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妄信 / 依存 / 従順 / 未熟
澱おり
とんべ様、とんべ様、今日の神饌しんせんでございます。八家土居はっけどい共々ますます彌栄いやさかましませ。
酒を数滴。炊く前の新米を一握。平家落ち延びて延々諾々800年余。古めかしい堅焼きの土瓶に対してもはや作業と化したお祈りを行う。中は見ない。見ても祟病すいびょうの類はないと先代は言うが、瓶一杯に小さい蛇が数えきれぬほどのたくっているのを好んで覗く物好きではない。一連の動作を終えて、土瓶を床下にゆっくり戻す。これが割れたら目も当てられないことになる。何より先代が怖い。
床蓋を戻して、ひと息。
バカらしい、と口には出さないまでも、私は内心でこの慣習を嫌っていた。蛇が嫌いというわけではない。この御神里みかみさと村じゃ蛇なぞ、家から出てそこら辺を歩けばよく藪から出るし、物置にひっくり返して置いてあるビールケースをひっくり返せば抜け殻がいくらでも見つかる。嫌っていたらやっていけないのが山育ちだ。
──白いのが珍しいくらいじゃん。信じようが信じまいがなんの祟りも繁栄もないのに、何が神様なんだか。
玄関で運動靴を突っ掛けて外に出る。左にはトタンで茅葺かやぶきを覆われた、以前住んでいた家。自宅が文化財になるというのも珍しいものだが、物心ついた頃には文化財だったからあまり違和感がない。老朽化による保存のためだとか、観光地化のための整備だとかで今年工事が本格的に動くらしいが、頓着もないから「とうとうか」というしょっぱい感慨くらいしか覚えなかった。
体に染み付いた動作のまま山道を200メートルほど下った私の目の前には、苔に覆われた大小様々な石積みの直方体がある。先代曰く歴代この土地を収めた名主、つまりは私のご先祖さまのお墓らしい。先代から耳タコなほど叩き込まれた一族由緒の話を加味しても、墓標が無いから本当にこの下に骨が埋まっているかも怪しいくらい。
そんな石たち一つ一つの前でしゃがんで数回手を打ち、お墓参りを終わらせる。
これが私の朝のルーティーンだった。
すっかり夏の顔をしている山を、藪蚊から逃れるように小走りに玄関まで戻るころには、母が朝食の用意を終えている。
急かされるように朝ご飯をかき込んで、母の出した軽ワゴンの後部座席に乗り向かう先は高校。御神里村の位置する東祖谷ひがしいや地域にはないから、徳島平野に位置する三好みよし市まで出る必要がある。土讃とさん線大歩危おおぼけ駅から電車で揺られるか、私のように車で送迎してもらうかだ。
「期末に向けた勉強や宿題は進んでいますか?」
「問題ありません」
「……あの、お母様。毎朝確認するのはやめませんか。一日でそこまで状況が変わるとも思えません」
でしょう? と、一緒に乗り込んだ横の先々代──つまり私のお祖母様のこと──にちらと視線を送れば、
「そうねぇ。千代ちゃんも今までちゃんと勉強できているしねぇ。成績も落ちないし」
にこやかに肩を持ってくれる。
お祖母様の言葉とあっては流石にお母様もこれ以上なにも言えないようで、少し困り眉のまま学校生活に話を変えた。お友達と遊ぶ予定はあるの? とか文化財の開放シフトの話だったりとか。他愛もない談笑だ。家族間は不仲ということもなく、ごく一般的な家庭だと思う。少し母親が鬱陶うっとうしいきらいがあるくらいで、世間一般に照らし合わせるのならば、いわゆる恵まれている側に振り分けられるのだろう。
高校への道の一本手前で降ろせばあとは勝手に歩いて行くからという私の要望を、母親は「面倒くさい」の一言で片付けて正門の前に車を止める。正門で同級生が手を振っているのが見えて、ため息。昇降口まで向かい、下駄箱からスリッパを引き出す横から「ちーちゃんおはよう」と挨拶してくるクラスメイトに、愛想良く挨拶を返しながらも、母親に恨み節を吐いていた。
──あまり目立ちたくはないんだけどな。
私はクラスの中で浮いているという自覚はない。自ら表立ちはしないまでも、周りが自然に私の周りで話題に花を咲かせる感じの立ち位置にいると自認していた。個人的には不満はないし、現状ではこれが私が形成できる最適解だった。
思春期の絶頂期。社会性の構築に思慮と自我の入り混じる高校生が作る人間関係。誰かを神輿みこしにグループが形成されるのはごく普通で、そんな持て余す空気感に置かれた子供の中には案の定、上に立ち優位を得ようとする層も生まれている。いじめ、カースト、粗探し。目を逸らしても完全にはシャットアウトできないそれらの中にあって私は、出自の特殊も相まってなかば受動的に設けられた地位をなるべく毒抜きすることに徹し、誰の鼻にも付かない態度を意識し、八方美人を己の顔面に貼り付けて、それに疲れていた。
教室の戸を引いて、飛んでくるクラスメイトの挨拶に丁寧に答えながら、机の横に荷物をかけて着席する。皆が皆、期末前のなんとなく焦ったような根拠のない自信を持った雰囲気と、それを上塗りするかのように、来たる夏休みへの期待とをないまぜにして、一段と浮ついた空間を形成していた。
いつもの如く「ちーちゃんちーちゃん」といつの間にかついたあだ名を連呼しながら膝立ちになって、両腕を机上に組んだ女子がちょっかいをかけにくる。
「夏休みどこか行くの? それともずっとお客さんの応対? いつ空いてるかわかる?」なんて具合に浮かれに浮かれた質問の数々も、適当に答えを返していれば徐々に周囲の女子も集まって勝手に話は進行していった。私はその真ん中で相槌を打ちながらニコニコと受け流す。休み時間には「千代さんも何か飲み物いる? ついでに買ってきてあげる」なんて言葉で、遠慮しても「いいからいいから」と自販機に行ってしまう。

本当にこれが最適解だろうか。
別におだてられるのも尊敬されるのも嫌いなわけじゃない。でも、おだてられる理由が透けて見えるのは嫌。平家の末裔まつえいだなんて話が本当だとして、私に擦り寄ったところで何も得るものはない。お家関係なんて現代ではあってないようなものだ。それでも学校や周辺地域では平家落人伝説の話から逃れられない。隠していたのに、先生がどこからか仕入れてきて良かれと思って引き合いに出すもんだから、いつの間にかみんなが知っている。
今朝だってそうだ。四国の山間部、車送迎自体は特段珍しいものでもない。しかし由緒と送迎の二つが組み合わされば、年相応の彼らの認識は簡単にテンプレな印象に寄っていく。まして、この高校には寮もあるから下宿はできるし、遠い自宅から通うのは効率的でない。自分の背中に常に背負わざるを得ない腐れた看板と、私でなくそれを軸とする人間関係に嫌気がさしていた。
期末前特有の自習時間を駄弁りに費やすクラスメイトを横目に単語集や古文の自習を進めていれば、すぐに就学時間は終わる。帰りのホームルームを終えるチャイム。大して頭も疲れていないくせに友人間で疲れたアピールをする男子や、連れだってトイレに向かう女子、慌ただしく荷物を掴んで出ていく幾人か。私に向けられた「またね」に対して律儀に手など振り返して、にわかに騒がしくなる教室が少し落ち着きを取り戻す頃、私もついていた頬杖を解いて昇降口に向かう。片手に握ったスマートフォンには、母親からの『申し訳ないけれど、お迎え遅れます』という短いログがあった。
『迎えはいいです。電車とバスで帰ります』
下駄箱から外靴を取り出し、適当に靴を引っ掛けて日差しの下に出る。早帰り日程だから、山間部といえどまだ明るい。踵を履き直して、母からの「気をつけて」という返信にたった二文字「はい」と返し、クラスメイトのバイバイに控えめに手を振って帰路についた。
大歩危駅でおりて、バスに揺られ、ちょうどいいところで下車。なるべく木陰を歩くように九十九折つづらおりの車道の端を歩きながら、車通りが少ないのを良いことに歩きスマホ。ふと、先ほどの淡白なLINEのログに目がいく。
クラスメイトの多くは、親と結構くだけた会話をしていたり雑談も多いらしい。前に家族の話題が出た時に聞いたことだ。同時に、私と親の会話の淡白さに驚かれた記憶がある。育ちがいいだとか、お淑やかだとか、そんなことを言ってしきりに感心するような態度をいやに覚えていた。「そんなものではない」と少しの嫌さを含んで言ってみても、今まで形成した私のキャラクターでは謙遜にしか受け取られないだろうことは明らかであったし、何より、そんなキャラクターが満更でもなかった当時の私はそういうことにしたのだったか。
私だって、そういったやり取りに憧れる。これも変な由緒のせいだ。
自分でも整理のつかないジレンマを頭から無理やり追い出して、スマホをスカートの右ポケットに捩じ込む。流し読んでいた好みの終末系のネット小説も、あまり逃避にはならなかったようだ。
ガードレールの向こう側に望むのは、変わり映えもせず、まるで神様がお試しでこさえたテンプレみたいな山々。切り開かれた斜面にこびりつくように蔓延る四国特有の人の巣箱。フィクションをフィクションたらしめる、平穏を体現したような山間部。隣の香川と違って人口密度も中の下で、個々の町村の結束ばかりが強い。山間だから涼しい方だし気分の入れ替えだけならもってこいな環境だ。都会──近いところだと徳島とか、大阪とか、東なら東京とか、そういうところに住んでいる人はどうやって気分転換をしているのだろう。緑もない建物ばかりで人が多い場所で切り替えがきくとは思えないけれど、しがらみも同時に薄いのだろうことは、少し羨ましくもある。
そこらで適当に見繕った枝を片手に車道から獣道へ。分け入ってしばらく、藪を突きながら慣れた道を進むと聞こえる小さな水音。少し開けるその場所は、私が気分転換によく訪れる沢。決して都会にはない憩いこいで、この心地よさだけは好きだった。
「うぇ……さいあく」
顔や足にまとわりつく感覚を感じて顔や手足を払う。蜘蛛の巣だろうか。夏場はすぐにそこらじゅうに巣を張るから困る。払ってもまだついているような気になるから不快感もひとしおだ。さっさと靴下ごと靴を脱ぎ捨てて、ごく浅い沢の流れに差し入れれば、足を呑むように清流が熱を持っていく。なんとも言えぬ清涼感を全身で浴びながら、リュックを傍に置いて適当に平たい岩に腰をかける。「ふぁ……」と間の抜けた息が自然に出た。
名前のわからない鳥の声が遠くから聞こえる。いつもなら近くで水浴びや水分補給に憩う鳥たちをよく見るが、今日はいない。少し残念に思いながら、足先をにぎにぎと動かす。川床の藻が滑ぬめる不思議な感覚をしばし楽しみながら、なにをするでもなくそこにいた。
──どの程度そうしていただろうか。不意に、向かいの薮が少し動いた。たまにリスやらたぬきやらが水を飲みに来るのはもう慣れているから、滅多なことではあまり意識を割かない。それでも今回ばかりは、いささか驚いた。
白蛇なんて珍しい。それも家の蛇と違って大分と大きい。と言ってもせいぜい20センチ程度だが、そもそもここで白蛇を見たことはない。どこで生まれ育った蛇だろうか。
しばらくの間、互いの視線は一向に切れない。一向に目を逸らさないばかりか、むしろこちらに視線を固定したまま這ってくる様子を認め、警戒心が跳ね上がる。何の蛇かは知らないが、お祖母様の言うことには「目を合わせて寄ってくる蛇は毒があっていかん」と言う。その真偽はしれないが、少なくとも刃向かってそれこそ藪蛇を食らうのもごめんだ。濡れているのも構わずに、突っ込んだ靴下ごと靴を無理やり突っ掛けて、いつでも逃げられる用意を整える。
背後の障害を確認し、ついで足元を見る。そうやって次に顔を上げた時、目の前の沢の中には子供がいた。
檻おり
「今日もご挨拶に行こうかねぇ。千代ちゃんもおいでなさいな」
小学校の机の中に貯めに貯めたおはじきセットやら竹定規やらを、ランドセルとお手製ピンクのギンガムチェック柄手提げにはち切れんばかりに満載し、子供の足には少しばかり急な坂をえっちらおっちら運んで帰宅した私に、お祖母様はいつものように声をかけてくる。
「え。えぇー……また行くのぉ?」と駄々をこねる私に、お祖母様は少し困ったように眉を下げながらも、再三聞いた祖谷の平家伝説を話し始めるものだから「わかりましたぁー!行く。行きますぅ」と宜しくない態度でお祖母様の話を切り上げて、軒先に荷物を放り投げてお墓参りに向かうのが常だった。
