人を殺した。
死ぬ理由ならそれで十分と思える程度に良心は残されていたわけで、唯一、決行能力の不足を理由にこの場へ赴いている。
「柳葉太一です」
数えるほどしか持ち合わせていない覚醒以前の記憶情報を赤の他人に伝え、ローブの似合わない教団員に無言で指示された荷下ろしエリアの片隅へ移動する。薄く遮られた日光が停滞する教室ふたつ分程度のスペース。大小と老若男女様々な人々が無造作に整列する中、その末端に立って点呼の時を待った。
川崎市内に位置する貸倉庫の一棟。教団が拠点として徴用している施設の1つであり、最大で20人程度が寝食を共にできるよう改造された偽装拠点でもあるらしい。フロント企業としての体を装うため1階広間は貸倉庫としての機能を維持しており、同時に2階の指揮系統と儀式の間を守備するための緩衝エリアとしても使用されていた。フリーランスとクライアントの混成部隊が集まってもそれなりの余裕を残せる程度に広い。ジャンクロイドに事前送信された自動消滅ファイルを閲覧した限りでの情報である。
僕で最後だったらしい。妙にフワついたショートボブの──恐らく僕より一回り年の離れた──女の子が隣からしきりにこちらの足元を見つめる中、ひときわ目立つ禿げ頭の教団員が視界の端から現れ、やがてこちらに向き直りながら口を開く。
「“鉄錆の果実教団”関東支局代表代理だ。これより当方の想定する状況が終了するまでの期間、貴様ら22名のフリーランスを臨時教団員として迎える」
前から2列目の最端部に立っていても薄ら漂ってくるウンコ臭い口臭。それに一切表情筋が反応しない点からもう一度自覚した。僕はここで死ぬべきだと。
死ぬべきであると。自分で死ねるほど出来た人間でも無い以上は、こういう場所で死を授かる他ないと。自覚していた。
人を殺した。僕は死ぬためにここにいる。
人を殺す。
あたしに課せられた使命の具体。その意味するところは今も知らないし、大人の言う“教義”についても結局あたしの理解が及ぶことは無かった。
他団体との抗争。財団のガサ入れ。ただの爆発事故。連合の“スーツ”による殺戮。崇拝対象の暴走やアノマリーの取り扱いミス。色々目にしてここまで生きてきたし、その癖同期と呼ぶに値した隣人たちの殆どがそういう災厄に巻き込まれて死んでいる。同期に限らず色んな人たちが死んでるけど、所詮はみんな他人だ。他人であってほしいと願った人たちが他人のまま死んでいるだけで、それはそれとして変わらずあたしは人殺しだ。何も憂うことは無い。この先も死ぬまで殺し続けるだけなんだと思う。
「遅いぞユーリ」
「カップ麺が熱々で」
「ふざけんなカス」
仮にも仲間にこういう暴言吐くのって本当に良くないと思うんだよね。組織統制が上から下まで腐ってるから毎度壊滅するんじゃないのかな。
[加筆]
眼を逸らされそうな気はしたけど、今はそれで構わない。こっちから覗き込んだ。
「暇?」
それは単なる好奇だった。
それは単なる好奇の眼だった。
「暇?」
すぐに目を逸らす。そのまま引き込まれそうな気がしたから。
すぐに引き込まれそうになるのは別に誰の目を見ようとも変わらないことだ。それでも彼女の場合は少し違う。程度に寄らず共にラインのこちら側へ立った故の理解というか、この自分より二回りほど歳の離れた少女が明らかに、結構な数の人を殺めていることを肌で感じ取る。意外と肌感で解るもので、特に人間は同族殺しを頑なに過ちとして、踏み越えてはならない線の先にあるものとして捉えがちなものなワケだが、まあ確かに
先輩とも後輩とも言い難い1枚の精神的な壁を隔てたまま、その壁越しに少女は首をかしげた。
「……ヒマ?」
「暇じゃな……暇では、あります」
「フリーランスの人?だよね。暇じゃんね」
「そうらしいですけど……」
「お弁当ある?」
「あります」
「要らないからあげる」
有る無しの確認に意味あったか?とは思いつつ、他人の天然ボケを天然ボケと認識しながら感情の1つも挙動しない自分を再度認識し、とりあえず了承の意を込めて軽く会釈した。感情が挙動しないから代謝としての言葉が出てこない。ある種の壊死みたいだなと思いながら二人分の弁当を両手で抱えたままもう一度少女の風体に目を向けた。
教団の共通装備であるローブと、その下に着込んだインナースーツ。東側の匂いがする軍用モデルだった。濃い緑色の迷彩パターンで埋め尽くされた戦闘服が一周回ってローブの白を自然体で強調しているが、そういう変な組み合わせとは裏腹に茶髪の女の子の女の子っぽさは異常なまでに普通だった。変にコスプレのような雰囲気が無いからこそ逆に何一つとして違和感を覚えない。
「御免ね。さっきカップ麺食べちゃって」
「……大丈夫なんですか。これから殺し合いが控えているのに」
「控えているからこそだよ。人の手が作ったものを胃袋に詰めたまま人を殺す気にはならないってば」
「僕に弁当食わせる手前それを言いますか」
「あんま気にしなさそうだしね」
「気にするも何も」
「気にする暇もなかったというか」と補足して歩く。少女もつられて歩き出した。振り切っているつもりが随伴を許したらしい。
「暇が無いんだ」
「……“ドリフター”といえば通じると聞いたんですが、通じてますか」
「あー記憶消されてから覚醒した人。どんくらい経った?」
「たぶん2週間くらいです」
「心当たりとか無いの?何かやらかしたみたいな」
「そういうのを保証してくれるものが何もなく……」
「かわいそ。相当の重罪なんだろうね」
想定より優しさのある反応だった。憐れんでくれるだけマシだ。斡旋によればこの業界で記憶を失くしていきなりフリーランス業に携わるなんて実質的な死刑宣告に等しいという。その癖僕は初陣でまんまと生き残り、挙句人まで殺してまともな人間のフリをしているわけだ。ロクなもんじゃない。
他人に寄り添う能力に欠落した前提を踏まえ心の底から叫ばせてもらおう。助けてくれ。何だこの状況。何で推定高校生程度の年頃の女の子にこう、左隣から顔を覗き込まれたまま狭いガレージの中を歩かなければならないんだ。本当に困る。
[加筆]
