの仕業だろう。背後の足元に目をやると、髪を留めていた横櫛が綺麗に二つに折れて落ちている。これがなければ私が真っ二つにでもなっていたかもしれない。あいつ、呪符を介して私の方に神気なんて流し込んできやがった。脳が焼き切れるかどうかの瀬戸際だ。手段は縁えにしの逆流あたりだろうか。呪い返しと大体同じメカニズム。
「対象は白の車に乗って逃走しました。運転していたのは、おそらく大人、体格は大柄」
いかんせん暗い時間帯、山林からひらけたところを見るには逆光もあった。元々の式神の性能もあって細部の特徴は掴めない。ナンバーも、車体の向きから読み取ることが出来なかったのが悔やまれる。
「どうしますか。佐伯さん」
「一旦退去だ」
「……了解」
「こちらの処理が終わり次第、現状復帰のための人員を向かわせる。そこで現状の把握を行ってくれ」
ノイズを残してインカムの通信が終わるのを確認し、サキは小さくため息を吐く。
やっと、陽が差した。空は急に彩度を上げて、境内は静謐さを取り戻していた。風景は、とてもそうとは言えないが。
人員の到着まで、夢川とサキは辺りの呪具を回収にまわる。
鋭利な断面の髪綱。ともかく、夢の通りをなぞらず済んで良かったが、まさか投げてきたのが太刀だとは思いもよらなかった。あれだけここの神格を目にして怯えていた人間が、こんな大胆な手段を取るなんて。根本、あの蛇を留め置いていた箇所を手繰り寄せて確認すると、全体的に満遍まんべんなく溶けて、嫌な匂いを漂わせている。半日持つはずの呪具がなぜ一瞬で? 財団側が評価を誤った? この土壇場でそんなミスを犯すだろうか。
ふと、綱を持つ手の奥、石畳の上にピントが合う。燃え落ちた呪符。お初が時間稼ぎの為に使ったお手製のものだが、神格相手にもそれなりに耐えうる代物だ。過去、幾度かこれに救われた経験もある、効果は折り紙つき。その一枚を拾い上げる。
「ッ……あっちゃ!!!」
「何!? サキ大丈夫!?」
「でらあっちゃっちゃやがこのお札ぁ!」
お初はちょんと突いてから私の投げたそれを拾い上げる。焦げは、とうに燃え尽きて熱もない。そのはずだが、指先に強い熱を感じた。濃密な神気を感じる。神気、あの蛇はやはり神に類するもの。
指先をふうふうしていれば、お札を摘んで難しい顔をしていたお初が、ボソリとつぶやいた。
「──とんべ様」
「なんそれ」
「あのポニテが言ってたの。私たちの捕まえた蛇のこと」
お初はスマホを取り出して検索をかける。ダメだ、ヒットしない。声優やら、しょうもない知恵袋やらがサジェストの上位を占めていて、一向にそれらしいものに当たらない。
ページを8回ほど遷移した頃、ようやくそれらしいものを見つける。覗くサキの頬を押し除けながら、ページを開いた。
「トンボ神だって」
「何それ」
読み進めるに、四国、中国地方に分布する妖怪の一つらしい。10〜20センチメートルであることが多く、黒か白の体色に金の首輪のような模様を有していることが共通要素。これを飼う家は裕福になるとか、憎く思った相手を祟り殺すとか、そう言った諸説があって、基本は土瓶に入れて床下で飼うのだという。これを持つ家をトウビョウ筋などというらしいが、つまりは犬神筋や狐筋と同じ、動物霊の憑きもの筋と同じ類。
総合して、とんべ様とはこのトウビョウ、つまり妖怪であるということになる。
──本当に?
指に挟んだままの呪符をひらひらと揺らした。
かの蛇はトウビョウらしく床下の土瓶で静かにしてはいないし、ポニテの子の首に巻きついていた時点で30センチメートル以上はあった。そして何より
「妖怪なら残るのは妖気のはずよね」
この札が示すのは、あの蛇がとんべ様と呼ばれる存在でないということ。水霧状になる憑きもの筋など、記憶の限りでは思い当たらない。あれは水蛟みずちの特徴だ。そして水蛟は神格。
騙されている?
