私より遅寝で、早起きで、昼寝なんか絶対に挟まない生活サイクルを徹底していて。
思えばこの2週間、常に寝食を共にしていながらこの人の寝顔を知らないままだった。曰く3時間の睡眠と十分な食事さえ確保すればカタログ通りのスペックを発揮できるのだという。
初めてそれを目にした衝撃を未だ言語化できていない。水分不足の唇を微かに開いて、遊び疲れた子供のように目を閉じる彼女にどことなく懐かしさを覚えて、その後は足元の竦みを忘れるくらい、何も考えられなくなって──
「──オラァッ!」
お手本のような跳び膝蹴りが老人の顔面を捉える。ガラス片だらけの玄関先へ倒れ伏す襲撃者を容赦なく踏みつけ、賽さんは眉間に皴を寄せながらこちらに振り返った。
「暇か!?」
「ごぅ……めんなさい!」
低すぎる月明りを頼りに駆け寄る。銃身をかなり短く切り詰めた上下2連散弾銃を奪取し、持ち主の頭部に銃口を向けたまま装填状況を確認する。2発とも未使用。賽さんの奇襲が成功していなければ私の頭が消し飛んでいたかもしれない。玄関扉の外側から散発的に撃ち込まれたスラグは、私たちの背後に無数の着弾痕を刻んでいた。
寒い。全身が痛い。外も屋内も変わらず暗い。靴以外の衣服が殆ど爆風で消し飛んだから仕方ないとはいえ、トラロック社員の撃退から既に4時間近くをこの山荘で過ごしている。羽織っているのは血塗れのボロ布1枚きりだった。4波目の襲撃者が来る前には下山したいけど、無事に市街地まで降りたとしても近隣住民に通報されたら終わりだ。
第一このままじゃ電車に乗れない。廃桃源に接続されたポータルまで撤退するにも基底現実の交通機関を何度か経由する必要がある。
「使い方解るか?」
「取り扱わせてもらった記憶ならあります!散弾とスラグの反動は慣れてるつもりです」
「パチンコは捨てちまえ。そんで──」
「俺ぁ悲しいぜ?零逸」と、賽さんは突然襲撃者に話しかける。ゼロイチと呼ばれた老人はゆっくりと顔を上げて私たちを見やった。
「弾と拳銃はポーチにまとめてある。普段通り一撃で頼むよ」
「寿命で死になクソジジイ。ボケてないなら尚更だ」
「何をやらかしたんだね」
「こっちが聞きてえよ」
一応知り合いなんだろうか。ドブガワさんや訓練所の顔馴染み以外にも知り合いはいたんだと謎に感心してしまう。
それにしたって凄く、凄くパンクな名前だ。見た感じ70は越えてるご老体がゼロイチって凄いな。雑賀イツキの2つ目の名前ってことで“フタツキ”になってる私とは大違いだ。老人は背中を踏みつけられたまま私に目を向ける。
「フタツキというのは君か」
「あっ、えっ……はい」
「殺害優先度は君の方が上だった。思い当たる節はあるかい?」
「私がイズメの娘だから……?」
「……」
意図の読めない沈黙。ゼロイチさんの背から靴底を退け、賽さんは弾切れの拳銃をなお構えたまま割り込む。
「俺にこんなモン向ける方がよっぽどだな?あ?」
「ハンターとしての矜持だ。クライアントに狩れと言われれば何だって狩る」
「狩れてねえ癖にデケえ口叩くな。誰に雇われた?」
「2人目から聞き出さなかったのかい?」
「聞く前に殺しちまったから聞いてんだよ」
互いに負傷の応急処置をしていた矢先だった。30本程度の短い矢とスリングショットを携えてやってきた第二の襲撃者は、私が牽制射で足を止めた後に賽さんが奇襲して殴り殺してしまっている。遺体は被害の少なかった部屋に押し込んだままだ。私より若干年上の女性。賽さんは一切面識がなかったらしい。
ゼロイチさんは少し呼吸を落ち着けた後、つい先程まで自分の獲物だった散弾銃に顔を覗かれたまま口を開く。
「……“カイナレス”という名に聞き覚えは?」
「無い。フタツキは?」
「全然……」
「それ以上のことは知らない。伝えられるのはカイナレスという名義だけだ」
面白いくらい聞き覚えが無い。誰なんだろう。その人が私たちの殺害?を直接依頼したクライアント本人なのか、はたまたゼロイチさんとクライアントの間にいる仲介役なのか。賽さんも知らないとなればなおさら解ったもんじゃない。もう少し念入りに聞き出しておいた方がいい気がする。
「カイナレス……」
「そろそろだな。フタツキ」
そして本当に不味いことに、今の私たちには悠長に尋問を続けるほどの余裕が無かった。
