日本列島における蛇の手活動の基盤は、若き青大将と良き協力者らによって築かれた。
しかして未だ彼の地に蛇は在らず。 —AO.
梅雨明け最初の日差しにオールバックを焦がされ、ため息交じりに顔を上げる。那覇の喧噪が馬鹿みたいに広がっていた。
空港を出て2歩目のことである。凡そ一月後に夏休みシーズンを控えながらこの有様だ。道々を蠢く多様の人、人、人。そして俺。この場にいる誰よりもこの地を愛し難い俺が1人。数秒も立ち止まることを許さない混雑に紛れて市街に零れ落ちる。
「クソ!」
小さく悪態づいた。正常性維持機関の工作員には現状引っ掛かっていない。仮に羽田からこの地に至るまでのルートを事前に捕捉されていたとしても今からこちらを捕えるメリットは一切無いと信じ、残り少ない空席タクシーのケツを小走りで追いかける。豊見城とみぐすく市までは約5.8km程。1時間歩いてやってもいいが何にしろ車を使う事を覚えないとこの地では生きてはいけない。電車を知らん土地、沖縄。拗れた歴史と文化の終着点たる土地、沖縄。
国頭くにがみ 改かい。御年25歳にして生まれ育った離島に蜻蛉返りする羽目になった世知辛い青年がこの俺である。
「高嶺までお願いします」
「あい。お兄さん観光ですかぁ」
「仕事です。腹立たしい事に帰省も兼ねてます」
「あぁ帰ってきたんですねぇ。いい所ですよ豊見城は」
滑り込みで捕まえたタクシーの運転手との雑談を緩やかに躱しながら後部座席に座る。動き出す車体と流れる視界。心地いい揺れと無言の最中、耳鳴りの様に幽かな残響が語りかけてくる。
『理由と結果の逆転。それを恐れるなよ、カイ』
声。車内の効きすぎた冷房とは類の違う、冬の朝の様な冷たい声。振り払う様に首を振る。すると、運転手は何かを察した素振りでクーラーの温度を2度下げた。何も察せちゃいない。
アオと名乗るその女性と出会ってから凡そ1年。トラックでの逃走劇からは今日で372日目だ。超常社会のガラクタに文字通り手を出した事こそが今の俺が置かれた状況を作り出した全ての原因であり、そこから僅か1年の間に随分と数奇な経歴を辿る事になってしまった。
負号部隊が遺した媒介不明の通信装置──全国に埋まるそれらの復旧が俺に課せられた研修内容だった。正常性維持機関による傍受のリスクを排した通信インフラは現状満足に整備されておらず、青大将がマークして確保していた負号部隊産のそれも既に壊れている上に原理も復旧手段も不明という有様で、ある。あった。俺が半ば偶然に近しい形で「原理不明のまま超常を超常として動かす復旧手段」を確立させるまでは。
そこから先は特段語ることも無い。青大将の庭の草叢を仮宿とさせてもらいつつ、負号部隊のクソ装置を直しに全国をひたすら行脚した。アオの仲介で遠野に踏み入ったり知床でGOCに探知されかけたり穴蔵で死にかけたりしたが、重要なのは3点。どうやらこの研修で俺は青大将──ひいては"図書館"に巣食う一部のお偉いさん方──に一人の「手」として認められたという事。そして、装置未復旧の最後の地がこの沖縄であるという事。
更にもう1つ。
『沖縄には未だ手がいない。あの狭い孤島で、訳も分からず震えている奴は必ずいるんだ。今尚、数多く』
これは幾度目かの図書館からの帰り道。タクシーの冷房よりずっと無機質で、それでいて温かみのある出口の"道"で聞いた話だった。理由は多くあるとも、今までのアオの力ではどうしても手を付けることができなかったとも。
『だから』
今も尚、あの時のアオの口ぶりの重さはよく覚えている。無力感を自省すると同時に展望を切り開こうと藻掻くような、ゆっくりと噛み締めるようなそんな口振り。つまり、その任を俺に託したかったのだろう。
だからアオはこう告げて、静かに笑った。
『彼の地で待つ彼等の寝床を、潜む草藪を、居場所を。お前が作ってやってくれ。カイ』
"カイ"
イニシャル: KI
種族: 人間
性別: 男
生年: 1999/06/12
職責: 臨時首領
参入2年目の超常新社会人。今は一応"青大将"の工作員。
役目はオーパーツ修復。
ついでに、新規傘下組織の発足人。
それが俺だ。にしては些か力不足な気がしてならないが、ともかくこれから繰り広げられるすべての根本的な仕掛け人は俺という訳である。
タクシーから降りて街を一瞥する。
料金にして3400円。とてもじゃないがさっさと車を用意しないとやってられん額だ。その事実、及び暑さに顔を顰めながら古びた街をずんずんと練り歩いていく。俺は沖縄の蛇達の臨時首領として任された。なんでよりによって沖縄なんだと言いたくもあるが、彼女との約束であるからにはキッチリ遂行するまでである。
スマホのメモ帳を開く。今回の任務、"沖縄の手"として最初の頼まれ事──どうやらこの間抜けな住宅街近辺にいるらしい「最後のノロ」を名乗る人物の調査。そして可能なら推定霊能力者との接触。元々の仕事であった親機の修復をこの島における最終目標とすれば、今はそこに辿り着くための基盤を作るターンだ。
「自称ノロのエセ霊媒師なんつうのは沖縄の固有種みたいなもんで、無数に生息してるんじゃないすか」
『無駄骨を折らせるつもりはない』
「信用に値するから困るんですよ」
舌打ちが漏れる。他ならぬ己の能力不足に対してだった。勝手に過去の会話を思い出して勝手に苛つきながら、思わず煙草を探す自らの右手にもついでに皺を寄せる。PM3:00の傾きかけた日差しで微妙にくすんだ緑が覗く崩れかけのブロック塀を越えると、街の外れに建てられた誰かの墓がポツンと姿を現した。
沖縄の墓はデカい。個人の墓一つ一つが塀に区切られた小さな社の形を成しており、社の前に設置されたスペースも含めて大人6人が平気で居座れる程度の区画を保持している。墓参りの際に"親族一同で集い墓ん中で宴会を開く"なんて事もザラだ。俺としては墓参りで花見よろしく飲み食い酔っ払うこの行事はどうにも苦手で、本州の慎ましやかな弔いの方が肌に合っているのだが。
言わずもがな、俺はこの沖縄という土地を好きになれなかった。言うならば、本能的に受け付けないものがあった。
18年間この土地で生まれ育った俺が味わってきたのは楽観と排他の暴力的な連帯社会を地盤から形作るこの島の県民性であり、これと壊滅的に相性が悪かった事は今の俺の沖縄嫌いの根本的な主因に他ならない。故に俺は高校卒業と共に本州へと進学し、その後紆余曲折があった末に結局この島へと送り戻されている。
「……?」
違和感。というより騒音。
8分ほど住宅街を練り歩き、事前に貰った推定霊能力者の生活圏とされる座標はこの近辺である。置物の小さなシーサーが覗く閑静な家が並ぶ向こう側、控えめに見えるのは恐らくここ一帯の集団墓地へ続く曲がり角。
そこから、何か声が聞こえる。
耳を澄ましてみれば、何やらけたたましい叫び声である。
「……喧嘩か?」
速歩きで曲がり角まで辿り着き、その先を覗く。緑が所々から色濃く覗く、あまり手入れの行き届いていない古ぼけた墓地。足元にはハンガーに掛かったブレザーが複数散乱していた。
墓地の中心に4人。3人は中学生と思わしきガキであり、恐らく下校間際なのだと推測される制服ズボンにジャージの姿を野生児丸出しで晒している。
そして、1人の女。目には蛞蝓の様な隈、色褪せたジャージにタンクトップ、ついでに片方脱げたサンダル。一目見て分かるほど整った顔を全て無に帰す程の薄暗い何かを纏っている、ツラの良い貧乏神みたいな女。
「クソガキども!!てめえら全員呪い殺してやるからなあッ!!」
『やってみろよユタババア』
『こいつ警察に通報しようぜぇ〜っ』
『タッちゃんちに巣食う不審者確保!!死ね!!』
「殺す!!絶対に殺す!!」
「あたしはぁッ!!"最後のノロ"なんだぞ!!」
女はガキ3人にボコボコにされていた。
もう気持ちいい程にボコボコにされている。一人が抑え二人が蹴り飛ばす割と完成されたフォーメーション相手に泣きながら口だけ吠えまくっている。片手に持った煙草は潰れ。吐いていたサンダルは草むらへと転がり。蹴られまくった顔面はふてぶてしく腫れ。
俺が沖縄で初めて遭遇した推定霊能力者の女は、文字通り中学生相手に袋叩きにされていた。
「で、なんでこんな事してたのさ君達」
