地下ちか
「バレてたんですね」
「まぁ、君のネックレスは首に掛かっていたからね」
電話口で男が言う。無意識に、首から下げたタグを指先で遊ぶ。
「君の連れている……あー、分類保留中だが確か丸山結と呼んでいたな。そのアノマリーはタグから大きく距離を取ることは難しい。どうせ部屋のどこかには居るものだと思っていた。歩き回りでもしていたのか?」
「いえ。あなた方の後ろで腕組んでましたね。指でツノ生やしたりして遊んでましたけど」
「それは……まぁ置いておこう。それで、だ。私が君に連絡を取ったのは他でもない。依頼をしたい」
東国斎とうごくいつきはスマホを耳と肩に挟み、肩掛けしたウェストポーチを前に回し、メモ帳とペンを取り出す。指先で一度回したペンをぴたりと止めて「続きをどうぞ」と促した。
電話口の相手である高辻祐たかつじたすくは「用意はいいな」と念押しした上で説明を再開する。
「内容は、我々が注視している新興宗教団体の内情調査だ」
「内情調査?」
内心“またか”と少し飽きの感情が頭をもたげる。依頼内容の中でも報酬は渋い。その割に頻繁に入ってくる依頼だ。最近も小さなところを2箇所、道場破りが如く破壊したばかりだった。
「数年間沈静化していたが、最近また活性化を始めている。その要因を探るのが今回の君の目的だ」
「潰す必要は?」
「ない。多方面に歪みが出るんでね」
「……了解です」
潰す方が単純でやりやすい。後腐れがないからだ。ところが今回はいささか気を使う必要があるときた。あまり自分好みの依頼ではないし、そも内偵任務なら俺より適任が腐るほどいるはずだろう。
「一応聞きますが、そちらのエージェントは?」
「いかんせん規模が全国分布してる奴らが相手だからね。こっちの人員の顔が割れると面倒なんだ」
「あぁ、はい」
使い捨ての駒の扱いはどこであっても変わらない。無論いい気分はしないが、雇用主に要らぬことを言う必要もないと判断できるだけの頭はある。現田のようなポンではないので。
「私を選んだ理由は?」
「今回は君と言うよりも、君のパートナーに用があってね」
「……丸山に、ですか?」
予想外の返答に、少し面食らう。汗で滑り落ちかけたスマホを再び挟み直す。その作業を待たず、高辻の話は先へ進む。
「連中の掲げる大層なお題目は “神格実体の顕現”と、“その神格を崇めることで自身の願いを叶える”とか言う大層なものだ。普段なら一笑に付するような内容だが、タチの悪いことに奴らは神格存在に関して中途半端に認知している。こちらに片足を突っ込んでいるばかりに、いつ一般社会に被害を及ぼすか分かったもんじゃないから増える前に芽を摘む……とまぁ、そういう方針だ」
今時、そんなド直球な私利私欲をここまで感じる宗教も珍しい。所詮は生半可に超常に触れた宗教といったところか。神を便利屋か何かと勘違いしているのだろう。現代の神社が持つ性質上の弊害とでも言うべきかもしれないが、今の日本は神頼みだけが一人歩きしている。
「丸山に何させる気ですか。こいつは神格になり得ませんよ」
「誤認させることはできる。あいつらは神気も霊気も見境なしだ。そも、判別自体ついていないらしい。簡単に騙れるだろう」
……確かに、高辻の言を信用するならば、この依頼に俺たちを抜擢するのは正しい。怪異存在を引き連れて財団にリードを預け、尚且つ消耗品的な雇用契約である程度自由度が高い身柄なぞ、そうあるわけもなく。実際に騙せるかは知らないが、天下の財団様がそう言うんなら騙せるんだろう。
どちらにしろ事実上の一方的な雇用関係にある以上、財団が白を黒と言うのなら、その色は黒なのだ。従うのみである。
「期間は?」
「情報が掴めるか、身に危険が及ぶまでだ」
「……向かうべき場所と団体の名前は?」
「場所は広島県庄原。団体名は富多楽豊会」
「承った」
ヘッドライトが景色を丸く切り抜く。つい数日前見たばかりの、滑り止めの引き攣れた階段を一歩一歩危なげなく降りる。
3階、4階、5階。少しずつ地下に潜っていく。
どの部屋も、明確な情報源になりうるものは認められなかった。地下1階の放置されたカレーやサンドイッチ、瓶詰めの酢物なんかもほぼ変化はないのを確認している。今はとにかく内部構造の把握と情報源の探索が目的だ。
「行きたいっていうから連れてきたけど、本当に良かったのかい」
後ろに続く丸山の声を聞きながら階段を降りる。
「どうせ数日後には財団が探索に入るんじゃないかねぇ」
「だからこそだ」
財団が調査を開始したが最後、我々根無し草のフリーランスがあの土地を踏むことは叶わないだろうことは自明。……普段ならば、別に調査が途中であろうが無闇に深追いはしない。依頼金だけ確保すれば後は関与するところではない。
「今回はあいつらが関わるからな」
思い返すは先日の取引。
鈴木某のガラケーに入っていた電話番号の中で繋がるものがあったからといって、それを当時と同じ人間が使い続けている保証はなかったが、本人がまだキャリアを引き継いでいたことは幸いだった。昔の携帯とメールも残していたようだし、羽倉は私たちのかけた電話から訪問までの間に当時のメールを思い出し、用意したのだろうか。
とすると夢川と現田が今回請け負った仕事は十中八九、先の廃施設に絡んだ事柄だろう。鈴木に関する財団側の対応は非常に用意周到だったし、熊野依頼を解除して他依頼に変えるのは計画していたような動きだった。
高辻の方は知らないが、羽倉の方は交換条件の体をとって、はなから依頼する予定で臨んでいたことは容易に推察できる。
「情報が不完全な状態で首突っ込んで消耗品にさせられることが分かってて、はいそうですか、なんて俺なら言えねぇよ」
「相変わらず親みたいだねぇ」
「フリーランスの命綱は情報だぞ? 握っておくことに越したことはねぇ。それに俺たちは依頼の開始期日まであと二日ある。間に合えばいい」
あの二人はこの二日間で万全の準備を整えるべきだ。
「ふ、ふふふっ」
「何がおかしい」
「いーや。なんにも」
丸山の可笑しそうな笑い声を背に受けるのは居心地が悪い。全て見透かしたような態度が気に入らねぇと、せめてもの抵抗をと鼻を鳴らすと同時にリズミカルな靴音が止まる。右足が踏むのは地下6階。ここへくるまでに、今までの一階層の3倍ほどの長さを降下した感覚があった。これより下へ降りる階段は、少なくともここにはない。
踊り場を出る扉を押し開く。歪んでいるのか、そこに居座ろうとする扉は、静寂を劈くように嫌悪感を催す金属音をたてた。無理やり全開まで開き、向かう先を見て思わずため息が漏れる。
目の前には、古風な門が聳えている。今までの近現代的な内装にはそぐわない重厚な木と錆びついた鋲が打たれた扉だ。また扉。いい加減うんざりしてくるが、門ばかり睨んで突っ立っていても仕方がないと、使い込まれて色の褪せた金属製の輪型の取手を引く。動かない。ならばと今度は押す。これまた動かない。まさかそんなことはあるまいと思いつつも横に引っ張る。当たり前だが動かない。
「冗談きっついなぁ」
ここでこそ人外の出番とばかりに丸山に声をかけるも反応はなかった。代わりにドアの向こうから物音がする。ついでのんびりとした声も。
「ちょ〜っと待ってねぇ。今邪魔なもの片付けるからさぁ」
「また勝手な……まぁいいや」
話が早くて助かるのも事実だ。しばらく物音を聞きながら待機することにした。
ずずっ……という重厚な音と共に床の埃が弧を描く。30度ほど開いた隙間から丸山が隙間をくぐり、手を貸して残りを押し開いていく。これはクセだ。何かあった時の逃走経路確保のため。やるとやらないじゃ生存率が違うから、やらない理由はない。
門の後ろを覗く。何もない。下の方が煤っぽく黒に変色しているだけ。
「何動かしたの」
丸山に問う。ドアを堰き止めていたらしきものは認められない。「あっち」と指差し奴が目線を向ける方を照らせば、少し先、自然そのままの岩壁に立てかけられるように、数本の大きな石柱のようなものが聳えている。
鳥居の部品だろう。無骨な円柱や角柱の中に、両端が滑らかに反り上がっている笠木かさぎが一つある。これが崩れて戸を塞いでいたということらしい。動かないわけだ。納得すると同時に、これを一人で片した丸山が末恐ろしくもある。
なぜ俺に素直に付き従っているんだ? などと聞いたところで、はぐらかすであろうことは目に見えているが、もし反逆されたらなす術はない。たまにまじまじと直面させられる正しく人外な一面に、兜の緒を締め直す。この首から下げた財団謹製ネックレスが実際のところどの程度アテになるかなんて、俺にはわからない。
丸山と横並びに歩き出す。なんの手も加えられていないような洞穴。幅も高さもそれなりに存在し、二人並んでも余裕がある。ここはなんなんだ。
「鳥居があったってことは神域なんだろうが、あたりの空気感は全く変わらん」
「少しずつ濃くなってるよぉ」
「……そうか?」
しばし空気感を掴もうとしてみるが、やはり自分にはその手の感覚は縁遠いらしい。特に変化らしいものを読み取ることは叶わなかった。そもそも人間はあって六感なのだ。空気読みはできても空気を感じる感覚器は備わっちゃいない。財団ならそこら辺の研究も進んでいるのかもしれないが、ならぜひとも外付けできるようにしてもらいたい。
ただ、今はそんなことよりも、
「あっくそ……ここ整備したやつはバリアフリー知らんのか」
兎にも角にも足場が悪い。別に冠水しているとか脆いとか、そういうことではないがとにかく平坦な場所が少ない。注意深く足元をヘッドライトで照らしつつ歩く隧道は、まさに行く先一寸が闇だ。現状持ちうる五感フル動員である。遊歩道よろしく木板で舗装ぐらいしてくれと愚痴りながら、なんでもないような顔をして歩く丸山の足元を見る。いつもの如く実体化していないからだろうか、この程度の不整地は支障がないらしい。しかし、足は接地していないのに歩行モーションしているのはなんとも律儀というか、非合理なもんだと思う。
不意に足音の質が変わる。辺りの黒が濃くなった。辺りを見回せど、光が何かを捉えることはない。先ほどまであったはずの左右の壁は、振り向いた少し先で、薄らぼんやりと光に浮かび上がっている。どうやらこの空間は開けた構造になっているらしい。
「丸山、ここにゃ何かあんのか?」
「んー、このまま正面」
丸山は袖を揺らし、前方に向けて音もなく腕をあげる。着物の白がありがたい。暗闇でも目立つ。
「このまま行けるか?」という問いに対して「行けるよぉ」という緊張感のかけらも感じられない回答を聞き、再び歩を進める。暗闇というのはひどく消耗するもので、周りの情報を獲得できない状況下において過度のストレスを常に受ける。その抑圧は正常な判断を鈍らせるし、視覚的にも安全な行動を取れる可能性は大きく下がる。そして何より、森林以上に方向感覚を失う。