あのポニテは、あえて自分の連れているものの正体を明かさなかった?
至極妥当な行動だ。考えうる可能性としては、他に“正体を知らない”と言うものもあるが、あそこまで蛇の返還を求めてきた宿主に限って、そんなことがあるだろうか。
「お初ぅ〜来たで。職員の人」
考え込むお初の脇腹をつついて、私は山道の入り口の方を指し示す。
シルバーの軽ボックスから数名、宮司服姿の男が降りてきて、何かしら作業を始めた。あそこに転がる神様の半身を処理する人員だろうか。
遠巻きに眺めていると、最後にスーツ姿の男性が降車して、宮司服たちに何やら指示した後、こちらに向かって歩いてきた。片足を庇うような歩き方だ。びこを引き摺っていて、見ると太ももあたりをバンドで締め付けている。怪我をしているのは明らか。
サキが言っていた、外の対処というやつだろうか。境内側の対処がいくら短期戦だったとはいえ、一向にカバーが来なかった理由があのレベルを負わせる相手の対処だと言うのなら同情はする。
「足の方は」
「それも含めた話だ。まずそちらでは何が?」
辺りを見渡し、神格の半身をしばらく見つめた職員は、ひとまずの近況を把握することにしたらしい。私は簡潔に起きた事象を伝える。それを聞いた職員は、ひとえに私たちの優先順位の選択ミスと、財団側の把握していた存在との乖離、外部勢力の好戦性が問題となっていたと結論づけた。
「外部勢力?」
「富多楽豊会と言う宗教団体になる。我々の人員が手薄である主な理由だが……今回、ちょっかいをかけて来たのは奴らだ」
「ただでさえサイトのリソースはかつかつだってのに」と愚痴る男。挙げられた名前には聞き覚えがあった。
富多楽豊会。斡旋業者の顔がよぎる。
あの時見せられたファイル、それに載っていた宗教団体。
──あの斡旋、まさかこうなることを読んでいたのか? 穴蔵に入ったことはないが、範囲を聞く限り想像以上に広大なようであるし、そこの情報網もバカにできない。内容はたしか、自らの私欲を叶えるための神格を顕現させるとか言うものであるが、確か岡山の禁足地で大蛇を飼っていたあのラーメン屋の店主も一員だったはず。
「その団体と戦闘を?」
「不意打ちの形だ。配置していた連中は全員、密売ルートと思しき銃火器に手製の消音器をつけていたり、刃物を持っていたり、様々だったがね」
「本来うちら神霊特化の班構成て話やったもんな〜」
当初の手順であれば、対象の捕獲に成功した後は、班員らによって無力化の補助が行われたはずである。そこを同時並行で襲われたと言うことらしい。彼らの身元はまだ照会中であるが、戦闘を行った人員は総じて確保に至っているそうだから、詳細は追って財団側で処理されるだろう。流石に財団側も護身装備は用意していたようだが、神格特化では防備にも限度もあろう。人死にが出たら撤収処理も数倍面倒になる。
彼は拝殿前の階段に腰をかけ、太ももの止血帯を巻き直していた。紺のスーツがさらに黒く染まっている。しかし、顔色は特段悪いわけではない。大事と言うわけではないように見える。素人視点だけど。
──ともかく、逃走者追跡の報を入れた際に返答がままならない状態だった理由は把握した。
今すべきは、ロストした彼女らの情報共有と、今後の対処。
「彼女の発言を真と仮定した場合ですが」と言う前置きで、先ほどの情報と、呪具としての効果を喪失した髪綱および呪符を提供する。
「あれは、当初想定していた一般的な妖怪ではないと考えています」
「……というと?」
「たとえばこの髪綱ですが、宿主の少女に太刀で物理的に切られこそしましたが、一定の効果は有していました。しかし、もし断ち切られていなかったとしても保って五分だったと思います」
彼は、懐からビニルの手袋を引っ張り出し、手早く装着する。
私たちから綱を受け取ると、ちょうど蛇に触れていたあたりを見つめ、目を細めた。妖気の浸透ではこういった溶け方はしない。これはいわば、フィラメントが焼き切れるような溶け方で、容量を大きく超える霊力を浸透させられた場合か、他性質のものを強制的に浸透させられた場合。
