日本列島における蛇の手活動の基盤は、若き青大将と良き協力者らによって築かれた。
しかして未だ彼の地に蛇は在らず。 —AO.

梅雨明け最初の日差しにオールバックを焦がされ、ため息交じりに顔を上げる。那覇の喧噪が馬鹿みたいに広がっていた。
空港を出て2歩目のことである。凡そ一月後に夏休みシーズンを控えながらこの有様だ。道々を蠢く多様の人、人、人。そして俺。この場にいる誰よりもこの地を愛し難い俺が1人。数秒も立ち止まることを許さない混雑に紛れて市街に零れ落ちる。
「クソ!」
小さく悪態づいた。正常性維持機関の工作員には現状引っ掛かっていない。仮に羽田からこの地に至るまでのルートを事前に捕捉されていたとしても今からこちらを捕えるメリットは一切無いと信じ、残り少ない空席タクシーのケツを小走りで追いかける。豊見城とみぐすく市までは約5.8km程。1時間歩いてやってもいいが何にしろ車を使う事を覚えないとこの地では生きてはいけない。電車を知らん土地、沖縄。拗れた歴史と文化の終着点たる土地、沖縄。
国頭くにがみ 改かい。御年25歳にして生まれ育った離島に蜻蛉返りする羽目になった世知辛い青年がこの俺である。
「高嶺までお願いします」
「あい。お兄さん観光ですかぁ」
「仕事です。腹立たしい事に帰省も兼ねてます」
「あぁ帰ってきたんですねぇ。いい所ですよ豊見城は」
滑り込みで捕まえたタクシーの運転手との雑談を緩やかに躱しながら後部座席に座る。動き出す車体と流れる視界。心地いい揺れと無言の最中、耳鳴りの様に幽かな残響が語りかけてくる。
『理由と結果の逆転。それを恐れるなよ、カイ』
声。車内の効きすぎた冷房とは類の違う、冬の朝の様な冷たい声。振り払う様に首を振る。すると、運転手は何かを察した素振りでクーラーの温度を2度下げた。何も察せちゃいない。
アオと名乗るその女性と出会ってから凡そ1年。トラックでの逃走劇からは今日で372日目だ。超常社会のガラクタに文字通り手を出した事こそが今の俺が置かれた状況を作り出した全ての原因であり、そこから僅か1年の間に随分と数奇な経歴を辿る事になってしまった。
負号部隊が遺した媒介不明の通信装置──全国に埋まるそれらの復旧が俺に課せられた研修内容だった。正常性維持機関による傍受のリスクを排した通信インフラは現状満足に整備されておらず、青大将がマークして確保していた負号部隊産のそれも既に壊れている上に原理も復旧手段も不明という有様で、ある。あった。俺が半ば偶然に近しい形で「原理不明のまま超常を超常として動かす復旧手段」を確立させるまでは。
そこから先は特段語ることも無い。青大将の庭の草叢を仮宿とさせてもらいつつ、負号部隊のクソ装置を直しに全国をひたすら行脚した。アオの仲介で遠野に踏み入ったり知床でGOCに探知されかけたり穴蔵で死にかけたりしたが、重要なのは3点。どうやらこの研修で俺は青大将──ひいては"図書館"に巣食う一部のお偉いさん方──に一人の「手」として認められたという事。そして、装置未復旧の最後の地がこの沖縄であるという事。
更にもう1つ。
『沖縄には未だ手がいない。あの狭い孤島で、訳も分からず震えている奴は必ずいるんだ。今尚、数多く。だから』
「俺にその足掛かりになれ、と」
『その通り。彼の地で待つ彼等の寝床を、潜む草藪を、居場所を。お前が作ってやってくれ』
[加筆]
"カイ"
イニシャル: KI
種族: 人間
性別: 男
生年: 1999/06/12
職責: 臨時首領
タクシーから降りて街を一瞥する。
料金にして3400円。とてもじゃないがさっさと車を用意しないとやってられん額だ。その事実、及び暑さに顔を顰めながら古びた街をずんずんと練り歩いていく。俺は沖縄の蛇達の臨時首領として任された。なんでよりによって沖縄なんだと言いたくもあるが、彼女との約束であるからにはキッチリ遂行するまでである。