調べた限りではトラロック社と一切の関係を持たない無所属フリーランスの襲来。余計に長引いた応急手当と2人同時に発生した携帯端末のバッテリー切れ。続く対ゼロイチ戦でついにほとんど使い切ってしまった予備弾薬。服の残骸を羽織っているだけでほとんど裸同然の私。顔の一部が焼け焦げたまま無理矢理戦い続けてる賽さん。満身創痍という言葉が可愛く聞こえてくるような有様だ。
第2の襲撃者の端末を介して賽さんが救援を要請したのも2時間くらい前のことで、今まではその救援とやらを待ちながら、少しずつ身体の中の破片を取り除きながら止血と消毒を続けていた。丁度今くらいの時間に到着すると聞いているからそろそろ出発の準備をしなければならない。
「これから動くつもりなら用心しなさい。ぼくの後続が2陣程控えている。多額の前金を貰ってね」
「そうかよ」
パキンっという軽快な音の後、細い呻き声が立ち上る。ゼロイチさんの足首が変な方向に曲がっていた。今の一瞬で踏み潰したらしい。
「今の必要ありましたか……!?」
「スジを通したまでだ。まだ抵抗される可能性もあった」
「私たち生きてますよ」
「ジジイも死んでねえな」
言い返せない。足首を押さえることすらままならずに呻き続けているゼロイチさんをただ見下ろしたまま、未だ熱を逃がし切れていない散弾銃を握りしめる。出会ったその日から解り切ってはいたことだけど、賽さんは目的に応じて他人を害することができる人だ。そういう人でなければこの世界を生きていけないから当然ともいえるけど、そういう人と一緒に生活しているという事実は長らく忘れていたかもしれない。
私の畏怖なんかまるで知らないのか、或いは知りながら知らないふりに徹しているのか、賽さんは弾薬と予備銃の入ったポーチを剥ぎ取り、銀色のリボルバーを取り除いてから私に投げ渡す。
「4波目が先か救援が先か解らん。零逸はここに放置。山荘周辺を偵察してから茂みに潜伏するぞ」
「あ……了解!」
賽さんに続いて玄関から飛び出る。想像していた以上に明るい。やはり相当低い位置ではあったけど月が出てくれている。ゼロイチさんとの戦闘は真っ暗な廊下でスラグ弾の連射に怯え続けるだけの時間が殆どだった。ヘッドライトは吹き飛んだまま見つからず終いだし。今は周囲十数mの視界が確保されるだけで安心してしまう。どこから吹いているのかも解らない降ろしの寒風に目を瞑れば好都合だ。
反面、視界がそれなりに良好なのは敵にとっても同じな筈だ。用心するに越したことは無い。誰に言われるわけでも無く低姿勢のまま追随する。風が冷たい。ありえなくらい冷たい。賽さんは基礎体温がかなり高いらしいからそれほど苦じゃないのか。
「具合は?」
「寒さのほうが辛いです。死体から上着だけでも回収しておけばよかったかな……」
「傷口に余計なモンくっつけると後が怖いんだよ。多分余剰次元にすら行けない宿無しだぞアレ」
「それはそれとして寒いです。本当に。今後の戦闘で響きかねないくらい」
「……俺の上着いる?」
「ください。すぐ」
「声がデカい。待って何か穴開いて引っかかってる」
「早く!」「急かすな馬鹿!」と押し問答も束の間。前方に衝撃音。闇の先から迫りくる青白い粉塵と爆風。2人同時に2、3歩後退する。
確認するまでも無く4波目の襲撃者だ。鹵獲したばかりの散弾銃を構えて賽さんの隣から少し距離を取る。煙の向こう側に人影。数は1。火器のようなものは確認できない。トラロック社員より更に一回り小さい小柄な男性だった。
「──ここで会ったが十万年目ってヤツか⁉ニット帽!」
「ドブが待ってんだ先にそっち行ってこいや!負け犬!」
「知り合いなんですかこの人!?」
ハチマキ頭の襲撃者が瞬間的に何かを両手に構える。右手に割り箸。左手に湯呑。廃桃源のアパートで賽さんに叩き込まれた座学が瞬間的にフラッシュバックする。アレだ。名前思い出せないけど、正直実在を信じたく無かったものが目の前にいる。
「格闘戦用意!奴に銃は効かない!」
敵はスシブレーダー。その名の通り自律回転する寿司を武器に戦う超常の住人だ。ああ見えて一定以上の腕を持つ人は銃弾を止めたりするらしい。
赤く汚れた折り畳み式ピッケルを展開した後、賽さんが突進する。味方にスシブレーダーがいない以上、今回はブレーダー本人を直接無力化して倒す道しか残されていない。対スシ戦闘の備えが無い状況での真っ向勝負は必ず負けると教わった。アレを撃たれたら絶対に負けてしまう。指向性を持つ音速の寿司が、来る。
「帰宅ついでに保健所送りだクソ犬!」