あまり長居はしたくないなと、冷静さを意識しながら前に足を出し続けるだけのお仕事にしばし勤しむ。
「俺はまっすぐ進めてんのか」
「僕が目になってあげてるんだ。曲がりようがないさぁ」
誇るような丸山の言葉に嘘はなかったらしい。しばらくして足元から前方へスライドさせたヘッドライトが壁に張り付いた。
「ただの壁じゃねえか」
呟きながら近付くと、その認識はすぐに改められる。
「……なんだぁ? 道、じゃねえな。穴? 横穴墓おうけつぼみたいな、いやそれにしちゃデカすぎるなぁ」
ライトを左右に振る。合わせて壁面を走る光輪で照らされた岩肌に、目の前に口を開ける横穴に似たものは他に見つけられない。この横穴はここだけだ。横穴はなかなかに大きく、縦横1メートルずつはありそうな大きさで黒々とした口を開けている。ヘッドライトの角度を調整して奥を照らすと、途端に飛び込む色彩。先ほどから色に乏しい景色が続いたからか、異様に目につく毒々しい朱。弾けたように散らばる木片。
そういえばこの廃墟自体、何か内側から爆発したような破壊のされ方をしていた。
これが引き金か、全く別の要因があるのか。黄色く照らされるのは、奥に鎮座する巨おおきな岩。ただしそれは、見事に二つに割れている。
「縁起悪りぃなオイ」
「写真撮らなくていいのかい?」
促されるままにスマホを構えて数枚写真を記録しておく。数回のフラッシュと共に、カメラロールにデータがしっかり記録されていることを確認し、壁沿いに歩き出す。程なくして、何か薙ぎ倒された金属製の台座や、機器のフレームのようなものが集積されたエリアに行き着くが、これもめぼしい成果は得られない。
それでも先ほどの横穴を中心に円状に配置されているらしきガラクタ群から推測するに、あの神道に関わるであろう横穴の巨岩を観測する施設であったことは確かなようである。
「生存者も人の死体でも、人の形をしたモンは数日前のあの一人だけか? 他は逃げおおせたか、全員塵も残らず消えたのか……どっちにしろおっかねぇなぁ」
「これ以上は面白いものも無さそうだねぇ」
辺りを見回していた丸山はそう言って来た道を引き返してゆく。こいつがどのように周囲を把握しているのかは知らないが、とりあえずこの場における命綱たる、奴の白い袴の裾を必死に目で追うことに専念することにした。
着々と階段を登る。地下に降りるごとに減っていった苔が徐々に増えていく。
この場所は色々と辻褄が合わない。間違いなく時空間的な特異点が発生している。さらには情報となるものがほぼ存在しない。瓦礫が溜まり、壁の黒ずんだ踊り場を回る。そうだ。人がいないと言うことはあり得ない。救出した鈴木某なにがしの存在もそうだが、このように不自然な瓦礫の溜まり ある種のバリケードを構築したような跡地、悉くまで隠滅された資料や情報、電気の止まった冷蔵庫の中の料理のその全てが、此処には少なくない人間が存在していたことを示している。ならばなぜ鈴木以外は影も形もないんだ。
そもそも彼が羽倉栄に送ったメールも不明点しかない。10年前。本当に彼が10年前にメールを送ったとして、彼が此処で生活を営みでもしていない限り地下二階で気絶している理由はない。
「ちょっと」
先をゆく丸山を呼び止め、ちょうど差し掛かった地下二階の廊下に出る。最近新調したばかりの運動靴のゴムは、瓦礫で砂っぽい床でもしっかりとグリップを発揮する。小さくキュッと靴底を擦らせながら、廊下の突き当たりで歩みを止め、目の前の開け放たれたままの扉から中に入る。現田が鈴木を発見した部屋だ。改めて見ると、かなりドアや壁が分厚い。当たり前だが、あの時と変わらない瓦礫の山。その奥に彼はいたそうだ。確かに、物陰に邪魔されて倒れている人間を見つけるのは難しいだろう。
「まぁお手柄か」
瓦礫の裏を回る。ショルダーバッグのメッシュから軍手を抜き出して、両手に装着する。
倒された机やら、まだ無事な箪笥やらに手をかける。鍵のかかっている部分は、横に瓦礫のフレームを差し込んでこじ開けた。夢川が手慣れたようにやっていた手法。奴の空き巣スキルには感服するばかりだが、自分がこれをやるとどうも心の正常な部分がしくしく痛む。フリーランスなんてものをやっていようが表世界で生活する以上は小市民をやる他ないらしい。変なところで現田以上に脳筋になりやがる夢川の方が、よっぽど裏稼業向きの性格じゃないか。
「……丸山は」
床に転がるよくわからない金属製の小型装置やらキャスター付きの丸椅子やらを端に蹴って退かしながら物色を続け、そこに何をするでもなく佇む仕事仲間に話しかける。
「彼女らを勧誘したのは正しかったと思うか」
「う〜ん? ……そうだねぇ」
ひとしきり首を捻るそぶりの後、丸山はこちらを向いて「斎はどう思ってるんだい?」と問い返す。勧誘したのはお前だろ、と喉元まで出た言葉を飲み下し、しばし思考に没入する。
「まぁ、そうだな……俺にはまだ分かんねぇかな」
「分からないんだ?」
「そう言ってるだろ」
確かに勧誘したのは丸山だった。だがあの時面倒ごとを避けて、たった齢13の女子2人を暗闇に引き込む行為に待ったをかけず、流されるままを決め込んだのは俺だ。フリーランスなんかをやってる奴らにマトモな出自の奴らなんぞほとんどいないが、それにしたって13はあまりに若すぎる。彼女たちが五体満足で今も過ごせているのは相当恵まれた部類だろう。せめて安全保障が少しでも存在する穴蔵にぶち込んで、たまたま一般人の感性を持つ斡旋業者に当たったのが良かっただけ。全て運が味方した結果。
無論、フリーランスは悪運の強い奴の方が生き残るし成果を上げる。それは事実だ。その点であいつらは相当ツイているし、それは彼女らの経験に裏打ちされたものもあるのだろうが、だからと言って引き込むのを歓迎するのは 少なくとも一般人の感性からすれば 言語道断の行いだ。
「生憎と俺は親の腹ん中で駄々こねてた時から一般社会に生きてないんでね。世間一般の正しさがわからん」
だから丸山に聞いたのだ。長くない付き合いで、常に横に憑く仕事仲間のお前に。
「ふぅん。斎、僕は君の出自に関して何も知らないんだけど」
「死ぬ前までに気が向いたら話してやる」
「人間はせいぜい80年で死んじゃうじゃあないか」
「……今世は気が向かねぇの」
最後の引き出しのカラを確認し、少し歪んだそれを力尽くに押し込む。ばちんと硬質な音を立てて閉まる引き出しのその下。
「……なんかあるな」
キャスターと棚の隙間、少しだけ見える黒い何かを見つけ、隙間から引き抜く。
「……レコーダーだな」
こじんまりと手に収まる大きさのそれは、砂塵に塗れて砂っぽい。中央には大手の電子機器会社の社名が刻印されている、中古品店ならどこにでもありそうな型落ちの代物だ。
「生きてるのかい、それ」
昔の機器は小突けば治ると爪弾いてみても、うんともすんとも言いやしない。
横から丸山の細い手が伸び、するりとレコーダーを強奪された。「おい」という苦言を聞き流し、奴は裏蓋をこじ開けて取り出した電池を数回指で回し、実体化して息を吹きかけて、もう一度電源を押す。液晶に、弱々しいながらも無機質なデジタル表記が浮かんだ。
「うちのテレビリモコンで斎がよくやってる奴だねぇ」
「俺より現代人してるなお前」
「君のせいなんだけどねぇ」
「早く見ようぜ。どっちにしろ死にかけてることにゃ変わりねえんだ」
怪異から奪い返したレコーダーのデータを漁る。と言っても、残るデータは一つだけだった。元から使っていないのか、全て消去したのか。これが鈴木橙の持ち物だとすれば、彼のガラケーの中身を見るに情報は意図的に消された可能性の方が高い。
唯一残っているデータを選択し、ボタンを押し込む。
雑音。
てくださ きゃくを ってく
無機質かつ焦燥感を煽る警報音声。駆け足の音。
いきし んで らくと ったれ クソッタレだ
遠ざかった警報、騒音。ノイズ混じりの騒音と喘鳴。この悪態は、鈴木橙か。
なおも進み続けるデジタルの時間表示を見て、より一層スピーカーに耳を寄せる。
っ……やりやがっ
スピーカーから驚きの声を聞き、さらに意識を向けたその直前。モスキート音を街宣車で爆音にしたような、音というよりも衝撃と表現すべきものが鼓膜を直に劈き、思わず投げ捨てる。それを素早く受け止めた丸山に珍しく素直に感謝を送り、受け取り直しながら思わず愚痴った。
「最っ悪だ! これで難聴になっても業務手当が出ねえのが一番最悪だ!」
「耳寄せたのは斎じゃあないか。まあ安心しなよぉ、難聴になったら耳の役も担ってあげるさぁ」
「まず難聴にならねえことを祈れ。いや祈るな。お前が祈ると変な形で叶いそうでおっかねぇ」
手に持つレコーダーは、今ので電池をカスまで絞り切ったか、プツという音と共についに電力を喪失した。クソなことにまだ耳の奥の方が痛い。
「どうする、これ。財団に渡すっつっても無断でここに来たことがバレるのは問題だ。置いてくにしても情報をみすみす逃すのは嫌だ」
「持ってたらいいと思うけどねぇ。財団に対する交渉材料だよぉ。交換条件で下手に不利条件押し付けられないための自衛手段にでもすればいいじゃあないか」
バレたらどちらにしろ面倒臭いことは面倒臭いわけだが、ここに置きっぱなしというのもまた座りが悪い。羽倉栄があの交渉の場で、鈴木橙を財団の監視下に置きたがるムーブを見せたのも気になる。メール相手であったにもかかわらず本人を知らない風であることや、あの引き渡し交渉の場で嫌に用意が良かった事を加味すれば、胡散臭さはより上がる。
あれこれ勘定を重ねた結果、持っていくことにした。ハイリスクローリターンだが、羽倉相手になら切り札になり得る代物だ。
「……行くか。もう見るもんもないだろ」
結局なぜ鈴木が生き残っているのかはわからないどころか謎が増すばかりだ。
「本来の目的地、広島だったっけ?」
「あぁ」
地上に出て、エントランスの瓦礫を跨ぐ。暗所に慣れた目が、強い日差しで白く眩む。手をかざして天を仰いで見た太陽の位置は、自分の記憶の限りでは動いていない。かれこれ体感3時間は地下に居たにも関わらず、だ。
「とんでもねえな、ここは」
麓に向かうにつれて急に斜陽に向かっていく太陽を眺めながら、斎はしみじみと呟いた。
古教こきょう
「遠いし何もねえし……」
ヨボヨボのお爺さん駅員に切符を回収してもらい、改札代わりのポールを抜ける。電子改札などという高級品は普及していない。すでに改札を抜けた丸山は、駅舎内を落ち着きなさげに観察している。奴はろくに更新もされていなさそうな掲示板の前に吸い寄せられ、「ねぇねぇ斎、これ何?」と目につく紙を指差して質問してくる。何十年も前に話題になったUMAの目撃証言募集やら、無人販売のお知らせやら、なんのまとまりもない掲示板だ。