スマホのメモ帳を開く。今回の任務、"沖縄の手"として最初の頼まれ事──どうやらこの間抜けな住宅街近辺にいるらしい「最後のノロ」を名乗る人物の調査。そして可能なら推定霊能力者との接触。
「自称ノロのエセ霊媒師なんざ沖縄の固有種として無数に生息しているんじゃないすか」
『無駄骨を折らせるつもりはない』
「信用に値するから困るんですよ」
舌打ちが漏れる。勝手に過去の会話を思い出して勝手に苛つきながら、思わず煙草を探す自らの右手にもついでに皺を寄せる。PM3:00の傾きかけた日差しで微妙にくすんだ緑が覗く崩れかけのブロック塀を越えると、街の外れに建てられた誰かの墓がポツンと姿を現した。
沖縄の墓はデカい。個人の墓一つ一つが塀に区切られた小さな社の形を成しており、社の前に設置されたスペースも含めて大人6人が平気で居座れる程度の区画を保持している。墓参りの際に"親族一同で集い墓ん中で宴会を開く"なんて事もザラだ。俺としては墓参りで花見よろしく飲み食い酔っ払うこの行事はどうにも苦手で、本州の慎ましやかな弔いの方が肌に合っているのだが。
言わずもがな、俺はこの沖縄という土地を好きになれない。
18年間この土地で生まれ育った俺が味わってきたのは楽観と排他の暴力的な連帯社会を地盤から形作るこの島の県民性であり、これと壊滅的に相性が悪かった事は今の俺の沖縄嫌いの根本的な主因に他ならない。故に俺は高校卒業と共に本州へと進学し、その後紆余曲折があった末に結局この島へと送り戻されている。
「……?」
違和感。というより騒音。
8分ほど住宅街を練り歩き、事前に貰った推定霊能力者の生活圏とされる座標はこの近辺である。置物の小さなシーサーが覗く閑静な家が並ぶ向こう側、控えめに見えるのは恐らくここ一帯の集団墓地へ続く曲がり角。
そこから、何か声が聞こえる。
耳を澄ましてみれば、何やらけたたましい叫び声である。
「……喧嘩か?」
速歩きで曲がり角まで辿り着き、その先を覗く。緑が所々から色濃く覗く、あまり手入れの行き届いていない古ぼけた墓地。足元にはハンガーに掛かったブレザーが複数散乱していた。
墓地の中心に4人。3人は中学生と思わしきガキであり、恐らく下校間際なのだと推測される制服ズボンにジャージの姿を野生児丸出しで晒している。
そして、1人の女。目には蛞蝓の様な隈、色褪せたジャージにタンクトップ、ついでに片方脱げたサンダル。一目見て分かるほど整った顔を全て無に帰す程の薄暗い何かを纏っている、ツラの良い貧乏神みたいな女。
「クソガキども!!てめえら全員呪い殺してやるからなあッ!!」
『やってみろよユタババア』
『こいつ警察に通報しようぜぇ〜っ』
『タッちゃんちに巣食う不審者確保!!死ね!!』
「殺す!!絶対に殺す!!」
「あたしはぁッ!!"最後のノロ"なんだぞ!!」
女はガキ3人にボコボコにされていた。
もう気持ちいい程にボコボコにされている。一人が抑え二人が蹴り飛ばす割と完成されたフォーメーション相手に泣きながら口だけ吠えまくっている。片手に持った煙草は潰れ。吐いていたサンダルは草むらへと転がり。蹴られまくった顔面はふてぶてしく腫れ。
俺が沖縄で初めて遭遇した推定霊能力者の女は、文字通り中学生相手に袋叩きにされていた。
「で、なんでこんな事してたのさ君達」
『だってタッちゃんちのお墓にいたんだって』
『おばあちゃんが供えたお酒だったんだよ』
「あたしは何もしてなかったのに」
『お前は本当に黙れよユタ』
この女カス野郎である。
流石に見てられなかったので喧嘩両成敗で全員シバいた後、始まった聞き取り調査の結果出た結論は以上であった。顛末としては"人様の墓に勝手に入り浸った挙げ句供えられていた酒を飲み散らかしていた"所を発見された故に起こった物であり、強いて誰が悪いかで言えば120%女が悪い。