「ここの神格を喰らった影響で、想定を超える神格強度を得てしまったか……? いやそれでも、綱が脆い理由にはならない……ならば我々の考える妖怪であるという判断が間違っていた? いや、神性を喰らい過ぎて格が変化したか──」
「あの」
顎をさすり始めた男に、声をかけ、手に持った呪符を渡す。
考え込むと身の回りが疎かになるらしい男は、それでも目の前に差し出されれば気が付いたようで、顔を上げる。眉を顰めて受け取った彼は、しばし無言でそれを眇めた。
「……これは我々の支給した呪符ではないな」
「緊急でしたので。おそらくですが……相手はすでに神格存在です。先ほどご自身で推測なさっていましたが、元が妖怪であろうとなかろうと、その呪符からは神気しか得られませんでした」
「なるほど……本当に君は、神気や妖気を判別できるのだね。羨ましい特質だ」
「あなた方は、そういった事象に関して第一線なのでは?」
「あまりに敏感でも困るんだ。前線にいればいるほど濃密な気に当てられる。神格存在を信じない人間には戻れないから、濃密な気の中では強制的に神威しんいと畏敬いけいで威圧されてしまう。それ込みでのフリーランスでもある、と、羽倉からは情報をもらっているがね」
神格を知っているのはこちらも同じだが、何が違うのだろう、とは口にしなかった。存在は知っていても、身近で生活に組み込まれない他所の土地神、産土神うぶすながみ程度では畏敬など最低限である。フリーランスなど、時にそれらと対峙し、祓い、時には信仰し祀る必要があるのだから、職場で常に携わる財団職員とは大きく違う。大体、他所の信仰に口を出すのは御法度もいいところ、最悪の場合、信仰に不均衡が生じかねない。単純に便利な特性とでも思っておいた方が平和だ。
「それにしても、神格か。国津神くにつかみばかり喰っているのは……厄介だな」
そう呟く彼の眉間には、何本も深い皺が寄っている。まだ若く見えるが、皺は年季の入ったもので、財団職務の大変さを物語っているように感じられた。
神、と聞いて思い出したあの半身に目をやる。何やら四方にしめ縄を貼って、地鎮のようにしながら宮司姿の職員が幣ぬさを振っている。何やら祝詞のりとのような声も漏れ聞こえていた。
「……あの神様は、どうなりますか」
「あれはとりあえず、帰ってもらっている。何をやっているかでいうなら、一般の神事と特別違うことはしていない。神籬ひもろぎや形代かたしろを置いてある神社は、ああいう神格存在にとって別荘のようなものだからね。半身でも残っていれば、ああやってお帰りいただける」
幸いこの神社はもうそろそろ例大祭だそうだから、信仰に関しても地元の人々によって徐々に回復していくのだろう。どうやら、一応の神格消失は防げたらしい。万全、とはとても言えないが。
今回の依頼の反省を行いながら、少しずつ拡散して薄くなっていくその半身を見つめている。夏といえど、そろそろ人の動き出す時間帯。それまでに、ここから何事もなかったかのように立ち去らなければいけない。目の前の男のように、足から流血などもってのほかだ。いちおう境内は血穢厳禁だが、その神自体があそこで横たわっている以上禁忌も何もない。
ここの神格ははっきりと見えた。明確に異形。この地域の土地神、それも祟り神。そんな事前の説明に偽りなし。参道の石畳の上を、佐伯に肩を貸しながらシルバーの軽ボックスまで歩く。まさにここだ。神様の通り道たる、参道の真ん中。ここを歩いた神格の後ろには、無数の黒い鳥居が生えていた。呪のろいと呪まじないは似て非なるもので、性質の違いによるところが大きいが、今回のそれは明らかに前者。
「佐伯さん、あの」
「何か」
「先ほど、国津神ばかり喰べているのが厄介だ、とおっしゃっていましたが」
機密ならば聞かなかったことにしてくれ、と伝えつつ夢川は問う。
「財団から見て、天津神あまつかみと国津神では何か違うのでしょうか?」