その中からゆるいタッチでデフォルメされた毛むくじゃらの猿を指差して尋ねる丸山に「詳しいことは知らん」とぶっきらぼうに返して、さっさと駅を出る。 近くの比婆山とかなんとかいう山で、類人猿の目撃報告が頻発したからテレビが騒いで有名になったとかいう話だっただろうか。なにぶん自分が生まれる前の出来事だから詳しいことはわからない。ただ、この地にはそういう曰くが数多く残っている。
愚痴を溢しつつ駅舎を抜けた先は、小さな個人店舗が点在する駅前。正面には目前まで迫る山裾に黒い瓦を光らせた古民家が並び、目の前のロータリーは、ロータリーというよりもアスファルトで舗装された広めの空き地と言った方が正しい。農具を積みっぱなしの軽トラが無造作に縦列駐車されている光景は、名古屋では見られない光景だろう。
中国地方の山地の只中に位置する庄原市は、JR備後西城駅。見たところ新興宗教など影も匂わぬ長閑な田舎である。駅前は日差しを避ける軒もなく、アスファルトを焼いている。
「で、ここきて何すりゃいいんだよ。訪問販売よろしく一軒一軒聞き込みすりゃいいのか?」
「それが確実なんじゃあないかねぇ。見たところ特に金回りがいいってわけでもなさそうだしさぁ。成果は足で稼がなきゃ」
田舎の割にしっかりと舗装され区画整理もなされた道を歩き、目についた第一村人 日陰に打ち水している中年男性の方へ向かう。丸山も姿を表した状態で、かっぽかっぽという軽やかな下駄の音にこちらの接近には気がついていたらしい。こちらが口を開く前に顔をあげ、「どうもこんにちは」と挨拶を投げてきた。
「ちょっと伺いたいのですが」と切り出す斎を見て、和装の丸山を見てからもう一度斎に目線を戻す。かたや旅行者然とした見た目の若者、かたやまともな人であれば旅行などしないであろう和装の年齢不詳。よく分からない見た目と組み合わせ。彼は私たちを、とりわけ和服の方を見て、そっと目を逸らした気がした。
「あのぉ、ですね……私たち」
「会のもんがなんのようです」
その声はひどく冷たい。会というのは富多楽豊会か。探る様な目線と声音で問う彼に、少し喉元が強張る。
「失礼ですが、会というのは」
「あんたはともかく、隣の和服は富多楽豊会の連中だろう」
「ええ? いや、むしろ私たちはここにそう言った宗教団体がいらっしゃるという話を聞きまして、興味があったもので……」
「……あんたらどっちみち連中に関わる気なんだろ? やめといた方がええぞ。何しとんのか知らん変な連中だしな」
僅かながら態度を軟化させた男は、それでもなお、不審そうにこちらを伺い続けている。話したくないのか、単純に知らないのか、簡単に詳細を掴める期待はしていなかったが実際、そう上手いこと事は運ばない。
「では他に詳しい人に心当たりがあったりなどは」
「いやだねそんなのいるわけないだろ? あっちが勝手に来て山ん中にでっかい建物建ててずっと居座りっぱなしさ。明らか面倒ごとの匂いがするからね、子供も大人もあのあたりは早歩きしてなるべく近寄らんのよ」
「やっぱり避けられてるんですね」
「いやに愛想が良くて挨拶されたら返さにゃ失礼だってんだけども、朝から晩まで向こうの路地前で突っ立ってて何しとんのかわからんしよぉ」
先ほどから彼がたまに視線をやる向かいの山。中腹、針葉広葉入り混じる木々の間からあまりにそぐわない白い建造物が生えている。金に物を言わせたような、宗教のごった煮のような建物という印象だ。
「あれがそうなんですね?」
「変な奴らだよ。なんで新しい宗教ってのはあんな奇抜なセンスをしてるんだろうね。どこからそんな金が捻出できるのかもわからんしなぁ。まぁ前町長とねんごろだったって噂は耳にしたことはあるけんどもさ。みんな知っとる噂話だけども」
「あれがいつ建てられたか知っていたりはします?」
住民は視線をしばらく斜め上をあてどなく漂わせて思い出す風の動作をしばらく続け、「まぁ」と自信なさげに切り出した。
「俺がガキの頃に入ってきて建ったんだよな。あれは40年くらい前にはあったはずだ。今の若いのが知ってるかは知らんけどね、昔ここら一帯はヒバゴンっちゅう……ゆ、ゆ〜……なんだっけ?」
「UMA?」
「そうそう、それやね。ゆ〜ま。そういうのが流行った時があってな? その時に外から流れてきたんだって親から教わったからまぁ、ずっと居るな。そんであれは美術館らしいが行ったこともないね。外の人はそれと知らずにたまに見に行くらしいけどさ」
40年以上前の建物にしては嫌に近代的だなとは思うが、当時の高名な建築家にでもデザインしてもらったのか。求心力のために見栄や奇抜さを意識するというのは新興宗教の常套手段であるからおかしくはないのだろう。フロントとしての美術館なども、教祖の収蔵品を展示して入館料を取るなどで資金集めをする団体も多い。
それとは別に、今の会話から色々と類推できることはある。失礼な物言いにはなるが、この庄原という山間部の町は田舎にしてはやけに道が整備され、新しい建物が立っている。駅舎こそ電子化の波に置いていかれてそこに捨て置かれたような様相であるものの 事実、いまだに人力切符だったし ロータリーから線路を挟んだ反対を見れば新しく立ったのであろう市民体育館のようなかまぼこが立っていたり、やけに広く区画整備されたつぎはぎの無い車道であったりと、所々に開発が進んだ痕跡が垣間見える。
「この辺りって、そのUMAが取り沙汰された頃に経済的に良くなったりしました?」
「あぁ、そりゃそうよ。よく覚えてんのは、テレビやら見たことあるアナウンサーやらがこぞってここら辺に来てたことだな。やれ日本版ビッグフットだのなんだのと持ち上げまくってたしなぁ。ガキの頃は良くカメラに映りに行ったもんよ。見たことあるって言やぁガキの俺にも話聞きに来たもんだ」
おおかたあの美術館もその時の観光客向けか。なんだかんだで話を聞かせてくれた住人にぺこりと礼一つを返して、さっそく美術館の方に向かう。表向きがしっかりとした施設ならあからさまな面倒ごとはないだろう。
とはいえ、丸山を出した状態で歩かせた己の迂闊を呪いながら、彼らが狙う本元である丸山には姿を消してもらった。
その後複数住民に話を聞きつつ道中数十分。何度目かの住人に声をかけようかというところ。あの町人が示したあの白亜の宮殿とも、現代美術館とも見えよう奇怪な建物へ歩く道すがら、トタンとベニヤで拵えられた、田舎特有のバス停の中で腰掛ける初老の女が1人。
無難に一人旅の観光客を装い、失礼、と声をかける。女はバス停の戸口に立つ俺を、何をするでもなく見つめている。
「お待ちしておりましたよ」
質問のため口を開いた俺より先に、女はそう言った。
「……お待ちしていた、ですか」
アタリを引いたな。そう確信し、すぐさま警戒心を引き上げる。周囲に他の人の気配はない。本来の任務は会に取り入ること。今回は願ったり叶ったりといったところか。
黒目の多い眼差しで、笑みを浮かべてこちらに話しかける女は少し左右に目線を振り、こちらの質問に答えず、「こんにちは」と挨拶する。
「……どうも」
「わざわざご足労いただき、本当にありがとうございます」
「あの、ただの観光です。何やら見慣れない現代的な建物を見つけたもので」
「まぁ、そうなんですか。いえね、貴方が私共の会をお探しだという話を聞きましてね。こうしてあなたをお迎えに待っていたんです」
……つまり、今まで聞いた町人、あるいはその近くで耳をそば立てていた誰かから、俺の情報が抜けていたということか。聴き込みにあたって丸山を隠す判断は正しかったらしい。
「さて、建物というのはこの先の美術館のことでしょうかね? あそこの展示品はどれも美しい物が多くて、世界でも珍しい一品物なんてものも揃っているんですよ。まだお越しになられていないなら是非ともどうぞ」
「そこまでのバスとかあります?」
そう問う俺に嬉しそうに手を合わせる女は、何がそんなに嬉しいのか、頼んでもないのに先導を始めた。
「バスはないんですよねぇ……あるにはあるんですが、ざっと三時間後になりますねぇ」
「あぁ、本当だ……」
横の黄ばんだ時刻表は、存在する意味があるのかというほど時刻の横軸に対して文字がない。見なければよかった。
「あぁ、そうそう。あの立派な建物は一世代前の町長さんの協力あって建ったものなんですよ? 中もそれはもう綺麗なんです。今の市長さんは悪いもんじゃあないんだけど、頭が硬いし私たちの土地をいくつか買い上げちゃってダメだねぇ。あの党は芸術とか表現とか信教とか、そう言った自由の迫害に躍起になっちゃってねえ。政治に関わるものがこれとあっちゃあもう失望しちゃって」
女の話は徐々に政治にずれていく。
「——何を重んじるか、何を信じるかなんてこっちの自由だっていうのに。そうでしょう? こっちはただ美術館を運営してるだけなのにねぇ」
「はぁ。そうかもしれませんね」
「そうでしょう! お若いのに見る目あるわねぇ。あぁ! そうだわ。ついこの間だってね、変な理由つけて実際に職員さん引き連れてなんも悪いことしてない私たちをね、職員さんも上に逆らえないからんだろうねぇ。真面目なフリして『こちらも仕事ですので』なんて言いながら仕事してるのを見ると可哀想で可哀想で。あっちこそ最近裏金問題だかなんだかで党全体が追求受けてたくせして——」
あとは専ら政党批判だった。一を言ったら十も百も返してくる。聞いてねぇのに。てか地元の政党のしがらみとか外部から来た連中に話すんじゃねえよと喉まで出かけた言葉を飲み下す。当人は捌け口があればなんでも良いのだろう。
「美術館運営ってのも大変なんですねぇ。と こ ろ で ! なんですが……」
空っぽの同意と同情を提供し、流れを断ち切り本番へ誘導する。こう言う手合いは流れを持っていかれると小一時間は止まらない。
「貴方の言う富多楽豊会ですが、どう言った教義を掲げてらっしゃるとか、そう言ったことはお話になれますか? 可能であればゆっくりお話ししたいな……と思っているのですが」
「まぁまぁ、あなたお勉強熱心でもいらっしゃるんですねぇ。最近の若い人はお勉強熱心なのねぇ。でも私はそう言った経典を講釈できる立場にはないんですよ。私がお迎えにあがったのも、そちらを講釈できる方の元へ案内するためなんですから」
女は「大丈夫だついて来い」と言わんばかりにずんずん進む。向かう先は一貫して美術館だが、美術館に上の立場がいるのだろうか。
俺を待っていた、ということは、少なくとも彼らなりになる人間という評価を下されているということだ。その要因が丸山かは、現時点では分からない。
少なくとも理解と会話に意欲的でホイホイついてくる俺はいいカモなのだろう。そう整理する間に、意外と足腰が強いのか歩みの早い女の後を追うことしばらく、綺麗に舗装された斜面を蛇行して登った先に、その建物は大きく口を開けて来る者を出迎えていた。
「ようこそお越しくださいました」
入って早々、豪奢な内装に目を配る間も無く1人の男に声をかけられる。すでにお辞儀をしていたから顔は分からない。
……和服?
