散歩の最中、あなたはふと蜘蛛の巣を見つける。
蜘蛛の巣。主たる蜘蛛はひどく小さい。
縦糸と横糸が機能的に張り巡らされた円網には、朝露が微かに付着していた。
あなたは手を振り下ろす。
微かに粘着を感じる。
一振りで破壊された蜘蛛の巣は、ばらばらになった糸だけが虚しくその名残を残している。
「今度のエージェントは何用で?」
「知らないの。ほら、現実改変能力者グリーンだよ」
随分と間の抜けた質問をするレイチェル研究補佐に対して、ハーマリー研究員は微かに眉を潜めた。カウンセリング室の壁は他のそれよりも分厚く、音を通さない。それでも二人は日常に積み重なる他愛ない──それこそ生産性で言えば等しくシャクトリムシ程度の──会話達よりも数段程息を潜めて囁き合う。
"グリーン"。普段はGOCの幾分と洒落臭い言い回しを笑う彼女らも、示し合わせたかのようにその名前、存在そのものを言い表す事を避けていた。
「どうか呼吸を整えて。今あなたはここに生きて、僕の出したコーヒーを気ままに飲む権利があるんだ」
「頼む先生、どうか、本当の事を言ってくれ。これは笑い事じゃない」
カウンセラーは努めて穏やかに眼前の男を諌める。男の息は荒く、片方しかないその瞳孔は常に忙しなく動き、見える全ての物体から不快そうに目を背け、背けた先に広がる世界にまた意識を追いやられる。
定期カウンセリングも、四回目にして既に行き詰まりを見せている。クラスⅣ現実改変者の終了任務からは今日で二週間が経っていた。男は最早、何も信じる事が出来なかった。汎ゆる"存在"そのものが牙を剥いて自らの命を容易く吹き消す事を恐れる事だけしか、今はもう出来なかった。そうして耐えきれず、片目を潰した。激痛。しかし残念ながら、目はもう一個残っている。それは悲劇的なことだった。
「ブライルズが、ブライルズが紫のアイス・クリームになって地面に溶けたんだ!!俺のすぐ隣でだぞ!!」
藻掻き、苦しみ、ただその悲痛さを吠える事しかできない男が、かつては機動部隊員の中でも群を抜いて信心深かった事をカウンセラーは知っている。彼はもう十字を切る事は出来ないだろう。
壊れてしまった心は、そう簡単には戻らない。
破壊された現実が、ひとりでに修復しないのと同じように。
書類の広がるデスクには一つのカップが置かれている。
カップの中を満たすもの。砂糖の入ってない珈琲。
それはただ自らとは対照的な白い湯気を上らせて、仕事への労いとして何処までも黒く存在していた。
あなたは掌でカップを押す。
呆気なく倒れたカップから珈琲が広がる。書類を侵食していく。誰かが、慌てて拭こうとする声が聞こえた。
黒く浸された書類の文字は、とっくに読めたものではない。
「今回もありがとうございます」
「い、いえ、とんでもございません。寧ろお礼を申し上げたいのは此方でございまして……」
教会にはその二人を除いて誰もいない。全身黒ずくめの男と、却って神経を逆撫でする程に頭を下げる老人、その両者の間に黒い棺がひとつ。
老人は考える。棺の中、恐らく未だ意識を失っているだろう一人の少年について。その集落に蔓延った感染病を五人ずつ治療するのと引き換えに、黒ずくめの男が要求した物だ。
棺をちらと開け、黒ずくめが微かに目を細める。最早金などいらない。より直接的に自らが抱える欲求を満たせる方法を探し、啜り、貪る事が黒ずくめを心地よく満たしていた。"供物"を受け取り、受け取った上玉のその後を思い描くこの瞬間が彼は好きだった。
「じゃあ、おれはこれで」
「あ、あぁ……本当に、本当にありがとうございました」
刹那、棺を何処かへと転移させ、踵を返した黒ずくめを老人が呼び止める。黒ずくめの瞳が微かに開き、瞬いた。
「この恩を我々は忘れません。貴方は……正しく、神の使いです」
老人は自らがどう口を滑らせたかさえ気が付かなかった。
数分経って、黒ずくめは集落を歩いている。しけた建物、日差しのみが暴力的に差し込む街外れ。そこに人はいない。いない。誰一人として。何処からか肉の臭いがする。血腥いそれはすぐに汎ゆる獣を呼び寄せるだろう。
老人はおれの事を神の使いだと言った。
黒ずくめはあくまで優しげに微笑む。
「おれを"使い"呼ばわりなど、ひどく烏滸がましい事だ」
そのキャンバスには、描きかけの色彩がある。