「……ヤナギバ。僕の名前です」
「へぇ」
「何ですか」
「名乗る余裕があってよかった」
「──ユーリ・シェルコヴィツァ。長いからユーリでいいよ」
「ロシア系ですか」
「日本国籍ファッキンジャパニーーーーズ。孤児だったからほんとのところは解ったもんじゃないけど」
ヤナギバの隣に座り、とりあえず中に詰まっていた卵焼きを素手で掴んで食べる。全部冷めてて不味いけどこの一品だけはほんのり甘くて好き。指に張り付いたスパゲッティを容器に戻した後に二口に分けて食べる。ほら美味しい。ちょっと白身が多すぎる気もするけど食べてて味がする。純粋な味が。
「これ一番美味しいんだよ」
「人の作ったご飯食べないんじゃないんですか」
「一番美味しいって言ったじゃん」
ヤナギバは数秒遅れて弁当に箸をつけた。傍目から見ても気づかない程度に指先が震えているのが解る。モチャモチャするだけでそんなに美味しくない食感のスパゲッティが容器越しの振動で小刻みに揺れていた。
「美味しい?」
「解りません」
「解りませんってことは無いでしょうに」
「食感はまあ。工業製品というか」
「あたしってさぁ」
聞いてもつまらないだけだから次。味を感じないような他人にこれ以上弁当の話を聞いても無駄なのは解り切っている。私の聞きたかったのはこれなんだ。
「……あたしってさ。なりたいんだよねフリーランス」
「そうですか」
「変かな」
「解りません」
「──変に決まってんだろ」
「貴方は」
「舟木。ここの弁当マジで不味いな」
「卵焼きってどうでした。まだ食べてないんですけど」
「覚えてないけど全部不味かったよ」
「……」
舟木と名乗るフリーランスをただ見上げ、箸を止める。多分僕より透明性のある、ちゃんと筋道立てた経緯があってこの稼業やってる人なんだろう。記憶を消されて業界に売り払われたような人間には見えない。目的というよりちゃんと足跡を残しながら生きている人の匂いがする。
青いパーカーと所々に穴の開いた灰色のズボン。そして裸足。異常なのは裸足である点だけで他はまあ、何か普通の成人男性という具合である。普通度合いで言えば僕も張り合えるような気がする。芋っぽいわけでもなければチャラチャラしすぎているわけでもなく本当に普通の人だった。
「俺いると飯食えない?」
「食べて良いんですか?」
「逆に何が駄目なんだよ」
「人前でご飯食べて良いもんなのかと」
舟木が無言で指をさした先にはユーリがいた。流石に申し訳ない思いをさせてしまったかもしれないが、当の本人は何故に自分が指さされているのかを理解できていなさそうだったのでそのままナゲットを口に運んだ。冷たいというか冷えているというか。とりあえず衣が歯の裏に張り付く。肉というか小麦粉の加工物の味がした。
「不味いよな?」
「解りません」
「あっそ。お嬢さん」
「あたし?」
「君以外どこにお嬢さんいるんだよ」
「アレとか?」
今度はユーリの指さした方向に2人して振り向く。確かにお嬢さんがいた。ユーリと同じ年頃の、何かフワフワした髪質の黒ジャージの少女が1人。僕と同じように猫背で弁当をつついている。絵に描いたようなぼっち飯の姿勢。というか整列した時点で僕の隣に居た子だった。全身黒ジャージと手ぶらでここに来た女の子。
舟木とユーリの2名と比較しても明らかに落ち着きがない。動きの一つ一つがやたらと鈍く、下手に周囲を警戒しすぎている感じだった。失礼ながらそこそこの同族意識を抱かざるを得ない。経験豊富なワケなさそうというのは確かだった。
「あ、ナゲット落とした」
「迷ってるな」
「拾って食べますよアレ」
「……マジで拾って食べるじゃん」
適当こいたら本当に拾って食べてしまったし話の内容が飛んだ。何だっけ。まず舟木は何の用があって僕らに話しかけてきたんだ。
「……話を戻すが」
「あ、はい」
「お前じゃなくて。君。お嬢さん」
「ユーリ・シェルコヴィツァ」
「ユーリな。何でフリーランスに憧れた」
「人の憧れをその一言で聞き出すつもり?」
ご尤もだけどその返しも棘があり過ぎだろと手を伸ばしかけるが、丁度箸でほうれん草のソテーを掴んでいるのを思い出して腰をちょっとだけ浮かすだけに留まる。案の定舟木に嫌な顔をされながら貪った。青臭い。茹でてバター付けた雑草を食わせるタイプの拷問だ。しかも塩気が圧倒的に不足しているのを見るに減塩を売りにしている商品なのかもしれない。マジで不味い。何だこれ。ここに来て一番不味いモノ食わされてるのか僕は。
「ご尤もだが棘が凄いな」
「さっきのは疑念じゃなくて根拠のない否定から始まる念だ。私にとってそれは攻撃と何ら変わらない」
「上辺だけの攻撃は俺とて控えたいから改めて疑念をぶつけたわけだが、何で憧れた」
「一言で聞き出すつもり?」
「質問を変えよう。君にとって超常フリーランスとは何だ」
「自由」
「……」
何か始まったし。人が下の前歯にクソ不味いほうれん草挟んだ矢先に何を話し始めているんだこの人たちは。何。黙って飯食っていればいいのか僕。教団の女の子と謎のフリーランスがどっちも絡んできた結果僕だけ蚊帳の外で会話聞きながらクソマズほうれんそうを食えと?何なんだコイツら。
舟木は若干の沈黙を挟んだのち、いきなり胡坐をかいて淡々と、ただ口にした。明らかに「僕ら」2人に対して。
「超常フリーランスなんてな。ロクなもんじゃないぞ」
超常フリーランスなんてロクなもんじゃない。
奴の言葉だ。廃桃源のボロい中華料理店で耳にして以降その瞬間が来る度に噛み締めている。ニット帽の左右から長い横髪をぶら下げたあの女の言葉。俺の殺すべきたった一人の女の言葉。
実際ロクでもなかった。事もあろうにそのロクでなしの1人が俺だった。死ぬにも生きるにも徹底的に運が無く学が無ければツテも無い。そもそも夢が無い。夢や希望、或いはそれとは相反する動機が無い癖に、足を踏み入れてしまったがために生存だけを目当てに余生を生きるのが俺だった。あの女に全てを奪われるまでは。