その当人たる女はどっかりと墓地で胡座をかき、傷口に絆創膏(俺があげた)を贅沢に3枚重ね、腫れた頬を抑えながら何一つ譲る気の無い瞳で俺を見ていた。この状況でどうしてそんな顔ができるの? というよりコイツ呼称は
『ユタだよ』
「"ユタ"?」
『うん。コイツみたいな、霊だ何だって騒ぐ女をユタって呼ぶんだよ。だからこいつはユタ』
「あたしはただのノロだ!」
『うるせえぞユタ』
察した中学生が丁寧に教えてくれる。この感じ、近辺では有名な不審者として名を馳せてそうである。少し考えた末、取り敢えずガキ3名には200円を握らせてこの場を収めて貰う事にした。オラ行けガキ共。ありがとうなガキ共。
『おじさん警察とか何かなの?』
「まあお兄さんはそんな感じだよ」
『ユタ捕まるの?ざまあねえなユタ』
『牢獄でも元気にくたばれよユタ』
「死ね!」
ガキ共が駄弁りながら墓地を去っていくのを見届けてから、再度この女──ユタを見る。ずっとガキ共に立て続けていた中指が対象不在の迷子になって、力なく揺れた末に妥協で俺に向かっている。地面に軽くしゃがみ、ユタに手を伸ばした。
「───さて、ユタとか言ったな」
「アタシは玉城サキだオールバック」
「そうか。ユタ、あんたに用があって来た」
手を伸ばし返す癖にこちらを掴まないユタの手首を掴んで持ち上げる。立ち上がったユタは軽く伸びをしてから頭0.5個ほど足りない身長で俺にガンを飛ばしてきた。負けじと俺もガンを飛ばす。このカス野郎のペースに持ってかれる様な屈辱は、絶対、許せん。
「……オマエ誰だ?職は?」
「今は一応"蛇の手"の──」
そこまで言い掛けて止まる。いきなり蛇の手なんて胡散臭さ全開の組織名を出して拒絶反応を食らわないか懸念に思ったのもある。だがもう一つ、気づきもしなかった疑念がここに来て浮かんできていた。
俺は今の所アオの部下として働いているが、別に青大将のメンバーとして加わった訳では無い。一応青大将の傘下という訳ではあるが、冷静に考えれば明確に所属している"手"が一つもない宙ぶらりんの状態ではないか。俺自身図書館に身を置いている訳でもない。それでは果たして己が蛇の手だと名乗れるのだろうか?
俺は今"何"なんだろうか。数秒考えて取り敢えずで出した結論は、
「……無職だ」
「なんだよアタシと同じじゃねえか。ひゃはは」
「なんで好意的な反応が返ってくんだよ」
「いやそのキメたナリで無職ってお前……ふひっ」
「お前が本物の"最後のノロ"でいいんだな?違ったなら通報する」
人を馬鹿にし慣れているニヤついた笑顔が腹立たしい。不意の脅迫に中指を再装填したユタが吠える。
「アタシが最後のノロだ」
「根拠は」
「ある。家にな!」
だからお前は何の用なんだと指を刺すユタに対して「俺は国頭改だ」と何の解答にもなってない解答を返しながら歩きだした。目的地は当然コイツの家だ。
「クニガミカイだからなんなんだよ!通報するぞテメェ」
「根拠見せたら近くのソーキそば大盛1杯奢ってやる」
「交渉成立だな。ヤニも頼む」
承った。さてはこの女ド級の阿呆である。
沖縄列島は孤島国家たる日本国の中でも事更に孤島であり、その立地から正常性維持機関の手が届きづらく、混沌と化している。
とは言えど、財団やGOCともなればそこを解決する手立てはありそうなものだが、これは紆余曲折の末に落ち着いた一応の理由と、地政学由来の優先順位の問題がある、とアオは言う。
戦後沖縄。アメリカの占領下に置かれたこの地は、もっぱら占領地経済の展開と大陸監視の要衝としての役割を期待され、米軍基地をGOCの隠れ蓑に超常監視が行われた。GHQ統治下の文化調査は、御嶽やシャーマン文化に関する初期要件に留まり、未知の超常に関する調査は二割にも満たなかったそうだ。
