お姫様にさよなら【刀光剣影新宿洗礼】
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妖精さんが見える。幻覚が見えた時の常套句らしい。私みたいにこの街の瘴気にあてられた子たちは、皆そうなんだろうか。そんなにいいものじゃないな、ため息をついて、私は画面がひび割れたスマホをしまい込んだ。妖精さんは、私を救うわけでも、導くわけでもない。まるで幻覚みたいに、こっちをチラチラ覗いてニコニコ笑うだけ。

歌舞伎町タワーを目指して通りを西に進んだ。かつての居場所に、さよならするために。

♚

シャワーの音がうるさくて寝付けない。モニターの電源を切ってフードを被れば幾分かマシになるはずなのに、それをしないのは、警察に連れてかれた時のせばまった視界を思い出すことになるから。

ネカフェ生活……2日目。小学生の頃の修学旅行以外で、寝泊まりするのは人生で二回目だ。勉強も人と関わることも苦手な私を、家族は誰も助けてくれないし、顔も服の趣味も気持ち悪いってずっと言われ続けてきた。貧乏で普段から我慢ばっかりしてたあの家で、仕事で夜遅くまで帰ってこない母親も、私立の進学校に特待生で受かった弟も、私の事を邪魔者扱いした。父親は優しかったけど、母親が怖くてずっと言いなりだったし、酒を飲む度に私に愚痴を言った。あんな家帰りたくない。

初めてのトー横と初めての補導を経て、そんな家族と私の関係は輪をかけて悪化した。ハロウィンのムードが終わって少し経った頃に、私は歌舞伎町に戻ってきた。忙しくなる年末に向けてみんな、いろいろ準備している時期だ。

またここに戻ってくればいいと思ってたから、何にも悩んでなかった。本当はあの広場が良かったけど、警察は私のことをマークしてるからまだ行かない方がいいらしい。病み垢でつながった皆と会いたかっただけだったのに、気づけばここにいる皆だけで生きていたくなっていた。家族も学校も、私を苦しめるから。

お小遣いなんて貰ったことないしバイトだってさせてもらえない私に金なんかなかったけど、それを見越したフォロワーが貸してくれた5万で、どうにか生きていた。でもこんな生活、終わるのも時間の問題だってわかってる。二回に渡る新宿遠征であんなにあったお金もそろそろ底をつくし、そのフォロワーは垢消しして連絡が取れない。

みんな、どうやってここで生きてるんだろう。私はネカフェのパソコンで必死に仕事を探していた。未成年でも親の許可がいらなくて、日給制で、とにかく稼げる仕事。やっぱりP活とかかな?誰かヒモにしてくれるかもしれないし。でも捕まるのは怖い。

検索欄に思い付きの単語を打ち込み続けて、徐々にネットサーフィンが捗ってきたころ。

私の使うパソコンに突然、メールが届いた。怪しかったけど恐る恐る開いてみたら、なぜか、まごうことなく私宛てだった。

今すぐに来てくれたら、仕事をさせてあげる。と言われたから。

すぐに来た。深夜二時の歌舞伎町の路地裏。厳密には歌舞伎町からは少し離れたところで……路地裏には、ダンボールの欠片とか落書きがたくさん。ここに来る前にイメージしていた、「汚い東京」の様相が広がっていた。明かりもほとんどなくて、自分の息以外全部が真っ黒だった。

誰かに怒られるわけでもないのに、背中をまげて早歩きをしている。もともと姿勢が悪かったけど、ここのところで一層染みついた歩き方だ。もっと堂々とした姿勢で歩きなさい、と母親にいつも言われていたことを思い出す。その顔と、目を合わせないようにしていたことも。

「ねぇ」

そんなふうに自分の足元だけを見ながら歩いていると、左上の方から声が降ってきた。私に向けられたものなのかを確認するために周囲を見回したけど、私とその──黒髪で、革のジャケットを着た、高身長の、絶世のイケメン──以外には、誰もいない。

「君だよね?こんなとこ、誰も通らないもん。すぐ来てくれてありがとう」

ひと目みて私はこの人が、この街で暮らす自分みたいな人間を助けてくれる存在なのかもしれないと思った。長いまつげと白い肌は、何にも侵されることがないかのように強く輝いていた。細くて骨ばった指をこちらに伸ばして、わざとらしく微笑んで彼は、

「君をあのネカフェで呼んだのは俺だよ。ついてきて」

と、私の手を引いて路地裏に消えた。

私は彼を信じてそれを握り返した。彼には、他の大人たちとは違う何かがあった気がした。

「ライターがねぇって顔だろ、イハク」

ジャケットの両側についたポケットをひっくり返していると、先輩職員の色牧が嘲笑気味に声を掛けてくる。

エージェント・イハクは無表情なことで有名らしいのだが、この男は私の何を見て判断したのだろう。どうせ人の顔なんか見ていない。

「貸していただけると助かります……色牧様。失礼ですが、貴方が喫煙所にいるのは、中々珍しい光景ですね」

「ちゃんとした吸殻入れがここしか無えからな。あとその気色悪い呼び方をやめろって。野郎に様付けで呼ばれるのは気に入らない」

「……失礼しました。昔のクセですので、ご容赦ください。色牧……色牧さん……?先……輩……?」

「呼び捨てしろよ。不自然な人間だな……」

人間として生きるのにようやく慣れてきたところだから、仕方ない。

「人に奉仕をする存在」としてかつて自分の身にあった異常性と共に生きてきた私は、財団に保護されて全ての過去を手放した。

紆余曲折は省くが……今は、ツノと尻尾を生やしただけの人間の職員として、財団に雇用されている。正常な世界とは隔離させられて生活していた私も、頭を隠すためにニット帽を被ったりして、常識が備わってきたものだと思っていたのだが。相方のいない煙草をポケットにしまい込む。私はあらゆる部分がちぐはぐのままだった。

「最近吸い始めたんだか知らねえけどな、安い煙草ばっか吸ってんなよ?そんな低い意識で嗜んでるようじゃ体に障るぞ」

「煙草なんて全部健康に悪いでしょう……まぁ、あまり良い物ではないかもしれませんが。先日、20歳を迎えまして。憧れていたもので」

「そいつは良い意識だね。煙草なんて早ければ早いほど良いんだから。ホラ、ここ来たんなら吸って帰んな」

色牧の煙草に関する持論は9割聞き流すべきというのが職員の間で暗黙の了解になっている。彼はほうぼうで有名な愛煙家の財団エージェントで、煙草健康法だの喫煙流奥義だの言って財団サイト内部のあらゆる場所で煙草を喫する。何故問題にならないのか不思議だったが、聞くところによるとすでに数回問題になって、忠告されたり始末書を書かされたりしているらしい。そしてそのすべては彼の喫煙習慣に起因している。財団には変人が本当に多い。