恐らく色々な者が手を加えてきたのだろう。無数の点が、線が、色が何かを創り出そうとしている。
あなたは黒い絵の具塗れのペンキを手に取る。
塗りつぶす。
ぐちゃぐちゃに。
少女は無数のスタッフド・アニマルに囲まれて眠る。気まぐれに寝返りをうち、その先にあるスタッフド・アニマルを無意識に抱き留める。柔らかい手で、愛しいものを包むかのように。
くまさん、きりんさん、ぞうさん、ふわふわでかわいい動物たち。スタッフド・アニマルの黒点のような目には何も映ってはいない──かつては映っていた筈だった。経験が、尊厳が、人生がありありと映っていた筈だった。でも、今となっては只のつぶらな黒いボタンでしかない。
ふと、少女が眼を開ける。微睡みの中、一回だけ欠伸をする。ここは小さな家、無数のぬいぐるみが実質的な彼女のベッド。その端っこに転がった持ち主不在のアサルト・ライフルを不思議に思う事もなく、少女の瞳はまた柔らかく閉じてゆく。
散歩の最中、あなたはふと蜘蛛の巣を見つける。
蜘蛛の巣。主たる蜘蛛はひどく小さい。
縦糸と横糸が機能的に張り巡らされた円網には、朝露が微かに付着していた。
あなたは手を振り下ろす。
そのバーにまだ人の気配があった事に、チェスカー・マクドネルは少しだけ驚いた。
先ほど店主を黒いシミにしてから、もう全員が逃げ出したものだと思っていた。粗暴で無礼な態度を自分にとったからだ。今日は経営不振の牧場主の元に羊を降らせ(その牧場が羊を扱っていたかは知らないが)、狭苦しい学校社会に抑圧されていた少年たちを見て適当に武器を与えてやった。せっかく良いことをして気分も上々だっただけに、店主の言動は気分を逆撫でした。だから殺した。
気まぐれに人を助け、また気まぐれに人を壊す。蠟燭に灯った小さな火に、ふっ、と息を吹きかけるように。自らがその傍若無人な振る舞いをするに相応しい存在だと、チェスカーは何の疑いもなく思っていた。そう思えるだけの力を、俺は持っている。
だからこそ。
チェスカーは目を向ける。
パニックが起こったのであろう、軽く荒れた店内。その真ん中に座す小さな丸机で、一人の男が未だ酒を飲んでいる。ニタニタと笑みを浮かべる口元、氷のみが残された複数個のグラス、机に置かれた複数個のベーグル。そのすべてが、チェスカーをほんの少しだけ不快に刺激する。"何だかおもしろくない"、それはシンプルな感情だ。
「なぁ、あんた」
話しかけながら、流れるように机の上のベーグルを取って、一口貪る。男が特に咎める様子はなかった。深く被られたカウボーイハットと、シワだらけの赤いシャツ。何処かの浮浪者だろうか、とチェスカーは思う。
おいおい、ひとりで晩酌かい? その声色に乗った攻撃性を隠しもしないチェスカーを前に、男がハットのつばに隠れていた眼を顕にする──翡翠色だ。男が口を開く。
「チェスカー・マクドネル」
チェスカーはにわかにぎょっとした。思わず、ベーグルを貪っていた二口目の咀嚼動作を止めた。なぜ俺の名前を知っている? 疑念と共に改めてその容貌を認めて、気付く。丸机の下、確かに握られた一丁のウィンチェスター・ショットガン。鋭い犬歯が剥き出しになっているが、男はもう笑っちゃいなかった。
男が、もう一度その名を呼ぶ。
膝の上に置かれていた、小ぶりのウクレレを撫でながら。
"現実改変者"チェスカー・マクドネル。
「神を騙る、薄汚い醜悪。そうだよな?」
八つ裂きにしてやろう、と思った。
思うだけで良かった。
ただ、それよりも男の動きの方が、もっとずっと早かった。
視界が白く染まる。
思わず怯み、何が起こったのかについて認識しようと思考を回し、"スモーク"の類を零距離で喰らったのだとようやく気付いた。現実を塗りつぶし、小賢しい煙どもを一瞬にして無に帰す。男の姿はそこにはない。転がって視界を遮る壁となった机の向こう側から、一発の銃声が響く。
瞬間、今度は漆黒が両目を覆い隠した。
照明を撃ったのか。またもや一歩遅れて思考が回答を提示する。
一歩遅れた思考は、二歩三歩遅れた行動しか弾き出すことができない。人間も、現実改変者も、等しく変わらないことだ。今この瞬間、銃声で位置はある程度割れてしまっている。男は思考する。男は既に駆けている。
「小賢しい!」