日本が国連に再加盟した50年代半ばごろには沖縄地域におけるGOCの権力優勢は徐々に崩壊し、以降は段階的に財団日本支部の権力優勢が明確になっていた。1972年の沖縄返還時、政府の移動に伴う、81管区と財団本部の権限的不平等に端する対立と対話の結果、沖縄の管理権限が財団日本支部に移譲され、続く日米地位協定により、嘉手納飛行場を財団日本支部、普天間飛行場をGOC極東部門に分与したが、沖縄地域全体の対応面積に対してGOC極東部門と財団日本支部の双方ともに分与範囲が少ない。これは米国政府およびペンタゴン、UIUの要求が米軍の敷地面積の最大化であり、現状、GOC極東部門と財団日本支部にそれぞれ沖縄南部の飛行場基地を貸与するにとどめていることに起因する。
現状、沖縄は最低限の人員配置と米軍による相互監視状態のもと超常管理を行っているが、米軍は侵犯勢力の対応が頻発しスクランブル発進が多く、GOCと財団は島内に存在する有村組等、要注意団体の超常が顕在化した際に赴いたり、侵攻勢力を相手取った水面下での捕物に人手を割かれている。
そのため、いずれの正常性維持機関も、現在に至るまで島内に眠る異常存在に対しては手薄であり、受け身。
加えて、太古から人類の流動の結節点であり、文化も大きく入り乱れている。
ゆえに、在野の超常が未だ近くに眠っているかもしれず、俺はそれらを見つけ出し、保護するためにこの地の土を踏んだ。
「──ここか」
「ここだが?」
そこそこに車の交通量が多い道から更に二本ほど道路を挟んだ路地裏。コンクリート打ちっぱなしの無機質かつ薄汚れた長方形の建物が並ぶ通りに、ユタの家はあった。
ぱっと見で認めたコイツの人となりからは些か意外な程に大きな家だった。門の体を為すコンクリのブロックの上には、漆喰で作られた一対のシーサーが厳かな目で俺を睨んでいる。足元を見れば、割と立派な石敢當が伸びた雑草の陰で存在を主張していた。門の向こうにはそこそこの広さをした庭が設けられている。
「根拠が見たいんだっけ」
「本物の超常保持者であるかの確認ができればそれでいい」
「あたしが最後のノロだ」
「いやそれは分かってるんだって」
ユタは門の隣を抜け、膝まで容易に届く程の雑草が支配する荒れた庭をずんずんと突っ切っていく。目指すは小さな縁側が設置された窓である。
がらりと窓を乱暴に開け、サンダルを脱ぎ捨て室内へと入場。最早慣れ切ってるであろうその所作に半ば呆気に取られるも、軽く手招きするユタを前に真顔を貫きながら追随する。縁側に上がり、雑草に腕を突っ込む形で靴を揃え、室内に向けて振り返った。
広がっていた和室はジャージやら下着やらが散乱し、微かに開いた襖の向こう側──おそらくリビングからは更なる混沌の地獄が察せられた。俺の眼前には足の踏み場があるかないかの部屋をさしも気にせず突き進む、ユタの背中がただ存在していて。
「一人か」
打算の含まれない、ただ丸裸の言葉が不意に零れていた。
「違う」
返ってきた応答は簡潔で、嘘をついている素振りは見受けられなくて、それでいて決定的に嘘くさかった。やけに広い家の割に一人分を超えない生活感だけが満ちている辺り状況証拠から導かれる解は"一人"ではあるのだが、言葉を紡いだユタに嘘を言っている気配は無く、様子観察から導かれる解は"一人"ではない。それでいて、理論もクソもない俺の勘だけは彼女の事を"独り"であると言っていた。
不思議な座りの悪さがある。
決定的に何かが見えていないような、そんなもどかしさがある。
和室の中、唯一小綺麗を保つ領域。床の間に置かれている物。一目見て圧倒的な異質を放つそれが目的地の核であると確信が出来た。それは随分と古い日本刀、にしては随分と刀身が短いそれは。
「────脇差?」
その脇差は目測60cmほどであり、俺のそこそこ浅い知識を参照する限りかなり昔からある部類の得物である。ユタが脇差を少しぶっきらぼうに持ち、こちらへと突き出してきた。
「俺に持てと」
「ん」
「持ったら何か分かるのか」
「いいから持てよダボ」