ひょいとライターを投げ渡してくる彼の顔を見ると、不可解なほどに綺麗な肌はほんのりやつれて、目の下は隈ができかかっていた。

「……休めていますか?色牧さん。顔色が優れませんが」

「休めてるわけねぇーだろ。新設のこのサイトに移動させられて……どうせ厄介払いだしな、全く。新宿は歩き慣れないしここは地下で空気もよくねえし」

「仕方のないことです。ですが、どうかお体はご自愛下さい。あなたの場合は……そうやって煙草を吸っていれば、それで十分かと思いますが」

「おい。その目はなんだ。煙草だけが俺に、いや俺たちに安息を与えるんだよ。お前も立派な喫煙者なんだ。こっち側に来ちまえ」

「煙草は体に悪いものです」

新宿中央公園の地下奥深くに新設されたこのサイト-81B12は、近年増加傾向にある市街地でのインシデントへの対策と、財団の地域保安部門と東京都の総務課の連携の効率化をねらいに建てられた小さなセキュリティ施設だ。大仰なアノマリーは収容されていない。いずれ地方のサイトに輸送されるAnomalousクラスオブジェクトを入れておくロッカールームと、少数の職員と資料室、そして機動部隊の中継地点としての役割を備えている。

少なくとも私達2人はオブジェクト発見時の対応や、要注意団体に関する情報収集を行う身として同じ役割を担っていた。初期配置職員に選ばれたのは概ねそれが理由だろう。それとは別に、私にはもう一つ仕事が与えられていたが。

「お前こそどうなんだ?機動部隊の人材管理とかで最近仕事増えたんだろ」

「はい……人と話すことは好きなので面談が多いのは苦になりませんが、人型のアノマリーを機動部隊員として選定するなんて……未だに私には、力不足だと思っていますよ。他人を評価するなんて器じゃない」

「他人だと思うから駄目なんだよ。やつらは"オブジェクト"なんだ。使うことがあったら元の収容室に戻す、道具みたいなもんだ。”家賃滞納者”のことは、俺たち雇用主が使えるか使えないかでバッサリ評価してやるもんじゃないのか?肩の力抜けって。俺が今度、特製のリラックス法を伝授してやろう」

機動部隊ゐ-0("家賃滞納者")の隊員名簿を管理する1人として、新人エージェントの私が任命されていた。人型オブジェクトとの対話能力と、その性質の分析能力を評価されたのだが……彼らとの仕事は一筋縄ではいかない。職員ですら特異な精神性を持っている財団サイト内で、異常な性質と共にずっと警戒され続けてきた存在だ。隊員名簿の一人一人が、筋金入りの問題児。

道具であれば素直にこちらの言うことに従ってくれるものなのだが……彼らにも彼らの意思があり、財団への忠誠度や、機動部隊として起用することの是非を正確に判断することは至難の業だ。

人の事を信じこみやすい私でも、流石に緊張する。

「お気遣い痛み入りますが……結構です。寿命を縮めそうで」

「はぁ〜?そんなことねえのに。俺と煙草を信用しろ」

それからは、2人無言で煙をふかしていた。

彼の言う健康論は、ニコチンを吸引して満たされることへの極度のプラシーボ効果が成り立たせているのかもしれない。煙草の煙と一緒に、一時の緊張のほぐれみたいなものが体にいきわたる感覚は私にも理解できるが、煙草を吸うときはいつも、肺の中に蟠りだけが残っているような気がしている。吸うのをやめたい気持ちは今の所ない。

♚

"キラ"を指名して。

彼から聞いた通りにその名をカウンターで告げると、受付の男の人は一瞬顔を顰めたように見えた。私が気のせいかと思っていると、

「お席までご案内しますね」

と、広い店内の奥まで案内された。部屋をいくつか抜けるうちに、棚に酒の並んだ部屋や、シャンパングラスの積まれた部屋、そしてどこからかコールの聞こえる賑やかな部屋を通る。私が最後に到着したのは、個室だった。

とんでもない場所に来てしまった自覚はある。この個室が明らかにVIP用に作られたものっていうのもそうだし、そもそもホストクラブに来るのも初めてだ。建物の隙間みたいな入口から階段を降りたところにある変な店だったから警戒していたけど、中身はかなりちゃんとしていると思う。

仕事を探している最中に現れた「仕事をあげる」という都合のいい案内に、ほいほい着いてきて本当に大丈夫だったのかな。違法な仕事で私から搾り取るつもりかもしれない。でも私はもうすっかり搾り取られたあとだ。学校と家で精神をすり減らして、こんなところで生きているんだから。私から取り上げられるものなんて、なにひとつ残っていない。それに、

「お待たせしました。今日はご指名ありがとう、って、俺が呼んだんだけどね。隣いいですか?」

この人に会えたから、もうそれでいいかもしれなかった。

「ここ、俺が代表をやってるホストクラブなんだ。名前はVELKOMMEN、北欧語で”ようこそ”って意味」

「こちらこそ急に、すみません。キラさんは、ホストなんですか?」

「くん付けがいいな。あとタメ口でいいよ。名刺渡しておくね」

キラキラのデコレーションがされた彼の名刺を受け取る。彼の顔写真があしらわれた表面と、おしゃれな柄の上に箔押しのサインが書かれている裏面。私はそれを貰えたのが嬉しくて、何度も裏返して眺めていた。

童顔な小顔だけど同時に大人びた気品さも兼ね備えた、まさに王子様みたいな風貌の写真を眺めていると、私の真隣にその本人が座っていることに改めて気づく。名刺に写った顔と寸分たがわぬ美形の彼を前に、私は息を吞む。

「あっ……あの」

「緊張しないで。ゆっくりでいいよ」

「キラくんは……なんで私と会ってくれたの」

「君がトー横に来てたこと、知ってたから。俺はこの街で苦しい思いをしてる子のことは放っておけないんだ。無理にとは言わないからさ、俺と一緒に来てくれないかな?色々頼み事はするけど、不自由な思いはさせない。毎日ご飯も食べれるし、好きな服も買ってあげられる。ここで暮らさせてあげるよ」

「え!?い、いいの!?私、できることなら何でもする!」

どうしてこんなに言ってくれるのかとか、どうやって私を見つけたのかとか、何もわからない。こんな大人が、トー横をうろちょろしてる私みたいな子供を、どうして拾ってくれるんだろう。でも彼なら私のことを絶対守ってくれる。そんな気がした。

だって、彼も、この店も、ずっと様子がおかしい。あの路地裏で手を引かれた私は、建物の隙間の階段を降りた時、気がつけばこの店の入り口にひとりで立っていた。周りを見回せば、水槽に見たこともない姿の魚みたいな生き物とか、変な色のエビとかが泳いでいる。キラくんが運んできた瓶は、その周囲をなぞるようにしてネオンライトのように光っていた。初めは照明の反射かと思ったけど、明らかに瓶そのものが光っている。