その男は見る限り、神職の装いであった。紫の袴であるところを見るに、二級。中堅どころの神主か。建物の内装に対しひどく浮いていることだけは確かだ。なるほど、これが富多楽豊会の正装だとするならば、最初に話しかけた男が丸山を会の者と間違えたのも頷ける。
当たり障りのない「こんにちは」という返しに対して、相手は深々と礼を返す。それこそ、一般人には大仰すぎるほどに。
どう返すべきか迷っているうちに男が顔を上げた。初老の男だ。そこら辺にいるような、ごく普通の老人。威厳も、狂信も持ち合わせていなさそうな、ごく普通という言葉がしっくりくる男だった。
「ここからは私、日川にっかわが案内を務めさせていただきます」
「あぁ、ガイドさんですか。よろしくお願いします」
日川と名乗る男はもう一度深々と礼をすると、そそくさと先導を始める。施設内を滞りなく解説しながら進む日川に対して見かけ上の感心を示しながら、目で建物の構造や経路を見極めていく。大きな西洋門、大理石調の柱彫刻はバロックとロマネスクの合いの子のような特殊な彫りが巡らされ、日本の地方で見られるような代物ではない。まぁラブホとかでは似た内装があるのかもしれないが俺は知らない。
「内部の建築様式からすると、ここは元々教会的なモチーフの建物なんですか?」と何気無く問うと、日川は「そういうわけではないのです」と追加の解説を行う。興味を示したことがさぞ嬉しいのか、声音が明らかに弾んでいた。
「なぜこのような西洋様式を?」
「お恥ずかしながら、この建築になったのは当時のブームのようなものですね」
「確か40年ほど前には立っていたんでしたか」
「ほお。よくご存知ですね。この美術館は、こう言うのもなんですが、さほど有名でもないと思っておりました」
「まぁ、ここにくる道すがら地元の人に伺いましたので」
なるほど、と大袈裟に頷く日川と通路を過ぎゆく中で、スタッフと思しき女性が深くお辞儀を返してくるのに軽く会釈して、なおも案内に付いていく。ここの職員は総じて礼儀が正しい。教義にでもそういう何かしらの規律があるのか。そもそもスタッフも会員なのか? 見る限りでは明らかこちらを引き込もうとするような危なっかしさを感じる人間はいない。バイトか? それとも表向きだからまともな人員を配している?
考えを巡らせていると、日川は少し自虐を含むように続ける。
「ここも客商売ですので、お客様のニーズや世間の潮流にあった建築がこのようなデザインに反映されております。今となっては遅れたセンスかもしれませんが」
「あぁ、いえ。収蔵されているものには西洋の品もありますし、ある程度内装は調和が取れているように思いますね」
「フォローありがとうございます。先ほどから解説しておりますここの収蔵品はですね、全てお一人の蒐集家が御寄贈されたものなんですよ。なんとも懐の深い方でいらっしゃいます」
実際に、西洋の品は多い。日本や中国の品も無論ある。お一人の方というのは十中八九この美術館の裏にあるはずの富多楽豊会トップだろう。解説が事実であるならば、かなり高価な品物も蒐集していたことになる。お布施か地の財力か知らないが、少なくとも金回りは良かったらしい。
その後数分、最後のブースの解説を受け出入り口に戻ってくる。ここに案内してきた初老の女はもういない。本当に案内人だったらしい。さて、この後どう教義について切り出そうか、どう潜入したものかと思案していると、日川から提案が飛んできた。
「見ての通り夏季休暇期間でも観覧のお客様は少ないのです。そこでですが、もしよろしければ普段解放していない奥館もご覧になられますか?」
「奥館、ですか?」
「ええ、表には出していない展示品などを収蔵してあります。スタッフの休憩場所なども兼ねておりますが、概ね庄原の文化に関連する民族資料倉庫だと思っていただいて構いません」
きた。資料倉庫とはいうが、十中八九本拠だろう。いくら客が居なかろうが倉庫まで案内するなんてことはそうない。やはり彼らは丸山の存在を認知しており、引き込もうと画策でもしているか? 万全を期すならばまた後日の約束を取り付けて引くべきだ。
「願ったり叶ったりです」
潜入一択。最悪丸山に食わせればいい。虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言うように、向こうがどう利用する腹積りか知らないが、懐に潜れるなら逃す手はない。軽率に殺されはすまい。なんせ丸山の宿主はこの俺である。満面の笑みで彼の提案を承諾した。
奥館と呼ばれた場所は、表の美術館と打って変わって純日本風の建物だった。ここでなら日川の和装も馴染むというものである。本来はこちらでの装いなのだろう。
先ほどから長い廊下でスタッフと思しき人々とすれ違うたび、深々とお辞儀をされるのでその度に会釈を返している。最初こそ客に対する形式的な礼だと思っていたが、どうやらそういう代物ではなさそうだと考えを改めている。これは日川に対するものか。はたまた、俺か。俺の横で姿を隠す丸山か。
しばらく綺麗に掃除の行き届いた廊下を進み、農具の様なものが陳列された部屋に何回か通される。それらは、実際にこの庄原で扱われてきた農具であったりとか、祭祀用具であったりと地元の民族資料の集積された部屋である様だった。
そして、それらには特に解説はない。奥館まで通せば勝ちかのように、めっきり解説を取りやめ、どこかへひたすら向かっている。
また一つ戸口をくぐる。
中央に橘の大株が整えられて育っている。その木の至る所では、アゲハの幼虫が葉を喰むのが見えた。どこかでしゃりしゃりと金物の擦れるような音がたまに上がるその部屋は、先ほどのいくつかの部屋とは比べようもないほどに広く、橘の周りを囲むように飾り紙と榊が備えられ、整然と並べられる道具の数々。いずれもアゲハに関連するものではなさそうである。
「……日川さん。あちらの展示は道中の延長に見えますが、どのような用途なんです?」
「えぇ、えぇ。あちらはですね。養蚕の道具でございます。あちらの棚は蚕架と言いまして、中には蚕を乗せるために蚕座紙をのせた皿である蚕箔がございます。その右側には蚕に桑の葉を与えるための給桑台、さらに右には蚕の幼生を育成するための麹蓋、繭を作らせるための人口の巣である蔟折機という品もございます。まぁ、いずれも蚕なしでは意味のない品々でございますが、昔はここ、庄原でも養蚕が活発でございました」
胸の前で手を合わせ、先ほどよりも嬉しそうに語り出す日川の目は、養蚕文化が生んだ品々に対して、いや、それらを超え、繁る橘に向いていた。
「では、その養蚕とあの橘と蝶は、何か関連があるのでしょうか」
「あぁ、あちらは常夜神でございます」
「……はい?」
まるで解説の延長のように。当たり前の、民俗資料の一つに過ぎないかのように。あまりにもするりと放たれ、あまりにも香りの異なるその単語に、腑の抜けた声で聞き返していた。
「常夜神、ですか?」
「えぇ。左様でございます。ご存知でしょうか。古きよりアゲハ蝶、もしくは蚕の幼生は常夜神とされておりました。日本書紀の第二十四巻『皇極紀』には、『此れは常世の神なり。此の神を祭る者は、富と寿とを致す』との文が出てくるのですが、これが橘の木に生ると伝えられておりまして、その姿は緑色に黒のまだらで養蚕に似ていると言われております」
「いえ、まあ存じてはいますが……えっと、庄原にはこのような常夜神文化が?」
「いえいえ。こちらは先ほども申し上げましたが、一人の蒐集家から寄贈されたものの一つでございましてね。その蒐集家の方と言いますのが、私共の御尊主様でございます。名は『席しきい』と申しまして、こちらにおりますよ。どうぞ」
「……御尊主?」
なるほど。奥館へ読んだ理由はこれか。この地に常夜神信仰が存在したのかどうかを聞いたはずが、なぜか御尊主とやらとの面会の流れになっている。警戒感は上がる一方だ。ここまで直接的に開示するということは、逃すつもりはないのだろうし、逃さない自信があるのか。実際、この奥館は至る所に人目があるし、そこそこ入り組んだ作りだった。一応構造は頭に入っているが、今は虎穴の真っ只中。下手なことはしないほうがいい。
日川に促されるままに、部屋の中央、橘のそばへ歩みを進めようとして、出した足が一瞬躊躇する様に止まる。
止まってしまった。
「やはり貴方様なら御尊主に御目通り叶いますか」
挿絵(睥睨する構図)
その挙動不審を見るや、日川は崇敬の混じった声音で嬉々として問う。しかし己の目は張り付いたように橘の一メートルほど上を見留め続けていた。
赤と白の和装束に、所在なさげに空を揺らぐ橘紋の千早。右手の神楽鈴は揺れるのに合わせてしゃりしゃりと涼しげに音が鳴り、それに合わせて揺蕩う五色緒。まるでそこに床があるかのように、背筋を正した姿で正座を組み、意思の読めぬ瞳をもって睥睨するのは、一見して齢18ほどの女であった。浮き、透けていることと、明らかな気配が、ソレが生身の巫かんなぎではないことを如実に表している。
ふと、控えめに袖が引かれると共に、耳元で囁くように声がする。
「神じゃないよぉ」
その聞き慣れた声が気つけになったか、向かいのアレから目線が外れる。実際一瞬だろう。しかし何時間と経ったような感覚に陥っていた。そんな俺の動揺を知ってか知らずか、日川は御尊主とやらに向かい深々と礼をした後、「御尊主様が見えるというのは幸運なことでございます」と、さも吉事かのように告げて向き直る。
「あー、その。御尊主と呼ばれているのは、巫女装束の人であっていますかね」
「やはり見えていらっしゃいますね。その通りでございます」
「あの方は、なんと言いますか……ここで働く人々全てが見えているわけではないと、そういった認識であってます?」
「その認識であっております。現在、御尊主に御目通りが叶うのは、貴方様と私日川、あと数名のみでございます」