ユーリと名乗った方のガキはいわゆる少年兵なのだろう。JAGPATO発足以降の“鉄錆”は壊滅に次ぐ壊滅を経て常時人手不足と聞くが、提携している児童養護施設から秘密裏に何人か引っこ抜いて兵士に仕立て上げているという噂はどうやら本当の話らしい。この歳にしてはあまりにも殺し過ぎている。あのニット帽女のような力強さを微塵も感じないだけタチが悪い。「人殺しが出来る」というより「人殺ししかできない」類と見た。外見的にはあの忌々しいニット帽女より多少若く見えるガキの前に胡坐をかき、とりあえず害意が無い事、そして一応こちらに対話の意思があることを主張するべく若干身を乗り出して話すことにした。
「俺たちが自由に見えるか。お嬢さん」
「逆だね。私には私の不自由しか見えていない。故に他人の自由を夢見ている」
「客観だね」
教団の飼い犬にしてはまあ聡明な方なんだろう。向こうのエリアで固まりながら黙って飯食ってた別の少年兵たちにはない知性というか、要するに会話を成立させようとする意志とそれに見合った思考判断能力が備わっているように思えた。
あの子たちには自分を象る思考が無い。言葉を編むという発想が無い。凡そ宗教組織の所属者としてあるまじき姿をあの一瞬でまじまじと見せつけられた気がしていた。解釈の介在しない上辺だけの教義に支配されながら何も考えずに生きてしまった意思無き傀儡。しかしそれに精神が宿っているのだからタチが悪い。一堂に押し黙って箸を運び、夜には始まるであろう殺し合いを前に虚空のような表情を固め、或いは指先を震わせながらただ待ち続ける彼らは、彼らの覚える鬱屈の何たるかを考えることすら叶わない。
「あたしは主観の話しかしてないよ。客観なんかここで培えるとでも思ってる?」
「そういう連中はえてして主観的な観念を頑なに客観的事実と主張するもんだが、まあその主張は主観の塊そのものだな。“不自由”ね」
「不自由だね」
別に珍しい話でもないか。裏でも表でもそんなガキばかり見てきた。見るだけ見て助けてやれなかった連中の方が多い。それに比べてこの子はまあ、特異な方だ。大人びている。それもやけに健康で不健全に。ああいう連中が増産される環境に身を置きながらよくぞといった具合に。
「確かにその身分じゃ不自由も多いだろうが、君のそれには他の少年兵からは本来生じ得ない何かを感じたが」
「まずは私たちの前提条件からすり合わせる必要がある。貴方は誰?お兄さん」
「廃桃源フリーランスの舟木カエリオだ。君は?」
鼻先目掛けて差し向けられた指を見ながら答える。剣ダコだ。それも単一の基礎動作で磨り潰したタイプの。競技者でこういうタコを作る人間はまずいない。
「鉄錆の果実教団。制裁者ユーリ・シェルコヴィツァ。ついでにどうぞヤナギバ君」
「……柳葉太一。ドリフター」
半分存在を忘れていた男の方が口を開く。予想通りただのフリーランスではない。何らかの罰則により記憶を抹消された状態で死地に送り込まれた人員だ。案の定弁当が不味かったのか、絶妙な顔を浮かべながら俺を見上げた。
「え、これ僕も参加するやつですか?」
「まあその距離で黙って飯食われても困るわ」
「それもそうなんでしょうけど。僕には記憶が無い。何でここにいるのかを僕は理解できていない。そもそもお二方と同じステージに立ってないんですよ」
「じゃあ何だ。教団の少年兵とよく解らんフリーランスが我々の本質について語り合う横で黙って飯食うつもりか」
「聞くだけ聞かせていただきます」
やっぱりビリビリするのはヤナギバの方じゃん。
「で、前提の擦り合わせ?ってやつか」
「私たちのスタンスの違いをまずは明確にしながら共通項を見つけない限りは始まんないかなって」
「……本当に教団の少年兵か?コミュニケーションがここまで成立すること自体そこそこ驚いているぞ」
「立場の違う他人と話し合うのは好きだよ。他の連中は違うらしいけど」
実際の事情は少し違う。私は教団に“遅れて”入団した少年兵だ。14歳でようやく引き取って貰った身である以上、物心ついた頃から戦闘員としての教育を受けている少年兵たちとは物事の判断基準に相応の差があった。同じようにある程度俗世で成長してから教団入りした友人たちは昨今増加の一途を辿る財団のガサ入れであらかた死んでしまっている。同族を失った私が結果的にイレギュラーと認知されているに過ぎない。
もっと聡明な子はいた。一生かかっても追い付けないくらい何かを見ていた子は。
「共通項っつても何だろうな。要注意団体の構成員と日雇いの殺し屋と記憶喪失の童貞だろ?」
「誰が童貞だコラ」
「あぁ沸点そこ!?御免て」
「恐らく間違ってはいないので別に……僕らの共通項なら一個あるかもしれません」
「お、まさかのトップバッター?」
童貞なんだというリアクションも挟む暇も無かった。箸を握った手を顔の高さまで上げながらヤナギバは一度嚥下して続ける。
「3人とも仕事で人殺してます。」
「間違っちゃいないな」
「やるじゃんヤナギバ」
「何かムカつくしすっげえ嫌なんですけど。次どうぞ」
あたしを差し置いてフナキなんかにパスしたよこの人。最初に話しかけたの私なのに。やっぱり童貞だからかな。女の子苦手なのかな。だとしたら最初に詰め寄ったのは若干申し訳なかったかもしれない。
「……俺とお前の共通項ォ?」
「その顔やめてください。3人言うとるでしょ」
「ええ……じゃあ何だろう。銃持ってる?」
徐に懐をまさぐった後、フナキが取り出したのは拳銃だった。小さなリボルバー式拳銃という事以外は何も解らない。中肉中背の青年の掌と比べてもやたら貧弱そうな見てくれの火器。仮に弾が発射できたとしても人なんざ殺せるわけが無いと確信できる程度に覇気がない。これなら私の獲物の方がマシか
「なるほど。『そういう手段』の有無ね」
「人殺しであることとそんなに大差無いんじゃないですか?」
「まあその通りかもしれん。すまんな上手い事言えなくて」
「あたしに話吹っ掛けといてぇ?」
「じゃあ何か言ってみろや」
ローブの下に仕込んであるトカレフを引き抜いて床に置いた。
「お前は?」
「……」
「……P230?」
「元警官の私物と聞いてます。使ってた人が死んじゃったので預かっていたらしく」
「私物ってかお前これオカミの支給品だよ。大丈夫か日本警察」