ていうか、え、お酒じゃないよね?17だってこと言わないと。

「ちょっと難しいこともあるかもだけど、説明させてもらうね。時間はそんなにかけないよ」

「だ、大丈夫。ここって……なんなの?」

「この世にはさ、魔法だとか、妖怪とか妖精とか、ファンタジーみたいな技術とか。そういうものが実在するんだよ」

内心どこかで思っていた。彼のこのホストクラブには魔法がかかってるって。私も昔からそんなファンタジーの話が好きだった。幼い頃からいくつもテレビアニメを見ていたし、ネットでいろんな都市伝説を調べて妄想を膨らませるのも大好きだ。でも現実にはそんなものなくて、私はいつも現実に苦しんでいた。

「それに関わる人間も数多くいてね。魔法や魔術を使う人みたいな。でもそんな人たちは普段それを隠して現実世界で生きているし、いろんなことから逃げて怯えて暮らしてる。ここは、そんな人たちを癒す場所になることを願って作られたんだ」

キラくんはずっとここで、つらい思いをしてる誰かのことを見守ってたんだ。彼が言うその……魔法とか、魔術を使って、家出して新宿にやってきた私のことも見つけられたんだろう。

「君も、ここのスタッフとして働いてほしい。最初はアルバイトみたいな感じになるかな。ここで色んなことを見たり聞いたりすると思うけど、まぁ、ちょっと変わったお店ってだけで気にするほどじゃないよ。危険な目にも合わせないって俺が約束する」

「……お願いします。バイトやったことないけど……こんなに親切にしてくれて……私、キラくんに会えてよかった」

「そう言ってくれると、俺も嬉しいよ。ありがとう。よし。細かい話は後にして乾杯しよっか!俺たち二人のこれからの関係を願ってね。お名前、聞いてもいいですか?」

「る、ルピです、関係って、え?」

「ルピちゃん。今夜……じゃなかった、これからよろしくね。乾杯」

キラくんは、接客する時のような笑顔で私にウインクして言う。自分の顔が急速に火照っていくのを感じて、水面がうっすらと輝くグラスに口をつけた。アルコールでは、なかったと思う。それは甘酸っぱくて爽やかで、一生忘れたくないぐらい美味しかった。

それから私は、いくつかの書類にサインをしていって(住所とか家族とかについては本当に何も聞かれなかった)、何人かのスタッフさんに挨拶をして回った。私がお世話になるであろう裏方の事務とか会計の人、プレイヤーの男の人たち、それと受付の人に会いに行った。何日もまともに洗濯していない薄汚れた黒パーカーで、こんな煌びやかな世界の人たちに会うのは恥ずかしくて仕方がなかったけど、キラくんは制服も普段着も用意してくれると言った。

キラくんは特に受付の人、ネルくんと仲がいい様子だった。ネルくんの方は金の短髪で高身長、ガタイが良いワイルドな雰囲気の男の人。普通めの身長でかわいい見た目のキラくんとは真逆のようで、ぴったりの二人だった。リラックスしたような態度で話す彼らを見て……その間柄に尊さすら感じていた。

「お前、こんな子よく見つけてきたな」

「まぁね。歌舞伎町周辺のネカフェ利用者は大体調べられるから。それでも、俺とルピちゃんが会えたのは運命だけど」

急に。やめてよ。

「得意げに言うわ……こいつにどこまで聞いたか知らないけどさ。ルピちゃんの居た個室のパソコンで、急にメール来たでしょ。ああいうのオレの分野だから」

「へぇ〜、そうなんですね。は、ハッキングとかですか……?」

「まぁ、そういうものかな」

「そんなもんだな」

「ネルには頭が上がらないね本当。技術面でいっつも助けてくれてるんだ」

「技術……じゃあ、ネルさんって魔法使いなんですか?」

「ちげえよ。お前どういう説明したの?」

「まぁまぁ。その辺についても今度詳しく話してあげるよ」

「はぁ……キラが新しくフリーランス連れてくるとさぁ……ま、いいや。そろそろ帰んなよ」

「そうだね。って言っても、俺の家ここの上だけど」

い、家!?キラくんの!?ってびっくりしそうになったけど、そういえばさっきから私の面倒を見てくれると繰り返していた。一気に緊張してきた。

「じゃ、オレも帰る支度するわ。お疲れさん」

「お疲れ。ルピちゃんはこっちね」

「う、うん!」

ホストが店内のその場でお持ち帰りなんて……有り得るのかな?傍から見ればとんでもない光景な気がするけど。でもここは、キラくんのVELKOMMEN。普通じゃないことが起きて当然なんだ、きっと。


私が目を覚ますと、外は昼をすぎて夕暮れだった。私は綺麗でいい匂いのパジャマ(かなりサイズが大きい。もしかしなくてもキラくんのもの)を着て寝室にひとりでいた。久しぶりに浸かった湯船と、初めて味わう巨大でふかふかなベッドのおかげで、心の底から熟睡していたらしい。ほぼ丸1日眠っていたのはいつぶりだろう。

キラくんの姿は見えない。この寝室はいくつかのインテリアはあるものの、チェックイン時のホテルの部屋みたいに生活感がない。ホストの年収ってすごいって聞くし、代表ともなれば……こんな豪華な来客用の部屋も用意できるようになるんだろう。

窓から外を見て私は──あまりの光景に息を飲んだ。新宿を一望どころじゃない、TOHOシネマズや歌舞伎町タワーすら上から見下ろす位置に、この部屋は浮かんでいた。事実、新宿駅の東口にこんな高さのビルは建っていないはず。あのホストクラブと同様、キラくんのこの家も、何か凄い魔法のようなもので作られているんだろう。

時間を確かめたい、というか、スマホを見たいと思って、私は自分のスマホを探した。自分の所持品をまとめてあった場所に一緒に置いてあるのを見つける。親切に充電台に乗せておいてくれていた。

そこに手を伸ばそうとした時。

妖精がいた。

「え?」

なんというか、妖精としか言えない。手のひらサイズの、人の子供みたいなのが浮かんでて、私の顔を覗いている。私は差し出した手を引っ込めそうになった。驚いたけど、黙りこくったその妖精を見ていると、なんだか無害そうな気がしてきた。

「あの……妖精さん……なの……?」

ドアのノック音が響く。彼が私を呼ぶ声が向こうから聞こえてきた。返事をして、スマホを取って、部屋の外へ出る。その間にいつのまにか、妖精はいなくなっていた。

彼はすでにスーツ姿で、仕事の支度もあらかた終わってるようだった。私はずっと、さっきの妖精のことが頭から離れなかった。

「新宿なんか来たくなかったんだよ。環境も人間の雰囲気もやな感じで、病気になりそうだ」

TOHOシネマズの1階で昼食を終えて、私と色牧はその横の広場──通称、"トー横"の中心で顔を付き合わせていた。

寒空の下で身を寄せあう子供達が、我々大人に向ける視線は案の定痛くて。警察のような雰囲気でもないスーツ姿の男性二人は、明らかに異質な存在だった。どんな話をしてるのかは聞こえないが、『誰か声かけてこいよ』という雰囲気を背中で感じている。