お祖母様はお母様に比べれば優しくて好きな方だけれど、平家のお話は私にはピンと来ない。お家柄なんて関係ないじゃないとは思っても言わなかったが、子供の頃から耳タコなまでに聞かされれば、いくら自分の由緒が歴史的に貴重でも、嫌いになると言うものだ。
お祖母様とて、誇るとかそう言うことはないのだろうと言うのは分かっている。安徳あんとく天皇がここで没したと言う伝説如何に拘らず、単純に先祖への礼儀を通すために先祖のことをあったこととして慮るのが重要なのだろう。
だが私は違った。
違ったと言うより、不確定な要素を慮るほど、信心深くはなかったのだろう。
いくら自宅に平家の御旗みはたが残っていようが、いくら追っ手にバレないように墓標を消した名もなき墓が残っていようが、いくら安徳天皇の没した場所が伝わっていようが、小学校の図書室に無駄と思える程に揃ったの平家関連の本も、つまらない授業の合間に読破してしまった資料集も、それら正史を綴つづる物全てが示すのは安徳天皇が海の下と言う事実のみ。決して山の、それも四国の奥深くではない。
何より、先祖が負けて逃げ込んだ結果が今なのだから、負け組の直系じゃないか。小学生の私は勝ち負けと言う側面によく分からない敵愾心てきがいしんを抱いていたから、頑なに信じようとはしなかった。
「あの有名な平家さんの直系なんて、千代ちゃん家は羨ましいなぁ」
「壇ノ浦を落ち延びて生きながらえた平国守らがこの地を治めていたとしたら、夢がありますね」
友達も先生も、そんな羨望や美辞麗句でおだて、滲む尊敬を浴びる環境に幼い頃からどっぷりと浸かり切った私は、それが当たり前の環境として慣れている。人の気も知らないで。そんないいものじゃない。国語の平家物語朗読では、当人ではないのに居心地が悪かった。幼い頃から他の子よりも自由が効かない重荷でしかない。
そんなだから、私は平家も信じていなかったし、そういった非現実的な事柄は何事も馬鹿にしていた節がある。この地方に伝わるとんべ様だって信じていないし、平家だってどっかの名主の墓だったんだろう。UMAなんていないし、都市伝説なんて全て誰かの作ったエンタメだ。
──そう思っていたのに。
今目の前には不可解があった。
「あー……、えと。どこからきた子?」
この辺りでは見たことのない顔。齢は十とおくらい。何よりお着物を纏っていて今の装いではない。
「……近くに蛇いたから、気をつけたほうが」
どうコミュニケーションを取ろうかと焦る頭を回して、最終的に出たのはそんな当たり障りのない言葉。対する子供は、焦るこちらを知ってか知らずか、変わらず無表情でこちらを見ている。
しばらくの沈黙が続く。
同時に、辺りが異様に静かなことに気がついた。先ほどまで聞こえた鳥や虫の声はなりを顰め、梢こずえは不自然にその揺らぎを止めている。それこそ自らの心音すら聞こえそうなほどの静寂は、この時間ではあり得ないと言い切れた。耐えかねた私が「それじゃあ」という言葉を置き帰る素振りを見せると、子供は後ろから歳に似合わぬ声をかけてくる。
「吾……あー……余、俺……ふん。まぁ善い童わらべ、そう怯えるな」
なんとか現状を日常に落とし込もうと逃避した思考が、その子供に似つかわしくない口調で乱される。
「……」
「今時の話し方っていうのも学びはしたけど、めんどーだね。しっくりこない」
進退決めあぐねる私をよそに、子供は沢の丁度真ん中あたりに立ちながら、一人で何やら呟いている。先ほどの恐怖にも畏怖にも似た感情は少しばかり落ち着きを取り戻していた。厨二病を患った子供と思えばあまり怖くもなくなる。現状、自分の本能を騙し騙し接触するしかない。
「ボクくん、誰? 御神里の人じゃない……よね?」
「云千年前からここに住んでる」
「そうなんだ〜……今何歳? 親御さんは?」
「歳は知らないがね、ここらじゃ一番長寿だろうね。親御さんはどうだったかな」
不気味さよりも、生意気な子供だなぁという印象の方が高まってくる。尊大な態度を取りたがる子供らしい態度に、分家の従兄弟を思い出した。
「ここにはどうやってきたの? ボクくん一人で帰れる?」
「誰に聞いてる。ここは俺の庭のようなものだぞ」
「じゃあ私そろそろいくけど、一人で家帰れる……のね?」
スクールバッグを肩に掛け直し、靴と靴下をしっかりと履き直して、未だ沢の中に足を晒している子供に聞けば、子供は口をへの字にして、腕を組み、何やら物言いたげな態度をとる。
「ふむ。まぁ待て、そう急くな童」
「何? やっぱり車道まで連れてってほしい?」
「人の姿は失敗だったか」
そう嘆息とともに呟くとともに、子供の姿は跡形もなく消える。
ぱちゃ。
飛沫が立ったところに目をやれば、そこには先ほどの蛇。それは鎌首をもたげ、あの子供のように沢の中から私を睥睨へいげいしている。自分の中で迷子の子供として解釈しようとしていた不可解は、さらなる不可解に上塗りされ、また私にこれが現実であると訴えていた。右ポケットの中のフィクションは、今急速に現実を侵食している。
「……本当に何」
自然と蛇に声をかけていた。蛇が人語を解する訳もないのに、それが当たり前に通じると、今は確かな自信を持って。
「信じたな。おまえ」
「だから何の用ですか。あなたは誰なの? ──神様? 妖怪?」
「なぁ。答える前にちょっとそっち行っていいかな? 沢の中は寒くていけない」
砕けた口調に少し虚を突かれつつも、少し後退りぎこちなく頷く。先ほどボクくんなどと呼んでいた時の余裕は、もう微塵も残っていない。
白蛇は滑らかに体を蛇行させながら、いとも簡単に岸まで上がり、先ほどまで私が座っていた岩場にとぐろを巻く。蛇が日本語を喋っていることにはもはや驚きもしない自分に気がついた。
「あなた、何者ですか」
「せっかちだねー……どうせだからさ。当ててみなよ」
爬虫類の表情など読み取れるはずもないが、細い舌をチロチロと出しながら左右に揺れる白蛇は楽しんでいるようにも見える。とにかく帰りたいという気持ちを抑え、一つだけ、ずっと最初から思い当たる物を挙げた。
「……とんべ様」
白蛇の縦長な瞳孔どうこうが少し揺れるのを見つめ、反応を待つ。
「ま、いいでしょう。俺がそのとんべ様ね。おーけー?」
こんな異様に軽いテンションで尊大な語り口とイキった中学生みたいな語り口を行き来するような生き物が、という点でどうも納得感はなかったが、人外であることは今この状況が証明している。日頃床下で蠢いているあの白蛇達の方がよっぽど神妖のような神聖さを感じるとは、思っても口にはしなかった。
「あぁ、童の家で飼ってるのはただの蛇だからな。なんの意味もない」
口にはしていないのに、まるで会話の延長のように蛇がいう。
「何さ……あぁ。衷うちを読まれたくなかったのか」
「……あまり気持ちのいいものではないです」
「童は俺みたいな存在を信じてはいなかったみたいだが、とにもかくにも信じる気にはなったようで何よりだ」
「だから考えを読まないでください」
悪びれるような様子もなく、蛇は「ところで」と話題を変えてくる。
「とんべ様の実在を確信したおまえにお願いがあるんだけれどもね」
「とんべ様なら自分で思いのままじゃないんですか?」
「今死にかけの俺にそこまでの権能はないの! これだから人間ってのは」
「……何して欲しいんですか」
この蛇、嫌に人間くさい。
「今の御神里村じゃ俺をまともに信仰してる家なんてほぼないわけだ。つまり死にかけということだな。そこでだよ。君の信仰を貰いたい、とそういうわけだ」
「えっと……乞食」
「人聞きが悪いなぁ」
「……信仰して私に何か不利益があるなら絶対に嫌です」
「大丈夫だとも。君の近くにさえ居られればいいからね。そも、もうすでに僕を神妖と認識したあたりから君の信仰心は貰っている」
あっけらかんと明かした発言に思わず顔を顰しかめた。この蛇、勝手に私からなにかを得ているらしい。この生き物が軽薄な雰囲気を纏っているからなのか、姿からなのか、およそ神(自称)の前にいるとは思えない会話をしていた。「なんともないでしょ? 安全安全」と悪びれもせず宣う蛇の信用度はすでに地面にめり込んでなお下がり続けていた。
「……そもそもですけど、あなたくらいの大きさの蛇、近くにいたら他の人にバレると思います」
「む、そこはなんとかするともさ。どうだろう。神妖との契約なんて滅多に出来る経験じゃあないよ」
「そりゃそうですけど。朝にあなたのこと思い出してあげるんで私に付いてこなくても何とかなりませんか」
「神に粘るもんじゃないよ。こういう時は喜ぶもんだ」
せいぜい掌サイズの蛇ならいざ知らず、どう頑張ったって20センチくらいの蛇は誤魔化せない。スクールバッグの中に入れるわけにもいくまいし、何より自分が嫌だ。さっきの人型で服でも着替えて、とんべ様の力で誤魔化して学校に通ったりなんかできないものだろうか。
そう渋面を表に出していたからか、蛇はわかっていないと言った素振りで鎌首を左右に振った。曰く、今の自分は死にかけで、人型も今の権能の限界で出来ることだと言う。他の神妖の信仰心を食べれば回復するが、俺はこのあたりから動けない。だからこそ君に付いていきたいというわけだよ、と勿体ぶった喋り方でご高説を賜たまわったが、要するに私は乗り物じゃないか。
土地に縛られているのなら下手に解き放たない方がいい。創作物は得てしてそういう展開で不幸が起こるものだ。いくら私が終末物ばかり好むとはいえ、それくらいのお約束は知っている。
なおも渋る姿を見かねてか、白蛇がさらに押してくる。セールス根性が逞しすぎる。意識の隙間を縫うように、ずっと目の前にいたのに変化の境目を認識できないうちに、岩の上であぐらをかく子供の姿になった蛇は、口角を悪戯げに押し上げて私に言う。
それは意識の外から唐突に、とても冷えた刃で刺されたような言葉。
「外面そとづらは澄ましても中身はガキだね。未熟だ。全くもって」

一瞬の硬直。急に顔が熱くなる。
何故かは分からない。こんな生意気なガキに何を言われたところで、笑ってあしらえるような、そんな中身のないはずの罵倒。
そのはずだが、どうにも怖さが勝った。この蛇は先ほどから勝手に私の考えを読む。なら、私の中の何かを見てそんな嘲りを口にしたかもしれない。それが何か、私には分からない。分からないというより、私の、内心の整理がついていない箇所のどこかなのだろうけど、私自身が整理をつけられていないのだから私に特定はできない。
「……あなたに言われたくはないんですけど」
「俺はおまえみたいに面倒臭い捻くれ方はしちゃいないさ。思い当たるだろう。なに、ガキなのは悪いことじゃない。恥ずかしがる必要はないとも」
所詮妖怪の甘言だと切って捨てられるはずだ。そう言い聞かせても、私の目線はすっかり地面を眼差している。見ずとも理解できた。今目の前の子供は、年相応の楽しげな笑みをしているのだろう。なぜいきなりこんな話を? なぜ急に私に牙を向くの? そんな疑問や不条理な行いからくる怒りからか、何故か湧く恥ずかしさからか分からないが、混乱渦巻く内心が反映されたようにうまく歯の噛み合わない口でようやく言葉を紡ぐ。
「……なんで、いきなりそんな話になるんですか」
「俺ならおまえのその馬鹿みたいに絡まった悩みをどうにかできるからに他ならないな。途端に蟠わだかまりを全て解けるような解決法だよ? でもそのためにはおまえが自分の心の衷を見つめ直さなければいけない」
「馬鹿みたい……って、人の悩みはとんべ様が思うよりも複雑でいろんな理由があるんです……! 助けがなくたって、いつか自分で心の整理をつけられますっ! 私は……っ! 私は、神様や妖怪の関わる解決方法は、望んでません」
「望んでるでしょ。今おまえは少し揺れてるもの」
また、内心を読まれたらしい。
「…………っじゃあ! じゃあ、どうやるっていうんですか」
「君がガキである理由の最たるものは家柄だ。だからそんな束縛なぞ消してしまえばいい。平家の歴史を書き換えてしまおう。流石に人間の歴史から全ての履歴を消すなどという業はできないまでも、こんな田舎の伝説レベルならどうにでもできる。むろん今の俺の力では無理だ。もっと力を戻す必要が生じてくる。そのために、おまえにも協力してもらう必要はあるけれどね」
書き換えて何になるというのだろうか。
そもそもそんなことが本当にできるのか。
それが出来てなんになる?