「あーなるほど?」
「舟木は持ってる側なのか解んないけどさ」
「持ってはいるが、君の言う自由のために行使しようと思ったことは」
「……あの」
手を上げて
「要するにお二方の言う“鍵”って、つまりその、超常そのもの……という認識でよろしいですか?」
「国語の授業受けてた?」
「合ってるよ不登校児」
「皆勤賞貰った記憶だけ薄らボンヤリあるせいで余計に腹立つな……」
「この世界とは一線を画す超常というアドバンテージを半ば手にしながら、俺たち既存人類は人類という枠組みに押し留まることにばかり躍起になって、約束された不自由の中で安寧を享受することを最終目標に掲げている。組織団体という形式的な団結がいつの日もそれを可能としてきた」
「この国のフリーランスには本来その常識を破壊するだけのポテンシャルがあるって事ですね」
「まあ、望みはしないな」
「何でさ」
「俺は俺が強いなんて微塵も考えちゃいない」
「君には見えていないものがある」
「即ち?」
「敵だ」
「敵?」
「ヤナギバ。お前の敵は誰だ」
「え、僕ですか」
ヤナギバが一度考え込むと肌がビリビリするような何かを覚える。何なんだろう。
「……解りません。誰を憎むべきなのか何も覚えていないので」
「お前をこの状況に叩き落した何者かがいる筈だ。事の真相がどうあれお前には誰かを恨む理由がある」
「……誰なんでしょうねぇ」
「“僕”を取り巻く理不尽を仮に打開すべき現状であるとした場合、僕をこの身分に陥れた正体不明の何者かも、これから僕と戦うことになる」
「私は人を殺すためにここにいる。自由は最終的に目指すもの」
「ヤナギバは」
「……死ぬために」
「死ぬためにここにいます」
「死に場所が欲しい記憶喪失と弱者としての生活を望む日雇い。目的は真逆のくせに使う手段は一緒かぁ」
「そうなるな」
「そうなると思います」
「解んないなあ」
「この期に及んで……?」
「解んないよヤナギバぁ。解んないよフナキぃ」
「だから何がだと聞いている」
「2人とも見えてないよぉ」
「何がですか」
「何でそこまで不自由なのか解んないよ」
「……僕って不自由に見えます?」
「俺よりは不自由に見える」
「どっちも同じくらい不自由だよ。宗教的観念も政治的主張も介在しない癖に己を自縛で律して生きづらい道を選び続ける。日本人的だね。教団の人間よりよっぽど」
「君の言う“日本人的”にはかなりの語弊がある様に見える。それは単に社会不適合者と呼ぶべき代物だ」
「自分で言う?」
「未成年の抱く危険な憧れと現実の俺を照らし合わせるためなら何でも名乗れる気がしてきてね。別に認め無くないわけでも無かったが」
「舟木さん、貴方は自分を縛り付ける現状を確かに無意味と定義したな」
「無意味な自縛こそが俺たちを俺たちたらしめる。違うか?」
「記憶喪失に聞かないでください」
「話が通じる癖に前提が通じんのは耐えがたいな」
「君はアレだな。つまるところ怪獣に成りたいワケだ」
「怪獣?」
「怪獣だろ」
「その意図は」
「超常の存在として本来あるべき姿を“自由で”、“何者にも影響されず”、“何物にも縛られない”、この世界をたった一人で生きる孤高の存在と捉えている。形容するなら怪獣だ」
「街とかぶっ壊すタイプの?」
「街をぶっ壊して熱線を吐いて空を飛ぶ怪獣だ。しかしその最終目的は街の破壊ではない」
「熱線が吐ける。空を飛べる。その気になれば街を破壊できる。怪獣に宿っているのは憎悪ではない。その気になれば何だって出来るポテンシャルと揺らがない事実、つまりは自由そのものだ」
「」
「成りたいというより、本来の姿が舟木さんの言う怪獣である、というニュアンスで良いですか?」
「人間のフリが苦痛でしかないあたりは特にそうだと感じた」
「あは。良いね怪獣。名乗ろうかな」
「成ってから名乗ればいい。成って欲しいとは微塵も思えないが」
「舟木はさ。何か正義のヒーローっぽいよね」
「……冗談はほどほどにしておけ」
「ヒーローじゃんね?」
「僕に聞かれても困りますけど……今この場で話し合った舟木カエリオという個人にヒロイズムを垣間見なかったといえば嘘になります」
「冗談も程々にしろと言った。大体俺のどの辺がヒーローなんだ。生活のために人殺しに来てんだぞ」
「自縛そのものが貴方の独善的なヒロイズムに直結しているとは思いましたよ。生活の為というのはまあ事実なんでしょうけど、それ以上に貴方はこの世界における正しい在り方を探している」
「それアタシ言おうとした」
「今から言いますか?」
「責任はまあ。否定しない。それも人間的な社会に対する負い目みたいなものだな」
「そんでその責任意識をどこに所属しても誰と組んでも振るえなかったってこと?」
「……余所に所属して他人と組んだ上で、俺自身の意思でこの道を選んだ」
僕の喉には相変わらず言葉が引っかかっていた。
乱戦のただ中。灰色の甲冑に身を包んだ舟木が一直線に走る。その軌道上にはやはりあの女がいた。
「──賽!!」
サイ。ただ一声その名を叫ぶ。次の瞬間にはガス圧によるものと思わしき破裂音と共に、舟木の先手が放たれていた。ニット帽女の身体が軽く跳ね、2歩ほど後退する。その直後何かに「ぶら下がったように」不自然な体制で踏ん張った。盾を取り落としなら負傷部位に手を伸ばす。
「……クソが!」
アンカーがニット帽女の横っ腹に突き刺さっていた。嗚咽と共に跪いた隙に舟木のローキックが飛ぶ。ニット帽女の長い横髪が同じような動きで宙に靡いた。
何だこの2人。一応知り合いなのか。旧知の間柄なのか。それとも舟木が一方的に
「これが俺たちの報いだ。クソ女」
「だったら何だヒーロー気取り!」
「テメエの好き勝手で出した死人に後から同情しやがって!」
「自分の好き勝手だったからこそだ!今度こそ俺は、俺の正義を信じると誓った!」
「……ふざけるな」
ニット帽が不意に立ち上がる。あの傷でもう一度立ち上がれるのはかなり人間離れしているとしか思えないし、事実僕はその瞬間だけで確信する。彼女は多分人間じゃない。全身が作り物だ。