「クソ女……」
差し出された脇差に対して手を伸ばす。
そうして、その鞘を確かに掴んだ。
「……そう来るか」
汚い部屋、仏頂面で脇差を押し付ける女と、片手を伸ばし鞘を握りしめる俺、その手元と同じ高さに頭を置いて天地逆さまに浮いている鎧が一人。
一人。
もう一人、知らぬ存在が増えている。
目線を片時も離すまいとガンを飛ばすと、その落ち窪んだ眼球をぐるりと動かして、目が合った。彫りがそこまで深い顔立ちではないが、しかし肉がこけて目元には影が落ちている。とても身綺麗とは言えない鎧は、ところどころ欠け、剥げていて、しかし家紋と思しき金糸の紋だけは、周囲のそれと比較して小綺麗に整っていた。
「つまりこいつ……この人?が」
「根拠だよ」
数回鞘から手を離してみて、以降ずっとそれが見え続けていることを確認し、釈然としないものを感じながらもユタの方を見る。
それみろとばかりに得意げな気配を駄々漏らせていた。「だから何だよ」とは辛うじて返す気になれないツラ。絶対に俺が幽霊初見だと思ってんだろうな。実際その通りですよ馬鹿野郎。緊張と動揺を顔に出すまいと真顔で質問に移る。
「……こいつの説明は?」
「平タイラ」
「……説明は?」
「だから平だって」
「もう名前教えるフェーズは終わったんだよ」
困った。このクソ女、自分が最後のノロたる所以であるこの神霊に対して、名前以外の理解を持たないらしい。
どうしたものか、先ほどから掛け合いに合わせて目玉だけ行き来させ続けるこの鎧武者に、目を向ける。
「あー、喋れるんすかね、平さん?」
「……いかにも」
暫しの間を置いて、平が口を開いた。
声は、確かに空気中の振動を介したもので、アルファ値7〜80パーセントくらいの肉体のどこからどう発声しているのかはわからない。フリーランス時代に和歌山を回っていた頃本物の“木霊”と遭遇したことがあるが、感覚的にはアレとの対話に近かった。通信デバイスを介さず直接鼓膜を揺らされているような。
ちゃんと会話が成立するだけ奴らよりはマシな類か。Z軸を基準に身体の上下を正して開けっぱなしの縁側の方へ移った平は、質問を待つように俺を眇めた。社会人時代に付き合いのあったCAD土方がblenderで似たようなオブジェクト操作をやっていたのを思い出す。人間でない点は置いといてとして現実でこの動き再現できる奴いるもんなのか。
「……本名は」
「捨てた」
「質問を変えよう。何者だ?」
「ただの流れの落武者だ」
「平というからには、平家か?」
「眇眇たることだが、そうともいうな。私が話せることはそこのサキも知っていることだ。生者同士の方が話も弾もう」
驚いた。生きた女より死んだ落武者の方が話が通じるらしい。とすればこの女の社不ぶりは怪異以上ということになる。そもそも何で幽霊と会話するだけで人間以上に安心感を覚えなきゃならんのだと内心愚痴りながら、片方の鼻の穴に指を突っ込み明後日の方角を眺めるだけのユタを一瞥した。
100%の予感が120%の確信に変わる。溜息すら出ない。2年ほど前に派遣先の顧客が「出会った瞬間から10秒以内に人間の印象が固定化される」云々の通説を擦り散らかしていたが、出会って凡そ15分経った今も印象の下方修正を実現してくれたコイツを落ち武者共々今すぐ見せてやりたい。
「……アンタの方が話しやすそうだ。このまま頼む」
「望むのならそれでも構わんが。私もサキ以外の生者と話を交わすのは久方ぶりだ。不慣れを許してほしい」
「お構いなく。遅ればせながらお邪魔してます」
して、何を聞く? と問う平に、手始めに純粋な疑問をぶつけた。
「なぜ平家の落武者が遠く南の離島で憑き物なんかやってるんだ」
「流れ着いたのだよ。知らぬでも無理はないと思うがね。この島には度々外のものが流れ着く。人も、物もな。それをこの土地では賓まれびとなどと言って丁重に扱うわけだが、私はこの地でどうにか命を繋ぎ、ここで没した」