『だってタッちゃんちのお墓にいたんだって』
『お婆ちゃんオバーが供えたお酒だったんだよ』
「あたしは何もしてなかったのに」
『お前は本当に黙れよユタ』
この女カス野郎である。
流石に見てられなかったので喧嘩両成敗で全員シバいた後、始まった聞き取り調査の結果出た結論は以上であった。顛末としては"人様の墓に勝手に入り浸った挙げ句供えられていた酒を飲み散らかしていた"所を発見された故に起こった物であり、強いて誰が悪いかで言えば120%女が悪い。
その当人たる女はどっかりと墓地で胡座をかき、傷口に絆創膏(俺があげた)を贅沢に3枚重ね、腫れた頬を抑えながら何一つ譲る気の無い瞳で俺を見ていた。この状況でどうしてそんな顔ができるの? というよりコイツ呼称は
『ユタだよ』
「"ユタ"?」
『うん。コイツみたいな、霊だ何だって騒ぐ女をユタって呼ぶんだよ。だからこいつはユタ』
「あたしはただのノロだ!」
『うるせえぞユタ』
察した中学生が丁寧に教えてくれる。この感じ、近辺では有名な不審者として名を馳せてそうである。少し考えた末、取り敢えずガキ3名には200円を握らせてこの場を収めて貰う事にした。オラ行けガキ共。ありがとうなガキ共。
『お兄さんニイニイは警察とか何かなの?』
「まあ大体そんな感じだな」
『ユタ捕まるの?ざまあねえなユタ』
『牢獄でも元気にくたばれよユタ』
「死ね!」
ガキ共が駄弁りながら墓地を去っていくのを見届けてから、再度この女──ユタを見る。ずっとガキ共に立て続けていた中指が対象不在の迷子になって、力なく揺れた末に妥協で俺に向かっている。地面に軽くしゃがみ、ユタに手を伸ばした。
「───さて、ユタとか言ったな」
「アタシは玉城サキだオールバック」
「そうか。ユタ、あんたに用があって来た」
手を伸ばし返す癖にこちらを掴まないユタの手首を掴んで持ち上げる。立ち上がったユタは軽く伸びをしてから頭0.5個ほど足りない身長で俺にガンを飛ばしてきた。負けじと俺もガンを飛ばす。このカス野郎のペースに持ってかれる様な屈辱は、絶対、許せん。
「……オマエ誰だ?職は?」
「今は一応"蛇の手"の──」
そこまで言い掛けて止まる。いきなり蛇の手なんて胡散臭さ全開の組織名を出して拒絶反応を食らわないか懸念に思ったのもある。だがもう一つ、気づきもしなかった疑念がここに来て浮かんできていた。
俺は今の所アオの部下として働いているが、別に青大将のメンバーとして加わった訳では無い。一応青大将の傘下という訳ではあるが、冷静に考えれば明確に所属している"手"が一つもない宙ぶらりんの状態ではないか。俺自身図書館に身を置いている訳でもない。それでは果たして己が蛇の手だと名乗れるのだろうか?
俺は今"何"なんだろうか。数秒考えて取り敢えずで出した結論は、
「……無職だ」
「なんだよアタシと同じじゃねえか。ひゃはは」
「なんで好意的な反応が返ってくんだよ」
「いやそのキメたナリで無職ってお前……ふひっ」
「お前が本物の"最後のノロ"でいいんだな?違ったなら通報する」
人を馬鹿にし慣れているニヤついた笑顔が腹立たしい。不意の脅迫に中指を再装填したユタが吠える。
「アタシが最後のノロだ」
「根拠は」
「ある。家にな!」
だからお前は何の用なんだと指を刺すユタに対して「俺は国頭改だ」と何の解答にもなってない解答を返しながら歩きだした。目的地は当然コイツの家だ。
「クニガミカイだからなんなんだよ!通報するぞテメェ」
「根拠見せたら近くのソーキそば大盛1杯奢ってやる」
「交渉成立だな。ヤニも頼む」
承った。さてはこの女ド級の阿呆である。
沖縄列島。
閑話、たった今現在俺とユタがその足裏を踏みしめる、このクソ暑い土地についての話をする。表社会においてもその特殊な立地や歴史・文化から日本国という枠組みの中で浮きに浮きまくっている当列島であるが、一度「超常社会」という観点からこの土地を見てみるとどうであろうか。即ち、混沌である。
混沌である。そう形容できる理由として、単純かつ最大のものが一つ。孤島国家たる日本国の中でも事更に孤島であるその立地から、正常性維持機関の手が決定的に届きづらいのだ。とは言えど、財団やGOCともなればそこを解決する手段は容易にあるのではないか、というのは妥当な反論として挙がるだろう。半年前の俺だった。
『単純な話じゃないんだ。これには相応の紆余曲折と、地政学由来の優先順位の問題がある』
アオは言った。どうやら、話は第二次世界大戦まで遡る。オキナワという地の、決定的なターニングポイント。
戦後沖縄。アメリカの占領下に置かれたこの地は、もっぱら占領地経済の展開と大陸監視の要衝としての役割を期待され、米軍基地をGOCの隠れ蓑に超常監視が行われた。当時のGHQによる文化調査は、御嶽やシャーマン文化に関する初期要件に留まり、未知の超常に関する調査は二割にも満たなかったそうだ。そもそもの話、殆どが戦火で焼けてしまったのも理由の一つだと思われる。
その後日本が国連に再加盟した50年代半ばごろには沖縄におけるGOCの権力優勢は徐々に崩壊し、以降は段階的に財団日本支部が沖縄内のパワーバランスを握っていく。そして迎えた1972年、沖縄返還。政府の移動に伴う81管区と財団本部の権限的不平等に端するイザコザの果てに、沖縄の管理権限が財団日本支部に移譲された。
そのまま日米地位協定により、嘉手納飛行場が財団日本支部、普天間飛行場がGOC極東部門に分与された訳だ、が。県民なら考えずとも一発で分かる通り、沖縄地域全体の面積に対してGOC極東部門と財団日本支部の双方ともに「分与範囲が極端に少ない」。財団本部、GOC本部───何より"米国"との軋轢が生んだ圧力からだった。
以上の経歴を経た今、沖縄は最低限の正常性維持機関陣営と米軍による相互監視状態のもと超常管理が行われている。がしかし米軍は侵犯勢力の対応が頻発しスクランブル発進が多く、GOCと財団は島内に存在する超常ヤクザなどの要注意団体が顕在化した際に赴いたり、侵攻勢力を相手取った水面下での捕物に只でさえ最低限の人手を割かれている。拗れた歴史の割を食わされているのは財団もGOCも変わらないのだ。
そのため、いずれの正常性維持機関も、現在に至るまで島内に眠る異常存在に対しては手薄であり、受け身。
一方で第二次世界大戦で蛇の手なども駆逐され、その立地ゆえに再建は禄に叶っていない。
加えて、太古から人類の流動の結節点。
文化、物流、勢力。全てが入り乱れる島。
混沌。
「──ここか」
「ここだが?」
そこそこに車の交通量が多い道から更に二本ほど道路を挟んだ路地裏。コンクリート打ちっぱなしの無機質かつ薄汚れた長方形の建物が並ぶ通りに、ユタの家はあった。
ぱっと見で認めたコイツの人となりからは些か意外な程に大きな家だった。門の体を為すコンクリのブロックの上には、漆喰で作られた一対のシーサーが厳かな目で俺を睨んでいる。足元を見れば、割と立派な石敢當が伸びた雑草の陰で存在を主張していた。門の向こうにはそこそこの広さをした庭が設けられている。
「根拠が見たいんだっけ」
「本物の超常保持者であるかの確認ができればそれでいい」
「あたしが最後のノロだ」
「いやそれは分かってるんだって」
ユタは門の隣を抜け、膝まで容易に届く程の雑草が支配する荒れた庭をずんずんと突っ切っていく。目指すは小さな縁側が設置された窓である。
がらりと窓を乱暴に開け、サンダルを脱ぎ捨て室内へと入場。最早慣れ切ってるであろうその所作に半ば呆気に取られるも、軽く手招きするユタを前に真顔を貫きながら追随する。縁側に上がり、雑草に腕を突っ込む形で靴を揃え、室内に向けて振り返った。
広がっていた和室はジャージやら下着やらが散乱し、微かに開いた襖の向こう側──おそらくリビングからは更なる混沌の地獄が察せられた。俺の眼前には足の踏み場があるかないかの部屋をさしも気にせず突き進む、ユタの背中がただ存在していて。
「一人か」
打算の含まれない、ただ丸裸の言葉が不意に零れていた。
「違う」