確かに私はただの一般家庭の生まれとして、変なしがらみもフィルターも通さず、人と接することもできるはずだ。そうなれば格段と生きやすくなる。母親との会話も人並みに温かさを感じられるものになるだろうか。靴下で抑圧された自身のつま先を見つめ続け、色々とありそうな未来を夢想してしまう。蛇のいう蟠りっていうのは、こういうことなんだろうか。
「できるとも。逆に平家を栄華させることだって容易い。まぁそこはおいおい決めればいいさ」
甘い言葉は危険。でも、癪しゃくに障さわることに、目の前の子供は明確に私の深層心理を読み取ったであろうことは、ここまでの流れと提案された手段から明らかだった。これだけでも神霊に類するものであることは疑いようもない。今までこれっぽっちもオカルトなど信じやしなかった私が随分な変わりようだと自嘲しながらも、目の前の子供の姿をとるナニカに縋るのも良いのかもしれないという気持ちが芽生えている。
──我ながら随分と現金なものだ。
しかし同時に、それだけ私は家柄というものに重しを感じているということの証明で。
顔を上げる。子供は、案の定にやにやと面白そうにこちらを見上げていた。
「私は、あなたに信仰を与えていればいいの?」
「それだけじゃ足りない。この夏は色々なところに俺を連れ回してもらう」
「当てがあるのね?」
「大まかな筋道は立っている。もっぱらの目的は近場で俺の力を取り戻すことだね」
「……そう、ですか」
いつの間にかきつく握り込まれたスクールバッグの肩掛けから、手を離す。汗ばんでいる手のひらの感覚に、無意識に数回手を握って緩めてを繰り返しながら、深呼吸を数回。スカートを膝裏に仕舞い込む形でしゃがむ。子供と同じ高さに目線を置いて、意を決して願いを紡いだ。
「とんべ様、お願いです。私をこの家柄から解き放ってくれませんか」
一呼吸の間をおいて、子供は「契約成立だ」と無邪気に笑った。
「じゃあ縁を繋ぎに行こう」という言葉と共に子供の姿は忽然と消え、変わりに白蛇が私のスクールバッグの中に滑り込む。
「ちょ」
「ほい。次は平家の墓行ってねー」
私が何か苦言を呈す前に、蛇は早速行先を指図してくる。仕方がない。これも契約のうちだ。先ほどの空気を払拭するように頭を振り、少し陽の傾きつつある獣道を引き返すことにした。
「着きましたけど。何するつもりなんですか」
「言ったじゃんか。縁を繋ぐって」
スクールバッグのファスナーの隙間をすり抜けた白蛇は、墓標のない石積みの上に陣取りこちらを見やる。
「さて、恩賚みたまのふゆを授ける手順は簡単だ」
そう言い、尾の先で供えられた酒瓶を複数回叩きながら「これを飲みな」と促してくる。
「私、未成年なんだけど」
「知らん。元服はしてるだろう。これは直会なおらいだ。本来ならしっかりと神饌を食らうものだけどね。まぁ、神前に備えられた御酒みきだけでも出来る。元が米だからね。これは直会までの儀式は一通り終えてる酒だから問題ないというわけだな。まずおまえが呑みな」
神事に詳しいわけじゃない。蛇の言葉はどれも聞き馴染みのないものばかりだったが、神に供えられたものを飲むことが儀式の一つなんだろう。未開封の酒瓶を手にすると、その黒とも茶とも言えないガラス瓶の中で、透明な液体がちゃぷんと揺れた。あたりの緑を反射して、それは少し色づいている。少し力を込めてキャップをひねる。
ぴし。ぷしゅ。
小気味いい発泡音と共に、ほのかな甘い香りが鼻をくすぐった。
「数滴でいい。終わったら俺に渡してな」
意を決してその酒を呑む。あま。
特有のアルコール味とおはぎのような穀物特有のあまさ、そしてぴりりとした辛さもあるそれは、喉元に熱さを、口の中には残るような甘ったるさを残して胃に収まる。眉を顰めているのを自覚しながら、いつの間にか子供に姿を変えた蛇に瓶を渡した。どこか絶対的な障壁だった飲酒という行為は、一度踏み越えて仕舞えば、さほど感慨も罪悪感も覚えるものでない。ただ、確かに法を犯した実感だけはあった。
子供は、そんな私の内心を知ってか知らずか、その切れ長の瞳孔をこちらへ向けながら異様に長い舌をちろりと覗かせ、迷うことなく瓶を傾ける。
「ふむ。まぁ悪くはないな」
コン、と半分ほどまで減った酒瓶が、先ほどより幾分軽い音を立てて元の場所に戻される。子供のなりでとか、あの一瞬でこれだけ飲み干したのかとか、己の現代的な倫理観と常識が思考に入り込んでくる。
「これで、直会? っていうのは終わりですか」
「ん? あぁ、これで終わりだね。晴れておまえと俺は縁を結んだ。おまえは俺のために尽くし、俺はおまえの願いを叶える。そういう縁だよ」
「神妖と縁を繋ぐなんて、たいそうな事なのに随分と質素なんですね」
「まぁ、おまえが自身の本心と向き合った上で私に願いを伝えたさっきのやり取りも儀式に含まれるんだけどね」
向き合わせたってより、現実に顔面を押し付けられたと言った方が正しい。最初から、こいつはそのつもりだったんだ。儀式を結ぶ方向に引き込んで、私を焚き付けて。嫌な怪だ。はなから私のことを餌や籠としか思っていないのかもしれない。
──もう後戻りはできないのだろう。
漠然と、そう理解する。墓の上で胡座をかくとんべ様は「早速だ」と手を打ち合わせた。何をいうかと思えば「おまえ、明日明後日のうちには讃岐さぬきまで出るからね」と宣う。
「……え、高校あるんですけど」
「関係ないね。今日のうちに必要なものを揃えておきなよ。俺は今夜はここで過ごすから。酒もあるしな。あぁ、あるなら俺が着る普通の服というものを用意しておいたほうがいい」
踵で酒瓶を揺らしながら一方的に告げる。黙る私を見て、また可笑しそうに笑った。
「今更家族に怒られるだなんて、くだらない事を恐れてるんだね」
「……わかった! わかりましたよもう!」
どうせ戻れないなら、行動を起こすのは早いに越したことはない。そう言い聞かせて、私は家に向けて踵きびすを返した。
少し遅めの昼食を終える。食器を台所で水に浸し、自室で手早く数Bの宿題に手をつける。途中でおやつとカルピスを持ってきてくれたお祖母様に感謝の言葉を返しながらも、恙無つつがなく終わらせていく。おそらく提出などできないのに、自分に染みついた真面目さが少し滑稽だ。
ふぅと一息ついた頃には、ガラスの中に浮かんでいた氷は跡形もなく溶けていた。口をつけると慣れ親しんだ濃さが喉と臓腑を冷やしていく。氷が溶けてちょうどいいのが我が家流のカルピスだった。ここからしばらく、こんな生活ともお別れなのだろうと考えると、少し寂しい気もする。
伸びを一つして、よしと一声立ち上がる。書斎から自分の預金通帳や保険証を持ち出し、防災用のリュックから携行必需品、アメニティを普段使いのリュックに詰める。これなら明日学校へ行く時に持って行って怪しまれない。衣類は最低限。宿で洗濯して凌ぐことになるのだろう。
まだ学業がある。一度出発したらもう戻れない。バッテリーやコード類、ライトや水筒類などを取捨選択して詰め込んでいった。
出立は明日。気が変わる前に出なければ一歩が踏み出せない。お金は貯める一方だったからそれなりにある。この場所じゃ散財する対象なんてないから。つい最近の大きな出費は去年買った最新モデルのiPod、せいぜい3万円と少し。
そうこうするうちに夕飯に呼ばれ、いつも通りの団欒を囲み、お風呂や歯磨きを終えてぼうっとテレビを見る。こうしていれば普通の家族だ。
──朝学校に送り届けた娘が家出のように姿を消したら心配するだろうな。
少し現実に戻ると、常識的なことに意識が行ってしまう。その辺りのケアも必要だなとか、連絡だけは取らなきゃとか、自分が学生であるが故の制約に対するもどかしさや、親は確実に身を案じてくれるという安心感に決意が鈍りそうになる。
でも、今よりもさらに状況が良くなるなら。
その手段が、他でもない神様から与えられたなら。
逃したくないのが人間だ。蜘蛛の糸だって、落ちるまでは切れるなんて分からない。先の憂いより先の希望。神様の望ことと人道を守ってさえいれば、糸は切れないのだから。
イレギュラーに対する確かな高揚感と、そんな到底整理のつかない感情も、布団に入れば自然と落ち着くもので、一時間もしないうちに、意識はどこかへ沈んで溶けた。
昨日と同じように授業を受け、また迎えは要らないと淡白にラインを返し、私は閑散とした駅に立っている。
佃つくだ駅、徳島線と土讃とさん線が乗り入れる乗り換え駅であるにもかかわらず、全くと言っていいほど利用客のいないこじんまりとした駅だ。点字ブロックと白線の間の溝からは、アスファルトがなにくそとばかりに逞しく背を伸ばす雑草が、時折夏のぬるい風に身体を揺らしている。
「暑い。とんべ様は平気なわけ?」
「暑いとも。お前のリュックサックは木立の中とは大違いだ」
普段ならばここで降りることなく、そのまま土讃線に揺られて大歩危おおぼけまで向かうが今日は違う。土讃線北側の終点、多度津たどつ駅に向かう列車への乗り換えだ。路線図上ではたった九駅だが、一時間近くかかる。その上この駅に止まる列車は少なく、逃せば一時間後になるなんてことはザラだ。
「……あの、おまえ呼びやめませんか」
「おまえの名前知らないもん」
「何で心読めるのに名前知らないんですか」
「おまえが心の中で自分の名前を思い浮かべないからだろ。無茶を言うな」
確かに自分の名前を思い起こす機会は少ないかもしれない。
「千代。阿左千代あさ ちよです」
「……明日にでも死にそうなお前にはもったいない名前だね」
「ひどいですね!?」
他愛のない会話。これくらいの掛け合いが心地よかった。家族でも、友達でも得られなかったものだ。
この蛇様はこれから何と呼ぼう。とんべ様はニュアンスでいうなら犬神様のようなものだとお祖母様は言っていた。だから神社に祀られるような神様とは厳密には違って、屋敷神のような、妖怪というか、神妖というか、そちらに近いのだという。
「私、これからも当たり障りなくとんべ様って呼ぶんで、とんべ様も千代って呼んでください」
「いいともさ」
時折、とんべ様と会話を交わしながら、ホーム上の屋根が作る明瞭なシルエットの中に身を置いて静かに待つ。ポケットの中で切符を手持ち無沙汰にいじりながら、胸ポケットに入れていたipodを時たま触ってお気に入りの音楽を送っている。蝉の音が遠い。
十数分もすれば、待っていた多度津行きがホームに滑り込んでくる。時間的な問題もあるのだろうが、到着した普通列車の車内に人はほぼいない。気動車特有の低く唸るようなディーゼル音と振動を生じさせながら、車両が進行を始める。傍に立てかけた黒無地の竹刀袋が小刻みに震えていた。
時間がなかったから咄嗟に竹刀袋に隠してそのままだったそれの紐を解く。少しカビ臭い柄。恐る恐る鞘から抜く。
「──っ本物!?」