チェスカーが自らの頭上にテニスボール程度の火の玉を創造する。バーの店内、その輪郭がぼんやりと浮かび上がる──否。刹那、チェスカーは男を咄嗟に見つけ出す事ができないと判断した。故の妥協策。殺意のアクセルを踏む。
M16アサルト・ライフルが宙に五丁ほど出現し、チェスカーの全包囲を守る様に銃口を向けた。男の姿を見つけ出す必要はない。諸共風穴を開けてやる算段だった。ギリリと噛み締めた歯が音を立てる。物事が思い通りにならない苛立ち。忘れていた焦燥。
直後、不可思議な事が起こる。
男の姿をバーの入り口に見た瞬間、チェスカーは何も分からず狩人の前に姿を見せる小鹿を見たような、歪な笑みを浮かべた。その身体をビー玉にしてやってもいい、内側から破裂させてやってもいい。だが今はせっかくだ、爽快に蜂の巣にしてやる事を男は選んだ。宙に浮かぶアサルト・ライフルが一斉にマズルフラッシュを放つ。いくら銃声が鳴っても、男は斃れない。
違う。斃れない、どころではない。男の姿がぐにゃり、と歪んだかと思えば、呼応する様にバーの壁が、床が、流動的に動いてアメーバの如く男と混ざり始める。その姿は瞬時に巨大な蛇の頭となる。蛇がこちらに牙を向いている。丸呑みにしようとしている。
チェスカーはひたすらに銃を撃つ。びくともしない。チェスカーがいくら脳内で蛇を撃退しようとも、それが現実に反映される事はない。何故だ。何が起きている!? 「──おいおい、」
「まさか幻覚剤入りのベーグルは初めてか? 我が講義を受けた事がある者なら、一回は味わってる筈なんだけどな」
男の声が聞こえる。隣から、頭上から、あらゆる方向から。
現実改変者の改変プロセスには個人差があるが、その多くは"視界情報"に強く依る。「視界に映る」この物体をどうするか、「視界に映る」この座標に何を創り出すか。それでいて、多くの彼等はその事実を強く認識していない。彼等にとってそれは蜘蛛の巣を適当に払うのと、カップを気まぐれに倒すのと、ペンキを暴力的に塗ったくるのと、何ら変わりないからだ。幼稚な衝動のまま、「技術」としてその力が研がれる事はない。
煙幕、暗転、幻覚。徹底して視覚情報を潰し、思考を回す余地を削る。常に脳みそに負荷をかけ続ける事が一番彼等にとって"おもしろくない"事を、男は深く知っている。
「お前は誰だ。何をしに来た。俺が誰だか分かっているのか!?」
チェスカー・マクドネルは吠える。最早頼りにならない視界の中、でたらめに周囲の現実を上塗りしながら。
俺は何でもできる、気に入らない奴の家をチェルノブイリにする事も、空からドル札の雨を降らせる事も、この世界を滅ぼす事だってやろうと思えばできるんだ。俺は神だ、この俺の温情でお前らはぬくぬく行きていられるだけなのに、お前、信じていないだろ。ホラ吹きだと思ってんだろ。姿を見せろよ、他ならぬお前で証明してやるよ。なあ、おい。
「その必要はない」
声。至近距離。
自らの、完全な背後。
「お前は確かに力を持っている。それは理不尽に人を壊せるし、奇跡を起こして人を救う事も容易だ。この世界を根底から変えうる力で、神と言っても差し支えない」
「───だから、俺達がお前を殺す必要があるんだ」
あなたは手を振り下ろした。
微かに粘着を感じる。
一振りで破壊された蜘蛛の巣は、ばらばらになった糸だけが虚しくその名残を残している。
あなたは立ち去ろうとする。
あなたは蜘蛛の巣にもう興味がない。
故に、あなたは、お前は、気が付かない。
蜘蛛がお前の腕を伝ってきている。
二本の牙がその口から覗いている。牙は毒腺から導管を通り、粘性の高い毒液を注入する。
お前はようやく気が付く。振り払おうとする。
お前は逃げられない。
払い落とした蜘蛛の巣から。
黒く浸された文字の中から。
塗り潰された色彩の裏から。
蜘蛛は無数に伝ってきている。
毒はお前の血液に侵入し、神経に作用する。
毒は、鉛は、直に全身に回る。
回る。
回り続ける。
他ならぬ、お前の息の根を止めるまで。
対象の頭へと照準を定めたウィンチェスター・ショットガンを軽く撫でる。
チェシャ猫の様な笑みを浮かべながら、男は引き金を引いた。
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