返ってきた応答は簡潔で、嘘をついている素振りは見受けられなくて、それでいて決定的に嘘くさかった。やけに広い家の割に一人分を超えない生活感だけが満ちている辺り状況証拠から導かれる解は"一人"ではあるのだが、言葉を紡いだユタに嘘を言っている気配は無く、様子観察から導かれる解は"一人"ではない。それでいて、理論もクソもない俺の勘だけは彼女の事を"独り"であると言っていた。
不思議な座りの悪さがある。
決定的に何かが見えていないような、そんなもどかしさがある。
和室の中、唯一小綺麗を保つ領域。床の間に置かれている物。一目見て圧倒的な異質を放つそれが目的地の核であると確信が出来た。それは随分と古い日本刀、にしては随分と刀身が短いそれは。
「──脇差?」
その脇差は目測60cmほどであり、俺のそこそこ浅い知識を参照する限りかなり昔からある部類の得物である。ユタが脇差を少しぶっきらぼうに持ち、こちらへと突き出してきた。
「俺に持てと」
「ん」
「持ったら何か分かるのか」
「いいから持てよダボ」
「クソ女……」
差し出された脇差に対して手を伸ばす。
そうして、その鞘を確かに掴んだ。
「……そう来るか」
汚い部屋、仏頂面で脇差を押し付ける女と、片手を伸ばし鞘を握りしめる俺、その手元と同じ高さに頭を置いて天地逆さまに浮いているものが一人。
一人。
もう一人、知らぬ存在が増えている。
目線を片時も離すまいとガンを飛ばすと、その落ち窪んだ眼球をぐるりと動かして、目が合った。彫りがそこまで深い顔立ちではないが、しかし肉がこけて目元には影が落ちている。とても身綺麗とは言えない着物は、ところどころほつれ、剥げていて、しかし家紋と思しき金糸だけは、周囲のそれと比較して小綺麗に整っていた。
所謂「落ち武者」姿の亡霊が、上下逆に俺の眼前で浮いていた。
沖縄列島。それは混沌の島、捻じれた歴史と文化の終着点。その余りにも不便極まる立地は独自発酵の自然環境と陽気で閉塞的な空気感を生み、それでいて絶妙に周辺国に届きうる立地は数多の勢力がn巴で睨みあう特殊な膠着状態を生んだ。
正常性維持機関が敷く秩序のレールは未だ届かず、超常組織の台頭は未だ遺る戦禍に阻まれる。
だから、全ては未だ息づいたままだ。
土着由来の超常が、ただ在るだけの妖モノとして。
2022年、沖縄。
超常最前線の在野に、今、俺は立っている。
そんな今更過ぎる事実を改めて目の当たりにした俺を他所に、視界の端からユタが入場してくる。俺と同じように脇差の鞘へとそっと触れたユタは、如何にも得意げといった顔をしていた。実際ぐうの音も出ないのは事実なので致し方のない事だ。
「……こいつは?」
「平タイラ」
「……説明は?」
「だから平だって」
「もう名前教えるフェーズは終わったんだよ」
数回鞘から手を離してみて、以降ずっとそれが見え続けていることを確認し、釈然としないものを感じながらもユタに疑問をぶつける。搾りかすみたいな返答が返ってきやがった。
つまる所俺の眼前に存在する彼奴こそがユタの言う「根拠」な事は自明である。そして、その証明はたった今強烈かつ明快に為された、という事でもある。以上から、まず俺が真っ先にするべき事。それは"国頭改"という存在が立つポジション、その立場についての意思表示な訳で。
「……取り敢えず認めるよ、ユタ。あんたらは俺の保護対象だ」
「あ?」
「保護対象、とな」
ちょっと待て喋れんのかよコイツ。ユタからの要領を得ない反駁は易々と予想できていたが、流石に目の前の推定幽霊がさも当たり前かの様に現代語をぶつけてくるのは想定外である。思わず滅茶苦茶ツラを顰めながら"平"の顔面を睨みつけてしまった。
変わらず目玉だけギョロギョロと動かす平が、Z軸を基準に身体の上下を正して開けっぱなしの縁側の方へ移る。社会人時代に付き合いのあったCAD土方がblenderで似たようなオブジェクト操作をやっていたのを思い出す。人間でない点は置いといて現実でこの動き再現できる奴いるもんなのか。
「話の頭から聞かせていただいてもよろしいか、若人」
「構わない。が、まずはアンタについて聞かせてくれ。何者だ?」
話題の方向を眼の前の幽霊へと向けながら、ユタの方をちらと見る。どうやら話に置いてかれる事に不満はない、というか既に明後日の方を見つめながら小指を鼻の穴に突っ込んでいた。逆に何故そこまで俺に興味が湧かないのか教えて欲しい。幽霊より怖いのが人間ってそういう意味じゃねえだろ。
平の声は、確かに空気中の振動を介したもので、アルファ値7〜80パーセントくらいの肉体のどこからどう発声しているのかはわからない。フリーランス時代に和歌山を回っていた頃本物の“木霊”と遭遇したことがあるが、感覚的にはアレとの対話に近かった。通信デバイスを介さず直接鼓膜を揺らされているような。
「ただの流れの落武者だ」
だろうな、とだけ思う。首を傾げたいのはそこからだ。
「……本名は」
「捨てた」
「平というからには、平家か?」
「眇眇たることだが、そうともいうな」
返答を冷静に噛み締め、その上で腹の底から困惑の唸り声が出そうになった。どうやら眼の前の亡霊は短く見積もっても900を超える人生の大先輩らしい。否、それよりも納得できないのは立地だ。壇ノ浦の戦いは彦島──現在の山口県かそこらだった筈。ここは海を遠く超えた狭苦しい離島である。
「何故に平家の落武者が遠く南の離島で憑き物なんかやってるんだ」
「流れ着いたのだよ」
「流れ着いたァ?」
「知らぬでも無理はないと思うがね。この島には度々外のものが流れ着く。人も、物もな。それをこの土地では賓まれびとなどと言って丁重に扱うわけだが、私はこの地でどうにか命を繋ぎ、ここで没した」
壇ノ浦合戦の後行われた源家による平家敗残兵狩りは、苛烈を通り越してもはや惨酷を極めたと何かのドラマでやっていた。沖縄に落ち延びた後も連中を恐れて苗字を捨てたのだとしたら、一先ず合点は行った。
昔も昔の事過ぎて心境の想像には至らないが、事情がどうあれ推定クラス4の仮想怨霊として1000年近く留まるのには十分な理由なのかもしれない。地位と名前を手放し、異世界さながらの孤島で第二の人生を閉じたとなれば素直に昇天できないのも当然っちゃ当然だろう。
何はともあれ相手が相手である。少なくとも今まで出会ってきた他人の中でブッちぎりの年上なわけで、物思いに更けず会話に集中しろと言われてもやや無理がある。続けて質問すべきだったのに、開いた口を塞ぎ切る前に今度は平が“口”を動かした。
「其方、名は何と」
「……国頭改。どう呼んでもらっても構わない」
「姓はこの島のものだが、人として見ればとてもそうは見えぬな。なぜここへ来た?」
投げられた疑問は他ならぬ本題であった。故に、答える。端的にこちらの目的を伝えろ。社会人になっても超常フリーランス化しても業務中の対人コミュニケーションの核は変わらない。
話というものは、主題を明快に伝える事が重要なのだ。
「沖縄諸島におけるアンタのような未確認超常の確認と、必要な場合それらの優先保護を行うため本土から派遣された人間だ」
「保護?この前の大戦の後、嘉手納と普天間に陣をこさえた連中か」
「どちらにも与するつもりは無い」
嘉手納は財団の偽装収容サイト、普天間はGOCの総合任務ステーション。しかし彼らは、島内に眠る異常存在に対しては諸般の事情から積極的に手を割かずにいる。理由は単純。緊急時はJAGPATO指揮下に加わるらしい在日米軍と自衛隊の一部部隊を総動員したとしても、土地面積と仮想敵に対し圧倒的に人員が不足しているからだ。
当然、それでも超常組織が沖縄に侵入しようとなれば瞬時に捕捉される。ただそれはあくまで組織が動けばの話だ。俺という個人ただ一人だけが潜り抜けるだけならば、沖縄における奴等の網目はあまりに広い。
「ならば、其方はこの島に独りで立つのか?」
そう。
故に、俺はただ一人なのだ。
それでも、咄嗟に質問を否定しようとした俺がいた。違う、決してそんなつもりで此処に来たわけでは更々ない、俺はあくまで「青大将」の手としてここにいるんだ。今日1日で蛇の手の優先保護対象……人間的な自我と理性を持ちながら人間の理を外れた存在、所謂ヒトガタの野良2名と遭遇できた。あとは何らかの手段でアオと連絡を取り、然るべき手段でこいつらを保護するだけ。そうして、俺の"臨時首領"としての第一歩は完了する。
……本当に?