慌てて口を塞ぐ。ボックス型の運転席に目を遣って、注目の向いていないことに安堵する。自重で鞘に滑り込んで、鍔つばがカチンと鳴った。
中身は太刀。刃引きされていない、いわゆる真剣と呼ばれる類のものだ。警察に見つかったらタダじゃ済まない。
一応、蔵から出てきたと言うことは阿左家で代々継がれてきたものなのだろうが、倉庫に死蔵されているから家族にバレる可能性はほぼないに等しい。今こんな厄モノが手元にあるのは、早朝に拾ったとんべ様が勝手に蔵から持ち出してきたからだったりする。この蛇様は本当にロクな事をしない。
この爆弾をいかに素知らぬ顔で持ち歩き、補導を避けるかに苦心しているうちに、車両は讃岐山脈へ突入。坪尻つぼじりでスイッチバックを行いつつ香川へ入った。
しばらく山間を縫うような景色が続いた後、急に視界が開ける。讃岐平野だ。この辺りまで来れば人の乗り降りも見られるようになる。
「琴平ことひら駅で予讃よさん線・瀬戸大橋線直通の岡山行き普通列車……に乗り換え。やっと四国脱出っ!」
知らない駅名を打ち込んだ乗り換えアプリを頻繁に確認しながら、電光掲示板と睨めっこしている。特急もあるにはあるが、特急料金は払いたくない。初めての一人旅だ。ゆっくり行かせてもらおう。
鈍行の車窓。瀬戸大橋から望む瀬戸内の白い反射を、車窓から何をするでもなく眺めている。かたんかたんと定期的に伝わる振動と、橋のトラス構造が成す明暗に目を細めながら、耳元では夏の匂いがする邦楽が、不安を払拭するように爽やかな音色を奏でていた。
西へ、西へ。明確な目的地はない。
今はリュックの中に潜むとんべ様に従っている。とんべ様がたまに何かを嗅ぎつけて途中下車することもあるが、大抵近場の小さい神社やら林やらで自由にさせて自分は木陰で待っているだけだ。三十分もすれば帰ってきて、自らリュックサックに潜り込んでくる。何をしているのかは知らないが、多分信仰とやらを補給しているのだろう。
数件神社をめぐる頃には、とんべ様はすっかり子供の姿のまま私と歩くようになっていた。権能が戻ってきているのなら良いことだ。
「あの、とんべ様。私が悪かったとは思いますけど、夏場にそのコートはちょっと浮きませんか」
日が傾き、暑さも和らいでいるが、今は夏。とんべ様のために持ってきたのは薄手だがコートだった。仕方がないだろう。首元に浮かぶ、明らかに人外な光輪を隠すには、首周りをカバーできるゆったりめの服が必要だった。正直こればっかりはとんべ様の仕様が悪い。
「僕は暑くないし。千代が俺と同じ目で見られようが知ったこっちゃないね」
にべもない態度で先行するとんべ様は、口元までコートの襟に埋め、ダボダボの袖を低頭にコートのポケットに突っ込んでいる。私は駅のトイレで適当に制服から私服に着替えていた。周りの人が見れば、ごく普通の姉と弟のように見えるだろう。
……季節感を無視すれば。
「なんで蛇の姿に戻らないんですか」
「僕くらいの見た目の子供が一緒にいた方が家出には見えないでしょ。とんべ様のありがたい配慮だよ、は い りょ ! まぁ権能も少し余裕が出てきたし、ナビするより自分の足で動いた方が確実だし」
「電車と宿泊の時は姿戻してくださいね? 二人分のお金払いたくないです」
この蛇様、神の顔をしていない時はとことんガキのような生意気さと口調である。
倉敷市街を巡り、あらかた目的は達成したのか駅前まで戻っていた。陽が長いとはいえ、そろそろ入れる宿かネットカフェを探すべき時間帯になる。電池のあまり減っていないスマホで適当に宿を探せば、やはり素泊まりでも学生の節制の身にはお高めな値段設定の場所が多い。こうなると必然的に、候補は格安のネットカフェやら漫喫、カプセルホテルなんかに絞られていった。倉敷に比べれば、少し田舎に位置する宿の方が値段設定も安い。そちらで見繕おうと見当をつける。
いくつか郊外の宿を吟味していると、通知がポップアップした。
──母だ。
ざわつく胸をなんとか宥め、ひどく粘る唾を飲み込む。わかっていたことだ。そろそろ来るだろうなんて、ずっと頭の片隅には引っかかっていた。
「どうしたのさ。……あぁ、親か。面倒だね」
歩速の遅れる私に気がついた蛇様は、振り返ってさぞ面倒そうな顔をする。
「あの、とんべ様、私」
少し前までは、どうにかなるだろうと言う楽観もあった。家出と言うイレギュラーに、少しばかり高揚していたのかもしれない。だが今はどうだ。なんとかなるなんて笑い飛ばせる余地はどこにもなく、いかに怒られないで事態を収めるか怯えるばかり。この考えの甘さは、とんべ様の言うとおりガキである証左かもしれない。
「いいよそんなもん。家出とかいっときな。人の家には泊まらないとか言っとけば過度な心配もしないでしょ」
「そんな単純じゃないんですって」
この蛇様はあまりに人間の心に疎すぎる。まともな意見は得られないのだと諦め、画面を睨みつける。そうしていれば自然と足は止まった。
──手伝ってやろう
そんな言葉が聞こえると同時。先ほどのとんべ様の文言そのままの文が、勝手に画面上で打ち込まれていくのを認識する。
「ちょ、え? うそ待って待って待って──」
慌てて文字を削除しようとしても、一切の操作を受け付けない。抵抗虚しく、ポンと送信されたそのテキストボックスに既読の文字が浮かぶのを呆然と見つめた。
「何を恐れるのかわからん。宿に行くぞ」
そんな自己中心的な言動に、急に意識を引き戻される。ボリュームの戻った街の喧騒がひどく煩わしい。退屈そうな顔で振り返るとんべ様の顔が、ひどく醜いものに見える。
「なんでこんなっ──私だって一生懸命怒られない返信考えてたじゃん!」
人目も憚らず、思わず叫んでいた。
「どうせ怒られるに決まってる事柄にそんな躍起になる意味がどこにある。千代は非効率的なんだ」
「非効率的とか、非合理的とか、そう言う問題じゃないんだってばっ! これじゃもう帰れないでしょ!?」
「口では覚悟は決めただの、もう戻らないだの宣うくせに、まだ引き返す気があるか」
「それはそっちが勝手に──」
「──決めてきたことでしょ」という言葉は紡げなかった。それを言ったが最後、責任能力の欠如したガキであることを公言するのと同義だから。結局、今ここにいるのは私の選択だ。
とんべ様は一つため息を吐いて、「まぁ問題ないでしょ」と一転して優しく言葉を続ける。隠れていない目が、己の予定が順調であることを示すように、無邪気に細められる。
「俺も少し権能を戻してきた。千代の家族の干渉くらいは撥ねてやる。先の親への言伝も、千代と俺の契約の範疇だから悪いようにはしない。今更振り返るな。俺だけを見て、俺のために動きたまえよ」
こちらを若干見上げる形のとんべ様は、いつの間にやら私の正面に相対する形で立っている。私と目があったのを確認するや否や、こちらの言葉を待たずして、再び先を歩き出しすその背中には謎の自信が見て取れるような気がした。
「そんなこと言ったって、もう送られちゃってる……し……?」
そう呟いて再び目線を落とした画面は、「あれ?」と拍子抜けした声は己のものだ。
『そう。気をつけてください』
一体どういう風の吹き回しか。私の知っている母はこの時期に学業をほっぽり出して家出する子供を放っておくような人間ではない。……とんべ様の言う家族の干渉を撥ねるって、こういうことなのだろうか。
「す、すごいです。とんべ様」
とんべ様が何をしたのか、とんと見当はつかないが考えるだけ無駄らしい。少しの安堵感と、純粋な驚異、それから先ほどまでの悪目立ちの視線から逃れたい一心でスマホの画面を落とし、倉敷の夜景を行くとんべ様を追いかける。親に縛られないのであれば問題などないのだから。
目的の宿に着く頃には、19時を回っていた。まだ空は薄い群青を維持している。
受付の時はとんべ様をリュックの中へしまい、小さな個室を借りていた。
最低限の掃除は行き届いているが、やはりネカフェ特有のヤニ臭さが微妙に鼻につく。
とんべ様は蛇の姿でデスクの上に陣取って、先ほどから私が操作するデスクトップの画面を見て小声で指図していた。
「とりあえず明日は広島に向かいたいね。あっちの方は色々大きめの匂いがする」
「わかりました。どのあたりまで行くんですか?」
「大まかな位置は分からないけど、神社をまわっていけばいい。この辺りに厳島があるでしょ? そこをひとまずの目的地にしようか」
パソコンでgoogle mapを動かしながら、道中の寄り道候補をスマホのメモに打ち込んでいく。
親の束縛という問題を克服した私にもう憂うものはなく、心は朝の何倍も浮ついていた。今から起こることがなんであれ、目の前の蛇様さえいればどうにかなるのだろうという根拠のない自信もある。あの御神里みかみさとという環境と人間関係の及ばない場所に出てくるということは、こうも晴々して自由なものなのかと、一歩踏み出した自分の考えが正しかったと、今の自分の心身と環境が、己の行動の正当性を盤石なものにしてくれている。
きっかけを与えてくれたとんべ様は不遜で生意気で自分勝手で鼻につくが、今となっては、それ以上に私が変わる手助けをしてくれたことに対する感謝が大きくなっていた。
「千代の信仰心は純粋で美味い。腹が膨れる」
「心を読まないでください」
「心外だ。美味い感謝を流してきたのは千代の方だってのに」
内心が筒抜けなのは問題だよね、とため息を吐きながら、適当な動画を流していれば急に眠気が来る。時計を見れば22のデジタル表示。いつも眠くなる時間だ。生活習慣はそう簡単には抜けないらしい。
「街中や神社を見てまわって分かった。今じゃ人間と神の距離は遠いんだね」
「そうですよ。こんな二人旅なんて小説の中でしかないです」
「……小説か。これでお前の好きな終末? だとか、色恋物だとかが読めるんだろう。使い方を教えな」
「はぁ」
人型になった蛇様に、適当にネット小説の扱いを教えて、一足先に寝ることにする。寝落ちる寸前まで、マウスのドラッグ音がずっと響いていた。
朝もしっかりいつも通り目が醒めて、まだ薄青い郊外の空気を吸いに外へ出る。一人(と一匹)旅最初の朝だと思うと目も冴えた。数回深呼吸して部屋に戻れば、リュックから鎌首を擡もたげるとんべ様がいる。もう出立の準備は万端だということらしい。
「いきましょうか。とんべ様」
ナップザックと太刀を肩にかけ、代金を払って車も少ない道へ出る。改札を抜けた駅のホームは閑散として、少し寂しい。トイレ案内の機械アナウンスだけが、早朝の駅構内に響き渡っている。
「とんべ様はちゃんと寝ました?」
「とんべ様はねぇ、寝なくても生きていけるのさ」
「昨日熱心に小説読んでたっぽいですけど、何か気になったり面白いものは見つけたんですか?」