人間ではない。あのドス黒い瞳の奥底に確かに見た。双眸の見せた一瞬の光沢は生物のそれではなかった。彼女は人の形を借りたバケモノ。僕の遭遇してきた超常の住人の中でも類を見ない純粋の狂気。「超常世界に生きる住人」である僕や舟木とは真に間引かれし存在、要するに超常そのものである。そしてここまで人間離れしていながら何故か、何故かこの超常は明確に、人間的な自由意思を宿しながら目の前の人間に立ち向かっている。
「その正義の矛先を──」
不明瞭な発話と共に完全に二本脚で立ち直すや否や、ニット帽のバケモノは自らの肉体に深々と繋がれたワイヤーを両手で握り絞める。大混戦と発砲音、血と硝煙の匂い、現在進行形で殺し合うその他大勢の情報に曝されながらただその様を見守るしかなかった。頭上を何かが掠める。粉塵が呼吸器から侵入する。罵声と銃声にやられて鼓膜が頭の内側に押し込まれていく。それらを一周遅れで認知しながらただ舟木の背中と、手負いの獣を、この両目に焼き付けている。
「──何故俺に向けた!過去に囚われることを選んだ!」
「“作戦”を終わらせに来た……と言えば理解できるか」
「もう一回言ってやる。ふざけるなよヒーロー気取り」
両者が再び動き出す。舟木の一挙動でもう一度ニット帽が揺らぐが、今度は転倒する前に踏ん張って止めた。止めた挙句ワイヤーを素手で引き千切って拘束を解いてしまった。人間業じゃない。流石に狼狽したのか今後は舟木のスーツが硬直する。その隙をバケモノは逃さない。ワンステップで懐に飛び込み、勢いそのまま、ただの前蹴りで舟木の全身を浮かせた。全身を「く」の字に曲げて背中から落下した体躯をサッカーボールキックで更に転がす。僕の爪先数メートル先まで。
僕の爪先数メートルまで、ニット帽女が迫った。僕を認知しているのかは解らないが何せこの戦闘能力である。下手に動けるわけが無い。何か一つ行動をミスっただけで巻き添えを食らって死にかねないという予感があった。瞬きも呼吸も忘れながら、ニット帽とウィンドブレーカーの襟、そしてやはりやけに長い横髪で区切られた白い顔を見つめる。彫りが深くギョロ目で、日本人的というより少し中東系の血筋が入っているのか。……或いはその全てが、「そういったバックストーリーを演出するための欺瞞に過ぎない」のか。その見てくれは何処からどう見ても人間だ。人間的な嫌悪、或いは純粋な怒りを携えて舟木カエリオというフリーランスを見下ろしている様はどこからどう見たって人間だった。
故にもう一度確信する。この女は人間じゃない。人間を極限まで模して製造された人外の存在であると。表現された人間性と比較しても、彼女の耐久性能や戦闘能力はあまりに人間の規格からかけ離れている。
「二条作戦の悪夢に魘された挙句始めたのは同族殺しってか。趣味の悪いドラマだな」
「お前の次はイズメだ。あの作戦に関わった全員に償わせてやる」
「償わせた後は何か!?テメエ1人のうのうと生きるつもりか!!」
「黙れ!」
「──フナキ!」
刹那、やけに聞き覚えのある声が稲妻のように駆け抜けた。
白くも仄かに摩耗したローブ。その下に着込まれたデジタル迷彩の緑地用戦闘服。そして一本の剣とボロボロのスニーカー。茶髪の少女が僕のすぐ横から真正面目掛けて跳躍し、銀色の脅威を振り被ってニット帽に迫る。
「ユーリ!?」
@@ @@
舟木が制止する暇も与えず、次の瞬間には速度という概念そのものが水平に空を薙いでいた。
振り抜かれた銀色に切っ先は存在しない。しかし一応は柄に鍔と武器としての体裁を整えられた直刀。教団が処刑用に所有する断頭専用の剣である。終始ユーリに似合わなかったローブが剣の1本で妙に映えていた。アレがユーリ本来の姿なのか。剣という脅威を携えた白衣の少女。彼女を不自由の怪獣たらしめる装束。
「教団少年兵か!」
「舟木動ける!?」
「ソイツが死ぬまでは!」
舟木が立ち上がるや否や、今度は2人同時に攻撃を仕掛けた。ニット帽女が辛うじて回避に走る。ユーリはあの不良じみた性格からは到底想像も付かない太刀筋でニット帽女を追い込んでいるし、舟木に至っては片腕からプロペラを生やして、すれ違いざまに味方か敵方か判別の付かない別の教団員を巻き込みながら切り刻みにかかっていた。
脅威。その言葉の意味する存在が2つ。自らを超常社会の住人たらしめるアドバンテージを振るい、ただの一個人を圧倒している。
「」
誤認だった。今2人の目の前にいるのはただの個人ではない。
ユーリの一太刀をピッケルで軽くいなし、振り降ろされた刃を靴裏で制しながら半歩遅れの舟木のストレートを避けた。重心移動のついでに更に深々と刀身を踏みつけ、巻き込まれたユーリの右手をコンクリートの床に押し付ける。
「痛ッた──」
その最中に何が発生していたのかを正確に捉えることはできなかったものの、今目の前で発生している事態は一つしかない。舟木のマスクが今度こそ完全に破損し、細かい破片を撒き散らしながら真っ二つに割れていた。その一瞬前には首元が可動域の限界までねじ曲がっていたような気がする。人間の頭部が瞬間的な圧力に押し負けあり得ない方向に挙動した残像が、僕の記憶野に今の一瞬で焼き付けられていた。
何にせよ最初から最後まで全部ニット帽の攻勢に人間2人が追い付けなかったという他ない。仰け反り気味に後退するスーツの喉元を更にピッケルが掠めた。非常灯の灯りが血飛沫の一滴一滴に輪郭を与える。素人目に見ても解る決定打。舟木にとっての逆転の糸口はもはや存在しない。
「さ……ぃ…ッ──」
「往生しろや真人間ッ!!」
バケモノは止まらない。舟木が喉元を抑える間もなく崩れ落ちたその瞬間、すぐ横で柄ごと指を踏み潰されされていたユーリもやはり前蹴りの一発で吹き飛ぶ。獲物を手放した状態で僕のすぐ横に転がってきた。すぐに体勢を立て直したまでは良いが相当息が上がっている。ついでに右手の指が一部変な方向に曲がっている。
「……はは」