『彼の地で待つ彼等の寝床を、潜む草藪を、居場所を。お前が作ってやってくれ』
アオは、ただ言葉通りにこなせば解決する様な任務を課してきた事は一度もなかった。
このクソみたいな孤島に立つ前に預かった期待。未だ野放しの彼らを、認知もされず、外圧のどさくさで破壊され、追われ、孤立する彼らを。一つ一つ拾い上げるのが、俺に課せられた職責───"臨時首領"の本懐だとして。
頭を回せ。ここで言葉に詰まるような人間を誰が信用する? 質問者の幽霊は驚くことにその隣の生きてる人間よか遥かに話が通じるんだ。この職責に、俺という存在に、課せられた本当に為すべき事がある。その上で。その上でだ。俺は、独りで沖縄列島に立たなければならないのか?
「───その通り。俺は俺個人として此処にいる」
答えはイエスだ。現状、この島相手に単身で喧嘩しに来ているようなものである。
だから。
「だから、仲間が必要なんだ」
困った。刹那に脳と思考を回して辿り着いた結論は、随分と情けない孤独と無力の吐露だった訳だ。だが今の俺に間違いなく、本当に必要なものだった事もまた自明だった。
何だコイツとでも思ったか、だがこれが俺なりの誠実だ黙ってろという憮然とした目で平のことを見る。一体全体なんで幽霊相手に自らの正当性を試されるような問答をしないといけないんだ。存在の正当性に欠けてるのはどう考えてもあちら側であるというのに。
一瞬の静寂。天使が通った訳でもなんでもない気まずい無言。もう一言、何か言おうとした瞬間。
「いい眼差しをしているな」
おもむろにそう言い放ち、髭面の落ち武者は笑った。
現世から外れた場所に在るもの特有の不気味さが晴れ、眼前に浮かぶ幽霊が、確かに過去を生きて確かに人生を歩んだ「人間」だったのだという実感が初めて湧いた気がした。その笑い方は快活で、きっと千年モノの深い隈とコケに侵されていない生前の彼は武者としては優しすぎる位には温和な顔立ちだったのかもしれないと、少しだけ思う。
「気に入った。童どもを伸した時から何かを感じてはいたが」
「えっ待ってその時からずっと見られてたんですか」
「そりゃ単にオマエが見えてなかっただけだからねー」
「恥ずかしながら、彼女に依っているものでな」
「ちゃんと恥ずかしいな」
「喧嘩か?二人纏めて埋めるぞコラ」
そう言いつつ既にユタが投げていたペットボトルが平の側頭部を完璧に通過し、畳に着地してゴロゴロと転がる。平は微塵も気にせずユタと会話を続けている様だった。きっと彼女らはこうしてコミュニケーションを育みながら、二人で生きてきたのだろう。
正直言って、拒絶されなかったことに酷く安心している俺がいた。命の奪い合いとはまた違った、絶対的な緊張感があった。本当に心臓痛いよ今。内心バクバクな俺の事を露知らず、平が俺に対して再度向き直る。
「其方は元来この島で育ったのか」
「あぁ。生憎この空気と県民性には一切の迎合が出来なかったがな」
「なれば、家族の類は」
「……いるにはいる。両親と、姉が一人」
俺の両親は余りにも典型的な沖縄人といった感じの人となりであり、更にそれに受容できない事を理解するだけの度量も持ち合わせていなかったものだから質が悪かった。内輪の無駄に固い帰属意識と人のパーソナルスペースにずけずけ踏み込む楽観は、俺の捻くれた反発精神の形成に大きく貢献した。生まれた瞬間から反抗期真っ只中だった当時の俺には、どいつもこいつも自らを生ぬるい地獄に引き込む敵でしかなかったものだ。
ただ一人。本当に唯一の例外こそが姉貴だ。
俺が俺で在れたのは、この人の恩恵が非常にデカかったと今になって思う。年齢にして八歳差、ただ一人故郷に馴染めない俺を否定せず、肯定もしないでくれた人だった。「私は勝手に生きるから、改も勝手に生きればいいでしょ」と言ってくれた人だった。精神的にも武力的にも、異常に強かな人だった記憶がある。懐かしい思い出だ。
「けど、両親に会うつもりはない。姉ももうこの島の人間じゃない」
「この島の人間でなくなる事があるのか」
「島を出たんだよ。俺も最近まで知らなかったけど、結婚して"国頭"の性も変えて───」
「確か、今は"前原"だ」
こちらの身の上話ばかりしていてもしょうがない。改めてこれからの話を切り出そうと口を開いた。瞬間。
突然左から伸びてきた白く細い手が、握ってた脇差をむんずと奪った。
「あ?」
当然、ユタである。
つい先程まで鼻くそ穿りながら明後日の方向を向き散らかしてた女である。笹を食うしか能がないと思ってたパンダが思いの外機敏に動いた時の様な、謎の面食らい方をしてしまった。
俺から脇差を奪い取ったユタの目線が向かう先、縁側に揺蕩う平。俺の反駁も許さない程に、流麗にユタが片足を上げてパワーポジションを確立する。そのままステップで地面を押しながら体重を前へと向け、さながら完璧なオーバースローの体勢で脇差へ速度を乗せ──え、は?
何してんの?