彼は前を向いたまま、びこを引きつつ進む。何か、どう答えるべきか悩んでいるふうだった。
途中で、神格の後処理を終えたらしき職員から補助を変わろうという申し出があったが、彼はそれを辞退し、「話すことがあるから」と私の肩を借り続ける。
「国津神と天津神、その大きな違いは元々この地に生まれた神々か、天から降りてきた神々か、という部分にある。例外はあるがね。君たちはそれらの神格存在を在るものとして捉える、いわばこちら側の人間だから、今から話す事項は実際の事象であり現在まで連綿と続いているということを理解してほしい」
そんな堅苦しい前置きを置いて、彼は語る。
古く、国津神らが、まだ個々の共同体たるムラに住まう民たちから各々の信仰を受けて魑魅魍魎ちみもうりょうから民らを守っていた状態があった。ここに天津神が入り、出雲国譲いずもくにゆずりを起点として魑魅魍魎も国津神も全て平等に平定して今の世が築かれた。
財団も、その前進団体も、天皇を天津神の末裔とする天津神信仰の基礎の上に成り立っている。ゆえに当信仰下で日本全土泰平を一律に維持し、オブジェクト抑制を出来ている現状は国津神統治下と比較してより良い状態である、と。
有史以来、幾度となくこの国津神と天津神の均衡きんこう状態は、危機を迎えてきた。天津神による平定を快く思わない国津神勢力が存在するからだ。これが蜂起ほうきし、あまつさえ成功してしまえば、現状の国体が根底から揺らぐ。そんなことがあってはならないのだ、と。
「だから、国津神が力を得ていくのは好ましくない。神格全般が、現在の均衡状態のもとで管理下にあらねばならない」
「……ありがとうございます」
国体に具体的にどう関わるのかは、むろん機密事項に当たる。説明してくれた内容とて、大筋はただの国譲り神話だ。
しかし、衝撃的であることに変わりはなかった。財団側の視点など、我々は知ることができないから、神格存在に対するスタンスを聞くのは初めて。
しかし、なるほど。国津神は危険因子。という表現は、あながち間違いでもないのかもしれない。
今回の蛇が、その説得力を高める。あれの目的は知らないが、他の神を喰い散らかす神霊には良い悪い以前に迷惑極まりないのだから。少なくとも、財団のいう均衡を崩すものには該当しよう。
話を聞きながら、車両に乗り込み撤収に入る。
徐々に陽が昇り、あっという間に気温が上がる。窓は全開だった。いかんせん、血の香りが籠るのだから仕方がない。残された被害は大きい。
後部座席から見るワンセグでは、ところどころで画面を固めつつも、天気予報をやっている。向こう数日は晴れるらしい。合間のピックアップニュースでは、ここ最近ずっとやっている生態系異常を垂れ流していた。
昨夜の地震についてはもう言及すらされない。
車内に、初期設定の着信音が響く。サキはあっという間に眠りに落ちて、この程度の音では身じろぎすらしない。かたや夢川は、戦闘の疲労を硬いシートに流し込みながら、ぼうっとワンセグの画面を見ていた。
電話に対応し始めた助手席の佐伯の姿に早々に興味を失い、惰性で朝の報道を見つめる作業を再開する。
不意に、彼からスマホが差し込まれた。
「……えっと」
「君たちの雇い主から話があるそうだ」
まさか、今後の対応協議だかなんだかの電話なのだろうと判断していたところに差し込まれるのは慣れない。訝しみながら、今回の依頼失敗に関して何か言われるのだろうかと予想して、それを受け取った。
「お電話代わりました。穴蔵所属フリーランスの夢川です」
『あァ。声聞きゃ分かる。で聞きたい事があんだよ』
軽い声がした。
社交辞令にマジレスで返されるとは思わなかったが、そういえばこの職員はこういう人間だった。無駄な応酬をするほど元気が有り余っているわけでなし、さっさと先を促す。
「なんでしょう羽倉さん」
『まず現田げんだたちは依頼遂行に支障ないか?』
「私が髪の毛数本散った程度です。現田は無傷」