「あれを書いた奴らは全員神や妖を見たことがないんだってことは分かったね。そりゃ、蛇神やら龍神やら、絵巻にも残ってる姿は見なくても表現できるだろうけど、人の身になった時の連中の見た目はどいつもこいつも……美少女ばっかりさ」
そりゃ、実際に見たことのある人間の方が少なかろう。蛇様にそんなこと言われたって、ネット小説なんか大抵は神は美男美女か完全な獣と相場が決まってる。それよりも、人の感情や理屈の複雑さなんかを、少しは理解してくれたのだろうか。
「理解はしたさ。合意はできないけどね。やっぱり人間ってのは非合理すぎる。百年生きないのに、なんだってそんなに複雑怪奇なんだ」
「私たちからしたら百年は十分複雑になれる期間ですよ」
そんなもんかな、とリュックサックに頭を引っ込めたとんべ様が言う。納得はしていなさそうだ。
しばらく会話が途切れた。ガラガラの電車に乗り込んでしばらくの間、座席に座って、向かいの車窓から流れる知らない景色を見つめていた。この旅を始めてから、私は一つ知っておくべきことがある。それは引き伸ばしてもいいことはないはずだと、小さくリュックサックに話しかける。
「とんべ様。一つ聞いてもいいですか?」
「なに?」
リュックでくぐもった声が返る。
「とんべ様が神社でなにをしているのか……聞いてもいいですか」
返答はない。よくないことだっただろうか。
「あの、答えにくかったら答えなくても」
「別にいいよ。でもどうせだからその目で見た方がいい」
ほっと一息をつく。背中でしばらく黙っているのに少し気を割きながら、到着した電車に乗る直前で、とんべ様は思い立ったように告げた。
「下車せず厳島いつくしまへ向かおう」
侵犯しんぱん
作戦室では多くのスーツと白衣が蠢うごめいている。急拵ごしらえの長机の上には、何枚も広げられた地図が数多のレイヤーを形作り、多くの駒や画鋲、マーカーで引かれた直線によって装飾されていた。駒は絶えず紙面上を踊り、マーカーはきゅう、と鳴りながら、ポイントを一つ一つ増やしていく。それらは一つの路線沿いに──とはいえ瀬戸内の地形であれば必然的にそのような見た目にはなるが──丸亀まるがめ、倉敷くらしき、福山ふくやまの各都市圏を重点的に散らばっている。
「信仰喰らい事案08から15番までの被害収拾は概ね完了していますが、依然として対象は移動中です」
「ピスティファージの正体は未登録。誘引者、あるいは憑依元となっている人間は現地フィールドエージェントからの情報によれば20代男性、中年女性……判然としません。認識阻害が働いている模様」
「昨晩からの急激な変化ですが、四国側前哨ぜんしょうサイトや観測網においては信仰レベルの捕捉が限界で、早々に瀬戸大橋から離脱した模様です」
「山陽本線を順調に西進中であることはカウンター等の機器から確実ですが、先ほどから下車の兆候が見られていません」
卓を囲んだ大勢からの報告に手と口で応答を返し、傍らでは書記役がホワイトボードに過多な情報を所狭しと書き殴っていた。この状況では情報の俯瞰がしやすいアナログはデジタルに勝る。とはいえ、すでに書き込むところがない盤面に無理やり文字を詰め込んでいる形だ。
無理もない。その情報は、刻一刻と事態の急を告げており、このサイト-81BKが存在する厳島周辺に厳戒態勢を敷いていた。
このまま山口まで出すわけにはいかない。しかし、相手はピスティファージか、最悪のケースで神格実体。街中で対処するには相手が悪すぎる。バックラッシュなど起こそう物なら……あたり一帯が消し飛ぶことは想像に固くなかった。
「サイト-81SR-阿吽への連絡は?」
「今から対処を提言する時間はないです。事後承諾の形を取るのは仕方ないでしょう」
「情報共有だけはしておけ。動向と場合によっては向こうから本件用に専任エージェントを選定してもらうことにもなる」
「繰り返し伝達を行います」
「頼む。羽倉のケツを引っ叩いておけ」
そんな、ひとときも弛たゆまぬ緊張感の中で、対象の動向に皆、耳をそば立てている。そんな時だった。
「現地エージェントより報告。対象、JR宮島口みやじまぐちで下車を確認」
にわかに騒がしくなる対策室。机上に重ねられる新たな地図資料、関係各所へ調整依頼を願う電話、現地の指揮監督を行う人々。対象がいるのは、まさにお膝元。
場は加熱し、部屋の空気はまた一段、低下する。
「あの、降りましたけど、どこ行けばいいんでしょうか? さきほど調べたら、厳島は船乗らなきゃ行けないみたいなんですけど」
「ご先祖さまに顔合わせでもしてきなよ。流石に先祖の霊魂はどうこうしたりしない」
「……厳島は平家の墓じゃないと思います。まぁ、行きますけど」
リュックに吊るしたキャップを取り、高く結ったポニーテールを通して被る。夏休みに入ったこともあって、観光客が多い。
これはいい。変に怪しまれることもない。
幸い今は厚手コートを着ている季節感バグな蛇様もいないのだ。憂いは何もなかった。
駅を出て正面。ロータリーからまっすぐに伸びる、広く整備された道を歩けば、すぐに厳島に出る船の発着場らしい。
観光客も大まかな流れは私と同じようで、大勢に身を任せていれば自然とたどり着ける。道中の土産屋も賑わっていて、至る所で幟のぼりもはためいている。なんとか会とかいう文字がちょくちょくあるところを見るに、町おこしの一種のようなものなのだろう。盛況だ。
てっきり厳島神社というものは陸続きの場所に本堂があって、そこから瀬戸内に水没している鳥居が見えるものだとばかり思っていた。実際に行くとならなければ、島にあって、渡海の工程を踏まねば辿り着けないなどとは知るよしもなかっただろう。思えば、厳島というのであるから、島であることは当たり前である。これもまた、旅の醍醐味。
広島電鉄の宮島口駅に近づくと、目の前には旅客フェリーの発着場案内の看板が大きく主張している。それも二社。
互いに『宮島行き』との文言を建物の高いところに掲げていて、旅客を奪い合っているかのような並びだ。
どちらに行こうか選ぶとなると、土地勘などまるでない。そこら辺の地元民と思しき人に声をかけるのが定石だと、付近の地元民を見繕う。
「あの〜、もしもし。このフェリー乗り場は、どちらがおすすめとかあるんでしょうか」
「どっちも変わらんよ。まぁこの時期はJRの方が混んどるんじゃないか?」
「あ……そうなんですね」
「あんたJRで来たんか? なら18きっぷ持っとりゃああっちの方が安いよ」
そう指差す先には『JR宮島行のりば』という看板。下には『大鳥居に大接近!!』などと大文字で書かれた広告も張り付いている。
しかし、肝心の18きっぷとやらを持っていない私には、どうも金額は変わらなさそうだ。この地域で圧倒的普及率を誇るICOCAとやらの電子カードも、土讃線ユーザーのJR四国民の、それも学生では持っていない。適当な地元民Aに丁寧にお礼を置いて、選んだのは左側のフェリー乗り場。JRフェリーは外国人も大勢いて見るからに混んでいたから、まだ空いている方を選びたかったというのもある。
私の選んだフェリーは松大汽船まつだいきせん。どうやら広島電鉄ユーザーに優しいタイプの会社であるらしい。アーケードの下を潜ってしばらく歩き、きっぷ売り場できっぷを一人分。そのまま埠頭ふとうへ向かう。
口を開けて待っているのは、短距離運用にしては大型の汽船。船内はしっかりと混雑しているが、人の隙間を縫いながら、なんとかデッキの外側、外を見渡せるようなところに立つ。
少し先の埠頭で着岸作業をするJR側の汽船。それを右に置いてこちらが出航する。こうして交互に客を捌いて競合を減らしているのだろう。観光地産業も大変らしい。
宮島の土を踏んだ私は、そのまま客の合間を縫って表参道の土産物売り場を抜ける。ここに足を運んだ人を相手に商う店は大繁盛の様相を呈していた。『日本三景 宮島』の石彫された灯籠と車止めを過ぎ、なおも右に瀬戸内の穏やかな海と松を見ながら歩いていく。小型のボートが数隻舫もやわれている。松が微風に揺れて騒がしい。
「とんべ様、どこまで行けばいいんでしょうか」
「あの赤い鳥居の見えるところまでは歩きたまえよ。大丈夫。目的地は近づいている」
道を突き当たり、右に曲がる。鳥居を潜って左手に切り立った崖を道沿いに回る。
目の前に、赤い鳥居が見えた。厳島神社、朱丹しゅたんの大鳥居。
ほんの数百メートル先の海の中に足を沈め、静かに佇んでいる。
「これがあの鳥居」
「ほら、進む進む。そこの注連縄しめなわ潜ったらすぐ境内さ」
まったく。教科書やテレビで見た場所に来たというのに、感慨も何も生まれようもないほどに、背中越しにとんべ様が急かす。
しかし、ここにきた理由は観光ではない。私の要望を実践してくれるというとんべ様の行いを見るためであるというのも事実だった。境内を見るに、かなり人で混み合っている。この中をぶつぶつと会話しながら歩く勇気はないと、荷物を前に抱える。
小さくため息をつきながら、紙垂しでが房のように下がった注連縄の下を潜る。拝観料を受付で払って赤い桟橋状の境内を少し歩いていると、
「……む、いよいよもって神様もお怒りかな」
そんな不穏なことを呟いたのを、私は聞き逃さなかった。
「ちょっと、どういうことですか。ここの神様を……怒らせたんです?」
「あ、止まらないでね〜」
「いや、止まりますよ……で、どういうことなんです」
思わず止めた足を再び回しながらも、小声でとんべ様に問い詰める。これは本当にそのまま進んでいいのか? 祟られたりしないのだろうか。何かしらが不興を買ったということに他ならないのでは。神など信じていなかった頃ならいざ知らず、その神を今背中に背負っているのだ。俄かに不安が立ち込める。首筋に、じっとりと汗を感じる。これは果たして気温ゆえだろうか。
「いやね、この島自体が信仰対象だから道中色々つまみ食いはしてたんだけどもさ、さっき千代はそこの注連縄を潜ったわけだけど」
「……わけだけど、なんでしょう」
「他人の家のものを目の前でちょろまかしながら土足で人の寝床に上がり込んだだけさ」
「だけ!?」
途端に集まる衆目しゅうもく。怪訝けげんな視線を一身に浴びて居心地が悪い。
慌てて声を潜ひそめ、逃げるようにその場を離れる。しばらく早足で人並みを掻き分け、開けた場所に出た。
一瞬。目前の人垣がすっと掃ける。
目が醒めるような青と朱。
厳島のその威容が正面に通観すると同時。胸元に抱えたリュックが、そのファスナーが、ちりっと鳴った。

「今!」
青白く発行するモニター群。
その前で、デスクに片手をついた男が命令を発する。余った手は、マイクの可変アームを強く握り締めていた。その手には、薄く汗が滲んでいる。
普段、何の変哲もない厳島神社境内を映す定点監視カメラ映像のその一つ。全員が注視する一つの画面のその中央。