自分の矢継ぎ早な質問にも一つ一つ答える日川に対し、先程の丸山の言葉を受けて気になっていたことを問う。
「今までの話の流れから言えば、貴方たちはあの方を崇拝していると判断できますが、その、御尊主は神格なんですかね?」
「神格かと問われれば、“解りかねる”と答えるのが正しいでしょうか。」
日川の答えは、ひどく曖昧なものだった。しかし、その答えでは前提が崩れる。
「解らない? ならば貴方たちは……失礼ですが、何を信仰崇拝しているか理解していないまま御尊主として崇めてるんです? そもそもの話、あの巫女はなぜあそこに? 常夜神信仰の関連ですか?」
電話口で得た高辻の話を思い出す。
連中の掲げる大層なお題目は神格実体の顕現と、その神格を崇めることで自身の願いを叶えるとか言う大層なものだ。
高辻はそういっていた。しかし、この宗教団体どもは神格でないと知りながらもなお、あの巫女装束を御尊主と呼び崇拝しているように見える。富多楽豊会の活動理念に合わない。あれが生身の人であれば、富多楽豊会のトップとして尊敬されている等の解釈も可能であったが、あれは明らかに我々生者とは相容れない向こう側の存在である。崇められる側にいることは疑いようもない。
「順を追ってお答えしましょう。さあ、こちらへおいで下さい」
日川はなおも落ち着いたまま、質問に答えることを約束し橘へ進む。斎は正体不明の巫女装束との距離を積めることに躊躇いを感じ、足元に目を落とす。柾目の木板の上に、筆で『海』と一文字達筆に描かれていた。
境界か。
合点がいった。急に巫女装束が見えるようになった要因。先程の一歩で境界の向こう側、いわゆる“異界”に足を踏み入れたことにより一時的に自身が異界側の存在になったらしい。境界の外側でも音が聞こえるのは、境界と異界の特性そのもの。日本で古来から用いられている民俗呪法だ。ならばここで引き返せば先ほどからひしひしと感じるこの目線からも逃れられるはず。まぁ引き返したところで何事もなく逃してもらえるとは到底思えないが。
結局のところ、意を決して全身を境界の向こう側、作られた異界へ持ち込む以外に進展はないらしいとため息を殺しながら、先で待つ日川の元に向かうことにした。
日川は斎が橘のそばまで来ると、巫女装束の方を見上げながら「どこから話しましょうか」と呟き、しばし思案した後、一つ「ふむ」と唸り口を開く。
「先ほど、この橘とその葉を喰むアゲハから、少し常夜神信仰に関するお話を致しましたね。常夜神信仰は日本書紀において、征伐される新興宗教として登場しています。新興宗教と申しましても、当時から見て新興宗教であったというだけですから、今の我々から見れば非常に歴史の長い信仰でございますが……ともかく、道教を源流にする、いわば異教であった常夜神信仰を巫や祝ほうり、今でいうところの巫女や神官が広めて世が乱れたとして、征伐という形で弾圧がなされたのです。とはいえ、信仰は現在まで全国で脈々と受け継がれてまいりました。その系譜の一つが、我々『富多楽豊会』でございます」
日川は一つ呼吸を置き、先ほどから人差し指を這わせているアゲハの幼生を優しく撫でる。
「古く大陸では、仏教と道教が対立するようなこともあったそうです。日本ではそのような話は少ないですが、先ほど話したような事がないわけではありません。では先程の話に関連して、仏教や道教、神道が融合した地を貴方は知っておられますか?」
幼生が黄色い臭角をにゅうと伸ばすのを見て小さく笑いながらそれを葉に戻し、斎にそう問いかける。
「熊野、でしょうか」
「その通りです。やはりよくご存知でいらっしゃいますね。『富多楽豊会』の興りはまさに、その熊野でございました」
何を喋っても持ち上げてくる感覚に無性に痒さと不信感を覚えながらも、つい3日前に訪れた景色を思い起こす。彼の地で確かに常夜神信仰が息付いていたことは知識として知っていた。
「ご存知かもしれませんが、熊野では仏教から生まれた補陀落信仰というものが存在します。補陀落というのは観音菩薩の浄土があるとされる補陀落山のことでございますが、この浄土への往生を目指すために、教徒は海を渡ろうとしたわけです」
補陀落は南にあるとされ、熊野や土佐からの出立が多かった。この海を渡る行為を補陀落渡海と呼ぶ。ここですでに先の展開が少し読めたが、日川の話を一通り聞くこととしよう。
「これは窓のない小舟に浄土を目指す人を乗せて沖に流し、帰ってこなければ浄土へ到達したと考えるという、いわば片道切符の行為でございました。先ほど、熊野は仏教、道教、神道が融合した地であると申しましたが、熊野の補陀落信仰は他宗教に影響を受け、少々変性しております。その変性と言いますのが、“補陀落浄土は常世のことである”という類似した要素の同一視でございます。これが常夜神信仰の礎となっているわけですから、我々の間でも補陀落渡海がよく行われてきたそうでございます。少なくとも明治までは確認されておりまして、中にはもちろん、生きたまま海に出るのを拒んだ者もおりました」
少し陰の落ちた表情で、日川は再び巫女装束の方を見上げる。
「この御尊主もその一人ということですか」
「その通りでございます。御尊主様の肉体は二百年ほど前に失われてしまいました」
日川は、哀しそうに呟く。
「……失われた、ですか?」
それは引っかかる物言いだった。亡くなったのならそういえばいい。
「御尊主様は補陀落渡海を行わずとも常世に行き着く術を探しました。常夜神であるとされ、また出雲を国造った神の一人であるとされる少彦名スクナヒコナが、アゲハや蚕の幼生に身をやつしているとするのが常夜神信仰であることは、ご存知かもしれません」
脳裏をよぎるものがあった。同時にそれは流石にどうなのか、という否定も湧き上がる。ただ、聞くのはタダだ。
「……まさかとは思いますが、幼生を常夜神そのものとみなし、育て羽化させ、此岸に顕現させようと?」
「やはりあなたは聡明でございますな。御尊主様と同様の考えに至るとは思いませんでした。ええ。ええ。まさにその通りでございます。その場所を常世にしようと、そうお考えになられたのでございます」
「……その結果は?」
「私程度のものには、その時どのような奇跡が生じたのかは分かりません。しかし確かにその幼生の羽化とともに、此岸に常夜神が顕現したそうです。しかし此岸を常世と見做すことそれ自体が不可能であったのか、はたまた別の理由があるのか、羽化は不完全だったようでどろどろとした状態で生まれたのだと言います。その際、御尊主様はその不完全な神のようで神でない“何か”に呑まれ、肉体を失いました」
「だから後尊主が神とは言い切れないと、そういうわけですか」
なんとまあ勝ち筋の薄い賭けをしたものだ。そしてその勝ち筋を確かに引いたのも事実なのだろう。
なぜ今、この場に霊魂のような姿で残っているのかという部分を考えるのならば、色々仮説は浮かぶ。不完全な神を神と呼ぶかは諸説あるが、生まれた段階で不安定だったその存在は、此岸に神格を確立するために、すでにそばにいた巫女の魂に寄生したと言ったところか。
あの巫女は半人半神のような状態にあるのかもしれないが、丸山は神ではないと言っていたし、真偽の程は不明である。少なくとも富多楽豊会は高辻の話の通り、それが神か妖か、気配での判断は出来ないようだ。
「少なくとも純粋な神ではございませんね。御尊主様の望んだ、常世がもたらす富や寿を生み出す権能のようなものも得られてはいないようです」
「権能はなくとも神に類するものなら信仰に値する、と」
「……我々は、御尊主様の意向を目指す高みとし、御尊主様を教祖として『富多楽豊会』を組織致しました。我々には神格を顕現し、常世に至り、富多く豊かになることを目指す必要がございます。大幅に遠回りしたような気もしますが、本題に入りましょう」
日川はそう言うと、くるりと踵を返して背を正し、私と相対する形に向き直る。
「貴方は人ならざる存在を見る事ができる数少ないお方。いわば神の御使とでも言うべき存在でございます。私はもう歳も重ね過ぎまして、先は後幾許かといったところでございましょう。貴方には是非ともこの先の富多楽豊会を導いてもらえればと期待しております。数年前に会員が大きく減少した影響もございまして、人手も少なくなってしまいましたが、神が見えるともなれば顕現への道のりが大きく次に進むことは想像に難くありません」
そう言うと、徐に膝をつき平伏とも土下座とも取れぬ体勢で俺の入会を懇願する。無意識に眉が顰められているのに気がついたが、直すつもりはない。日川は心の底から思ってもいないだろうし、俺も無論入るつもりなど毛ほどもないからだが、それとは別に一つ気になる事があった。高辻のいう組織の活性化が何を指すのかを知りたい。
「……貴方の代で、神格の顕現に挑戦したことは?」
「ここ数年のことでございます。岡山の月谷という地域がございまして、そこにすでに顕現している神がいるかもしれないという話を持ち込んだ会員がございました」
「その神を用いるのでは何か弊害が?」
「その会員はその地に縁を持っておりまして、神に対する儀式手順なども事細かに把握しておりましたから、我々がその会員に資金を融通し、神の顕現に関して調査を進めさせました。ただ、ある時期を機に、その会員からの定期報告の内容に進展がほぼ見られなくなりました。最近になり、調査のために我々は“穴倉フリーランス組合”と呼ばれる神や妖に関する専門家の斡旋組織を頼ったのです」
聞き覚えのある名前に眉がぴくりと動く。
「結果として、その会員はすでに神の顕現に成功しているようでした。確証を得た我々はその会員に対し報告との乖離を詰めましたが、どうやら神を独占しようという邪な考えから背信に走ったようでしたので、その会員は内々で処理を行い、その神の育成を引き継ごうと試みました」
結果として、今顕現できていないのだからそういうことだろう。なぜ?