「フィールド調査なんですから仕方ありません……ここでミーム的な認識災害の痕跡が確認されたんですか」

「あぁ。ここ、トー横以外にあと数十箇所。ロケーションがバラバラでな。それぞれ路地裏、チェーン店の入口、道のど真ん中もある」

「そして、どれもが探知機が僅かに反応するような、ごく小規模の威力だと」

「朝から晩まで人の数が凄いからな、ここは。無差別に作用するようなミームがあればもっと拡散されて大袈裟なことになってるよ。個人間で使われるようなミームがあるとすれば、その役割は……」

「攻撃……洗脳ですか」

「あるいは依存だな」

近年、若い路上生活者の急増によって治安が悪化し、犯罪の温床とまで言われ始めた新宿歌舞伎町。今までの麻薬や違法ドラッグの取り締まり事例の数も枚挙に遑がない。

そんな中で、超常的な力を持つ人間達もここを出入りするようになっていけば、その影響は犯罪や薬物と同じように拡散されていく。精神にあらゆる影響を与えるミーム的技術も何者かの手によって姿を変えているらしい。

そのひとつが、ミームに曝露した人物に依存性を与えるミームドラッグ。近年いくつかの団体や個人によって存在が明らかになったものだ、発見数も増加傾向にある。一時の快楽を得るために繰り返し使用するのか、直接精神を汚染することで依存させるのかで種類や用途が分類できるが、どれもが通常の人間を心神喪失させるほどの影響がある。

財団が発見したものの中には、スマホの画面を見せるだけのものや、手、日用品、または手指や虹彩に仕込むことによって効果を発揮するものなど、様々な形態のものがあって使用もかなり手軽かつ危険。悪徳なフリーランス斡旋業者などが、抵抗させずに引き入れる為の手段として使用し取り締まられたケースも存在する。

この街のさらなる混沌を退けるべく、これらのミームが如何にして生まれたのか、何者によって使用されているのかを解明しなければならない。それが、サイト-81B12所属、新宿の財団エージェントの当面の使命だった。

「怪しい建物は特に見つからなかったし、ミームドラッグの痕跡は全部路上にあった。この辺をうろついてるガキとかが標的なんだろう」

「身寄りのない子供は異常組織にとっても利用しやすいのでしょう。痛ましいですね」

「の割には無表情だけどな、お前。そろそろ撤収しよう。ここら一帯は路上喫煙禁止だし、後ろのキッズ共がイハクに興味津々だ」

「はぁ……?なんでですか」

「お前に近づいてこようとしてる奴を俺がガン飛ばして遠ざけてんだよ、さっきから」

「それはどうも……こういうニット帽とか、最近流行ってるらしいですからね」

私は振り返って広場の横に座り込んでいる子供たちに向かって小さく手を振った。余計なことすんな、と呟く色牧を追って西武新宿駅の方角に向かって歩いていく。彼らを助ける術を今、色んな大人が頭を捻って案じているのだ。私が1人でどうにかできる存在ではなかった。

「戻ったら、また一緒に外出許可貰って向こうのサイトに来て頂けませんか」

「お前が前居たとこか?なんでだよ」

「知り合いに有識者がいるので。いろんなことの」

「それで、この2人がイハクの小間使いくんたち?」

「違いますよ〜!急に失礼じゃないですか!?」

「俺たちといっさんは上司と部下、言うなれば同僚なんですよ!お互いを信頼しあってるんです!いっさんからも言ってやってくださいよ!」

機動部隊ゐ-0所属の隊員達との面会を取り付けた私たちは、郊外のサイトにて面談室で男4人、それぞれの席に腰をかけていたのだが……このノンデリ男が口を開いた瞬間、隊員はすぐ総立ちとなった。背後で肩を揺さぶってくる2人にため息をつきながら、私は腕を組んだままで告げる。

「──小間使いなんかさせませんよ。いつ誰の精神を酢飯漬けにするかわかったもんじゃありませんから」

「信頼されてねぇーっ!」

機動部隊員は腹を抱えて騒ぐ。本当に調子が狂う……彼らは普段アノマリーとして財団によってアイテム登録がなされ、収容室で過ごしている。以前何度か私と仕事をしていた時のように、機動部隊員として呼び出された場合のみ外部での活動が許される、特殊な雇用形態の職員たちだ。

私が彼らの管理役に任命されたのは、もともとのコミュニケーション能力の高さとか異常性持ち職員としての適性があったからだとか、様々な観点で判断した結果だと聞いていたのだが……コレが、私のせいだと認めたくない。二人とも知り合いたての頃はもっと真面目な性格だったし、慎ましやかだった。

「この茶髪がギリア、闇寿司の構成員だった男で、奇跡論に造詣がある他自力でミームを作り出す力を有します。こっちの身長が低い方がマル。周囲の人間の精神力やらなんやらをコントロールできます。どっちも偽名なので好きに呼んで頂ければ」

「俺は忍やってました!無尽月導衆にもいました」

「……なんか今の聞いてより信用できなくなってんだけど?なんで二人ともGoI出身なんだよ。こいつら頼って大丈夫なのか?」

私は右隣の色牧に向き直って、少し息を整える。

「彼らは今までの任務も忠実に遂行しています。各種基準をクリアした上でオリエンテーションを受けており、財団で保護している期間も共に5年以上で外部との繋がりは考えにくいです。私は2人を信頼しています。色牧さんも、どうか」

「まぁ……しゃあないな。お前がそこまで言うなら一旦飲み込むよ」

「ひゅー!いっさんカッケー!」

「いちいち喧しいぞお前ら!コイツら完全にお前の子分じゃねえか」

「私の方が下なんですけどね年齢」

「もっと強く出なきゃダメだぞ。上司なんだから」

決して広くない面談室を走り回る問題児たちを制止して、私たちは歌舞伎町での現状について説明し、共に考察を始めた。こういう場合は何らかの団体に所属していた経験のある隊員の方が、より様々な情報を引き出すのに都合がいい。誰かから聞きかじった程度の情報でも無駄になることはないのだ。

「ミームドラッグ……には直接関わったことないけど、存在は知ってますよ。用途によって依存とか快楽とかを与えるだけじゃなくて、記憶の処理とか増強、シンプル殺害に身体能力の強化まで、いろんな効果を付与できる。技法さえ明記されてれば俺じゃなくても作れるっすね」

「はぁ……それはどのくらい手軽なものなのでしょうか?スマホの画面に表示したのを見せて使うとか、平面の画像じゃないものにも簡単に付与したりできるものなのでしょうかね」