明らかに実力が違う。仮に舟木とユーリを1人の人間として合算しこのバケモノにぶつけたところで到底太刀打ちできないかもしれない。絶対的な現実が僕の目の前に君臨していた。恐らくは脳震盪か何かを引き起こしているのであろう、あれだけ意気揚々とヒーロースーツを纏い奇襲していた舟木も立ち上がる気配はない。ユーリは膝から下をガタガタ揺らしながら軽く吐血している。口の中を切っているならまだしも内臓をやられているならすぐに救急搬送しないと不味い。そして──
──違和感。言語化よりも先に純粋な絶望と恐怖が胸中に滲む。あれだけ絶え間なく聞こえていた筈の戦闘音はいつの間にか止んでいた。咄嗟に立ち上がって辺りを見回す。
誰もいなかった。
否。より正確に口述するなら「誰もが存在していた」痕跡を周囲360°の全景が物語っている。両陣営とも綺麗さっぱり全滅していた。1分前まで生命だったものが貸倉庫の辺り一面に散乱していた。数時間前まで弁当を食らい、軽く睡眠し、細々と会話しながら自分のジャンクロイドを触っていたような人たちが、押し黙ってその瞬間を待ち続けていた少年兵たちが、指揮官クラスの教団員が、この薄暗い闇の底で緩やかに拡散しながら恒永久的な静止状態へ変貌を遂げていた。恐らくは敵方の襲撃者たちも。
今この場で確かに生き永らえているのは僕と、ユーリと、舟木と、そしてこの女だけだ。敵方に雇われたフリーランス。人の外殻を纏う戦闘機構。超常。超常社会の片隅に生きるだけの「人間」三匹の眼前に在る圧倒的未知。触れば命の保証もない脅威そのもの。
「……馬鹿共が」
横っ腹を抑えながらニット帽が小さく呻く。添えられた左手の指の隙間からは絶えず赤い血が流れ出ていた。緑でも青でも白でもない赤。人間の血液と何ら変わらない赤を垂れ流しながら、その足元に転がっていた処刑刀を拾う。片膝立ちのまま動けなくなっている舟木のすぐ横に歩みを進めた。
「何か言い残すことある?」
返答は無い。あったとしてもどうにもならない話であることは無関係ながらに察していた。舟木は多分助からない。
逡巡も束の間、首が落ちる。予想よりかなりショボい勢いで頸部断面から血液を滴らせながら、舟木カエリオという人格を宿していた素体は恒永久的にその活動を停止した。大した感情の変動は無かった。
「……成仏してくれ」
「……お姉さん」
「決着だ。引っ込んでろ」
「いいや突っ掛かるね。貴女が私の夢見た人なら」
「教団の人間かお前」
その状況を果たして正確に理解できているのであろうか。懐から斧を取り出した。
「他人に指標にされるような生き方してねえよ」
「違うね。違うよお姉さん。違うんだ」
「人の事を知りもしねえで勝手な事抜かすな。武器を降ろせ」
「お姉さん」
「武器を降ろせ!」
「お姉さんってさ!!自由なのかな!?」
双方とも同時に片腕を突き出し合う。そして閃光が走った。
「舟木カエリオを」
「……舟木カエリオという個人については多分、貴女の方が何倍も知っている。だから多くは語らない」
「自分を不自由で縛り付けないと生きていけない人だった」
「……」
「私が夢見ていたフリーランスとは真逆の人。理想を実現するだけの力を持ちながら現実を生きた人だった。最期まで」
「……死人の寝言に付き合う暇はない」
「私は貴女に」
「私は、貴女に、自由の片鱗を見つけた」
「……昔話だ」
「聞いて満足するかは知らんがな」
「……誰の?」
「他人の自由のために戦った、人間の話だ」
[加筆]
「俺にはあの人が、この世で一番不自由な怪獣にしか見えなかった」
「お前の目指す自由ならとっくに手に入れて、捨てたよ」
「……そっかぁ」
「親切だね」
「俺にも解らん行動基準だ」
「……人間なんだねぇ。あたし」
「なってみるか?怪獣」
「……成りたかったなあ」
「……お姉さん、名前は?」
「賽。お前は」
「ゆりか」
「……真桑友梨佳」
さようなら、怪獣のお姉さん。人間のあたし。
銃口を顎に下に押し当て、目を瞑る
引き金を引く。
血溜まりに移り込んだのは微塵も濡れていない白髪の、ツインテールの、やけに見覚えのあるアニメ面の美少女だった。
美少女が、僕の挙動をしていた。
「何だこれ」
アニメ面が紅く歪む。その醜く歪んだ口元を塞いでしまおうとでも思ったのか、今度は慌ててかざした両手の白が僕の呼吸を奪った。奪ったというより「呼吸せずに生きている自分」を始めて認識させてくれた。呼吸できない。否、呼吸せずに生きている。脈拍の無い身体を呼吸せずに動かしている。死んだ実感はない。「そういう構造」にすべてが書き換わったような気がする。
「……何だこれ」
身体に、輪郭線が宿っている。どの角度でどう見つめても黒い細線がリアルタイムで体の輪郭を形成している。この世界に無理矢理書き起こされたライブアニメーションのように。
例のハゲは武器も持たずに俯せのまま死んでいた。後頭部に一発の弾痕。見慣れない遺体と見たくない傷跡が胸腔を蝕んでいるような感覚を引き起こすも、その痛みはどこか現実味が無くて、まるで自分の体が人間じゃなくなったような気すらする。
「……何だコレ」
[加筆]
「女神エルマとのアクセスコードを失ない、ただ1人彼の宇宙から落ち延びたTaleライター。創作サイト“SCP”の初期サイトメンバー」
光輪が直下の顔を照らす。若く美しい。そう形容すれば終わってしまうような簡素な美を帯びている。強いて言うなれば、天使の肩から先に在るべきものが何一つ生えていなかった。
「エルマが言うにはそれが君の正体らしいよ。Bataichi0612に合致するユーザーネームは存在しません」
両腕の無い天使がケラケラと笑った。笑える程度にさっきの美少女フェイスを歪ませているらしい。表情筋の挙動を自覚できなくないのがここまで不愉快なモノだったとは。
生物学的に正しい呼吸が出来なくなっているせいか、頭ではやはり混乱しつつ、しかし妙に落ち着いた気持ちを持て余しながら天使を睨み返す。
「……僕がバタイチ0612だとするなら、アンタは何なんだ、“腕無し”」
「“腕無しカイナレス”で合ってる。話変わるけど今どんな気持ち」
「聞かれなけりゃまだマシだった程度に最悪です」
「私としてはそっちの方が助かるけどね」