鞘付きの刀身が空を切る。
投擲。何の迷いもなく、脇差を、投げた。あまりにも突如として起こった故にただ目で追う事しかできなかったが、すっ飛んでいった脇差はきりもみ回転しながらも真っ直ぐに空気を穿ち、平の胸元を貫通する。
そのまま脇差は一切の加速度を落とすことなく庭先を通過し、塀に施された柵、その隙間を劈き、その先にいた"標的"へと、確実に意識を討ち取る形で着弾した。
「不審者発見」
ユタがしたり顔で呟いたのと、庭先でドンガラガッシャンとでも表せるような音が聞こえてきたのと、俺たちが何者かに覗かれていた事を認識したのが、ほぼ同時だ。
考えるより先に縁側を飛び出した。雑に靴を履き、草の生え茂る庭を踏み荒らしながらブッ倒れているであろう何者かの元へ走り抜ける。続いてユタ、平が背中を追う形でついてきた。
「……誰だコイツ」
「あたしが知るかよ」
「オマエの追っかけとかじゃねえの?」
「若人、彼女にそのような者がいると思うかね」
「しばくぞ」
どうやらそれは人間であった。
男だ。中肉中背、歳は20後半〜30前半ほどに見える。モノクロに彩られたかりゆしと、青のジーパン。一般的沖縄成人男性。だが歳の割に随分鍛えられている事が一目で分かる見てくれだ。
すかさず自らの尻ポケットから黒手袋を取り出し、一切の迷いを伴わずに物色を開始する。ユタが吹く掠れに掠れた音色の口笛を受け流しつつ、胸のあたりから漁っていく。酷く、嫌な予感がした。胸のポケット、その裏に冷たい感触がある。硬く、無機質な"何か"。それはいとも簡単に見つかった。
「……チャカだな」
「だな」
「銃か?」
グロック19。日本国の表社会に存在してはいけない、最も分かりやすい代物。非日常への片道切符が、こともなげに俺たちの前へ姿を現した。嫌な予感が半ば確信に変わるが、それでも射線管理を怠らずに手早くチャンバーチェックを行う。しっかりと数発の鉛玉が装填されていた。曲がりなりにも日本国領域下の筈なんだけどな。
「……ユタ、財布かカードケース探してくれないか。身分証を見たい」
「もうやってる」
「は?」
念のため弾を抜き取り、自らの腰にグロックを収め、視線を動かす。古めかしいヤンキーの様な佇まいで財布から現金を抜き取っているユタの姿があった。純度100%の窃盗犯。まだ株の下がる余地があった事に一周回って敬意を表したくなる。
財布本体をぱっと奪い取り、その片隅に整然と並べられていた数枚のカードをつまんで確認する。
一見何の変哲もない身分証。ベルトの工具差しからペン型のブラックライトを取り出す。照らしてみる。
浮かび上がったのは、随分と見覚えのあるものだった。
三ツ矢。
「────逃げ」
るぞ、と吠える間もなくうすら寒い気配が脊髄を走る。強いて言うならば本能に近いそれだった。最早意味を為しているかも分からない周囲確認、視線をぐるりと360度動かしていく。裏路地、俺たちを圧し潰すかの様なコンクリート壁の無機質と、それらを大雑把に彩る緑、何故かこっちを見てくるカス女と存在が謎すぎる幽霊、単調だが雑多な情報たち。目に映るそれら自体に危険性はない筈だ。
だが、見られている。
それは確信と言ってしまえた。だからこそ、危機はすぐ背後まで静かに迫っているのだ。いつから財団に補足されていた? 分からない。そんな事を振り返っていても仕方がない。今の今まで人らしい誰か、見知らぬ第三者が近くに潜んでいる様な空気は感じ取れなかった。それは即ち二通りの仮説が導かれる事を意味している。一つは本当に誰もいない枯れ尾花を怖がっているだけのケース────もう一つは、相手の規模が大きすぎる故に直前まで気づけていないというケース。
ユタの家前に広がる上り坂の一本道、その頂に黒い車が現れたのが見えた。
「走るぞ!!」
ユタの手を引く。道端に転がる脇差を速やかに回収し、転がるかの如く駆け出した。
全身で押し退けるぬるい空気は何の緊迫感も出しやしない。この島のこういう所もまた嫌いだと、微かに思った。
「何、なになに何なのさ突然」
「説明、している暇は、ねえ!」
「ほう。主らの話を盗み聞いてた奴こそが、其方の警戒していた連中だったと?」
「話聞け平ァッ!!」
高速で過ぎ去る殺風景を右折し、ひび割れた道路を踏みつける。べたついた疾走感と共に風景が後ろへ流れてゆく。平坦かつ細長い路地を成人男女二名が全速力で通過していく様は、随分と滑稽であろう。何よりも涼し気な顔をして浮遊しながらついてくる平がとことんうざったかった。便利な機能してんな霊体とやらは。
俺たちが走り出した瞬間、それまで凪ぎに凪いでいた複数の気配が唐突に顕在化して動き出すのをハッキリと感じ取った。恐らく小規模な包囲網が組まれてやがる。未だシッポを出したのがたった一人である為、正確な規模が読めない。もう既に詰んでいる可能性だってそこそこにある。
息を切らしながら気合一本で走りつつ、ユタの方を見る。ツラの良い貧乏神みたいな形相が最早ただの貧乏神になっていた。明らかに運動不足が祟っているのは明白だ。
酸素が欠乏してきた脳で逃走経路を必死にマッピングしていく。曲がり角、突き当りとして現れた古ぼけた家の門を咄嗟に片手で掴み、パルクールの要領で乗り越えた。他人の敷地を突き進むことに抵抗のある者はこの中にはいない。絶えず走り続ける中、不穏な予感だけがYシャツの中を風と共に突き抜ける。
突発的な逃走劇は、開始30秒で既に窮地の底へと達しかけていた。
「ユタ、ユタ。相手は個人じゃねえ、組織だ。とても、じゃねえが、どうこうできる奴等じゃ」
「……」
「聞いてる!?」
事態は急を要する。グダグダ説明している暇はない。出会って間もない頃、俺に超常世界の何たるかを教えてくれたアオの真似をしている暇がない。
通常特定個人を追跡するのに必要な人員は7名と車3台だ。俺という個人を嗅ぎ付けてきたとして最低限それだけの数に追われていると皮算用すると、先ほどユタが仕留めた奴を差し引いても6名。6人、最低でも撒く必要がある。
その上で、隣のヤニカス女の手を引いたまま逃げ切れる道理は当然ない。確実にすぐ追い詰められる。
ならば、どうする。
「壁」
「………ッ、何?壁ェ!?」
「壁、昇るぞ。備えろ」
俺達の真正面に構える豆腐建築の様なコンクリート製の一軒家、その塀の上へ軽やかに駆け上がる。そのまま塀上を猛ダッシュで伝って助走、勢いを限界まで乗せて一軒家を強引によじ登った。屋根の上からだと、閉塞感に満ちた沖縄の街がよく見える。
唖然とこちらを見上げるユタに向かって手を伸ばした。
「ユタ、いけるか」
「いけるわけねえだろ!どうやってこんな───」
そうユタが喚いた刹那、彼女の身体が浮遊感を伴って浮かび上がり、さながら逆再生の様な不自然さで俺の隣へと一気に持ち上げられた。放り投げられた、という方が正しいかもしれない。見れば、顔面から屋根に着地したユタの後ろで平がピースサインをしている。
「アンタ、そんな事出来たのか」
「丁寧な干渉は難しいがな。指向性を伴って斥力を与える事くらいなら可能だ」
ともあれナイスだ。「痛ぁ……」とへたり込むユタの手を引いて起こした。一瞬だけ生まれた呼吸の間。脳内で絶えず構築するこれからの行動指針を、半ば自動で口から言葉として伝える。
「全員聞け。相手は正常性維持機関"財団"だ。恐らく俺を追っていて、数の利は向こうにある。このままただ逃げ続けるだけじゃ、絶対に取り囲まれる」
「……じゃあ、どうすんのさ」
答える間もなく屋根の上を走り出した。不規則、かつ急激に進行方向を変えて屋根と屋根の間を飛び越える。恐らく追跡者は俺たちを全方位で囲う様に追ってきている筈だった。コンクリート製の真っ平らな屋根を飛び石の様に掛けてゆく。視界の足元に位置する歩道、その真ん中を走る男が二人。
敵だ。
俺の経験と本能がそう叫ぶ。敵だ。こいつらは敵だ。見た目こそ一般的土木といったふうな様子のシャツに長ズボンだが、ヴェールの内側を知ってしまった人間特有のどこか世界を見下した眼をしている奴等共だ。俺と同じ類のクズ共だ。
このままでは逃げ切れない。ならば、どうする。その答えはハナから決まっている筈だ。奴等に補足されたのは他ならぬ俺の落ち度であり、俺の背後を走る彼女達が捕縛される謂れはない。彼女達が捕縛される理不尽だけは、防がなければならない。故に。
「───ブッ倒す。あんたらは俺が護る」
奇襲を掛ける。
反撃の手番だ。コンクリート製の真っ平らな屋根から飛び降りる。宙を舞う最中、男──財団エージェントとばっちり眼が合った。思いっ切りガンを飛ばす。舐めるのも大概にしろよ。少なくともお前が絶対的な狩人ではない事を知らしめてやる。
ライダーキック。足裏をエージェントの鼻っ柱に押し付けて、位置エネルギー任せでコンクリートに落下した。死ぬ程受け身がし辛い着地ではあったが何とか怪我は免れた。綺麗に飛び蹴りを喰らったエージェント共々地面を転がる。取り敢えず一人は崩した。俺ごと。ならば、次は誰よりも早く復帰してもう一人とタイマンで勝てばいい。それだけの話だ。
「簡単に言うんじゃねぇ!!」
叫びながら全力で立ち上がり、もう一人の"敵"目掛けて鬼の初速で距離を詰める。敵、Tシャツを御機嫌に着た短髪男は唐突な事態に面食らったようだが、流石と言うべきかすぐに迎撃の構えに入っていた。懐に仕舞われていたのだろうテーザーガンの銃口が、既に俺へと向いている。成程、確かに護身としては最適解といった所か。だが判断が遅かったな。より具体的に言えば0.5秒遅かった。
距離2m。既に俺の間合いだ。
沖縄空手。15世紀、琉球王国の氏族が「那覇手」として編み出してから今現在まで受け継がれゆく護身の術。徹底的な型の反復と重心・遠心力由来の練り抜かれた理合を軸に、限りなく無駄を省きながら最大限の威力を出す事に長けた沖縄独自発酵の確かな武力だ。継戦能力という側面においては本土の空手道を遥かに凌駕すると言ってもいい。