「安い画像タイプのやつなら基本的にはひとりの精神を破壊しておしまい。物体に付与する場合は不特定多数が認識する可能性があるんで、確実に汚染させようってんなら作る側も結構負担かかりますね。精神に」

「大体わかってたな。トー横の場合はどうなんだ?何者かがそれを売って回ってるかもしれないって話なんだが」

「それはマルの方が詳しいな?」

「おう、俺昔あの辺出入りしてたからね。諜報員として。最近の状況は知らんけど……ホストとかキャバクラとかの客層が標的だったのがトー横キッズに変わっただけだと思うよ。ミームドラッグ拡散してる連中いたね。でもあいつらは金とかより、標的の人間そのものが大事なんだと思うよ」

「それってつまり……」

「ミームドラッグを使って直接洗脳。俺はああいうのの使い方に詳しくないけど結構手軽に使われてたと思うよ?あの辺でフリーランス雇うために一般人捕まえるような連中は、体の若さとか、素直な従順さとかを重宝するんだってさ。超常組織の小間使いなんてちょっとした役割かつ生命的なリスクもある仕事に人件費割いてられないからね」

"家賃滞納者"たちを取り纏める者として、心をざわつかせずには居られない。私は彼らを小間使いとも道具とも思っていないが、ここの外には低コストで人間を雇い、捨て駒のように使い捨てる組織が存在する。財団ですら、直接彼らに接する私が勝手に仲間意識を抱いているだけで、上の人間は信頼度の低く扱いも危険で普通の倫理観が通用しないやつらだと考えている可能性はある。

「俺が前の新宿で潜入してたとこは、ホストクラブみたいな装いで、小規模の時空間を作る術式によってのみ出入りができる店を経営してた団体だった。恋昏崎出身の人間とかの集まりらしかったね。名前は忘れたけど、財団とかに検挙されてなくなったって聞いたから調べたら出るんじゃないですか?」

「そいつらの活動が再開した可能性があるのか。ぼったくりバーみたいに復活すんのな」

「時期を見て、って可能性はありますね。トー横キッズとか扱いやすそうですもん。家出少年ってのは得てして心がちょっと弱くて、人への依存度が高い。でもって体も若いし、従順で素直。ミーム汚染が効きやすいってよく言われるし、フリーランスとして雇う分にはかなり都合いいと思うね。最初はアルバイターみたいな内容で小間使いをするんだけど、段々と過激なことをさせられるようになるんだ。傷つけたりしても責任取らなくていいから」

ああいう界隈の親って、割と我が子の帰りを望んでないしなぁ。と、色牧が知ったふうに言う。

犯罪の標的にされるだけでなく、犯罪を起こすために利用される。家には帰れないし道端じゃ生活もできない。彼らの安息の地は、どこにもないのだろうか。

♚

「よく帰ってきたね。本当にお疲れ様」

私はようやく扉を開けて、彼に出迎えられて、泣きそうになってしまった。

1人であんなに遠出するのは初めてだ。キラくんがいなくて、心細かった。やっとここに帰ってこれて本当に安心してる。

「キラくん……私、すごい疲れた。今日はもう寝てもいいかな」

「もちろん。次の仕事に向けてゆっくり回復してこう」

今まで数日間の間、VALKOMMENで雑用したり事務作業したり、地味な仕事ばかりだった。もちろん私には帰る家ができたから、それでも十分毎日幸せだった。でもこれからは、いっそう彼とこの場所を大事に思って、みんなの一員として働ける気がする。

「これで君に課した採用ミッションはクリア。おめでとう。君を改めて俺たちの仲間に受け入れられて嬉しいよ」

「よかった……ここを離れるなんて、絶対嫌だったから」

私は約1ヶ月ぶりに家に帰って……家族を刺してきた。手も足も、震えが止まらない。


財団、わかるかな。お客さんがたまに話してるとこ聞いたことない?

財団っていう巨大な組織があってね……俺たちが普段目にしてるような魔法や人外なんかを、それを知らない一般人の目から隠すために活動してるんだ。

極悪だよ。俺たち側の世界を生きてる人間の居場所を片っ端から奪っていって自分たちのものにするんだ。俺の故郷はいっつも財団の脅威を受けててね。ちっちゃい頃は友達が財団に拐われたりしたこともある。

このVALKOMMENも実は、1度財団のせいでなくなってる。前は違う名前だったんだけど、店にあった物、その時来てたゲスト、プレイヤー、スタッフのいろんな人……バラバラになって、その一部は財団に連れていかれた。

そんな財団は、周りからは正義みたいに扱われていて……国や東京都の政府と秘密裏に繋がって、世間から異常な存在をひた隠しにする。

俺たちは常にその謗りを受けているんだ。本当はもっといろんなお客さんに来て欲しいし、もっと公に経営したいのにわざわざ店を隠さなきゃいけないんだ。普段の生活圏だって、隅に隅に追いやられてった。息苦しいんだ。あの広場と同じだよ。東京都は定期的にあの場所からみんなを追い出すことで、見た目上の治安を上げようとするんだ。心当たりない?

俺たちは居場所を奪われた。こんな世界、間違ってる。ルピ、俺に協力してくれないかな。に俺たちの存在を認めさせよう。


キラくんから、数日前に聞いた話。私は……ずっと自分の好きなことができないことを我慢して生きてきた。キラくん達の気持ちが、痛いほど伝わってくる。

「今回の作戦は、君の力の可能性を見るために必要だったんだ。度胸とか、俺への忠誠心とかね。それにルピだって、ずっといなくなって欲しいと思ってた相手だったんでしょ?」

私は二度と帰りたくないと思っていたあの家に帰った。

道具もやり方も全部教えてくれたから、1人でも大丈夫だった。夜中に家にたどり着いた私は寝ている状態の弟と父親をナイフで刺した。起き出してきた母親はその光景を見て、ヒステリックに叫びまくっていたけど、怯えていたので抵抗されずに殺せた。

「うん、よかった。あの家じゃなんにもできないと思ってたから、みんながいなくなってよかった。私、キラくんのためなら何でもできるかも」

この世界を、変えることだって。

「ふふ、ありがとう。そんなルピに、次の作戦を伝えようかな。ルピってさ、妖精さん、見えてる?」

私は初めて寝室で妖精さんを見た日以降も、度々妖精さんを見かけていた。まるで幻覚みたいに、こっちをチラチラ覗いてニコニコ笑うだけ。あの子がどういう存在なのかもわからなくて、本当に私にしか見えてないと思ってたから、彼からそう切り出されて少しびっくりした。

「ルピのそばには昔から妖精さんがいたんだよ。でも、財団がそれを隠してた。ルピもそれを忘れて今まで生きてきたんだよ」

財団……私は店で、奴らへの恨みつらみを語る人たちと沢山出会ってきた。女性のお客さんは、ホストのみんなに今までの話とか普段の生活の話をしてたし、男の人も頻繁に出入りして、誰もの憩いの場みたいになっていたから、私も同じ気持ちを共有していた。発明品を奪われた人愛する人を奪われた人財団に、何もかも奪われた過去を持つ人