「君が覚醒してくれない限りこちらとしてもコンタクトを取る手段が無かったものでね。真桑友梨佳については残念に思っている」
「……ユーリは、マクワユリカは、何だったんだ。お前は何だ」
「1個ずつ答えるのめんどくさいからまとめて現況を教えるね。君に残された道は二つ。戦うって死ぬかこの場で死ぬかだ」
「死ぬつもりは無い。戦えってんならせめて相手を教えてください」
「日本超常界そのもの」
「……死んだ方がマシかもな」
「死んだ方がマシも何も、僕はとっくに死んでますよ。この通り。大戦に負けて第13の壁を突き破ってこんな『カノン』に流れ着いて。帰る場所も待ってくれている人もいなくて。僕を忘れないと誓ってくれた他人ならその日に死んだ」
遠い昔、収デンで余所のサークルから購入した財団バッジを握り絞める。もう顔も名前も忘れてしまったコミュニティメンバーの誰か。Twitterのアカウント名すら思い出せない他人の、唯一残してくれた創作物を片手に。
「死んでます。死んでいないというのならここでもう一度死ぬつもりです」
「つまんな」
「アンタが僕を呼び起こしたんじゃないのか」
「誤解しているようで申し訳ないけどね」
「僕はあくまで当初の目的を遂行すべく生れ落ちたガイドラインだ。カイナレスという一個人の都合で動いているわけじゃない。『そういうシステム』として機能せざるを得なくなっただけの機械みたいなものだよ」
「……」
「死人に口なしか……」
「何も上手いこと言ってませんからね」
「聞く耳があるなら死ぬには早いってことさ」
「上手くないですってば」
「君がこの世界に何の関係も無くなった死人であるとするなら、この際君の都合なんぞ知ったことではないということだ。そもそもの話をしよう」
「その子を殺したのはフリーランスでも教団でも、超常でも抗争でもない。人間の“構造”だ」
「構造」
「舟木カエリオが渇望した構造、真桑友梨佳が拒絶した構造。そして君が仮定し議論した構造。時に社会、団結、友情、或いは単に“愛”と呼ばれる、既存人類の強さの根幹だ」
「……愛がユーリを殺したとでも言いたいのか。アンタは」
「殺したさ。消えた人間に縋りつくのに必死な女が自分の都合でね」
「キーマンを3人紹介しよう。と言ってもこの内2人は女の子だが」
「勝手に話を進めるな」
「進めるさ。勝手を捨てた僕は僕ではない。君とて同じことだ」
「ワケが解らない」
「1人目。この子知ってる?」
「……知ってるもクソも」
僕の隣に立ってた女の子じゃないか。やけに毛量の多い黒髪で若干ウェーブの掛かったボブカットで、良いのか悪いのか解らない絶妙な目つきの黒ジャージの女の子。床に落としたナゲットをそのまま食ってた人。
「……ふた……何でしたっけ」
「フタツキ。これから先“我々”にとっての最大脅威と成りえるフリーランスだ」
「危険ってことですか?」
「もっと危険になりかねない」
「2人目。この女の隣に立つもう1人の脅威だ」
「……は?」
「賽。戦闘用バイオロイド」
「そして3人目」
「……条件が2つある」
「何個でも聞き入れるよ」
「ユーリを蹴り倒したニット帽女の死体が見つからなかった。生きているなら素性を教えてくれ」
「……!……仮に捕捉できたとして、教えたらどうするつもりだい」
「この手で殺します」
ユーリ。僕は行くよ。
二度と拍動しない胸中に二言、呟く。
「──具合は?」
「問題ない……というか……!凄い……!凄いですよこれ!賽さん!」
「俺の知る限りここ来て以降一番笑顔だぞお前」
白街総合医療センター4階。地下施設での戦闘から丸一日。数時間前まで眼孔に鉄板を突き刺していた筈のフタツキは嘘みたいに両目を輝かせたまま俺を見つめていた。
潰された右目の代替品として手に入れたのは、どこかの誰かが遺留物として残していた旧プロメテウス社製の義眼。しかも奇跡的にフタツキの骨格サイズに適しているサイズのものだった。骨を切って異物を嵌め込んでもう一度止めるという荒療治をここまで懇切丁寧かつ迅速に終えた隣の奇人も久方ぶりに嬉しそうなツラを晒していた。
「ヒャクメン屋さんもありがとうございます!本当にもう片方の目も失明していくかと……」
「礼には及ばないよ。イズメの娘さんがこんな稼業始めるなんて聞いてるだけで射精しそうでね」
「ありが……?」
「聞かんでいいからなフタツキ。お前も発言に気を付けろクソ医者。女の子の目の前で何だその語彙は」
「僕が射精するのはその娘ではなくイズメに対してだが」
「殺していいぞフタツキ」
眉を顰めながら俺の陰に隠れるフタツキを余所に札束を投げ渡す。全16色のサイケデリックカラーに染め上げられた刈り上げヘアを揺らし、青い瞳の整形外科医がその枚数を数え始めた。
“百面屋”。イズメとも古い付き合いのある闇医者。専門は整形外科。フリーランス化して間もない者たちの顔をイチから変えたりと中々インテリな真似で生計を立てている。その技術の希少性から発足直後の廃桃源ギルドにスカウトされ、正常性維持機関の魔の手から遠ざけるよう優先保護された人員の1人でもあった。
「45万円、確かに受け取った。領収書とか諸々書くからちょっと待っててね」
「……随分お安い気がするんですけど、本当にこの金額で良いんですか……?」
「さっきも言った通りだが君がイズメの娘でフリーランスなのが悪い。僕のキンタマの機嫌の取り方なら僕が一番心得ているってわけさ」
「フタツキ。殺していいからな」
「殺していいのは流石に理解しました」
「私は別に殺されても構わないが、君の担当者としての責務をまだ果たしたわけじゃない。その義眼について軽く説明させてもらおう。彼の社の純正アーティファクトを腐らせるようなロクでもない真似はさせたくないからね」
荷物置きに手を伸ばしかけていたフタツキが止まる。次の瞬間には右目だけが百面屋に向けられていた。古今東西色々な超常持ちの強面を見てきたつもりだが、人形のように整った顔面でこういう真似をされると流石に少しだけ背筋が寒くなる。一周回って普通の人間から逸脱した女ではあるが、こうも直接的に人外じみたビジュアルを目の当たりにしてしまうと俺としても思うところがあった。