『なら良い。それで……今千葉近海でナマズがキショいくらい獲れてるらしいんだがなァ、鈴木橙すずき だいが難色を示してやがる』
「へぇ、ちょうど瀬戸内でもナマズ増えてるニュースやってますね。ほら、聞こえます?」
ワンセグのボリュームを上げつつ、スマホのマイクを近づける。スピーカーから『いらんいらんいらん』などという拒絶が聞こえた気がするが、キリのいいところまでは聞かせてやった。
『てめェな……いや、だが今はそれよりだ。鈴木橙を見つけた時、何かしらこの生態系異常に関して思い当たる事があったかどうかの確認だ。無ェなら今すぐ電話を返せ』
隣のサキの頬をつまみながら頭をひねり、ピンとくるものが無いことを再確認して、無言で助手席に突き返した。
大体「山の中で魚介類の異常繁殖との関わりを見つけろ」という方が無理難題という話である。鈴木橙の記憶回復の鍵を渡せるなら協力しようとは思うが、無いものはないから仕方がない。
スマホを突き返された彼は、そこから暫く真面目な会話を交わし、通話を終える。画面が暗転するのを垣間見て、今後の私たちの扱いについての質問をしようとして、相手から答えが示された。
「君たちは、しばらくサイト-81BK預かりになる。『信仰喰らい』の追跡と観測任務であるという根本は変化しない。よろしくどうぞ」
どうやら、今回の失敗で契約の打ち切りとはならないらしい。今日失ったものといえば、己の髪の毛数本と絶好の機会。自分の髪など元々ブリーチングしてさんざっぱら痛めつけた人間だ、一本や二本どうと言うことはないが、よく継続判断を出したものだ。本当にこのサイトは人手も足りなければ、制約のある能力の中でやりくりしているのかもしれない。国難を防ぐためのサイトとは思えない。
振動の大きめな窓枠に肘を置いて頬杖をつき、上下する山嶺を目線でなぞりながら、夢川は小さく息を吐いた。
楔くさび
「──だとさ」
通信端末の光が、ぷつりと消える。
部屋に静謐せいひつさが戻る。
部屋の構成は3人。鈴木橙すずき だい、羽倉栄はくら さかえ、高辻祐たかつじ たすく。現在、三原に派遣した穴蔵フリーランスから、作戦失敗を確認したところである。
鈴木橙に関しては、記憶の回復を最優先にすべきとの判断から、ある程度の情報開示が許されていた。
このサイト“本来の機能”に関する情報も、例外ではない。
「アンタがナマズに不安を覚える理由は分からずじまい。廃墟に調査が入る頃だが、何か見つかるたァ思えねェンだがな」
「なんせ海が近いったって内陸だぞ?」と付け加えながら、ボールペンを回す羽倉は、鈴木の渋面を怪訝そうに見つめながら、椅子に雑に着席した。
「最近のニュース見てるか?」
「うんにゃ、全然? なんだァ、模範解答でも全国放送されてたンか?」
「全国で生態系の異常が観測されてる。概ね震災の予兆になりうるものばかりだ。余震も増えてるしな。偶には外の情報を取ったらどうですか上司サン」
そう言って、高辻は指折り例を挙げていく。海鳥のマーマレーションや集団墜落死、深海生物の浮上、海流および台風のない時期に発生する回遊魚の死滅回遊……
鳥の墜落死に関しては磁力異常や、気圧変化。深海生物の浮上に関しては深海の環境変化。往々にして理由が存在する事象。世間ではオカルトの分野にあるこれらが、全国で一時期に集中するというのは、まさしく異常。
「今さっき電話越しにニュース押し付けられたからなァ。全国規模ではあるんだろう」
「場合によっては、彼の記憶の中ではこれに類する何かが発生していた可能性もあるな。熊野近海の水産企業から周辺年代のデータを収集するか」
「頼んだ」
「……財団というのは、そういう情報の入手も仕事の内なのですか」
先ほどから不安そうに眉尻をさげる鈴木は、高辻に対して問う。すっかり質問すべき相手を理解したようだった。
しかし、確かに他所のサイトなら、こういった観測は外部の民間機関に預けるものであろうし、そもそも精力的に集めるものでもない。その点でいえば、このサイト特有の要素と言えるか。鈴木の質問も真っ当なものと言える。