「最終的な結果で言えば、その神が座す地には我々は辿り着く事ができませんでした。あの会員が語った場所は確かに目の前にあるのですが、その近くに入ってしばらくすると別のところに出てしまうのです。まるでその土地が蜃気楼か何かのように、次元が異なるかのように存在しないのです。残念ですが、今現在我々はその土地の神に接触することを保留せざるを得ない状況なのでございます」
なにやら聞いた事がある話だ。十中八九、財団かGOCに見つかっている。その土地に侵入した会員は片っ端からとっ捕まって記憶処理され、何事もなかったことにして放流されているのだろう。本当に異常に片足しか突っ込んでいない宗教団体らしい。穴蔵には接触するくせに正常性維持機関の存在までは知らない。厄介だ。
「富多楽豊会への入会という話は、一度持ち帰らせていただきませんか」
とりあえず近況や聞きたいことは聞いた。あとは虎穴から抜け出すことに注力すべきだろう。
「それは……お時間が欲しいということでございましょうか」
「えっと、まぁ、そんな感じですね。そもそも俺学生なんで」
学生の身で全国的新興宗教の上層部とかなんの冗談だ。
「というか、さっきちらっといってましたけど、会員が大きく減ったんでしょう? 私に立て直せる力量はないですよ」
「いえ、もう十年も前の出来事でございます。当時は好景気が終わりを迎える寸前でございましたので……。現在ではそこそこ会員数も回復傾向を見せておりますので、そこに関しては心配はご無用かと思われます」
一向に平伏の姿勢から直らない日川を見て、この茶番の落とし所はどうしたものかと言い訳を考えていると、体制はそのままで、日川からある提案が飛んできた。
「今日はお宿はすでに取られておられますか。もしまだ取られておられないのでしたら、一室お貸しいたしましょうか。食事などもご用意いたしますし、むろん金銭の要求などはいたしません」
帰す気がないらしいことは理解した。これ以上何をいっても無駄なのだろうという気配は感じているから、どうにか隙を見つけて実力行使してでも抜け出すことも視野に入れる。とりあえず、この奥館の構造把握も兼ねて一泊までは許容だろうか。向こうが頼み込んでの宿泊客だし自由に歩き回っても文句は言えないだろうという目算もある。さらに言うならば、先ほどから片時も離れずつむじの辺りに感じる巫女装束の視線から逃れたい。
「わかりました。ではご好意に甘えて今日はこちらで宿泊させていただきます」
何はともあれ、斎は日川の提案に乗ることにした。
「さて」
先ほどの少年を会員に任せ、急遽来客用として整えさせた部屋に通すよう言伝てし、少年の足音が聞こえなくなる頃。日川は着物のよれを綺麗に正し、橘の上方に視線をやる。
「御尊主様。先ほどの少年を如何様になされますか」
少年の前ではひたすら睥睨するのみであった巫女装束、席しきいは日川の問いに対し、朱の入った瞼を数回瞬かせ、小さく、しかしよく通る声で声を発した。
「おまえの思うままにせえ。しかし気がついておろうな」
「横にいる何某かの存在でございますな。あちらが本命でございますゆえ。あれは神に類する存在でしょうか」
「そうさなあ。あの幼子は神子のようには見えんかったがの。何をもって付き従っておるかは、うむ。われも知らぬ」
戸口の側に目をやりながら、席はおもしろそうに神楽鈴を数回揺らし、笑いを押し殺したように喉を鳴らした。
「やつの連れているあの化け物はな、おかしいぞ。引き込み能わずとも、目を離す事があってはならぬわ」
「理解しております。して、この地に遷座してもう四十と数年が経とうとしておりますが、心地の方はどうでございましょうか」
「おまえに境界を引かせたのはわれではあるが、うむ。退屈じゃの。そも、既にこの地にいる必要はなかろうに」
すうと細められた席の目に少々焦りを感じながらも、なんとか取り成そうと言葉を探す。
「かの人妖騒ぎはとうの昔に潰えておろう。伊邪那岐の伝承も美古登に残るのみであって、もはや御陵の伝えは真か嘘か以前に見せ物じゃろうて。さらにこの地は人が居らん」
「お気持ちは痛いほど理解できるつもりではございます。そもそもこの地にあやかったのは本格的な資金繰りのために過ぎませんから、そろそろ移転も考える頃合いかもしれませんが……あまり橘に環境の変化でストレスを与えるわけにもいきません。橘は御尊主様の心の臓のようなものでございますから、万に一つも立ち枯れるなどと言うようなことがあっては困ります」
ふんと不満げに鼻を鳴らした席に今一度深く腰を曲げる。あの少年を注視する旨を今一度申し上げ、静かにその場から退室した。
そろそろこの土地も潮時かもしれないという思考が焦燥感を掻き立てるとともに、やはりあの少年に大きな期待を抱かざるを得ない。御尊主様も、あの少年に対して、あるいはその側の何者かに対しては非常に興味を抱いておられた。御尊主の御機嫌取りとしても優秀であることに間違いはない。
すでにこちらの目当てに勘付いているような警戒心の強さではあるが、積極的に事を荒げようとする剣呑さは未だ見えない。やはりまだ子供といったところか、連れているものに対してあの子供では釣り合わない。まずは探りを入れようと決め、日川は彼がいるであろう客室へ足を向けた。
客室としてスタッフ おそらく会員なのだろうが に通されたその部屋は、一人部屋というには大きすぎるといって差し支えない広さであった。旅館の大広間ほどの大きさだろうか。落ち着かない。
ひとまず背負っていた荷物を降ろし、部屋のなるべく隅の方に腰掛けて、くつろげる姿勢をとる。愛知の実家も親戚から借りている古めの日本家屋だから内装や藺草の匂いには慣れているし、旅行に来たような感覚にはならないが、いかんせん広すぎると体の所在がない。今の状況的にも、体が休まろうが精神は休まりそうもなかった。
荷物からPCを引っ張り出して適当なタスク管理アプリを開く。状況を整理しておかねばならない。これは歴としたフリーランスの仕事だ。どこに盗聴器があるかもわからないから、丸山に先ほど得た情報を確かめることも憚られるし、忘れぬうちになるべく文字起こしすべきだろう。何より自分の記憶も整理できる。
常夜神信仰、巫女装束と日川の簡単なプロフィール情報、巫女装束の現状やその考察と信仰形態の予測、日川の語った富多楽豊会のタイムラインや巫女装束がやらかした神格顕現事故といった諸々を事細かに書き込み終わる頃、襖が控えめにトントンと鳴らされた。
画面の右上をちらりと見ると、時刻は夕方の五時を回ったところである。飯の話だろうかと適当に返事を返すと、失礼しますとの声とともに日川が顔を出した。
「どうかしました?」
「お食事の件でお伺いに参りました。こちらにお食事をお持ちしようかと思いますが、アレルギー等はございませんか」
「大丈夫です」
「それはよかったです。ではもう一つお伺いしたいのですが、いつ頃御入浴なさりますか。お時間によって御夕飯の時刻を決めさせていただきますが」
まるで旅館である。正直そこはどうでもいいので適当な時間を言って返そうとしたのだが、そういえば浴場の場所を知らない。風呂に入るついでに奥館を歩き回るかと、案内を頼むことにした。むろん荷物は全部持っていく。日川はその姿を見て苦笑いしていたが、当たり前というものだろう。
「ここは旅館ではございませんが、近くから源泉を引いた温泉となっておりまして、会員の数も多いですから浴場も広めに取られてございます。ごゆるりとお寛ぎいただけるかと」
そんな風呂場紹介を聞き流しながら廊下を行く。当然旅館ではないので浴場の案内板などもなく、どこの角を曲がっても似たような景色を見させられるので本当に構造が複雑に見える。もし強行突破するなら味わうであろう苦労を想像して早くも気が滅入るが、とりあえずは浴室までの道のりを把握しながら軽い質問などを飛ばし、先導されるがままに着いていく。
「先ほど富多楽豊会の歴史を聞きましたけど、起点は熊野なのになぜ広島へ?」
「あぁ、そのことに関して話すとなりますと少々長くなりますが……そうですね、よろしければ私もお食事に同席させていただいてもよろしいですか? もしくはこの後の入浴時にでも構いませんが、腰を据えた状態の方が良いでしょう」
「あぁ、そうなんですか。じゃあ食事時にでも」
流石に初対面の爺さんと丸腰で裸の付き合いするのは気が引ける。風呂場でくらいは心身ともに安らぎたい。
そんなこんなで浴場を教えてもらったついでにひとっ風呂しばき、広い湯船に鼻先まで沈んでやっと張り詰めていた気を緩められた。源泉引いてるだのなんだの言っていた気がするが、泉質はよくわからない。まぁ温度は高いか。見かけ上はただの銭湯である。ぼうっと、掛け流されている湯口を眺めながら、ずいぶんとややこしい宗教団体に目をつけられたものだと、大きく息を吐いた。そろそろ潮時だ。
脱衣所に上がるといつの間に置かれたのか、浴衣が一着用意されていた。それを無視して持参した着替えを引っ張り出す。冗談じゃない。誰が好んで敵地で動きにくい和装に着替えると言うのか。
籠の底に転がっていたスマホの画面を見ればそろそろ夕飯時。いい頃合いだと、さっさと服を着直して廊下に出ると、会員と思しき女性がすでに待っていた。自由行動は許されないらしい。徹底しているなと感心しつつも、風呂場で下手に丸山と会話しなくてよかったと安堵した。マジでどこで聞き耳立ててるかわかったもんじゃねぇ。
すでに把握済みの廊下を先導する女性の背中を苦々しく見ながら客室に戻ると、配膳が終わろうかと言うところであった。きちんと二膳、先ほどの話はしっかり通っていたようで、すでに片方の前の前には日川が姿勢正しく座っている。
「おや、いい頃合いでございましたね。お湯のお加減はどうでしたか」
「おかげさまでちょうどよかったですよ」
再び荷物を壁際に下ろして座布団に直る頃には配膳も済み、会員は早々に部屋を退室していった。さて、初対面の爺さんと二人、見合わない広さの大広間の片隅でお食事会である。なんの嫌がらせだろう。微妙な空気に耐えかねて、さっさと飯を食べることにした。とはいえ何か混ざっている可能性もないわけではないから慎重に、と言う姿勢が伝わったのか、日川が口を挟む。
「警戒なさらなくてもよろしいですよ。頼み込む側が薬などを盛れば今後の全てを棒に振るのと同義でございますから」
「いやまぁ、はい」
「ところで、まだお名前をお呼びしておりませんでしたね。東国様とお呼びいたしましょうか」
なぜ名乗っていないのに知っているのかとも思ったが、そういえば美術館で予約受付した時に名前を書いた覚えがある。正直呼び名などどうでもいいので適当に頷いておいた。
「では東国様、先ほどの質問に答えさせていただきましょう」
そう日川は綺麗な所作で手を膝に直し、背筋を伸ばす。
「我々富多楽豊会の興りは、先ほど申し上げましたとおり那智熊野、今の和歌山でございました。御尊主である席様がまだ人の身であらせられた頃、常夜神を顕現しようとして羽化した不完全な神に呑まれ、今の姿に成られたところから始まっております」
「あの、始まったところ申し訳ないんですが一ついいですか」
「……なんでしょう」
「富多楽豊会は御尊主をも信仰しているのですか? それとも顕現させる神のみを信仰しているのでしょうか。今までの話やあの橘の部屋に設けられた境界を見ていると、どうにも御尊主は単純な地位での最上位というだけでなく、富多楽豊会の信仰する対象であるようにも受け取れるのですが」
ずっと引っかかっていたことだ。まるで祀るように設えられたあの橘の大部屋も、日川が御尊主に向ける意識も、神に対するもののように見える。
「常夜神と融合した結果がかの御姿でございますから、完全な神ではなくとも神に類するものであるとの認識をしております。我々の目指すところは、御尊主様の成し得なかった完全な神の顕現と、その権能を利用した常世のような世界の創造でございます。いまだ完全な神となる候補を選出できていない現在、我々が信仰し、信奉するのは御尊主様ただ一人ということになるでしょう」
「もし選出できた場合は?」
「御尊主様とその神の二柱になりますな。御尊主様の望みを受け継いだのが我々富多楽豊会になりますから、御尊主様が信じる神は我々の信じる神でございます」
「はぁ、なるほど」
山菜の天ぷらをつまみながら、適当な相槌を打った。日川の話は本筋に戻る。
「熊野で興った富多楽豊会ですが、これはある種必然とも言えます。先ほども、神に呑まれて今の御尊主様になったとお話しいたしましたが、御尊主様はあのお姿になられてからご自身でその場を動くことはできなくなってしまいました。部屋の中央の橘に宿っているような状態らしく……」
「神籬か磐座のようなものになったんですかね」
「そうかもしれませんね。あの橘が神が羽化するまで育った木であることが関係しているのか定かではございませんが、当時は木を枯らさずに他所へ移動する技術などもございませんでしたゆえ、熊野の地で発展していったということです」
神が育った木なら神木のようなものである。ただ純粋な神ではないようだから、本来帰るべき異界が存在しない というか、此岸に常世を作ろうとしたのだからあの橘の周辺が巫女装束のいるべき異界になったのかもしれないが ゆえにひたすら行く場所もなく動けないのだろう。
床に描かれた境界を加味すると、あの範囲までが巫女装束の創造した異界である「常世もどき」の範囲なのかもしれない。
にしてもここ庄原にあるのはわざわざ移植したということだろうが、どのような理由があって?