そこにはたった今、50代の痩せぎすな男から高校生くらいの女に姿を変えた人間1人と、その人間が抱えるように持つリュックから突如湧き出した、霞のような影。
それが画面上で、急速に広がる。広がる。広がる。その間1秒。
霞のようなそれが、蛇の頭を形取って、顎門を広げ、不自然に止まった。
瞬間──
「対象、収縮!」
職員の報告と共に、画面が急に晴れる。 蛇が、霞が、瞬時に消失した。吸い込まれるかのように、少女のリュックの中へ、弾かれたように。
「EVE値、固定」
「対象による神格体の摂食防止に成功」
「対象、逃走します」
「現地班は追跡。確保可能性は現地判断に一任」
対象が牙を向く直前。厳島神社の境内全体を囲むように設置された装置で、EVEを高出力展開して力場を発生させることで場のEVE値を上昇させ、対象とする神格のEVE発散を抑え込む。
EVEは神格を構成するエネルギー物質。神格自身の存在成長に使われるものだ。今回のオペレーションをかいつまんで言えば、捕食対象に定めた神格より格を優越しようとEVEを行使したあの蛇を、我々財団の装置で増幅した厳島のEVEを一時的に場に充満させることで抑え込んだ。あの蛇はいわゆる神格格付けバトルに負けたわけだ。
本来は厳島神社内部の神格及び、地下施設のフェイルセーフ用設備であったそれらを用いて対象を封じた我々の試みは、現状恙無つつがなく進行していた。一枚化けの皮が剥がれた結果、神格の誘引者がまだ年若い少女であったことを除けば。
少女は今、人混みを器用にすり抜けて、来た道を戻っている。一瞬、宙を見て呆けていたのが気にはなるが、現状それは些細なこと。先ほどカメラに映った霞はEVEをカメラ観測によって可視化したもので、一般人には見えていない。だから、溢れんばかりの観光客の間に一切の動揺はない。少女が猛スピードで間を縫って走るのに、いささか怪訝な目線を向けるのみだ。
「境内を抜けるぞ」
少女が注連縄を抜ける。途端に、モニター全体に先ほどより限りなく薄い霞が広がった。
少女の姿が──かき消える。
「来た道を走れ!」
弾かれたように走り出す。何が起きたか分からなかった。分からないが、著しく良くないことが起きたことは、先ほどのとんべ様の命令からありありと察することができた。出会ってこのかた三日に過ぎないが、この蛇様がこんな緊迫な声を発するとは予想だにしなかった。
なにせ、神を怒らせたと語りながらも、行きの道では余裕あり気な語り口だったのだから。
今私が必死に人垣を縫い走るのは、ひとえに己の保身の為せる業だった。
きゃあやらおいやら、後ろから投げかけられる観光客と思しき声に、到底届かない声量で「すみません」「ごめんなさい」と吐き出して、這々の体で来た道を引き返す。
山育ちでよかった。体力だけは自信がある!
生まれた土地に感謝しながらも、目尻に涙が浮かぶのを自覚する。昔ながら涙脆い。
やっぱり間違いだった? 何で私が、こんな目に。
「蒐集院共がまだ生きて邪魔立てするか」
「変なこと言ってないで、このさき山か海ですよぅ!」
ここは島だ。逃げると言っても、手段は限られている。
死に物狂いで走って、走って、気がつけば、目の前にあの注連縄が見えた。
この先はどっちへ行けばいい。まだ来た道を戻ればいいのか? それとも山にでも逃げ込むか? それとも──「そのまま走れ」
「……っ! 信じっ……ます、からっ!」
新たな命令に本能で返事を返し、注連縄を抜ける。抱えたリュックから、霞が噴き出した。
辺りが霞掛かってまるで朝霧の山中のような様相。
「何!? なんなんですかぁもぉ〜〜〜!」
「止まるな! こんなもの子供騙しだ。今追ってきてる奴らには時間稼ぎにしかならない」
「奴らって誰なんです!?」
答えを求めた質問ではない。確実に今聴くことではないから。押されたから押し返したようなものだ。
視線を左右に振る。
視界の端で、後ろを追ってくる大人の影が映る。私服? 警備員とかじゃないの?
しかし、まずい。
何か、何かないか。
視野が狭窄する。
視界の左右が暗い。
松の海岸線沿い。
繁盛する店の並ぶ道。
舫われた数隻の小型ボート。
ボート。
──これしか。
すぐに駆け寄り、少々戸惑いながら舫もやいを解く。
飛び乗って、船尾の船外機を水につける。
テレビで見た記憶で紐を引く。
エンジンは掛からない。
そもそもこの手のエンジンの掛け方など知らない。
手当たり次第に動かし、引っ張っても一向に掛からないエンジンに苛立ちを覚える。
むやみやたらに、ひいては戻してを繰り返す。
「おい何やってる。早く漕げ」
「漕ぐタイプじゃないんですぅ!」
今この時ばかりはとんべ様の声が煩わしい。燃料入ってるんですかこれ!?
ふと、顔を上げる。ほんの数百メートル先に、追手。
嫌に走るフォームが綺麗だ。洗練されている。
そんな観察をしている場合ではない。恐怖やら正常な倫理観やらで溢れる涙で滲み、手元はまともに見えなかった。
俯くと、涙が溢れて頬を伝う。
「掛かって。掛かって下さいよぅ!早く早く早くっっっ──「ばっかもっと丁寧に引かんかい。 めげて壊れてまうじゃろ」」

唐突な濃い方言の怒声に肩を跳ねさせ、思わず、顔を上げる。
どうやら、がっしりとしたシルエットの女性。堤防の縁石の上に爪先を立ててしゃがむ姿は、男らしいという印象を抱く。髪は短めで、声を聞かなければ見間違えていただろう。袖を捻りタンクトップ丈までまくっている。
「そっちゃ動かんけぇ、隣の船移れ。そんでタンク下のちっさいつまみを奥まで押し込んだらなぁ、まっすぐゆっくり紐引き出して、重うなったら一呼吸おいてから一気にやれ。ほら、はよぅ!」
「は、はいぃ」
慌てて船を飛び移り、手を動かす。言われた通りに。タンク下に見つけたつまみを奥にスライドして、ゆっくりから、一気に……引くっ!
ボフンという音と同時に、確かに伝わる微振動。
どろどろという低い燃焼音が、心臓部の起動を知らせる。
いける。
「ほいだらグリップ握ってひねんな。落ちんなよ!」
知らない女性に言われるがまま、グリップを両手で捻る。
すぐ下の水面が泡立ち、少しずつ船体が滑り出す。徐々に、スピードを上げていく。
振り返ると、さっきの女性と追手が何やら話しているのと、その脇をすり抜けて別の人間が、余ったボートに乗り込もうとするのが見えた。今はもう、沖合に出るしかない。エンジンやグリップ周りを改めて眺めて、つまみを回せば、また一段と速度が上がる。
フェリーの航路を横切って、一心不乱に対岸を目指す。霞はまだ晴れていない。
だいぶ陸に近づいたあたりで、後ろを見やる。
私たちを追う何者かの姿は認められない。あの、ボートに乗り込んだ追手も、どうやら私たちを見失ったらしい。あの女性は無事だろうか。
瀬戸内の海がいくら外洋に比べて穏やかとはいえ、それでも波は高い。私の乗るボートなど、この海では木端も同然。
やっとの思いで、心を落ち着ける暇を作る。波が船底を叩く、ちゃぽんちゃぽんという音を聞きながら、とんべ様を問い詰めることにした。
「とんべ様、さっきのは一体何なんでしょうか。私……私何もしてないのに追いかけられたんですけどっ……何もしてないのに! とんべ様のあれはなんですか!? 何が起きて今はどうでこれからどうすればいいんですかぁ!?」
「……ふぅ。これだから蝶よ花よと育てられた生き物は……」
私の矢継ぎ早の質問に対し、とんべ様はとことん面倒臭いといった声音でカバンがらこぼれ落ちる。
「うっそ、こ、今回に限っちゃとんべ様のせいじゃないですかぁ!? そもそも!? 私には!? 何が、何だか、わからなかったんですよぉ! それを箱入りのお嬢様みたいな言い方されるのは道理が──」
「でも俺のおかげで助かったのも事実じゃあないか」
「だ、か、ら、何が起きたかわからないんですよぉ! そんな状態で何言われたって理解できないですって!」
「俺が何をしているのか見たいと言うから、見せただけなんだけどもね」
「うぐ」
自分の声が未だに感情で引き攣っているのを自覚する。未だかつて、知らぬ土地で大人数人相手に本気の闘争を図る経験などないのだから無理もない。あんまりにもあんまりな状況下に感情が昂っていた。元はと言えば私のお願いであることは……忘れていたわけではないが。
あまりに言葉の足りないとんべ様に対する不満は、未だ喉の奥の方で燻くすぶっている。
幾度か自主的に深呼吸を挟んだ後、舵を再び握って上陸場所を探しながら、改めてとんべ様に問うた。
そもそもの疑問は、そう。
“とんべ様がやったこと”である。私の要望であり、確かに私自身の目で捉えたあの人知を超越した現象。とんべ様は船底を這いずって簡易的な椅子によじ登ると、とぐろを巻いた。首元には、うっすらと光輪が浮いている。昼間の日差しの下ではほぼ目立たないが。
私が思うに、あの霞のようなものに変化した現象。あれが巡った各地の神社でとんべ様がやっていることなのだろうとは思うが、いかんせん何をやっているか何もわからない。あまりにも唐突に始まり、終わりかどうかもわからぬうちに逃走劇が始まったのだから尚更である。
とんべ様は蛇の姿で鎌首を擡もたげて、日本語で話す。
「俺たちは、権能を発揮するためにその元となる力がいる。千代たち人間のいう神通力だ。その力が多ければ多いほど神妖の格ってのは上がる。だから、少しここの神に融通してもらおうと思ったわけだよ」
「で、でも先ほどその神様を怒らせた、と……?」
「ちょっと道中つまみ食いしたからね。まぁ、お話し合いで何とかしようと思っていたんだ。それを妨害されて今この有様さ」
目の前の蛇様は、全く悪びれもしない様子で、神罰が下るのが妥当であろう行いをしたと、素直に白状した。むしろ乱入者に憤慨している様ですらある。あの時の余裕を見るに、実際にどうにかできる自信があったのだろうか。
「話し合いといっても、失礼ですがとんべ様は今、厳島の神様とは比べるべくもないほどに弱いのではなかったでしょうか」
「歯に衣着せない物言いをするね千代は。契約でなければ噛んでいたところだ。……で、一昨日に比べれば格段と力をつけたともさ。宮島の神通力……まあ信仰の産物だがね、それを食らったからある程度の相手などは敵わんとも」
「話し合い以外では、行き道につまみ食いしてたようなやり方で力つけているのでしょうか……? 私、不安になってきました。今回の場合はそもそも逃げてしまいましたけど、その、神通力の話し合いは……できたんですか?」
私の質問を聞くや、とんべ様は途端に不機嫌になる。先ほどから舳先へさきが割ってできた波の飛沫を被るから、ではなさそうである。失敗したと言うことだろうと、容易に想像が付く。蛇の顔色が読めるとは、なかなか不思議な特性を獲得したものだ。
聞けば、神様同士の“話し合い”をしようとした瞬間に、例の追手に妨害されたと言うが、そもそも私にはあの追手の正体に見当もつかない。