私も、その1人だったんだ。もしかしたら、ずっと前からここの人たちと一緒に生きていけたのかもしれなかったのに、気づきもしないまま財団に奪われていたんだ。

……許せない。私は今まで辛い思いで生きてきたのに……今まで、漠然とこの世界とか、生まれとか、自分の性格とかを恨んできた。何回も自分を傷つけた。財団が……財団さえいなかったら、私は妖精さんをつれて、キラくんたちと陽の下を歩いて、VALKOMMENにも色んな人が来て、もっと幸せに生きていけたのに。諸悪の根源が判明したなら、私はもう自分を苦しめなくて済むんだ。

「……私は、どうしたらいい?」

「実行は大晦日の夜。ルピはまたトー横に行ってくれるかな?妖精さんの力をちょっとだけ借りて、一般人や財団に、俺たちが閉じ込められた場所で生きていることをアピールしてくるんだ。ルピはただそこで、妖精さんの言葉を思い出せばいい」

キラくんは私の手を握って微笑みかける。この心は、完全に彼に落ちていた。この王子様とこれからも生きていく為なら、私はなんだってする。

巨大なモニターのかかった、歌舞伎町タワーの壁を見上げる。

妖精さんは機械があるところに現れるらしい。横を見れば道行く人たちがスマホを触っているし、歌舞伎町タワーの大画面にパチンコ屋のネオン。広場に何本も立つ街灯の下では、スピーカーからツユとあのちゃんの曲が交互にかかっている。一度は、ここで生きていくって覚悟を決めた場所だ。初めてこの広場を訪れてから、1ヶ月ぐらい。当時と今の私は何もかもが違う。

風景は何も変わってないけど、街行く人も座り込む人も、誰も以前と同じ人はいなかった。警察は、私たちを元いた家に送り返すだけで、助けてくれない。通りすがる人も、道端に捨てられた吸殻みたいに見て見ぬふりをする。私が補導された時、当時の仲間も大人も誰も、私を気にかけてくれなかった。結局外の人間は皆冷たいんだ。誰かのことを助けようだなんて思っていない。

でも今の私には、正真正銘の仲間がいる。皆で助け合って息をしているんだ。現実に居場所がない私を、超常社会の人たちなら受け入れてくれる。私は、皆に恩返しがしたかった。

いつの間にか忘れてしまっていた、妖精さん。お願い。貴方を思い出すから、私を助けて。身を寄せ合って生きている人たちに、力を貸して。

キラくんから送信されてきたファイルを、画面が割れて見づらくなったスマホで開いて、私はその文章を呟く。

「……箱の中では妖精さんが頑張ってる」

気づいたヒト、気づいた

ハッピーニューイヤー。周りから歓声が上がった。

TOHOシネマズの横、歌舞伎町タワーの下。広場のあらゆる場所から妖精さんが顔を出した。壁面モニターはブラックアウトして、おびただしい数の妖精さんたちが現れて、空中を漂い始めた。新年を迎えた歌舞伎町の住人たちは、謎の生き物の出現に騒然とした。

次々と人間が倒れてはどこからか悲鳴が上がる。見れば、頭が潰れたり足が折れたり皮だけになったりした人から、次々に妖精さんたちが生まれていた。この街の人間は冷たいんだ。人間が次々と、機械のように動かなくなっていく。

その時、急に私の右目が潰れた。視界の端からは妖精さんが飛び出していって、私の体からも力が抜けていく……わかってた。私だってずっと自分のことで精一杯で、誰かを気にかける余裕なんてなくて、自分の居場所だけを求めていた。でも私はキラくんのために、あの場所を訪れる皆のために、居場所を守りたい。意識が遠のいていく。妖精さんともお別れの時間。私のことは彼が助けに来てくれるらしい。

独りよがりだった今までの、私とさよならだ。

SCP-1489-JP-Bと思しき実体が、年越しを迎えた歌舞伎町で大量発生したらしい。私は手当り次第のサイトに連絡をかけながら、廊下を早歩きで抜ける。SCP-1489-JP-Bは観測した人間を意識不明の状態にし、身につける機器類も操作不能にしながら、人づてに拡散していく。

過去のインシデント記録では……事態が収拾したのは1時間後のことだった。1時間。東京のど真ん中なら、SCP-1489-JP-Bが山手線沿線の各駅に拡散されるほどの時間になるだろう。影響を受けた全ての人間の記憶を処理し、意識を回復させて、混乱を納めなければならない。30分……いや、10分とかけてはいけない。

「……"家賃滞納者"を使います。それほどの、緊急事態です。新宿駅にまで被害が到達する前に収めなければいけません。どんな手を使ってでも」

通話を終了した私は車庫へ向かって速度をあげる。彼らが収容されているサイトから歌舞伎町まで……ヘリコプターで5分で着くかどうか。上空からの対応になるだろう。その為我々エージェントも地上へ赴き、状況の確認と、歌舞伎町を封鎖するべく向かった部隊の現場指揮を行う必要がある。

社用車の横では既に色牧が到着しており、メビウスの煙をふかしていた。

「遅せえぞ」

「車の中では消してくださいよ」

「本当に使うのか?ゐ-0を」

「失敗すれば想像を絶するインシデントになりかねません。人間の機動部隊を派遣してオブジェクトを一体ずつ無力化していくなんて悠長なことはしていられないのです。むしろこんな事態のための機動部隊なのですよ。私達にかかってるんだ」

「アイテム登録されてるEuclidクラスを新宿に解き放つのか?ってことを聞いてるんだよ」

色牧の声はやや険しくなるが、黙って助手席に乗り込む。

「彼らを信頼していないのは貴方だけです。彼らは我々と同じ職員です」

「首都機能停止レベルのリスクがあるインシデントをいち機動部隊と、お前に全て託すわけあると思うか?」

都庁地下に繋がる通路を走り抜ける。いやに静かでタイヤの音のみが響く沈黙が車内を包んだ。

「何度聞かされたかわからんが何度でも言ってやる。ゐ-0のことを財団は信頼してない。成功すれば一発で事態が収拾できるが、裏切られたり管理が手に負えなくなればそれはそれで切る手段を用意しておいてる。財団はそこまで考えてあの問題児たちを集結させた機動部隊を組んだんだ」

「何が言いたいんですか」

「お前は信頼信頼って言ってるけどな、財団の持つ権限を乱用してアノマリーを使役することの倫理的な問題とか、リスクとか、若造のお前は理解してんのか?」

「……」

私はかつて……祖国の郊外で数名の人間と幼少期を過ごした。平穏そのものだった。そう感じていたのに、財団が現れてその全てを異常だと一蹴した。その時、私に生えた角、尻尾は、私のアイデンティティなんかじゃなくて、私の内面を周りに理解してもらうことの足枷にしかならないと気づいたのだ。