「このサイトの扱う内容に問題がありましてね。そうですね、少しその辺りを雑談をしましょう」
鈴木の問いに丁寧に対応する高辻と対象的に、羽倉はここから先の長期化を察知し、早々に目を閉じて口を結ぶ。
「さて、このサイトの本来の機能ですが、役割として神格、妖怪、その他類似事案に対処するための関東圏前哨サイトの総本部──ということになっています……しかしその実態は、サイト地下に存在する神格の監視、記録を行い、もしもの時は──我々ごと、その神格を日本から消却する」
ブラックコーヒーを一口。
苦味の向こうで、高辻の声が淡々と続く。
「信仰消却サイト。神道国家日本、最後の砦の一つになります」
高辻祐一等研究員。羽倉栄管理官。2名はサイト-81SR-吽 神話・民俗学部門 信仰消却対策課所属の財団職員として国体護持の最前線を張っている。
「……最後の、砦」
「えぇ。そしてこれが生態系監視とどう結びつくのか、と言いますとね。度々言及していますが、このサイトの地下、我々の足元数百メートルの深さに位置する神格の存在があります」
足元を革靴の踵で打つ乾いた音が響く。鈴木は下にチラリと目線を投げて、すぐに戻した。この先の答えを待っている。
「名を“建御名方神タケミナカタノカミ”。聞いたことは?」
「……書籍やネットで何度か」
「一昨日、貴方がここに預けられた日も地震があったと思いますが、古くは“なゐのかみ”つまり地震の神様と呼ばれました」
「……その、つまり……あの地震が、その神様を原因として生じたものであると?」
にわかには信じ難いという風な口調で問い返す鈴木の姿は、一般人としては妥当な対応だった。
「えぇ。最近多い余震の正体もおおむね、直下の神格を起点としたものです。場所によっては断層型、プレート型の非異常なものもありますが」
「地震ともなると、先ほど例に挙げられたような予兆が見られると聞きますが……本当にそれを監視していると?」
「えぇ。いわゆるスピリチュアル、オカルト的な要素だと思われるでしょうが、財団は、それらの一部を明確に科学的なものとして観測しています」
科学的に証明されている生物の行動もあれば、眉唾の域を出ないものもあるが、我々財団は、長期の観測データからある程度法則性を見つけ、生態系異常を日々監視している。
2005年。利根公園。大量のスズキが釣り上がった記録がある。記録というか、あれを記録したのは我々なのだが、あれも生態系異常だ。あれは黒潮に乗って八丈島沖から流されてきたものだと結論が出ている。ちょうど黒潮海流の大蛇行があった時期に当たる。
建御名方神は、ナマズの姿で描かれる。今回、異常が見られたのは汽水、海洋生物であるナマズ。あの辺りはおよそ三種の魚類が順繰りに生態系を構築するスパンが観測されるが、それをもってしても逸脱しているのが今回だった。
「我々がナマズの大量発生をこうも重視している理由は、理解されましたでしょうか。そして、貴方がこれに根拠不明な不安を覚えている、という点に関して興味を持っているのには、こういった理由が多分に含まれています」
「……不可思議が大前提、でしたね。えぇ、まぁ、飲み込もうと思います」
「我々が疑っている筋はこうです。貴方はその現象を目にした人間である可能性が高く、災害というのは往々にして超常事物の起点となります。貴方は震災によって生じた超常に巻き込まれたのではないか、と」
はぁ、と小さく漏らす鈴木は、やはり心当たりや思い出すことはないようで、行儀良く左右の手を膝上に乗せたまましばらく固まっていたが、やがて諦めたように「すみません」と一言謝った。ついで、災害に対する不安を吐露する。それこそ、先ほどのナマズの大量繁殖と建御名方神の関連性の理解が進んだことから、より一層の不安を抱えているようだった。
「根拠のない不安です。でも、先ほどのお話で言うなら、ここは危なくはないのですか」