「近代になり、遠距離の移植技術が進歩した頃、富多楽豊会は会員を増やし、全国的に神を探せる人員を増やそうと苦心しておりました。全国で会を興すにあたってまず必要になったのが、当たり前ではございますが資金です。そんな折でございました。当時は全国的に何度目かのオカルトブームが隆盛を極めておりまして、学校の都市伝説などをまとめた児童向け書籍なども多数発売されるような状態でございました。時代的にはそうですな、東国様が思い起こしやすいもので言いますと、ノストラダムスの大予言がヒットしたあたりの年代だといえば伝わるでしょうか」
もはや話に聞く程度の存在でしかないが、当時は景気低迷や公害問題から終末思想のようなものが流行ったというのは知識としてある。あのあたりにオカルトブームが興ったことも聞いたことがある。ついでに一連のブームにあやかった新興宗教もポコポコ立ったそうだ。やはり当時はオカルトビジネスが幅を利かせた時代らしく、それは富多楽豊会も例外ではないようである。
「時代にして1970年代前半でございますが、この庄原にもブームの波は訪れました。例えば、丁度比婆山の麓あたりにあった美古登という村ですが、古くからこの土地には伊邪那岐命の御陵伝承がございました。こういったものもオカルトブームの煽りを喰らいまして、いちパワースポットのような観光資源に成り下がってしまいましたな」
「しかしそれだけではないのです」と一呼吸おき、氷川は本題に入る。日川の鍋はすっかり固形燃料も燃え尽き、湯気も落ち着き始めている。冷めたら不味そうだななどと感想を抱きながら、日川が話すのも構わず自分の鍋の肉をつつく。
「東国様が電車で来られたのであれば、備後西城駅でご覧になられたかもしれませんが、この庄原はヒバゴンと呼ばれるUMA騒動によって、メディアを席巻した過去がございます。今や騒動は終息しまして、もはや街のマスコットのような存在として地元で愛される程度の存在ではございますが、当時はそれはもうみんながこぞってヒバゴンを見つけようと捜索隊を結成してみたり、テレビの企画で全国の類似情報を集めてみたり、今の片田舎ぶりからは想像もできないほどに人で賑わいました」
ヒバゴン。比婆山含む周辺の山中で頻繁に目撃証言が上がった未確認の類人猿のことであり、オカルトブームによって取り沙汰されたイエティやビックフッドなどの流れに乗って一躍有名になったUMA。丸山が聞いてきた、駅中に貼られた謎の毛むくじゃらマスコットの正体である。あれもそんな時期だったのか。生まれる前の出来事だ。仕事の性質上似たような話は年がら年中聞くが、そんな昔のことなのかと、なんとも不思議な感覚である。
「それが、資金集めとどう繋がるんです? まさか観光客向けにあの美術館を建てたってだけじゃないでしょう」
「いえ、まぁ資金調達の大元は美術館の収益ではございました。しかし富多楽豊会がしたのはそれだけではございません。目撃証言が地元紙で取り上げられた当時、すでにテレビや研究者たちがこぞって押し寄せておりましてね。警察や役場もてんてこ舞いだったのですが、やはり人の流れは金の流れとも言いまして、庄原には多くの金が落ち、財政は上向きになったそうでございます。駅前の施設がところどころ新しかったでしょう? あれはその時に開発されたものですな」
ならば入り口である駅舎とかロータリーを改修すべきだとは思うがまぁ、広い道や体育館のような建物を思い返せば、確かにつぎはぎの開発であったろうことは想像できる。
「当時の庄原町長とお話を出来る機会がございまして、富多楽豊会は町長にこう申し上げました」
「『我々がヒバゴンを演じましょう。何も知らない町民たちはそれを見てヒバゴンを見たといい、場合によっては写真も出回ることでしょう。この地にメディアや多くの野次馬をなるべく長い期間張り付かせ、世間を煽動し、さらに多くの一般人がヒバゴンを目当てにこの地を訪れ、金を落とすような流れを作りましょう。少なくとも今のオカルトブームが鳴りを潜めるまでは、その火種としてご協力いたします。ブランドが確立されればあとは勝手に続いてゆきます。代わりにあの山の一角を我々に格安で譲り、施設援助を行なっていただけませんか』と」
とんでもねぇ八百長である。こんな話をポッと出の俺が聞いていいものだろうか。当時のテレビクルーや学者団体が可哀想になってきた。
「それはつまり、一連の目撃証言は……」
「大多数は富多楽豊会員のポートレートをヒバゴン激写などと言い盛り上がっていたわけでございますね。まぁ一部我々が関与しない写真や証言も出ていたようですから、案外本当に存在する可能性もございますが」
「……そうですか。それで資金調達の結果のほどは?」
「そちらはもう予想以上の成果でございました。全国から人が参りますし、そこで会員の増加という利益も得られました。複数回の交渉により当時の町長ともだいぶ仲が深まりまして、いろいろと融通が効くことも嬉しい誤算でございましたね」
懐かしむような声音の日川に、どういう顔をして聞いていれば良いのか分からずに酢の物と白米を掻き込む。すると思い出したように日川が声を上げた。はなから食事を摂る気はないらしい。
「我々は観光に来る一般人の会員獲得に伴いまして、あの橘をこちらに移植してまいりましたな。我々はよその小銭稼ぎのために乱立した新興宗教とは違い、実際に神やそれに類する存在を知る集まりでございますから、御尊主様を少しでも認知できる人間を見極めて勧誘しようとご尊主様を庄原へ遷座したわけでございます」
御尊主を一般人の選別に使うのは不敬じゃないのかとか色々突っ込みたい部分もあるにはあるが、こういう手合いは何か正当化する理由を設けているのが常である。そこをつつくだけ無駄だ。最後の汁物を飲み干し、器を前に戻す。正直な話、はなから会に入るなどという考えはなかったが、そろそろ頃合いだろう。一度しっかり考えるくらいの時間はすでに経過した。もう浴場で今後の方針は決めている。
「入会の打診、私は辞退させていただきます」
「ほぅ……それはまた、どのような理由からでございましょうか」
「別に自分は常世に興味ないですし。体よく神探しに使われるのは御免です」
日川の目が笑っていないのを見ないふりして、完食した膳に対して手をあわせる。
もう取れる情報は取った。ここらが潮時。そろそろ身支度だ。
「そもそも、なぜ俺をここに通したんです」
「なぜ、とはどのような」
「俺が人ならざるものを見られると明確に判断できるのは、貴方が御尊主と呼ぶあの巫女に引き合わせた瞬間が初めてのはずですが。なぜ貴方はその前から私をここに通したのか、と聞いています」
「ふぅむ、そうですね。それは」
「……はぐらかすのは止めにしませんかね日川さん。これ以上は時間の無駄だってことはあんたも分かってんでしょう」
荷物を背負い、前面のバックルを胸の前でかちりと止める。
「あんだけ色々喋ったのは逃さない自信があるからですか? それとも慢心? どっちでしょうかね」
日川がやっと腰をあげる。
「今は逃げようが我々は構わないから、というのが答えになりますな」
「そりゃまた強気なもんですね。ここの出来事を他所に話したところで頭のイカれた奴にしか思われないからですか?」
「それもございますが、我々は日本の至る所に居を構えておりますゆえ」
「どこにいても追い続けられますってか。集団ストーカーは趣味悪いぞ」
後ろで丸山が笑う。
「かといって、ここに残ってくれるのであればそれに越したことはございませんが」
「お前らサマの狙いは俺と別でしょうが」
広間の襖を雑に開け放つ。下げ膳の待機であったろう女性が口を開けて固まるのを横目に、さっさと靴を引っ掛けて廊下を進む。
「お目当ては俺の連れ。違いますかね?」
「……流石にお気付きになられますか。ご聡明な方だ」
全くもって、大仰で取ってつけたような物言いに辟易する。
「連れに手ェ出そうたって思い通りにゃいかねぇっすよ。もうお手付きなんで」
「お仲間意識に溢れておりますな」
廊下の交差に差し掛かる。ここを右。
挿絵(右を向く斎)
破裂音がした。
挿絵(右を向く斎と、その手前に現れる結)
「 さて、お初にお目にかかります。お連れ様」
思惑おもわく
挿絵(手を前に出して防護する結の後ろからこちらを振り向く斎)
「おい。下の躾は上の仕事だろ」
辻のただ中。件の音の方に振り返り、日川に文句を垂れる。
曲がろうとしたのと反対側の廊下、実体化した丸山の腕越しに見えるのはリボルバーを構えた会員の姿。そこから撃ち出されたはずの弾丸は、すでに丸山が手のひらで弄んでいる。
「会員のご無礼、謝罪いたします。その会員は喰って頂いても構いません。味は保証しかねますが……」
あぁ、安心した。この団体は正しく狂っている。もし暴れても呵責が湧かない。ただ単に “神格実体の顕現で願いを成就させたい” がために神を盲信するだけの宗教ではないらしい。ある程度神妖の扱いに慣れた集団だ。
「私といたしましても、主賓に挨拶の一つもなくお帰りいただくことは避けたいのですよ」
「その挨拶がこれか?」
「その力の一端、この目でしかと見届けさせていただきました。お帰りになられるのでしたら、幸いなことにまだ終電がございますよ」
嫌に諦めがいい爺さんである。弾道的に考えて狙われたのが自分の胸部であることを考えると、先ほど神を認知する役割として求める動きはやはり、口先だけのおべんちゃらだったということだ。俺の命はさほど重要でもないらしい。
「ねぇ斎」
「腹壊すぞ」
「味見させてくれないかい」
「ダメだ」
ここで彼が言うようにそのまま逃走するとして、自分が無所属フリーランスを続ける限り、いつかは丸山の力を借りざるを得ない。その時、ストーカーしているであろう富多楽豊会の誰かに丸山の力量は露呈するだろう。ならばここで丸山に喰わせておくのが吉のような気もするが、高辻からは会を潰すなという条件で依頼を受けているから始末が悪い。巫女の次に重鎮っぽい日川なんて喰おうものなら、一同ドミノ間違いなしだ。
「では、またのお越しをお待ちしております」
とうとう奥館の玄関まで辿り着き、ご丁寧にお見送りまでされてしまった。無血で脱出したのだから考えうる限り最良の結果ではあるはずだが、どうも釈然としない生還だった。丸山も暴れる気満々でいたようで、不満さもひとしおらしい。後ろで物言いたげな雰囲気がダダ漏れていた。