「私は……財団は、制御の効かない爆弾をふいに持ち出したりなんかしません。色牧さんが彼らを信頼できなくても、私や財団が、彼らの組織化を判断したことについては信頼して頂きたいですね」

「結局、お前もあいつらを道具って思ってるわけか」

「収容室の内と外に差なんかありませんよ。私達も彼らも財団の道具で、財団の職員なんです。普通の人間1人だけじゃ解決できないことに協力して立ち向かう。集団が考えるのは、それだけでいいんです」

この世で発生する異常が誰かの安寧を脅かすなら、我々は断固としてそれを許してはいけない。少なくとも私は、この異常と隣合わせの平穏な生活に、新しく意味を見出していた。


"ギリア"は移動しながら、「記憶処理」「意識回復」を兼ねる無差別ミーム的術式を構築している。さほど時間はかからないそうだ。同乗した"マル"はそこからトー横の広場に降下して、"ギリア"の術式の拡散の手助けと、民間人の意識の回復、SCP-1489-JP-Bの再発現の防止を、自分と周囲の精神力の強化によって迅速に達成する。彼ら2人の相性によって、ミーム的拡散力を持つ実体の収容違反を終結させる方法が既に確立済みだった。

「準備万端だ。マル、そっちは?」

「スカイダイビングなんかやったことないけど全く怖くないね!俺らで新宿の奴らの目を覚めさせてやろうぜ!」

「おうよ!大晦日の夜にこんな街出歩いてるのがいけねんだって教えてやれ!会える家族が居るうちに実家帰れってな!」

ギリアは新宿上空を飛ぶヘリコプターから花火玉を投げ落とした。周囲の灯りが全て消えたゴジラ像の真横で、赤、青、黄と、色の鮮やかな花が浮かび上がる。ギリア特製のこのミーム爆弾は、視覚、聴覚でそれを認知した人間たちの過去30分の記憶を奪う。"妖精さん"を出現させたSCP-1489-JP-Aがどこにいるのか、すぐに判別するのは困難。そのため、SCP-1489-JP-Bの無力化する術として有効な「広範囲かつ無差別な大規模記憶処理」作戦を実行したのだ。

数秒後、パラシュートを背負ったマルが、暗黒と化した歌舞伎町に飛び込む。

「あけおめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

パラシュートが展開されたのは地上からわずか225m地点。常人なら確実に着地時の事故が免れない地上スレスレの高度だ。しかし、マルはその一瞬の減速を利用して、広場にふわりと無傷で着地した。忍時代に酷使した術の1つです!と、彼は後日満面の笑みで語ってくれた。

突如記憶を失い呆然としている歌舞伎町の住人たちの意識を、眠りから覚めた時のような精神状態にまで瞬時に回復させる。人々は体のあちこちを捻ったりあくびをあげたりしながら、徐々に活動を再開した。

「妖精っぽいのは見つからん!Hm値とかもド安定!今んとこ大丈夫そうだけどもうちょい見て回るわ!」

「OKマル、そのまま10周ぐらいしろ。それから怪しい奴とかいないか?妖精呼び出してきた奴とかまだいるかも知んないんだけど」

「この街怪しい奴しかいねーわ……冗談はともかく、部隊の他の奴らも結構入ってきてるけど、逃げたり襲ってきたりしてる奴の話は入ってきてないよな?妖精隠し持ってる奴もいない」

「そうだな。ま、俺たちはそんな長居できねえし後のことは任せて帰ってよさそうだ。戻れ忍!」

「ポケモンみたいに言うのやめろ!俺の主はいっさんだけだぞ!」

レシーバーで無駄口を叩きつつも、マルは西武新宿駅から東新宿駅の間を隅から隅まで駆け回る。かつて諜報員時代に鍛えた洞察力で歌舞伎町の住人たちを観察し続けたが、何かを隠し持っているような人物は路上には見当たらなかった。

「なぁギリア、俺らの今回の返済額いくらだと思う?」

「いやぁ過去イチだと思うね。新宿救ってんだし。でも毎回なんやかんやで引かれて安いんだよなー」

「俺ら一生家賃滞納者なんじゃね?」

「それな」

……インシデント記録として音声が残ることを知ってか知らずか、この会話である。イ・ハクは彼らの貢献に感謝しながら、この緊張感のなさは異常存在がゆえなのだろうかと苦笑した。

アノマリーの相手をするには苦労が絶えない。


歌舞伎町がしばしの暗黒から回復しても私たちが後にやることはまだ残されている。SCP-1489-JP-Bの力によって民間人の意識や端末、街灯や監視カメラも、全てが不能状態になっていたために、この事態を記憶している者は誰一人としていなかった。実際、各種SNSでも「寝てるうちに年明けちゃってた」という内容以外の不審な投稿はされていない。

SCP-1489-JP-Bの拡散速度が遅かったことと、”家賃滞納者”のふたりによる迅速な記憶処理のお陰で、歌舞伎町エリア外への拡散は確認している限り防ぐことができた。

サイト-81B12所属のエージェントには、この件が何者によって引き起こされたのかを解明する任務が追加で与えられた。歌舞伎町を始め新宿周辺に残されていたミームドラッグの残骸によって、要注意団体の存在が匂わされている。そんな時期のこの収容違反との関連性が疑われるのは妥当だ。私は年明け早々から、事後処理に追われることとなった。帰る実家が無いのが好都合ではある。

「……お前、趣味は」

「なんですか急に……ありませんが」

このサイトで喫煙所を使う職員はほぼ私と色牧だけだった。狭いので丁度いいぐらいだが。区内全域禁煙である新宿は居づらいと色牧は言う。元旦のあの日も路上でこっそり煙草を付けていた彼は現地の警察から注意を受けていた……このご時世どこもそうだろ。

「逆に貴方は趣味聞かれて何と答えるのですか」

「煙草」

「趣味じゃないでしょう。貴方のは依存です」

「心身共に健康極まりない俺が依存なんかしてるわけねぇだろ?ニコチンも体に害なんかねえしな」

私は普段の活動のことを思い浮かべた。サイト周辺地域のフィールド調査。要注意団体の監視や外部の人物との接触。それと……SCPオブジェクトの報告書から、危険度の低く財団への忠誠度が高い存在を判別する。基準をクリアした人型オブジェクトと面談し、機動部隊ゐ-0への配属が認可されれば、担当職員らとオリエンテーションを行う。