「アンタとこの女との関係は?」
「先祖であり、一族の守護、サキは末裔に当たる」
「踏み込み過ぎた気がしないでもないんだが……」
「話す機会がようやく巡って来たともいえる。気にする必要は無い」
壇ノ浦合戦の後行われた源家による平家敗残兵狩りは、苛烈を通り越してもはや惨酷を極めたと何かのドラマでやっていた。沖縄に落ち延びた後も連中を恐れて苗字を捨てたのだとしたら合点が行ったし、その後ノロに……琉球王国が公的に認めるシャーマンの家に籍を移したとなれば猶更のことか。昔も昔の事過ぎて心境の想像には至らないが、事情がどうあれ推定クラス4の仮想怨霊として1000年近く留まるのには十分な理由なのかもしれない。地位と名前を手放し、異世界さながらの孤島で第二の人生を閉じたとなれば素直に昇天できないのも当然だ。
名にはともあれ相手が相手である。少なくとも今まで出会ってきた他人の中ではブッ千切りの年上なわけで、物思いに更けず会話に集中しろ言われてもやや無理がある。続けて質問すべきだったのに、開いた口を塞ぎ切る前に今度は平が“口”を動かした。
「お主、名は何と」
「……国頭改。どう呼んでもらっても構わない」
「姓はこの島のものだが、人として見ればとてもそうは見えぬな。なぜここへ来た?」
本題は、あちらが口火を切る形だった。人生の大先輩相手にここまで自己紹介が遅れたのも申し訳ないが、それを先に言われてしまったのも臨時首領という職責を預かる以上良くないことだ。気を取り直せ。端的にこちらの目的を伝えろ。社会人になっても超常フリーランス化しても業務中の対人コミュニケーションの核は変わらない。
「沖縄諸島におけるアンタのような未確認超常の確認と、必要な場合それらの優先保護を行うため本土から派遣された人間だ」
「保護? この前の大戦の後、嘉手納と普天間に陣をこさえた連中か」
「どちらにも与するつもりは無い」
嘉手納は財団の偽装収容サイト、普天間はGOCの総合任務ステーション。第二次世界大戦後の沖縄返還時に、この地は二大正常性維持機関、及び彼らに広大な敷地と偽装網を貸与する米軍の監視下に置かれた。しかし彼らは、島内に眠る異常存在に対しては諸般の事情から積極的に手を割かずにいる。理由は単純。緊急時はJAGPATO指揮下に加わるらしい在日米軍と自衛隊の一部部隊を総動員したとしても、土地面積と仮想敵に対し圧倒的に人員が不足しているからだ。
連中に同情する気は一切無いが、実際に2本の足で立ってみれば嫌でも実感できる。この島は小さい癖に広すぎるのだ。本島ですら東京23区を2個ぶち込んでもまだ余裕がある上に、諸島を構成する島々も無人島を含めれば700個に迫る。自然保護区と定められた未開拓の原生林も無視できない。こんな環境下でハナっから人員不足を抱えたまま超常に対する攻勢を確立するなど、能動的な対処任務を行うなど無理がある。図書館の連中が補足している限りの事例禄を散々閲覧してきたしてきたが、沖縄における正常性維持機関の行動記録はそのすべてが後手の後手であったと言っても過言ではない。
否、別に連中に限って言えた話でもなかったか。連中と違って、俺の場合この島相手に単身で喧嘩しに来ているようなものなのだから。
「俺た……俺は“蛇の手”という組織を代表してこの場にいる」
「知らん名だな。しかしどうも聞き覚えはあるような……」
「長い間沖縄を離れていたもんでな。第一陣が壊滅したのは俺が生まれる半世紀も前らしい」
「然らば70年ぶりの再上陸ということか」
「全くその気がしないんだけどな。図書館の連中が言うには基底現実部 旭東列島方面隊沖縄分派 第2代首領ってやつらしい」
「……?」
「……超常的な人権保護組織の臨時責任者ってとこです」
「合点がいった」
──彼の地で待つ彼等の寝床を、潜む草藪を、居場所を。お前が作ってやってくれ。