備後西城駅。二両編成がトントンと軽快な音を響かせホームに入る。人はおらず、貸切の車内で硬めのシートに腰を掛けて、今日一番のため息を吐いた。天井でカラカラと申し訳程度の風を送る扇風機が首を振るのをしばらく目で追いかけた後、丸山の名を呼ぶ。ここなら富多楽豊会の目も届かない。
「まさかあんな強硬手段に出るとはなぁ」
「姿は見えてはないけど、彼らがあの巫女を使って選別した会員たちも僕がいることは確信してたっぽいからねぇ。祐たすくちゃんたちが思う以上に僕たち彼岸のものに詳しいんじゃあないかなぁ」
「ヘタ打って暴れられたら元も子もないと思うぜ俺は」
佑ちゃんってなんだ。あの堅物眼鏡のことそんな呼び方してんのかお前。
「ある程度の犠牲は織り込み済みだと私は思うよぉ。まぁでも、斎から殺気は感じなかったからねぇ」
「あのジジイはこっちが荒事を避けようとしてるのに勘付いてたってことか?」
あー嫌だ嫌だ。歳食ったやり手が一番嫌いだ。だから殲滅戦以外の対人取引が嫌いなのだ。あの顔面に内心で中指を立て、思考を切り替える。
「 で。あの巫女どうなの」
「ありゃ神じゃないねぇ」
「それもう聞いた。神じゃねえなら妖か?」
その質問にも、丸山は首を捻る。
「じゃああいつ何もんなのさ」
「神……ではないんだけどもさぁ、妖でもないんだよねぇ」
「……なんだそりゃあ」
こうも煮え切らない丸山も珍しい。なぜか車窓の外を浮かびながら、ひとしきりうんうん唸った後に一つ例を挙げてくる。
「幽霊ってあるじゃないの。あれは妖とか神とかと同じで異界の住人なわけで、斎みたいな此岸の生き物とは波長が異なる存在なわけだけども。明確に違うのは、妖や神は人の願いや念を元に無から生じうる存在。霊ってのは霊魂から発生するもので、その霊魂には神に近いものと妖に近いものがあるんだよねぇ。あの巫女の主体は本人の霊魂だから分類は幽霊。それで、巫女は神職だし、魂の質は神に近いんだけど、妖の気配もある。成り損ないって言う話もあったし、願いが変質したのかなぁ」
今一度日川の話を思い返す。巫女装束。確か名は席といったか。
まず大前提、日川の話を事実であると仮定した上で、常世を此岸に展開しようと常夜神を顕現させるなど、並の人間なら思いついてもやろうなどとは思わない。それが補陀落渡海を憂いた末の行いだとしても、自分は席でないのでその葛藤はわからない。少なくともmadでbadな思考回路の持ち主であることは確かだろう。
その悲願達成のため、席が丹精込めて羽化させたその虫は一体何物だったのだろう。はなからアノマリーか、当時神職であった席を筆頭に補陀落渡海忌避派たちの願いが形を成した神霊か。
どちらにせよ、昔の人々は呼び出した神が常夜神であると信じ、それと融合し人ならざるものになった席を常夜神に近い存在として現人神のように見做した。そして彼女の望む「此岸の常世」に意思を同じくした彼らは、宗教団体として富多楽豊会を組織し、今に至るまで信仰対象と会のトップを兼ねている。
「そうなると、タチが悪いな」
「どうしたんだい斎」
「お前も見ただろ。席の居た部屋に描かれた境界だよ」
席を祀るあの大部屋は、境界によって異界が造られていた。しかし、富多楽豊会の組織理由を知った後では、あの境界が相当にタチの悪い冗談のような代物だと分かる。
床に描かれた『海』の字。彼らの言う常夜神信仰になぞらえれば、海を渡った先にある常世を簡易的に落とし込んだものと言えるだろう。『海』の字を踏み越えた先には、彼らがあの部屋の中で定義した異界である『常世もどき』が造られており、その『常世もどき』には異界の主人として、つまり常夜神として席が居る。
「席が目指したのは補陀落渡海でたどり着ける海の向こうの常世じゃない。だが、今の席は 」
「まさに彼女が嫌った常世の形を定義した境界の中で、常夜神として祀られてる状態だねぇ。でもさぁ、彼女を御尊主と信奉する彼らが、何も考えずにあんな境界を張るとは思えないけどねぇ」
異界へ入るという形式上の都合? なら海を渡る形を取る必要はない。異界の定義による席の神格化? 定義しないと消えるほどやわな存在なのか? 席に関しては、まだわからないことが多すぎる。と言うか、補陀落渡海だから富多楽豊会とか安直か? 補陀落渡海を嫌った彼らが、その行為の末に行き着く常世のもたらす富と豊を名に冠した富多楽豊会と命名するとは、なんともブラックな。
普段なら依頼が終わるとともに考察などもせず切り替えるが、これからストーキングされるであろうことを考えると普段通りにはいかない。厄介な仕事だ。高辻に手当の交渉でもするかと、スマホを取り出し電話帳の履歴から彼にコールする。定期的な振動を尻に感じ、貸切の車内に響く数回のコール音のあと、真面目腐った元凶の声が聞こえた。
伸び一つをして三次駅を出る。工事中の駅前を過ぎ、適当な安宿に入り込んでやっと、少し肩の荷が降りた。安宿じゃないと雇用主はいい顔をしない。こっちも体が資本だが、そこら辺は考慮されないことの方が多いから慣れている。
財団に今回得た情報を送り、ついでに周辺に抱えた問題に対する手当交渉をし、やっと一息ついた。スピード内容ともに十分な働きだろう。
靴下も脱がず、着の身着のままベッドに倒れ込む。弛緩する全身に、雑念の入り込む余地が生まれる。宿というある種セーブポイント的な部屋に着いたからか、気が抜けていたらしい。枕に顔を突っ込んだまま、無意識に、思ったことを口にしていた。
「丸山」
「どうしたの」
「……仮の話だ。俺が奴らに寝込みをどうにかされたら、お前は守ってくれたりすんのかね」
奥館での出来事を思い出す。
「そりゃあねぇ。斎は僕の宿主だもの」
まぁ、そう言うよな。当たり障りのない答えに、仰向けになりながら小さく苦笑する。
三年前、なぜか俺に憑いてきてからずっと、こいつは共に仕事をしてきた。なんのメリットがあるのかは分からない。なんの思惑があるのかも分からない。正直言ってこいつのことは怖い。そもそも人じゃねえし。理外の存在には人間は本能から恐怖を抱くのだ。そこはいくら銃から守ってもらおうが金が稼げようが変わらない。
「……僕は君の出自に関して何も知らない、だっけか」
「どうしたのさぁ。さっきから」
仰向けの視界に、俺の顔を覗き込む丸山の整った顔が入り込む。いつの間に髪を解いたのか、房を作って鼻のあたりをくすぐって遊んでくる。
「俺もお前のことはなんも知らんなぁと思っただけだ」
丸山の悪戯に耐えかねて、丸山に背を向ける形で背中を丸めると、背中側でベッドの端が沈み込む。どうやら腰をかけたらしい。
「僕のことなんか知ったところで、君になにか得があるわけじゃあないしねぇ」
「語る気はないってことだろ。なんで俺に憑いてきたのさ」
「面白そうだったから」
「は、ナシな」
えー、とむくれるような声をあげ、丸山はしばし黙りこくる。
「色々喰えるからさぁ」
長い沈黙の後、戯けたような丸山の、よく通る声が響いた。
「趣味が悪ぃね」
こうして実体化した丸山と話し、クーラーをガンガンにかけたり、おばあちゃんの知恵を披露したりするのを見ていると忘れそうになる。ガワは人でも、本質は本来俺たち人間の理解の及ばないナニカなのだということを。それくらいこいつは人間だ。
「斎、やはり僕は君の過去について、大いに興味があるんだけどねぇ」
「そうかい。ならせいぜい焦らされといてくれ」
数日前にも廃施設で聞いてきたな。お前が目的を話さないうちは、俺も話すことはない。
「だから、なるべく早くに僕に話してくれることを願っているよ」
雑にはぐらかす俺に、丸山はそう言って笑った。直前の俺の返しを聞いていなかったのか?
「僕も君も、いつまで一緒にこの仕事をできるか分からないからねぇ」
怪訝な顔で振り返る。ベッドの淵で髪に手櫛を通す丸山の顔が、常夜灯のオレンジでぼやけていた。その表情はわからない。少なくとも、人喰いの顔には見えなかった。
「……お前は離れるつもりがあるのか? 離れる時はお前が死ぬか、俺が死んでお前が財団に収容される時だと思ってたんだが」
「死ぬ気はないけどね。何事にも運の尽きというものはあるからさ。別に君を祟って来世も憑いたっていいけど、それはあまりお勧めしないかなぁ」
「来世は命のやり取りなんか知らん普通の家のガキに生まれたいから憑いてくんな」
「さっきは『今世は気が向かない〜』とか言ってたくせにぃ」
「さっきって、もう三日前のことだろうが。てか来世に気が向くとは一言も……もういい寝る。お前も寝れんだったら寝とけ」
話を続けた俺がバカだった。こいつは絶対俺を叩けば鳴るおもちゃだと思っている。だから憑いてきたのかもしれない。背中から伝わる小刻みな振動で、丸山が笑っているのを察し。決して不貞腐れたわけじゃないが、ムカついたので無視して目を瞑った。
疲労が溜まっていたのだろう。不貞腐れ、己から背を向けた子供は、数分もせぬうちに小さく寝息を立て始めていた。常夜灯のダイヤルを回して光量を落とし、少しくずれた和装を整える。傍でゆっくり肩を上下させている背中をしばし見つめ、ふと自らの手のひらに視線を落とす。さっき受け止めた銃弾の傷のようなものは微塵もない。
人の姿形とはいえ人ではないから、無論體に触れる前に止めるくらいは容易いが、今の己では実体化せねば此岸の物事に干渉できないというのも困りものであった。欲を言えばあの時あの場にいる富多楽豊会の人間どもは残らず喰い尽くしておきたかったが、この子供はそれを望んではいなさそうだったからやめた。
「君には感謝しているんだよ。東国斎」
耳元に顔を寄せて囁いてみる。微動だにせず相変わらず無防備な寝顔だった。さぞ私を信頼しているらしい。少なくともここで私が大口を開けて呑むなどという事はないと、一定の信頼をしてはいると言う事だろう。
私は満足しているよ。依代としても。籠としても。もちろん仲間という関係性も。
外の道路を走るトラックや橙の街路灯を眺めながら、丸山結はひどく上機嫌だった。
「やっと掴めたねぇ。席」
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