「……強いて言うなら人心掌握ですかね」

「無表情でよく言えたなお前」

「財団エージェントとして必要でしょう、相手の内面を探るスキルは。どうしてそんなこと知りたくなったのですか」

「魔物みたいなお前の普段の生活が気になったんだよ。正月帰らねえ職員なんか珍しくねえけど、外もまともに出歩けないようなイハクのプライベートとか想像つかなくてさ」

角と尻尾がある人間なんか当たり前だけどいるわけがなくて、私はいつもニット帽で頭を隠し、服の下に尻尾を隠していた。見た目には常に気を使わなきゃいけないが、他のアノマリー職員とは違って周囲に影響を与えるような異常でもないので、特段苦痛を感じたりはしていなかった。それにこの格好も気に入っている。

「……ふっ、ふふっ……ふ……ふ」

「怖っ!気色悪い笑い方すんな」

「私のこと魔物だと思ってたのですか?色牧さん」

「まぁ……最初は話通じる奴かわかんなかったからな。ここで長らく働いてりゃわかるんだが、異常性持ちは基本卑屈なんだ。周りにはなんの問題もなく生きてる奴がいて自分だけが1人ぼっち。収容室で監禁されるだけじゃなく検査も実験も繰り返される中で、心が弱まってく奴が多いんだよ」

「それで……あの2人にも不信感があったと」

「突然機動部隊として使いっ走らされたりすりゃ尚更だ。実際変な気を起こしたりしなかったのは、あいつらが特別なんも考えてなさそうなのと……お前に見る目があったからだよ」

私は目を丸くした。そういうことも言うのか、この人。私だって色牧の第一印象は厄介払いで新宿のサイトに飛ばされた、ルール無用の厄介なマイペース男だと思っていたから、初めに疑心暗鬼を抱いてたのはお互い様だった。

「優しいのですね、貴方は」

「俺は優しいぞー?助けを求める弱え奴にも物を知らねえ若え奴にも手を差し伸べる。お前も慈悲深さを持てよ?まずは俺と同じ吸い方をする所からだ、後輩」

「見習うとは何も言ってませんが」

灰がぽとりと足元に落ちる。私はかつての自分を上手く手放せたのかもしれない。私がトー横の広場で向けられた視線。今までとは違う居場所を探す彼らの目は、同族を見るようなそれであり、逆に、羨望だったのかもしれない。そんな風に自惚れられるほど、私は今の自分の事が好きだった。人と違うことも自分の居場所を見失っていたことも、もう気にせずにひとりの財団職員として生活できていた。

"家賃滞納者"の彼らも、自分の居場所を受け入れてくれているなら、それが本望だ。そして、この街に暮らす全ての人を異常の脅威から守る。1人の財団職員としての道筋も、私の中で固まり始めていた。

♚

「あの娘はどこに行ったんだ?」

「さぁ。まだ歌舞伎町から離れてはないと思うよ」

「口封じしたとはいえな、キラ、子供をあんまり使い捨てるなよ?」

「わかってるって」

その店に所属するスタッフから誘われた人間のみが立ち入れる、異空間の中に店を構えたVALKOMMEN。店内では年越しの瞬間を迎えたゲストとプレイヤーで祝いの熱気に満ちていた。

「ルピちゃんはほんとに貴重な人材なんだよ?トー横を張っててさー、財団に記憶処理された経験がある子が来ると思わないじゃん」

「まぁな」

「"妖精さん"は十分やってくれた。歌舞伎町の監視映像も人の動きも完全に止めてくれたお陰で店の移転も済んだしね」

俺とネルの調べによって、ルピというかつて財団に保護された過去のある少女が、この街を訪れていたことが明らかになった。彼女は数年前にインターネット上で妖精さんと偶然出会っていたのだが、財団の手によって関連する記憶を消去されていた。

妖精さんは歌舞伎町を一時の停滞に陥れるのに十分な力があった。だから彼女の妖精さんに関する記憶だけを復活させた。同時に、彼女の中で財団は悪の組織である必要があった。俺たちとおなじように。

超常社会で疲弊したゲストに安心して夜を過ごしてもらうために、笑顔で接客し、俺たちとの時間を楽しんでもらうのが仕事だ。フリーランスを雇う時も同じ。自らの居場所を求める相手の目をしっかりと見ながら、救いの手を差し伸べて、安心を与える。ホストは言わずもがな、顔が商売道具だ。

俺をこの顔で産んでくれた、恋昏の両親に感謝。

「あわよくばもっと騒動になってくれても良かったんだけどね……財団の鎮圧速度は想定通りだよ。スタッフもバイトも総動員で、"入口"の場所もまた移せたし、近くに潜伏してた財団のフリーランス達も排除しておけたから十分だ。ただ……」

「……あの二人、だな」

「うん」

機動部隊員のあの二人……それぞれ、元"闇寿司"の構成員で霊媒師でもあるネルとは同業者だった男。元"無尽月導衆"所属の忍で、VALKOMMENの前身時代、この店に潜伏していた男。

「"家賃滞納者"……俺たちからしても不名誉な名前だよね。異能力者を無理矢理攫ってきて住まわせてるくせに、不法占拠だってさ」

「次はどうする?」

「片方はネルに任せよう。どうにかして引き入れる。忍の方は……始末する」

「わかった」

財団は異常から人々を保護するという建前がありながら、往々にして自らが手駒にした異常を手に、敵と見なした異常を征服しようと動く。くだんの機動部隊も……本末転倒だ。財団は全ての力を求めている。正常なんかいらないじゃないか。

財団という甚大な組織に報いを与えるため……俺たちの住む場所を勝ち取るため。この街から、俺たちなりの武器を掲げるのだ。その為に、東京で影響力を高めなければならなかった。

「じゃあ、そろそろ行くよ」

「おう。今日きてる奴もまた子供か?」

「うん。俺たちの力になってくれるってさ。今回のこと──悪の組織相手にたった1人でテロを起こして消えた、英雄の女の子のことも、かっこよく話しておくよ」


トー横広場で目が覚めた少女は、帰り道を見失い彷徨っていた。

彼女には、とある男ととある組織への服従、そしてもう1つ、ミームによる汚染がなされていた。

それが、部外者からの記憶処理/記憶増強をトリガーに、今までの記憶を全て失うという起爆剤だ。

SCP-1489-JP-B"妖精さん"に関する記憶を消去された時。もしくは財団によって保護された時。未だ歌舞伎町の闇に潜む秘密組織であるVALKOMMENについて、なんの情報も漏らさないようにするための措置であった。

彼女は最初、自らの生活を手放しここトー横を訪れた。そんな独りぼっちの彼女を利用した超常社会の大人の手によって、彼女は生活どころか、今までの全てを失ってしまった。帰る場所はもうどこにもなく、彼女のことを求める人間ももう、どこにもいない。

少女は虚ろな目で、地面を探るようにして足を運ぶ。自分が今立っている場所も、目に入る看板の意味もわからないまま、徐々に呼吸だけを荒げていく。もう少しで日の出を迎えるその時、彼女は元旦の新宿の路地裏で力尽きる。

この街で倒れている少女の姿なんて日常茶飯事だった。深夜であれば尚更。

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