このクソみたいな孤島に立つ前に預かった期待。
未だ野放しの彼らを、認知もされず、外圧のどさくさで破壊され、追われ、孤立する彼らを。一つ一つ拾い上げるのが、俺に課せられた仕事という次第。
一通り話してもう一度ユタの方を見る。明後日の方を見つめながら別の指を鼻の穴に突っ込んでいた。逆に何故そこまで俺に興味が湧かないのか教えて欲しい。幽霊より怖いのが人間ってそういう意味じゃねえだろ。
「……アンタが保護対象第2号だ。重ねて言うと俺は連中サイドの人間じゃない。少なくともアンタら2人を危険に晒すつもりが無いことは保証する」
「ふむ」
「質問は」
「保護というのは」
「アンタらの──」
言いかけて止まる。
そういや“保護”って何だ。
今日1日で蛇の手の優先保護対象……人間的な自我と理性を持ちながら人間の理を外れた存在、所謂ヒトガタの野良2名と遭遇できた。上出来だ。上出来じゃないか。アキバのジャンク屋で通信機を拾ったのもそうだが、この手の事案に関して何らかの嫌な縁があるのかもしれない。それでも蛇の手分派が臨時首領としての職責は上陸後わずか数時間で十二分なまでに果たしている。
果たしてはいるんだが……
「……アンタらの」
「……我々の?」
アオさん、アンタにとっての職責って何だ?
悪い流れだ。ここで言葉に詰まるような人間を誰が信用する?人権保護組織を騙る行動方針フワフワの何かであると自己紹介しているようなモンだぞ。
「……」
気配!破壊!逃走フェーズ!
迷いなくすっ飛んでいった脇差は、平を貫通し、下緒を軌跡にたなびかせながら、見事庭先の何かを討ち取った。
それが何なのか判断する前に、反射神経の赴くままに仕留めてしまったが、一体全体、人の敷地に不法侵入するとはどこの不届きものか。
踏み場のない床の座布団やら下着やらに足を滑らせながら、そそくさと縁側まで出て下を覗けば、どうやら人間である。クソ女の追っかけか、家賃取立てか。まさかこの沖縄の適当さ具合を鑑みれば税務署などということはあるまいとは分かるが、流れるようにパンツのポケットから手袋を抜き出して、躊躇なく胸元を漁って指先に触れる冷んやりとした物に一瞬手が止まった。
チャカだ。こいつ。
抜き取った黒いそれの表面を軽く眺め回し、手早く射線管理を怠らずに周囲に注意を払う。
「変なことはすんなよユタ」
「は?」
「は?」
まるで予想外、忠告が来るなど毛ほども思っていないような間抜けな声に、おろした目線の先。
ウンコ座りで財布から金を抜き取っているユタ。
純度100パーセントの強盗。そして俺は、共犯。
「おま、なにや……っバカやろッ!」
「何って家賃徴収してるだけだ」
すぐさまひったくったが、とっくにポッケナイナイされている。終わった。
現実逃避がてらざっと確認したカード類、その中の一つに目が留まる。
見覚えのある、我々の世界では光圀公の御印籠たるマークは、三ツ矢。さらに終わった。
それを見た瞬間から、己の思考はひたすら三十六計を弾き出し、その場に置いてある錆びに錆びたチャリに命運を託す。
幸いにも差しっぱなしの鍵を確認し、
「おいクソ女! ユタ! タンクトオォォップ! 早く乗れお前ェ!」
と持ちうる呼び名全てでそこの元凶であり、優先保護対象である女を呼びつける。
「何なんだよ急に。こいつが何だって?」
「何でもいいから乗れってんだよォ!」
「チャリ2ケツしたら私のケツが痛ぇじゃんか」
んなこと言っている場合ではないと言うておろうに、こんのアマ。
流石に日頃からガキどもにフルボッコにされているだけある。度胸だけなら俺より座ってやがる。
しかし、パンピーのクソ度胸で敵う相手にも限りがあろうと言うもの。今回は明確に蛮勇である。俺の三十六計に、こいつの危機感の欠如は織り込まれていなかった。
堪らず辺りを見回して、傍らの平に縋る視線を寄越したのだが、どうやら最適解を引いたらしい。
「承知」