「サイト上部に位置する香取神宮および鹿島神宮ではどちらも建御名方神を祀っていますが、由緒によれば『武甕槌タケミカヅチ神により頭を要石で抑えられ、封印された』となっています」
「封印……あ、いえ要石は分かります。鹿島神宮のものでしょう?」
「ええ、言及されるのは大体が鹿島でしょうね。知名度は一段劣りますが、香取にもあります。それこそ日本各地にそれはあるわけですが、ここの二つの要石で、実際に地下で頭と尾を縫い留められている。縫い留めている限りは、大災害には発展しない」
「建御名方神っつったら、他に有名なのは国譲り神話だがしかし、封じられたのは諏訪すわ。つまりは長野の真ん中だ。なぜ同じ神がこうも分散していると思う?」
鈴木は、唐突に口を開いた羽倉に驚いたようなそぶりを見せつつも、考え込む。残っている記憶や知識をあさっているのだろう。ややあって、彼は自信なさげに顔を上げて、一応の答えを結んだ。
「……神話とは得てしてそういうものなのではないですか?」
「優等生の回答だな。比較神話だとか考古学的物証とかは今ここで捨てろ……答えとしちゃ、奴は一個体。要するにクソでかいのさ」
まだこちら側の世界に順応しきっていないのだろう。一般人的感性で、理性的な思想から生まれる答えだ。
「俺たちが抑えてるのはナマズの両橋だけだ。魚ってのは、頭押さえたところで暴れるモンだろ」
釣り人なら皆知っていることだ。
ならば、本体も抑える必要があるのは道理。
「信仰消却サイトが、日本の最後の砦の一つと言ったのは覚えているな?」
「……複数ある、と」
「そうだ。建御名方神の体に沿って、複数存在する。ここ香取鹿島、広島県厳島、石川県毛谷黒龍けやくろたつ、その他前哨サイト。そしてそれらを取りまとめるのが、中枢サイト、諏訪だ」

2011年3月11日。
東北地方太平洋沖地震。通称──東日本大震災。
4年前、東日本を中心に襲った壊滅的な震災。その記憶は未だ衰えず、今なお避難生活が続き、爪痕を残している。
財団も例外ではない。三陸を中心として、太平洋側に位置した一部のサイトやエリアは、オブジェクトごと喪失、あるいは壊滅的被害を受けたり、機能不全を引き起こしてやむなく移送の手段を取ったりといったところも多い。
復興のフェーズに移行してからも、現在進行形で多くの困難を抱えていた。
既存オブジェクトの再収容。そもそも地域・建築物等がオブジェクト指定されていた場合はその遺失調査、Explained等への再分類判断、人員不足や計画停電にあたっての諸対処、震災遺構や思念によって新たに発生するオブジェクトの捕捉……
震災の爪痕は深く、多くのイレギュラーを齎もたらしていた。
財団の定義する震災は大きく二つ。科学性震災と、神格性震災。
あの震災は科学性震災に分類される。単純なプレート活動の産物であり、我々財団はこの震災を予知、回避する手段を持ち合わせてはいない。しかし、だからこそ我々は神格性震災を引き起こすわけにはいかない。それは我々の管理下にあって、震災を引き起こすということは、それを管理できていないということに他ならない。神格性震災は回避できる災害なのだから。
しかしヴェール外の人間にその差はなく、全てが抗いようのない自然の暴力。ある日突然全てを奪っていってしまうものだ。
この島国の根底にはアニミズムがあって、神がある。震災はおしなべて人間の管理の外にあって、ただ享受し、適応し、そして傍観者にならざるを得ない、抗い難いものであった。だからただ、その震災を神として祀りあげ、一方でどこかの神に魂の成仏と無事平穏を祈る。
失った物、家、思い出、故郷、そして人が、どうか私のもとに帰ってきてくれるように。まだ体や物には魂が残っていて、その魂は誰にも見つけられないままどこかに沈んで、流されてしまって。もう見つからないというのならば、せめて奪われた彼ら彼女らの魂が成仏するように。救われるように、と。
その命を奪ったのは、同じ神という存在で。たとえ誰もが、科学的に解明されたメカニズムの引き起こしたものだと知っている現代でも。全てを流されてしまえば、縋り信じられるのは記憶と天の恵みくらいのものだから、どこかで信じている。