……という一連の思慮はミリも伝わっていないであろう。フタツキは反射的に動いた右目に驚いて躓きかけていた。自分の意思とは無関係に動かしたというのか。
「……プロメテウスが秘密裏に開発を進め実用段階までモデルアップした、完全移植式半生態型視角補助デバイスだ。念じただけでズームのインアウト、ピント合わせ、赤外線暗視モードへの切り替え等が行える。もちろん通常の視覚を維持したまま機能をオフにすることも可能だ」
「……左目だけ生身だと慣れませんね」
「生身がちゃんと残っていること自体大切だよ。身体の欠損を超常などで補える世界にあったとしてもその認知は歪めちゃ駄目だ」
「な、なるほど」
「親から授かった身体だからとは言わない。自分の事くらい自分で労わりなさい。自分の悲しみとも向き合いなさい。後悔はしておきなさい。孤独の否定なんて人間チックな真似するつもりなら君が人間に成らない限り始まらないでしょ」
「……ごめんなさい。変に傷つきたくなくて気丈に振舞っていたのは確かです」
「イズメにもその気があったけど似るもんだね」
偶に超常の住人であることを疑うほどマトモな事抜かすから油断できねえんだよなこの医者。刃物ごと包帯でグルグル巻きにして緊急搬送してのゴタゴタの中ずっと元気だったフタツキが初めて精神的なショックを受け入れつつある。
「この……モードオンした時に表示される下の方の文字列って何ですか?ヘブライ語……?」
「実用段階には至っていない代物だ。一時期ウチの助手にその目を埋めていたんだが単なるメモ帳にすらならないらしい」
網膜投影機能か何かが備わっているのか。戦闘用バイオロイドシリーズのプロトタイプとして製造された俺には搭載されていない能力だ。やたら視力が良い癖に肝心の射撃補助システムが搭載されていないことを何度悩んだことか。まさかこの手の機能を俺より先にフタツキが会得するとは思わなかった。事態を鑑みれば保護対象の身体欠損を喜ぶなど言語道断甚だしいわけだが、それはそれとしてこの義眼の搭載がフタツキの戦闘能力に可能な限りプラスの影響を与えてくれる可能性はある。
百面屋は人格破綻者だが、顧客のオーダーに対する熱意と姿勢、それらを実現する手腕については一級品である。「戦える目にしてくれ」というフタツキの注文を汲み取っての義眼移植手術は伊達に熟した仕事じゃない。
「あの、改めてありがとうございます。素直に幸せです。両目があるのって」
「僥倖。これで君も義眼のともがら、“ギガント”だな!」
「お世話になりました」
「行くぞフタツキ」
2人して廊下に出る
「……ふむ」
「?何かあったんですか?」
「お前の目ん玉潰した女の事だが」
ジャンクロイドの画面をフタツキに向ける。既に左右非対称の眼の色が同時に少しだけ縮こまった。
『廃桃源ギルド在籍フリーランス連続死傷事件、無尽月導衆抜け忍の弟子に100万円の懸賞』と銘打たれたニュースの見出し。恋昏崎新聞webのトップページにデカデカと掲載された文字列の下には、先日フタツキが殺したババアの顔写真が添付されていた。
「……キルコさん、なんですか」
「凶器はデカい刃物、そして投擲武器やブービートラップ。170cm程度の女。間違いなく奴だな」
「俺だ」
『7、8人目が同時に出た。フタツキちゃんの端末に画像送付するね』
「フタツキ」
「こちらに……うわっ──」
何を見て硬直したのか、不意に取り落とされた端末を空中で掠め取る。その画面を凝視した瞬間には自分もフタツキと同じような声で反応していた。
「うっわ……」
『貝塚コユキとナスターシャ・ナインハンドレッド。2年前の模擬戦闘訓練で君が受け持ったフリーランスだ。憶えてる?』
「貝塚はお前のツテで来た蒐集院残党のお嬢さん、ナスターシャの方もそこそこ印象に残ってたんだが、そうか……」
どれだけ痛めつけたところで崩れなかったポーカーフェイスも見る影すらなくなったロシア人男性、辛うじてアジア系の顔立ちであることは判別できる推定日本人女性。
それらの生首が東京下町のごくありふれた路地裏に転がされ、その背後にそびえる壁には等身大の『伐』一文字が荒々しくペイントされていた。ドス黒い紅。決着がつき次第現場から全速力で離脱するの俺からすれば、一周回って見る機会の少ない風化の色。数刻は雨風に晒された人間の血の色だ。転がされた生首はこのパフォーマンスのために消費された使い捨ての筆であった可能性が高い。
「こういう凶行に走る奴には見えなかったが、なるほどな」
『コードネーム“キルコ”。専門は暗殺と代理決闘。廃桃源ギルドに籍を置いているわけではないけど、サヒビと共に行動を始めた1年前の時点で斡旋業者の一部がマークしていた。フタツキちゃんの話を聞いている限りだと君とタメ張れそうな実力っぽいけど、確かに自分から目立ちたがるタイプとは思えないね。仙台の方の人?』
「データあるなら回せ。そしてフタツキの端末にこんなモン送んな。ビックリしちゃうだろうが」
『ちゃんと認識しておいて欲しい事があっての送付だよ。フタツキちゃん聞こえてる?』
「聞こえてます。あの、びっくりするのでやめていただけると」
画像を削除し、端末を返す傍ら無言でフタツキの眼を確認する。会話の流れは把握できているらしい。
『君に対する再戦宣言だよ』
「やっぱりぃ……!?」
「“カイナレス”そのものが大々的に動き始めている。敵の目的は思った以上にデカいぞ」
「あんまりピンと来ないような……?」
「お前がこの界隈来てまだ1ヶ月も経ってないのがおかしい。まあ要するにだ──」
「日本超常界の」
「……マジかよ」
「大マジだね」
「というわけで、君は我々ではない。君自身だ。後は勝手にしてくれ」
[加筆]
「……舟木」
「…………ユーリ。……僕は」
「僕は行くよ。君の目指した孤独の果てに。」
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ANOTHER-ENCOUNTER
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