「やってみろハゲ女!3ァンッ!2ィッ!1ッ──」
駄目だ間に合わない。2人目と3人目がどちらも非異常の脅威だったせいか少しだけ期待してしまっていた。今対峙しているのは紛れもない超常。確実に勝つ保証は時間経過と共に失われる。失われてしまう。あと数秒も無い。今からでも散弾銃で牽制すべきなんだろうか。いや駄目だ。射線に賽さんが重なっている。そしてまともなゼロインもしていない銃を撃つわけにはいかない。寿司が来る。
「へいらっしゃ──」
抵抗の手段も無くただ身構えたその時、射出詠唱が不意に途切れる。賽さんも急に止まる。
風の音だけが山中に響く。小走りのまま賽さんに追いた。状況がよく解らない。
「何が……?」
「やっと来やがった……」
「はい?」
正体不明のスシブレーダーはいつの間にか草むらに倒れている。目を凝らせばその背中から数本の棒が生えていた。矢だ。スリングショットの人から鹵獲したやつより一回り大きい矢が5本は突き刺さってる。位置を考えれば絶対に助からない致命傷だった。
晴れかけの煙の向こう側から今度は人影が2つ。1つは私より背の低い女性。もう1つはちょっと高めの男性のようで、目を凝らすまでもなく弓を持っていることは確かだった。やがて低身長の方が歩調を上げて賽さんに迫る。モコモコしたフライトジャケット。胸元に刺繍された「榊探偵事務所」という文字列。
「お待たせ賽ちゃん!」
「遅え!」
金髪ボブカットの女の子を比較的軽めにド突き、賽さんは大きく息を吐いてその場にへたり込んでしまった。ようやく救援が来たらしい。
:
下山後、黒塗りワゴン車の後部座席に2人並んで座る。運転席にはボブカットの女の子、助手席には短い弓を携えた学ランの男の人が乗り込み、程なくしてエンジンが始動した。慣れた発進で眠気を誘われる。疲労と眠気が痛みを和らげる。最後部の荷台には一応拘束回収しておいたゼロイチさんが寝転がっている。意識はいつの間にか失われていた。
「飯は?」
「注文通りお肉買ってきたよ~!賽ちゃん好きそうなやつ!」
「本当に助かる」
「えへ!えへ!えへへ~!」
賽さんがちゃん付けで呼ばれている。当の賽さん自身は特段気にしている様子も無かった。あれだけ人が死んだ後なのにちょっと面白い。目の前で死に過ぎたというより、生き残るのに必死だったせいで心の何処かが更に壊れたのかもしれない。初めて射殺に及んだ時より明らかにダメージが少ないけど。
榊探偵事務所。恐らくは賽さんが手放しに賞賛していた「サカキ斡旋」の表向きの名前。対外的に企業名を偽装しているということは基底現実でも表向きの商売をやっている証拠だ。賽さん曰くこれら全般をフロント企業と呼ぶらしい。この二人は榊探偵事務所、もといサカキ斡旋の社員か、或いは私たちの同業なのだろう。
「フタツキちゃん?もお疲れ様!賽ちゃんから色々お話聞いてるよ」
「ありがとうございます。えっと……」
「私はサカキ!4代目だからヨツヨで通ってるよ!」
「サカキって襲名制なんですか⁉」
「お前が想像してんのは3代目の方だ」
紙の包装を破いてフライドチキンを頬張ったまま、賽さんは私にペットボトル入りの水を手渡して来た。車内灯でようやく露わになった彼女の肌は至る所に深い傷が刻まれていて、少なくとも直視は許されない気がした。軽く目を背けながら受け取る。
「先生を拾ったのが現社長で元財団エージェントの3代目。ヨツヨは予備の社長だな」
「次期社長って呼んでよ~何ぁに予備の社長って~」
「運転中に振り向くな」
「オート操縦だもんこの子」
「嘘つけ!」
「ほんとだもん!レッケちゃんがサウジから奪還してきた思考戦車だもん!」
「テメーは顔がうるせえんだ前だけ向いてろ!」
この2人は私よりもずっと古い仲なんだなあと思いつつ、一応ドブガワさんや私以外にも軽口を叩き合える人がいるんだなと少し安心してしまう。一度背中を預け合ったらしい人を踏み潰していたから一時はどうなることかと思っていたけど。
一方で助手席に座る学ランの、弓で私たちを助けてくれた男の人は何も喋らないままだった。弓道部が使うようなものより少し小さめの、日本史の教科書に掲載されてた通りのモンゴル風短弓と矢筒を抱えて無言に徹している。こちらを気にするそぶりを一切見せていない。
「あの、そちらの方は?」
「財団に保護される直前で拉致った子。今は私専属の護衛だね」