6歳の夏から今日この瞬間に至るまで、常に鍛錬を欠かした事はない。姉貴や道場のオッサン達相手にひたすら打ち込みながら磨き続けた、俺が俺で在る為の脊髄。今の俺が持つ唯一にして無二の切り札。
ふっ、と、前へと出した右足で短髪男の左脚に触れる。男の意識がかすかにそちらへと傾いた刹那、顔面ど真ん中の正中線目掛けて拳を叩き込んだ。正拳突き時の拳は卵を握り込んだ状態でも割れないとはよく言った話で、単なるパンチ力以上の体重・限りなく鋭角な遠心力を全部乗せで相手にお見舞いする。一応これでも蛇の手を背負う鉄拳。正常性の旗を振りながら理不尽な秩序を強いるカス共を破壊するための一撃だ。
グーパンを顔にめり込ませたまま体重を乗せ続ける。体制を崩して転がせば、あとはこっちのもの。ここまで接敵から1.2秒。敵はたった一人。二ケタ秒も掛けてらんねえぞ、手早く転がせ。そう脳内で自らを鼓舞した瞬間、何かを首元が掠めた。
「あっ!?」
まっずいテーザーガンの処理忘れてた。体制を崩しながらも男が撃ってきた先の一発は他ならぬマグレによってギリギリ回避できたが、その対処に追われた一瞬の隙を相手が見逃してくれるわけもない。俺がテーザーガンを弾き飛ばしたのと全くの同時、組み付かれる。完全に後の後を取ってしまった。一気に押し合いの形になる。
にしても本当に最適解を迷いなく選び取ってくるなコイツ。機械を相手しているかの様な寒気がにわかに背筋を駆け抜ける。仮にも二対一の状況下、拮抗を手堅く選択してくるのは間違いなく手練れだ。拮抗。そう、拮抗する気全開な所非常に申し訳ないのだが
「オラァッッ!!」
腰を回転させ、重心移動だけでエージェントを投げ飛ばした。自分の体重で勝手に転がってくエージェントの間抜け面を拝むこともなく、片腕だけはしっかりと掴んだまま側頭部にもう一撃を叩き込む。確実に意識を刈り取った感覚が骨に伝わる。
さて、一人倒したぞボケ。接敵から約六秒だ。あと四秒でもう一人くらい倒してやる。俺だって非異常の一般人の中じゃ、相当に武力を磨き上げてきたんだ。それは多分ずっと誰かの背中を追う為だったけど、いつの間にかその背中は消えて目的は溶けて形を変えて、今は誰かを守るために在る。
俺がさっきライダーキックでもみくちゃにした鼻血まみれの男は既に立ち上がっている。再度対峙し、吠えた。
「ぶっ殺してやるよタコ!」
刹那。
俺と男の間に独り、人影が乱入する。
新手ではなかった。むしろ見覚えしかなかった。俺の眼前に現れたタンクトップ姿のナメクジ女は、喫煙飲酒と運動不足に喘いでいた様子を微塵も感じさせない様子で、悠然と宙を駆けていた。
明らかな異質。その片手に、確かに握られた脇差。
そして、常に近くを浮かんでいた筈の幽霊がいない。
「ユタ──」
「否」
「は?」
「5秒で伸す。其方は次の手を考えろ」
その言葉は間違いなくユタの口から発せられた。から、懇親の洞察力で全てを察する。
"憑依"。
アオから聞いた話だ。そもそもの話、死して尚この世を彷徨う幽霊共にもしっかりとその存在を構成する物質が存在する。財団が霊素と呼ぶそれに死人の記憶が定着して出来た変位粒子の集合として、幽霊は幽霊として存在するのだ。コイツが人様の脳に潜り込む事で憑依が成立する。
だがしかし、憑依とはそう簡単なものではない。理論は深く分かっていない上にうろ覚えだが確か脳のシナプスをウンタラカンタラする事によって人の意識を乗っ取り、身体操作の権限行使を可能とする訳で。つまる所個人の意識が同じチャンネル内で渋滞する仕様上、赤の他人への憑依で身体を十全に動かす事は至難を超えて不可能に近い芸当の筈だ。
その筈だった。
『あたしはぁッ!!"最後のノロ"なんだぞ!!』
ユタの喚き声が脳裏を駆ける。
ノロ。神異、霊異を感応し、伝達する能。古く琉球の時代から、一族として血統を連綿と引き継いだ、預言者たる巫女職、祝女。憑依という実行自体が狂気の産物とも呼べるそれを可能とする術、それは彼女自身の肉体に宿る圧倒的なポテンシャルだ。ニライカナイに果てしなく近い島を生きる祝女、その他ならぬ霊や魂に対する底の無い"懐の深さ"。
ユタが「最後のノロ」を名乗るその所以。全てが点と点で繋がる。
対峙したユタ(平?)に向けて、財団エージェントがテーザーガンを向けた。極めて冷静な判断だ。制止する間もなく、銃身におよそ10mのワイヤーで繋がれた電撃弾が射出される。完璧にユタを捉えていた。
否。それで尚ユタの動きが一切止まらない。"起こり"も"途切れ"もない奇妙な動きで音もなく距離を詰めにいっている。一体何が起こったのか。それを理解するのに、刹那の時間を要した。伸びたワイヤーが収まる先。電撃弾がユタの掌に握られている。
掴みやがったんだ。
初速55m/sの弾丸を、片手で。咄嗟に。反射速度などという次元を優に超えている神業だ。つい先ほどまで顔面蒼白で息を切らしていたヤニカス女が、いきなり人外の所業を成し遂げたんだ。恐怖──背筋をいかにもシンプルな二文字が駆け上がる。本能が叫んでいる。時間にして千年のズレ、現代沖縄における圧倒的な異質を。
流れるような動きでユタがワイヤーを手繰り寄せる。銃身ごと両者の距離が縮まる。
先に崩したのはユタだ。最早テーザーガンは使えない。電撃弾と銃身、それぞれがそれぞれの掌から滑り落ちた。格闘戦の間合。読み合いの果てにある領域、両者前のめりの仕掛け合い。
馬力勝負。両者の手が伸びる。
エージェントの筋肉の塊とユタの細い腕が交差する。
瞬く。
エージェントの身体は、既に宙を舞っていた。
かつて剣豪・宮本武蔵は目の前を飛ぶハエを箸で掴んだという。古武術。それは瞬発力、持久力、馬力、その全てを一笑に付すかのように凌駕する圧倒的な「理合」の術だ。その更に源流、命が吹き飛ぶように絶える合戦の地を戦い抜いた千年熟成の技術の使い手。2022年の沖縄に再び顕現した彼、或いはそれを宿す彼女が、不敵に笑った。
「実戦経験の差。年の功というものだ」
"ユタ"
イニシャル: UTA
種族: 人間
性別: 女
生年: 2001/08/10
職責: ただのユタ
"平"
イニシャル: HRZ
種族: レベル4非怨霊型自縛霊体
性別: N/A
生年: 不明(没後約千年)
職責: 武士
ユタ/平が転がったエージェントに向き直る。
その頭からケツまで、終始見てるだけの俺であった。呆気に取られていた、というのが正しかったかもしれない。さっきまで最優先庇護対象だったはずの女が突然平安武士を宿してエージェントを瞬殺しはじめたのだから、無理もないという事にしてほしかった。
ユタが倒れ伏し呻くエージェントを前に、何かを取り出す。ずっと片手に持っていた脇差、その刀身を抜いたのだとすぐに分かった。よく手入れされている。今でもギリギリ刃物として運用可能なんじゃないだろうか。刀身の刃先は、エージェントの喉笛に向いていた。
「待て」
よく動いた俺の身体。刃物が降ろされる直前、咄嗟にその腕を掴んだのだ。
ユタがこちらを向く。その隙にエージェントの側頭部に蹴りを叩き込み、意識を奪う。再度こちらが目を向けると、既にその刀身は収められているようだった。
「なぜ止めた」
ユタの声とは思えない程に声色は冷たかった。
何故止めた? その答えは簡単だ。"お前達が手を汚す必要は無い"、それ以上でも以下でもない。アオが掲げた「青大将」は牙を持たない。今更血みどろの時代を生きた落武者に言うことではなさすぎるが、少なくともお前が今宿っているヤニカス女を人殺しにする事だけは、あってはならないんだ。少なくとも、俺はそう、思っている。
「最高だ。が、もう二度と前へ出るのはよしてくれ」
質問の解答にはなっちゃいないが、ともかく彼女だか彼だかを宥めながら周囲を見回す。包囲網に風穴を開けた所で、単純に追いつかれたら意味が無い。奴等が車を動員している以上、徒歩で走り続ける訳にもいかない。どうする、考えろ、脳みそを回せ。
「あ〜頭いてえ。ねえ平、毎回毎回もうちょっと何とかなんないの?」
「ユタ?平抜けたのか」
「もう戦闘状態は終わったのでな、戻らせてもらった」
「ねぇカイ、今どういう状況なの?」
ヤニカス女にしてはいい質問だ。決して最悪ではないが、未だ危機の範疇のままである。微かな冷気が背中を掠め、さっきと同じ半透明髭面の平さんが俺の隣へと飛んできた。ていうか憑依ってそんなカジュアルにできるものなんだな。
「して、次はどうする」
「……まずは走って逃げ続ける。その間にどうにか考える」
「なぁカイ、おいカイ、聞けよダボ」
「あ?」
「これとかどうよ」とユタが指さした先。家先に放置されたボロい自転車がそこにはある。ギア変は付いてないが、どうやらまだ動く。ユタが言わんとしている事はもはや明らかとかそういうレベルではない窃盗だ。本当にどうしようもねえなこの女。迷いなく叫んだ。
「最高だお前ェ!!」
:
狭苦しくなだらかな下り坂をやや柔らかい二輪が駆け抜ける。
親切に整備されてない道路の凹凸をチャリが通過するたびに、ケツから内臓にかけて不快な衝撃が付きあがる。爆速で視界から流れてゆくブロック塀と、頬に打ち付けるぬるい風。最悪な角度から脳を揺らしてくる振動は他ならぬ自転車の経年劣化が鳴らす音であり、常に脳裏をチラつく自壊の未来さえも浮遊感と共に置き去りにされていく。
「だからなんでお前が運転側なんだよ!!」
「素人が口出すんじゃねえ。気が散るだろうが」
カゴには脇差、隣には幽霊、何故かユタが前方に座ってハンドルを握る二ケツでの全力走行。申し訳程度にユタの腹に手を回しながら、自らの体幹を限界まで酷使して何とかバランスを保ってる現状だ。ガッタガタ揺れる視界を必死に定めながら、迫りくる敵を何とか捉える。後方に車二台。果たしてこの状況で撒ける未来とか存在するのか?