「その、とんべ様たちの話し合いを妨害して私たちを追ってきた人たちですけど……」
「どうせ蒐集院しゅうしゅういんさ。一昔前からいる連中だよ。むかし幾度となく見たことがある。奴らはね、道具やら生き物やら、少しでも特殊な性質のものならなんだって集めて、さらに他のものを探すのに使ったりするのさ。そして何より──」
「──俺たち神すらも管理して手綱を握ろうとすらしてくる、腐れた傲慢の権化だ」
「対象ロスト」
サイト-81BKの特設対策室内部に落胆の溜息はない。しかし、続く対応の模索のために変わらぬ騒がしさの中でも、明確に場の雰囲気は重かった。
ひとえに、オペレーションエラーによるもの。
2015年7月19日の満潮。11時23分。
今はもう無用となった手元の潮汐ちょうせき表を見直して、それが間違いないことを確認する。ただの慰めでしかなかった。
往路に大鳥居付近を経由するJR汽船のなかで、満潮時、我々が境内として設定しているエリアに一時的に侵入するルートを取る便がある。対象が乗る可能性がある選択肢にはその便が含まれていた。その場合、侵入のタイミングで事を起こされる可能性が懸念されたため、観光客の多い船内で発生しうるリスクや、そもそもの把握の難易度を加味した関係上、JR汽船側を一時的に運転見合わせにしたわけである。そこで発生しうる混雑に関しては許容範囲内であり、JR側への対応を要請したのが、対象が改札を抜けた頃。
対象をオペレーション通りに松大汽船へ誘導することにより、スムーズかつ低リスクで厳島神社の立つ厳島、通称宮島へ誘導する。比較的大型の島ではあるが、基本的な通行手段は二社の運行するフェリー。島と陸地の距離にして2キロメートルといったところ。四国から出てきた行き当たりばったりのような行動を見せる人間ならば、島から出るにあたってフェリーさえ封じれば外部への逃走経路はほぼ潰せたといっていい、はずだった。
本拠地で監視しやすく、また対応しやすくするための計画は、民間の突発的な協力者によって崩壊する。
指揮責任者は、作戦開始から握りしめたままだったマイクの可変アームを雑に元に戻すと、目頭に指を当てて目を瞑った。ヘッドフォン越しに現地エージェントと民間人の会話が響いている。
民間人の衆目に晒された場で、強引な対処を行うことは難しい。いくらマニュアルで、ある程度の強権行使までは容認されていたとしても、あの場ならばそこまでせずとも追跡可能だと言う判断を下していた。だが、今画面が示す結果はひたすらに、自身の判断ミスを薄青く光らせて主張してくる。
耳元では、先ほどから平行線な会話が続いている。切り替えなければならない。
「S-1からS-3、一般人の対処は他班に引き継ぐ。通常業務に支障のない人員数を残し、隠密での捜索に移行」
手短に下令し、背後で新たに捜索用のマップを展開したチームに混ざる。
「……あれに逃走幇助ほうじょが入るとはね」
「仕方ない。情報の限りではあのボートは民間会社の私物だ。我々が突発的に撤去可能なものではなかったさ」
「そもそも、このサイトの本文は神格研究だろう。大前提、こんな高リスクな相手に大捕物と洒落込むには人員が足りないんだ」
「それはその通りだが、今嘆いていても仕方あるまい。せいぜい、あの民間人には行政側から違法改造の件で監査を入れるくらいが関の山かな。それよりも、対象が学生の可能性が高いことの方が──」
「別に珍しいことでもない。多感な年頃が一番呑まれるものだ」
軽く言葉を交わしながらも、目の前の地図にいくつも印をつけていく。想定される上陸予想地点。映像上から姿が消失した件に関して、現地のエージェントは目視での追跡が可能であったことを考えるに、今更ドローン等の無人小型機を用いての俯瞰捜索は効果がないと見ていい。あの後すぐに配備した小型ドローンのいずれからも発見報告が上がっていないことも、この結論に拍車をかけている。正直、この上陸予想範囲は時間経過とともに無限に増える。再捕捉できる可能性は低い。
「厄介だ。“神隠し”では一般的な電子機器で太刀打ちができない」
「オペレーションを見た限りの所見にはなるがね、あの蛇はどうもまだ、EVEによる煙幕も不十分に見える。肉眼で捕捉できるわけだからな」
傍らで先ほどから言葉を交わす白衣の男に頷いて見せる。そもそも、ここに目をつけたと言う時点で、不足したEVE──信仰力の水増しが目的であるといっていい。問題は、
「一度見失うとEVE濃度を用いて再捕捉が出来ない」
神格やピスティファージは、財団内で往々にしてこう表現されることがある。“EVE粒子の塊”と。神格、信仰を得て存在を確立する現代の神格実体の特性をよく示したものであり、神格あるところにEVE溜まりありなどとも言われるくらいには、神格の存在を判断する指標となる。別軸として、神格のいる地帯は現実性も高いものであって、ヒューム値を参照するのも、観測の方法である。
しかし、EVE濃度を用いて神格補足を行うにあたり、面倒なケースがある。それが今回のように広範囲へEVEを拡散することによるEVE煙幕、“神隠し”と通称されるような権能行使。広範囲にわたって機械の観測野に不調をきたすうえ、これに奇跡論神通力を乗せられた場合には、肉眼での認識すら不可能になる。
「さて、どうする。どこに上がるかな」
「ここから西に進んだとて、列島もどん詰まりだ。東だと思うが」
「倉敷……いや、神戸あたりまではあり得るか?」
ボートの燃料などたかが知れている。そう遠くまではいけまいが、しかし、次EVEを補足できるまではこちらは後手であることも事実。
さらには、先ほどから離れた場所で漏れ聞こえる会話を聞くに、どうやら別口も動き始めたらしい。最悪だ。少数運営のサイト-81BKを取り巻く事態は混迷を極めている。
富多楽豊会。
かねてより動きを注視していた連中。連中に対し人手が少なく対処に遅れをとることに歯痒さはあるが、しかし。腐っても財団の工作に対し、本当に神の気配にめざとい連中だと、心の中で中指を立てる。
「山陽沿岸沿いの前哨基地および管轄下の警察機関の巡回を、沿岸部に対し重点的に行うよう通達。通常業務と並行できる範囲で構わない」
「承知した。網に掛かるといいがね」
「奴らもずっとEVEを撒くわけにもいかないからな。回収しようとしたEVEを消費して神隠しを続けている以上、奴らは衰弱する一方だろう」
「根比べってわけだ。遅延工作のために穴倉のエージェント連中にも話を出そう。で、俺らはひとまず……あちらさんだ」
奴らはどうも、下手に縛りのある我々と違って、神格を嗅ぎつけるや否や、危険性など歯牙にも掛けない勢いでわらわらと寄ってくるから、動向を追えばある程度の地点を絞り込むことが可能だろう。
本当に、この過疎サイトには身に余るほど、休まる暇がない。
神犯しんぱん
なるべく音を消し、造船所跡地のスロープにボートを着ける。
淀んだ潮の薫り。熱帯夜の生ぬるい風にベタついた髪を指で漉いて、トタン壁の陰に身を隠しながら、先に見える幹線道路の街頭を目指していた。
先ほどから、とんべ様はスクールバッグの中でグロッキーになっている。
「そろそろ神通力が尽きるのだけど、奴らに見つかってはいないのだよね?」
「それどころじゃないんですけど」
「宿に入るのかい。野宿でもいいけどもさ」
「野宿は嫌ですよぉ」
近場で宿を検索しても、ビジネスホテルもない。人のいない場所を選んだのだから当たり前だ。僻地も僻地。あるのは戸建ての灯りだけで、アプリでパッと検索してもとても手の届かないホテルが一つある程度だった。
遠目に赤色灯を道端の草むらで捉え、息を潜める。背の高い包丁草が鬱陶しくも、いい隠れ蓑みのになってくれることに感謝し、赤色灯が見る間に目の前を過ぎる時には、一般人たる私の心の臓は今にもはち切れそうだった。
何度目かの嘆きを心の中で反芻はんすうする。
──なぜ、こうなってしまったのだろう。
そもそもあの警察が、私たちを探しているものとは限らないが、しかしあそこで追われたことを考えるに、そして船上でのとんべ様の話を聞くことには、彼らはおそらく政府機関に対するコネクションを保持しているだろうことは想像に難くない。
悪いことをした覚えなどてんで無いが、いや、無いからこそ今、私は下唇を噛んで、嗚咽を堪えている。
世間の目を気にする尋ね人になったかもしれない、などという不確証はあまりに、子供の私には重い枷かせだ。
腕の虫刺されに、憎らしげに爪でバツをつける。藪蚊にすらいいように食い物にされながら、しかし自分はここから出ようにも出られない。惨めだった。
本当なら親にでも打ち明けるものなのだろうけれど、私はとんべ様を選んでしまったから。まだ、これが正しいことだったのか、確証は持てていない。
家に帰れはしない。
親に合わせる顔がない。
今の家を忌避したのは、私だから。
そも、何もしていないのに追われるのなら、冤罪ではないか。冤罪をこうも大掛かりに追い回すなど、世間に溢れる陰謀論のようではないか。今、その疑念は信憑性しんぴょうせいを帯びている。あちらが巨悪なのでは、という思いが頭をもたげた。
「そうだとも。奴らは善者の皮を被った悪だ」
「……」
「必要悪のふりをした絶対悪だ。我々は生きなければ」
何度目かの無音の赤色灯をやり過ごして、私は市郊外の一つになんとか宿を借りることに成功する。こんな郊外にも、民宿を経営している物好きな人がいるらしい。気のいい老夫婦で、農家を経営しているという。
身分を繕うために適当に、学生の一人旅と偽って、夫婦を騙くらかす。
私の中に残った良識が痛むのを感じて、私がまだ善良な市民から踏み外していないことを確認した。
客人に対してのもてなしは歳がいった人間の方が大袈裟と言う噂は、どうやら真実であったらしい。三日ぶりのちゃんとした夕食に腹をくちくした千代は、老夫婦宅のひと間を借りて、どこか線香の匂う薄布団の上に寝転がっていた。薄くひんやりとしたリネン生地で体温を下げて、先ほどから延々とまとまらない思考から逃げている。腕からは、お婆さんが塗ってくれたムヒのメントール臭がする。
私は確かに今日、警察組織に追われ、そして逃げおおせた。ひとえにとんべ様のおかげだ。
私は出来事を通して、とんべ様に全幅の信頼を寄せている。あの蛇がいる限り、降りかかる火の粉はどうにかしてくれるのだろう。あの、摩訶不思議な神通力とやらによって。
しかし、とんべ様は今、弱っている。集めた力を吐き出して、命からがらここに逃げてきた。
不安に駆られた私に対してとんべ様の言うことには、
「誠に忿懣ふんまんやる方ないことだがね。力を吐き出したことが功を奏したらしい。私の存在など、周りの零細産土れいさいうぶすなどもと大差ないくらいには堕ちてしまった」
というから一応の安堵を覚えたのだが、要するに振り出しである。