そんな頼もしい返答をしたかと思えば、次の瞬間には姿がかき消え、代わりに蝶を脳天に生やしたアホみたいな面のユタが俺のスタンバイ済みの背中に飛び付いてくる。話が早い。
持つべきはアホの人間よりも話の合う落武者の霊である。
背中に確かな重みを受けて、腹の前でホールドされたことを確認するや否や、全力でペダルを前に踏み込む。
──おっも。
ぎりぎりとべダルの軸が嫌な音を立てている。思わず見た真下では、赤錆がさながらシャケフレークのように石灰質の砂利にふりかけしていた。
それでも敷地を出る頃には何とか全盛期の5割くらいの能率を確保し、頬を生ぬるい風が撫でる。
風を切る爽快感がねェ。
この辺りの土地勘なんてものも無く、リュックに制服をハンガー掛けしたガキどもが、巾着を振り回し、明らかこちらを指差して囃すのに対して中指立てる暇もない。一瞬振り向いた時、黒のレガシィが見えた。ガラスの反射具合から判断するに50口径対応の防弾仕様。もう隠す気もないらしい。米軍ですらあんなものは公的に保有していない。財団の追手だ。住宅街の下り坂を無心で駆け降りている。
この既視感、さながら時をかける少女。なら俺はこのあと踏切にでも突っ込むとでも言うのか。しかし沖縄には鉄道がない。沖縄でよかった。
兎にも角にも、早いうちに角をいくつか曲がらなければ。直線では太刀打ちできない。現にガキどものバッドマナーが幸いして思うように走れていない追手であっても、確実に距離が縮んできている。
入れそうで、且つなるべく細い路地を見繕って、ハンドルを捌く。
キィーッ
もう一丁。
キュイーッ
今度は右に。
キュキュキュキュキュ
ほんと終わってるこのチャリ。
「クソが!!」
「……思うに」
「手短かにどうぞ!!」
「降りた方が速いかもしれんな」
「その通りかと!!!」
社畜の俺が久しぶりに浮上してきた。駄目だ。柄にもなく気が動転している。チャリから身を翻し素足で走り出した社会不適合者に先導され、数回転を経て若干軽くなったペダルを漕ぎ続ける。
財団の連中に追われるのはこれが人生四度目だ。一度目はアオさんとの出会い。二度目はその直後の決意表明カーチェイス。三度目は行脚先でやらかした公安警察を交えての逃走劇。あの日の勝因は徒歩の敵に対し現地調達の原付でアドバンテージを取ったことだった。手元に残ったカードはスラックスによる減速デバフの掛かった徒歩か論外チャリ。後は──
「──どうした!?」
「喫煙者の身体では無理があったらしく」
現在進行形で肩で息切らしてるヤニカス女と、恐らく憑依以外で物理的な干渉手段を持たない平安期の落ち武者地縛霊。詰んだ。明らかにサイズの適していない道路をレガシィがお構いなしに突っ込んでくる。
やるしかない。この世界に転身して以来一度も踏むことのなかった最悪の状況と向き合う必要がある
[こっから先ロックに戦闘任せる/v vetman bonanza baznag]
「はァ!?」
やりやがった。コイツらも伊達に正常性維持の最前線を担ってるわけじゃないってことらしい。頭では理解できていても実際にその実力を目にする機会はついぞ無かったわけで、いざその覚悟を見せつけられると恐怖より先に感嘆で頭が染まる。少なくとも俺は、超常を知る前の俺は、こういう連中が汗水垂らして繋いできた平穏を何も知らないまま生きてきたわけだ。
ハンドルの接合部、シフトレバー、運転席に内在するほぼすべての可動部から煙が上がっていた。鍵の挿入口に至ってはプラスチック部分が解けて黒ずんでいる。遠隔操作による自壊処理。負ける前にしっかり移動手段を潰してきやがった。チャリか徒歩の二択に逆戻りだ。
「」
「」
だめだ眠い頭じゃコントにしかならねぇ。うまい具合に書いてけろ/by kihaku
01. 喧噪序説
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