「ユタ!なるべく細道入ってくれ!車とか入れない位の、狭苦しいやつだ!」
「注文が多い!」
文句と同時、110°程の鋭すぎるドリフトを描きながら自転車が急カーブする。黙れ俺、騒ぐな俺、弱音を吐くんじゃねえ国頭改。まだ俺以外の誰も諦めちゃいねえだろうが。遠心力をモロに受けながら、家と家に圧し殺される程の路地裏、というより隙間を足先を壁に擦りつけながら三人、駆け抜ける。
こうやって馬鹿みたいにチャリで爆走するのは果たしていつぶりか。考えるまでもなくガキの頃以来だ。今と全く同じように姉貴の背中に引っ付きながら、息の詰まる沖縄の街をひた走っていた。
姉貴。
この期に及んで、結局この存在に帰結するのか。なんとも情けない話だ。でも仕方がねえよな。姉貴は生まれてこの方十二と少しに至るまで、このクソみたいな島における唯一の指標で、超えるべき目標で、でも絶対に越えられないまま君臨し続ける壁だった。平たく言えば、アンタの背中を見ていたんだ。ずっと。
姉貴は俺よりもずっと聡明で、それでいて誰よりも物理的に強かった。そんでもって己の強さ由来の説得力に満ちた自信を微塵も隠さずに生きている様な人間だった。当然それで飽きるほど辛酸を舐めた記憶がある。幼いながらに「この人には絶対敵わねえ」と肌で悟る経験はかなり屈辱的だった。
だからこそ俺はアンタを尊敬してたよ。楽観と同調圧力がぬるい温度感のまま首を絞めるこの街で、ただ独り「我」を貫いて生きているアンタに、誰よりも憧れてた自負はあるよ。だから超えようと努力を重ねた。
でも、姉貴はこの島から姿を消した。
余りにも賢い選択だった。というか元々そうなる事は分かり切っていた。けど、伽藍洞になった姉貴の部屋を見て、俺はほんの少しだけ、この島に改めて絶望したんだ。だから、後を追う様に俺もこの島から出た。逃げ出す様に。それから俺にも紆余曲折あって、ちゃんと社会の荒波とやらにも揉まれて、新たに目標にできる様な人にだって出会えた。
でも、俺は結局この島に戻ってきている。
追うべき誰かがもう居ない、この島に。
「おい!!前の車どうする!?」
ユタの声。前方確認。路地を通過した後の少し開けた坂道、その出口。大通りへの接続点を塞ぐように、黒のレガシィが居座っているのが見えた。ガラスの反射具合から判断するに50口径対応の防弾仕様。もはや隠す気もねえってか。つかず離れずで相手の動きを誘導しながら、最後は追い込み漁の如く詰ませて〆る。合理的なやり方だ。故こそ薄汚いやり方だ。
「カイ!?突っ込むけどいいよな!?」
「良いわけねえだろ!」
ならは、どうする。答えはもう既に決まっている。この道を突破する方法は決して一つではない。横にずっと浮遊しながら並走している幽霊と目を合わせた。もう一度だ。あなたがさっきやってみせた「やり方」を見せてくれ。
敵が間近に迫る。息を吸う。
「──平ァッ!!チャリ浮かせ!!!」
「御意」
自転車の後輪が不意に持ち上がり、落ち武者幽霊が持てる膂力の全力で思いっきりチャリを投げとばした。さっき抜かしてた浮遊感とか比じゃない束の間の無重力が身体を支配し、ボロボロの車体が成人男女二名ごと宙を舞う。射出されたチャリは前方の坂道を大きく逸れ、路地を路地として仕切っていたコンクリ壁さえも呆気なく飛び越し──チャリが爆走していた方向のナナメ右、歩道もクソもない住宅街の上空を駆けていた。
刹那。沖縄の街が、俺の視界いっぱいに広がる。
結局戻ってきちまった。空港を降りてから、ずっと思っていた事だった。沖縄列島。即ち、大嫌いな生まれ故郷だ。俺に深い反骨心を強制的に植え付けた混沌の離島だ。もう追うべき背中がとっくにいない、只の沖縄列島だ、だがな。重力に身体が引きずられるまでの一瞬、気合で黒目だけ動かして周囲を見た。
ユタがいる。しっかりとチャリにしがみついて、必死にペダルを漕いでいる。
空ぶっ飛んでんだから今はもう意味ねえだろそれ。
"平"が居る。如何にもしてやったりといった顔で俺達を見ている。
本当に着地の事は一切考えていないんだろうなと確信できる顔をしている。
もう追うべき背中はこの島にはいない。代わりに、今の俺には確かに護り抜くべき存在が二人いる。今度は俺が背中を見せるべき存在が、確かに「仲間」になり得るかもしれない存在が、いる。
"戻ってきちまった"。言葉を反芻する。
違うな。他ならぬ俺が、戻る事を選んだんだよ。
俺は蛇の手として、もう一度この島に挑みに来たんだ。
「───ぐぅぅッ!?」
「があッ!がふっ、ごほっ……」
そんな覚悟をキメ直している時間がある筈もなかった。当然の様に着地に失敗して地面を転がる。気合で受け身を取ってケガは防いだが、ちゃんとコンクリートに激突したもんだから相当痛かった。内臓にじわじわと浸透するタイプの不快すぎる痛みに悶え、さらに追加で二周ほど地面を転がる。
「……ユタ、ユタは平気か……!?」
「無事か。ユタなら平気だ」
「なんでアンタが答えるんだよ」
「某が責任を以て受け身を取った。怪我の類は一切無い」
どうやら設置の直前にだけ憑依してちゃっかり受け身を済ませたらしい。随分と器用な事をするもんだ。平がそう言うならユタは平気、な訳もなく、起き上がって周囲を見渡せばしっかりと悶えうずくまっているユタが発見された。
どうやらこの侍、「痛いものは痛い」という事が理解できていないらしい。痛いものは痛いのだ。
「痛すぎる……。まじで、もう動けない」
「ユタ、大丈夫か。動けるか」
「ほんとに無理、もう無理」
「逃げるぞ。動いてくれ、頼む。頼むから」
完全にダウンしたユタの肩を支え、どうにか近くに転がっている自転車を探す。すぐに見つかった。ベッコベコに凹んではいるが、ギリギリまだ動かせるはずだ。そういう事にする。そう信じるしか今はない。
まだ財団の包囲網は紙一重王手を躱せただけの状態だ。気合でユタもチャリに乗せ、脇差もしっかりカゴに入れ直し、若干眩む視界で無理矢理ペダルを漕いで前に進み始めた。かなり挙動は不安だが、スピードさえ乗せちまえば勢いで進む。
ここで終わってたまるかよ。もはや他ならぬ意地でしかない。何が悪いってんだ。
もう後ろは見ない。見ている余裕がないだけとも言う。何台車が追って来ようと知ったことか。
出せる全力でペダルを回す。沖縄、午後の気怠い喧騒が視界の遥か後ろへと流れ去ってゆく。微かに後方、何かの気配。まだまだ加速させてゆけ。最悪平と俺で何とかなるか? 思考を巡らせた刹那、前方に行き止まりがある事を認識する。
恐らく八百屋。そんでもって、人影が二つ。
「レジ中に長電話ってなぁ一体全体どういう了見だい!?」
そこにいたのは婆さんだった。
他ならぬ婆さんだった。恐らく60後半から70前半位の齢、中年禿げ頭の店員相手にカチキレている婆さんであった。この季節に着るにははかなり暑苦しいと思われるスカジャンを羽織っている。