「……眠れない」
解いた髪が首筋に絡むのも構わず、ひとしきり落ち着きなく寝返りを繰り返し、ふと壁掛けの古い時計に目をやれば、もう夜も更け、丑三の頃。催した私は、田舎特有の常夜灯すらない廊下の木板を踏みながらトイレに立った。
廊下に一条、橙の光が漏れている。
まだ、老夫婦は寝ていないのか。
心持ち足音を殺すように歩き、その一条を踏み越えようとして
「……何、してるんですか?」
踏み下ろそうとしたその先、首周りのうすらと光った白い蛇が這い出してくるのをみて、私はその姿勢のまま固まった。間一髪である。
「少し野暮用がね。漏らす前に厠に行きな」
私が何か言う前に、とんべ様はそっけなくそう言って、私の部屋の方に這って消えた。
その尻尾を見えなくなるまで追って、もう一度視線を戻したのは、先ほどとんべ様が抜けてきた隙間。
その先は、縁側。縁側と廊下を隔てる木板が少し空いていて、そこを抜けてきたらしい。
おかしい。そこに、私が見た橙の光は、一体どこから。
とんべ様の首元の光輪に、輪郭のはっきりした影を形作るほどの明るさはない。
慌てて木板をずらしてのぞいた縁側の向こう、特に手提灯などもなく、車も走っていない。庭を定義する茂った生垣の隙間、ほぼ糸のような月の下でもうっすらと見える広い畑や案山子かかしを望む。畑の真ん中にはおそらく土地神か産土神であろう小さな社と鳥居が淡く屋根に粗末な街路灯を反射していた。しっかりと手入れされているようで、色こそ塗られていないが、傾いたり痛んだりはしていないように見える。
ほぼ新月と言ってもいい月齢。まさか月明かりとも思えない。
結局、老夫婦のどちらかのものだろうと納得して、そそくさと用を済ませて戻ることにした。
「今日、三原まで行こう」
あれから神通力を使い続けているはずのとんべ様は、明らかに回復の兆しを見せていて、朝、目を擦る私にそう言った。
この農家の一室を間借りして、一週間と二日が経過している。
天候の不順はあったが取り立てていうべきこともなく、逃避行とも思えないほどの長閑のどかさの中を過ごし、あまりに長い滞留に申し訳なさを感じつつも、老夫婦のぬくもりを失うことに対する躊躇が生まれていることを自覚していた。
とんべ様の思いつきは、この先の見通しのつかないことで、ここを出るに出れないでいたところに差し込まれた形だ。
髪を軽く漉いて寝癖を誤魔化しながら、ほつれ気味の座布団に腰を下ろす。テレビでは相撲中継が流れていて、ちゃぶ台の上には急須と湯気の立った緑茶がある。この数日間、毎日見る当たり前の光景だった。
相撲のルールも技もろくに知りはしないが、奉行ぶぎょうの特徴的な掛け声をなんとなく聞き流しながら、お婆さんに今日の出立を切り出す。
とんべ様の言うことであるから、何か考えがあるのだろうし、私としても、これ以上老夫婦の生活に挟まって負担をかけることに負い目を感じていたから、その決定に否やはない。
お婆さんは、私が慌ただしげに家を出ることを謝るたびに、優しげに笑って一人旅を応援してくれて、より一層、学生の一人旅などと言う嘘を吐かねばならなくなった元凶の理不尽が恨めしい。
お爺さんも、急な出立にもかかわらず駅まで送ろうと軽トラまで出してくれるのだから、この環境を手放すことに躊躇してしまう。混み込みとして少し土っぽい助手席に乗り込み、畑の中、戸の開いたままの小さな社と、いつのまにか傾いでいた鳥居の足を切るお婆さんに手を振って。
あの夜、縁側のとんべ様の用事に予想がついた。私たちを迎え入れてくれた恩を、仇で返してしまったのだろう。
幹線道路に出て駅に至るまで、ただ無言で、リュックサックと竹刀袋を抱えていた。
「良くない」
とんべ様がごちる。
ちょうど同時刻、8:18発の列車が二本同時に別々のホームに滑り込んで、乗客が吐き出された時だった。客の波に乗るようにホームに降り立った私は、小さく聞き返す。
「……何がですか」
「走ってここを出な」
「はい」
つまりはまた追手なのだろう。
私が行動に移すよりも早く、私の周りには例の霧が漂い始める。それに初回ほどは驚かず、ただ言われるがままに、人のなす列の中程に入り込んで小走りで階段を駆け下りて改札を抜ける。ずいぶん嫌な慣れ方をしたものだ。
これもとんべ様を信用しているからかもしれない。
結局何から逃げたのか、私には分からないままだった。
まさかの野宿を経験した。それも、商業ビルの路地裏の狭いところで室外機の裏に身を隠しつつである。とてもじゃないが数週間前まで家持ちの子供とは思えない環境だった。
それでも意外と寝れるもので、隙間に身を寄せていれば割と快適だった。藪蚊がいないだけで百倍は変わる。とんべ様に首を締め上げられて起こされたから寝起きは最悪ではあったけれど。
そんなわけで、明朝。
もそもそと身だしなみを整え、まだまだ陽も出ていない三原町を歩く。アッシュの掛かった青色で統一された街並みは、港の方からたまに音がする程度でひどく静謐を湛えていた。海が近いからか、夏だというのに、比較的涼しさのある風が肌を撫でている。
昨日、三原で一日中何をしていたかといえば、とんべ様の神通力補給である。
とんべ様の指示で、なるべく監視カメラも人通りもない場所を選び、常に警察その他を警戒しながら歩いているものだから、とんでもなく効率が悪かった。
こんな街中で堂々と神通力とやらを集めているとすぐにでも彼らに見つかりそうなものだが、どうやらとんべ様は事を起こした後すぐに霧を出して現場を抜けることでなんとか出し抜いているようだった。時々目線は感じるものの、その目線は特に何をするでもなく見てくるだけで、とんべ様が霧を出せば外れた。
正体はよくわからないが、猫か何かなのだろう。路地裏での潜伏時間にたまに現れる猫と戯れようとしても、ことごとく逃げられてしまったのは少しばかり悲しかったけど、猫は蛇がきらいだものね。
なおも人気のない街路を歩く。あたりはすぐに駅前の四角い街並みから閑静な住宅街に移り変わり、左右にはこんもりとした山が迫ってきている。街路のグリーンベルトの隙間を埋めるように、自治体と思しき会の名前と、神社の例大祭の筆文字が入った幟が揺れていた。
集会中の猫が、私の姿を見るや一斉に散って見えなくなる。
その猫たちの集会していたところまで来た時、とんべ様が「ここだ」と尻尾で背中を叩いた。
それは奇妙な鳥居だった。
扁額へんがくが無い。
住宅街の切れ間に通った、こじんまりとした参道。綺麗に整えられた玉垣。紅白幕と、鉄パイプで組まれたカラフルな屋台。よくある地元のお祭りの準備風景。見るからに賑やかなそれらを差し置いて目を惹く鳥居を除けば、どこにでもある風景。
その鳥居には扁額が、というよりもそれを含めた中央部分がごっそりと無い。横に2本渡されているべき貫ぬきも笠木も、綺麗に真ん中だけ存在しない。参道にそれなりの頻度で等間隔にまたがる鳥居のいずれも同じ形で、資料集で見た長崎の一本柱鳥居のようにも見えるが、明らかに爆風による偶然の産物のようなものでない。
どういう由来だろう。
「何してる。入りな」
背中からの催促に、どうやらここが本日の目的地らしいことを悟る。自分は例によって何も感じない。そちら側の感覚とは、とんと縁がないらしい。まごうことなき一般人である。なまじ変な霊感を持たないぶん、素直に成長できたと考えれば利点ではあるだろう。
「千代が素直とは、なんの冗談だ」
「私は素直だと思いますけど」
「……吹けば飛ぶような上面だな」
なんということを言うのだろうか。とんべ様がいくら人知の外の存在だからって何を言っても許されると思ったら大間違いである。
……勝てるビジョンは描けないけれど。
言い返すのも億劫になって、境内に一歩踏み出そうとした時である。
全身に生ぬるい強風を浴びた。ポニーテールが根本からそよぐ程度だから相当の風速だったろう。
私は思わず顔を背け、踏み出しかけた足を引っ込めていた。
先ほどまで感じていた涼しさのあるものとは明らかに違う風。
「無粋なやつだ。地祇ちぎってのはこれだから」
とんべ様の呟きに、思わず参道の奥を見る。それはほぼ、人間としての直感のようなものだったのかもしれない。
しかし結果として、それは起こった。
参道に敷かれた石畳の中央。いわゆる神様の通り道。そこを拝殿の方から、落ち葉が徐々に外に掃けていく。左右のテントや幟がはためく。つむじ風と言われればギリギリ騙せそうなそれは、しかしそこに確実な不可視の質量を持って、直線的にこちらへ移動している。
「お前とて、かつて人に仇なす神であったろうに。いち妖蛇如きに何が不満か」
いつの間にかリュックサックから這い出していたとんべ様は、私の首元に一度巻きついて、鎌首を擡もたげながら言う。
気付けば、音がしない。無数の視線が刺さる。
気付けば、この場の全員が私を視ていた。
先ほど蜘蛛の子を散らす様に逃げた猫の縦目が。鳥が。その他得体の知れない目線が。
「ま、まさかあれが神様だなんて……言いませんよね?」
「あまり意識を向けるなよ。あれは元々祟り神だ」
その忠告はいささかタイミングを逸していると思う。
とんべ様がいつ行動を起こしてもいいように、私はいつでも走り出せる様にだけは準備した。心持ちだけでもだいぶ変わるだろう。
そもそも現状の私には、武器となるものがない。とんべ様が倉庫から勝手に持ち出してきた太刀などという物騒なものも持っているが、剣道など基礎ができるのみで、とても殺陣なんかできたもんじゃないから腐っている。実戦初使用で使い物になると思えるほど、自分は自惚うぬぼれちゃいない。
「とんべ様……そろそろ」
あと十メートルもない。
明らかな超常的事象。私の本能が逃げろと警鐘を鳴らしている。
足は竦すくんでいるし、何よりすでに相手方の間合いに入っていることは火を見るよりも明らかであった。
目線が徐々に空を向く。
また一つ、また一つと、鳥居がソレの接近を知らせる。もうあと二本しかない。
なぜ、鳥居の中央が存在しないのか。そんな疑問は火を見るよりも明らかで。それは、その黒い影はざっと高さ十五メートルほど。
「あの、信じてますからね、とん──」
パンッ。
弾けるような音。
影の下半分が消し飛ぶ。
参道を一本、蛇を形作る霞が伸びている。
見知らぬ女の子二人が、その霞を縫い留めている。

わずか数瞬。混沌。
その最中における、多少の警戒が功を奏した。
頭は現状理解と推測にフル回転し、次にすべき優先順位のために足が動く。
すなわち、とんべ様の救出と逃走。
明朝。広島県三原市。不明な少女2と一般人1。生死不明の神格1柱。立ち往生した神妖1匹。
静寂。神様の半分が境内に落ちる音が、開戦の合図。
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