高辻は手のひらに目を落とし、それを数回握り直した。
──私だってそうだ。
財団は神の実在を知っている。多くの神が数多の被災者に何かできるほどの力を行使しないことも知っている。それでも、あの日行方も知れなくなった同僚の行方とその後を神という存在に託し、いまなお祈っている。
6月下旬を境に頻発している地震は神格性震災。財団の管理する神格の振動、あるいは神通力が起こす震災の総称であって、これはなんとしても管理し回避する義務がある。規模から言えば、発生した時の被害は先の震災を大幅に超える。回避できる震災であるからには、あの震災の再演を許してはならない。
神を認識し、しかしそれを科学で抑え込み、神という存在を科学的に解剖しなければならない。
居るともしれないどこかの神に祈りながら、目の前の神を管理する。私はあの日からずっと矛盾している。
「その、日本の各地にそのようなものがあるのは理解しましたが……信仰消却、とは?」
「簡単だ。その神格存在を人々の歴史から消し去る」
過去に耽ふける高辻の傍ら、握った手を頭の上でパッと開きながら羽倉は言う。
「消し去る、ですか。どうやって?」
「神っつうのはなァ、信仰を糧かてに生きてる。その信者たちがまるッとその神様のことを忘れたらどうなる?」
「……餓死、みたいな?」
高辻は「惜しいですね」と置いてから、解説を変わった。私の方が、整然としていて解説には合っている。
「建御名方神のような神性と、我々がピスティファージ実体と呼ぶ神性は似て非なる物です。餓死にあたるのはピスティファージの方ですね。自分の体を、信仰で生成されるEVEという素粒子で構成していますから、その供給が絶たれれば、いずれ体が崩壊に至るわけです。建御名方神の場合は、EVEが尽きても体は残ります。元々の肉体が普通に存在しますからね」
「では、信者をゼロにした場合は?」
「後者の性質を持つ神格存在も、いわゆる神通力、御利益をもたらすためにはEVEが必要になるのですよ。供給を絶てばそれができなくなる」
「記憶を消す、というのはどうやって」
「記憶に作用する薬剤を散布した上で、私たちとこのサイトごと、人類の記憶から消却します」
「……サイトごと?」
鈴木は、理解ができないと言った面持ちでオウム返す。
「ええ。我々ごとです。人類の認知外に弾き出された神格は、なおも管理する必要がありますから」
まぁ、最終手段ですよ、と安心させるような言葉を付け加えると、鈴木はなんとも言えない表情で黙り込んだ。自分たちの身を犠牲にするような手段を自分の中で消化できないのだろうか。
しかし、財団の理念は、彼らが闇に呑まれることを許さない。それに個人の視点でも、あの光景を見たくないという一点だけで、私が身を犠牲する理由足りえる。
「そんなサイトだから、どこも人数はごく少数。カミサマが動き出すか、カミサマを狙う輩が出たら一気にブラック企業の完成ってェワケだ」
「我々は、我々の理念に忠実であるために全力を尽くします。信仰消却の可能性があるサイトで働く以上、それが覚悟です」
鈴木の表情は、理解よりも先に拒絶を選んでいた。
羽倉が乾いた笑みを浮かべて続ける。
「で、最重要なのが中枢サイト――諏訪だ。んで、神話の観点からも最重要地域とされるこの地に伝わる言葉がある。こんな具合だ」
古く諏訪に伝わる言い伝え。
それは神の位階であるとか、性格であるとか、当時の政治権力であるとか、そういった理由を据えられてはいるが、かつて人々の意図したものは違った。異常を知るものと知らぬもので、受け取り方は大きく変わる。
それは、かつて建御名方神を封じた側の忠告であって、現代まで正常性の守護者が守り続けた不文律。
羽倉が指先で机を叩く。
その音が、どこか鐘の音みたいに響いた。
曰く──
「──諏訪を解からば日本が解ける、ってな」
文字数: 53100