「勘弁して下さいよ……。こっちだって商売なんですよ」
「人様相手に商いしたいってんなら相応の対応ってモンがあろうが!!んな事も守れねえんならさっさと店畳んでこの島から出てくんだね」
「いや、それは無理なんですけど」
聴くに堪えない口論が近づいてくる。時に、なぜそんな実況をしているのか。ぶっ壊れたチャリに無理矢理二人乗りをしているが故、曲がり切れないからである。確信だった。突っ込むしかない。
「うおおおおおおおおおおっ!?」
「え──」
「あ?」
喚き散らす婆さんの少し横、店員目掛けて全速力の自転車が迫る。
激突。店員ごと商品棚に正面から追突し、商品棚に陳列されていたフルーツと成人男女三名がもみくちゃになってコンクリートに這いつくばる。鈍い痛みと共に視界が二回転半くらい回り、着地先の景色は婆さんのくたびれたサンダルであった。
「痛ぇ……ッ。平の旦那、ユタは無事か」
「完全に伸びておるぞ」
「じゃあ憑依して走ってくれると助かるっス。なりふり構ってられん」
「霊使いが荒いな。承知した」
尻もちをつきながら平に向かって叫び、買い物袋を片手にさげた婆さんを前に立ちあがる。鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をしていた。至極当然といった所だ。若干申し訳なくなりながら軽くを頭を下げると、「して、若人、あれを見ろ」と平inユタから肩を叩かれた。こんな事を言っている場合ではないが、ユタの顔と声のまま落ち武者殿をやっている様は少しだけ面白い。ユタが指さした方を見る。
見覚えのあるレガシィと、見覚えのあるかりゆし姿のおっさん達。ユタの投擲で意識を刈り取った一人目をはじめとして、明らかにエージェントの連中が90mほど後ろに迫っている。本当にそんな事を言っている場合ではなかった。
「走るぞ!」
「おい、ちょっと待てクソガキ共────」
引き止める婆さんの声をガン無視して二人、走り出す。
この逃走劇の終わりがもうじき訪れる事などとっくに分かっていた。限界が近い。このまま只走っているだけではどう足掻いても逃げ切れない。そんな事が分かり切っているのに、酸欠になりながら足を動かすことしかできない俺自身が心底嫌になりそうだ。
ユタの身体を繰る平の走り方は、走行というより縮地と表した方が正しい様な奇妙なものだった。それでいて驚くほど速い。江戸時代の飛脚は東京から大阪を三日ほどで走破していたらしい。肉体が朽ちてなお息づいたまま現代に蘇生を果たしている技術とやらを、俺は目の当たりにしているのだろうか。
ひたすらに走る。何があっても止まるなと、己の身体に言い聞かせながら。
「待てといったろ。クソガキ共が」
そんな足が、簡単に止まった。
止まってしまった。他ならぬ驚愕によるものだ。脳が明確にフリーズする感覚があった。俺達が先ほど追突した八百屋、その店頭で店員にいちゃもんつけていた婆さんだ。不本意ながら俺達が全力で置き去りにした筈の婆さんが、何故か俺たちの目の前にいる。
どういう事だ。流石に俺達も疲労状態とはいえ、ご老体に先回りされる謂われはないぞ。ちらりと平の方を見る。俺と全く同じであろう顰め面をしていた。圧倒的な異質。恐らく、今までの人生において俺がこの目に収めた事のない「何か」。
だが、敵ではない。
何故だかそんな気がする。
「お前達、追っかけられてるのか」
「そうだとしたらどうするつもりだ」
「男ならハッキリ答えろ。どうなんだい?ええ!?」
「追われている。どんな手を借りてでも逃げたい」
俺の言葉に、婆さんはカカカ、と豪快に笑った。この婆さん、いざ相対した時の圧がやけに強いと思ったらアレだ。そのキレ長の眼がやけに若々しいのだ。時代と環境の全てを睨みつけ、ただ己の足だけで立つとうそぶいた若さが、その眼にだけ未だに残っているような感じだ。
「じゃあ、ウチに来いよ。匿ってやる。どうする?」
財団の魔の手はすぐそこに迫っている。
たった二言、十秒も言葉を交わしていない婆さんだ。
只者ではない。それ以外何もわからない。
しかし、これ以外にもう方法がない。追い付かれる訳にはいかない。目の前の婆さんが正常性維持機関の手先である可能性。圧倒的に得体が知れない。何より時間がない。選択権は俺に回ってきている。二つの選択肢、そのどちらにも選ぶだけの理由がある。そんな事は分かっている────けど、今この瞬間、俺の手元には衝動が握りしめられていた。衝動。そう、確かにそこにはある。
「結果」と「理由」が逆転する様な衝動が、ある。
「───助けてほしい。俺達を、アンタに!」
瞬間。
パチンと、音がした。
辺りを見回す。
今の今まで存在していなかった何かが頬に触れていた。ぬるく、かすかに塩の混じった、柔らかい感触。少し遅れてそれが潮風だという事に気づく。青というより蒼と称した方がしっくり来る様な一面の空と、残響として耳に渦巻き続ける波の音。見回すまでもなく、俺達の前には水平線が広がっていた。
革靴が踏みしめる地面の感触さえも柔らかい。明らかな砂浜に俺は立っている。砂浜と白波との境界線が混じり合うビーチサイドがずうっと続いたその先に、暴力的な緑の色彩を纏った山がそびえていた。圧倒的な解放感だ。傾きかけた陽射しの中、数羽のカモメが悠然と空を飛んでいるのが見える。
狭苦しい街とは対照的な、確かな沖縄の原風景。
思わずスマホを取り出し、Google Mapを開いた。座標が示すのは───石垣島である。つい先ほどまで俺達が立っていた本島から距離にして410km。明らかに広がる筈のない絶景が、目の前には広がっている。
「ふん」
振り向く。買い物袋を片手に引っ下げ、くたびれたサンダルを履いた、スカジャン姿の婆さん。この現象は確かに彼女の仕業である、と改めて確信する。婆さんは鼻を鳴らしながら不敵な笑みを続けていた。俺とユタを交互に見据え、うざったそうに口を開く。「───それで」
「人のクレームを横から邪魔しやがって。ナニモンだガキ共」
沖縄列島上陸、一日目。
推定霊能力者のヤニカス女、1000年近く現世に居着いた亡霊、たった今謎の瞬間移動を成し遂げた婆さん。俺の臨時首領としての第一歩は、何とも不格好かつ奇妙なものだった。初日で財団相手に武力で抵抗するとは思ってもいなかったし。そして、その数奇は恐らくこれからも加速していく確信さえある。未だ蛇の手が届かない彼の地で、この沖縄列島で、確かに物語は動きはじめているのだ。
話というものは、主題を明快に伝える事が重要だ。
から、最後に記しておこうと思う。
これは、俺が沖縄という島を好きになる為の物語だ。
01. 喧噪序説
文字数: 29525