「本当にありがとうございます……助かりました」
「ありがとうだってさ。久しぶりだね私以外から褒められるの」
相変わらずの無反応。気まずい。こっちは賽さんと顔馴染みというわけでも無いらしい。
財団に保護される予定だったということは、何かの異能を持っていたのか、はたまた超常に関連する家系の人だったのか。何にせよ喋ってくれないならこの先も解らないままだ。賽さんから続けて渡されたコンビニおにぎりを向きながら何となく窓の外を眺める。暗い。千葉県ってもう少し明るいイメージあったんだけどな。
車窓。薄く映る化粧不足な自分の顔。生きている実感が車内暖房と一緒に襲ってくる。
「俺らの治療の用意は?」
「できてるよ~。あと頼まれてた調査も速攻で終わらせてもらった!」
「よく都合着いたな」
「ね~」
「ね~じゃなくて。誰使ったんだよ」
「知らな~い」
「代替わりした瞬間契約切ろっかなー御社と!」
まだおにぎりは全然食べてないのに。隣前後の会話はうるさくなり始めたのに、眠い。病的なまでに眠い。座席に身体が沈む。
思えばここに至るまで色んなことがあった7年前の父の失踪。半年前の母の急死。超常社会とのファーストコンタクト。記憶を絶妙に処理されてイマイチ思い出せない台湾での射撃戦闘訓練。初任務と全滅。初めての殺人。賽さんとの出会い。襲撃。殺人。爆発。殺人。殺人。殺人。
これから先もこんな忙しい毎日になるんだろうかと思うと、半分くらいはやってられない倦怠感で押し潰されそうになるし、もう半分を占める使命感でもう少しだけ立っていたくなる。今は僅差で倦怠感の方が勝ってるかもしれない。あれだけ大口叩いたんだからまずはこの人の傍で生きのこらないとな。……駄目だ考えるだけで段々疲れてくる。
疲れてくるというか。実際疲れた。疲れすぎて猶更余計に考えてしまう──
「──おかえり。ちゃんとご飯食べてきた?」
「お母さんかアンタは」
賽さんのキレ気味な声で目が覚める。車が止まっていた。車庫の中にいる。
動かすたびにどこかの傷口が開くようになってしまった身体を動かし、極力ゆっくり座席から離れようと試みた瞬間、ドアの外から伸びてきた両手にいきなり全身を持ち上げられてしまった。
お姫様抱っこだ。初めてされた。下を見なくても相当高い位置まで持ち上げられているのが理解できる。あと妙に柔らかくて重い何かが半身に押し当てられていた。咄嗟に上を向く。
「初めましてかな」
「わあ!」
自己紹介されるまでも無かった。肩より少し下まで伸びた髪の毛と大きな丸メガネ。その向こう側からこちらを見つめている垂れ気味の目。そして圧倒的存在感の胸囲。この人3代目サカキさんなのだろう。風格が今まで会ってきたどのフリーランスとも違う。強そうとかそういう次元にいない。他と「絶対的に違う」としか言いようがない。
「話以上にカワイ子ちゃんじゃないの。乱暴してないだろうね」
「シバいて仕立て上げてる最中だが」
「あ、えと、シバかれてます」
「被害届出してくれたらすぐに斡旋候補から除名できるからね~遠慮しなくていいよ」
「そんな」
「声可愛い~!要所要所がイズメそっくりだけど可愛いね。何でそんなに可愛いの?」
抱っこされたまま揺すられる。痛い痛い。地味に痛い。無駄に体温が高いのもあって言葉に出来ない申し訳なさでいっぱいになってしまう。賽さんは車庫で待機していたらしい他の人たちとの手短なやり取りを終えた後、サカキさん目掛けてズカズカと突っ込んできた。
「怪我人を揺するな」
凄い音の下段蹴りが炸裂する。音もさることながら、この威力の打撃を食らって尚サカキさんが微動だにしていないのが一番怖い。伝わってくるはずの振動が私の身体に到達していない。財団というのはこんな強い人たちばかりの集団なんだろうか。
だとしたら現職の人たちとは極力鉢合わせたくないかもしれない。離反者ですらこんなに強そうなのおかしいよ。
「君はちゃんと元気そうだね」
「俺のサイズで予備の制服あったら2着出しとけ。下着もな。誰が元気だ馬鹿」
「着せる前にちゃんと消毒しなよ」
「あと弁当3人前と医療用ナノマシン。俺のメンテについてはこっちで予約しておく」
「ドブ君とこの餃子パックでいい?」
「それだったら4人前頼む」
会話の過程でゆっくりと地面に降ろされる。軽い会釈の後、お話の中に出てくる物乞いみたいな恰好のまま賽さんの後ろに駆け寄った。
かび臭くない室内の空気が、夜の山中とは程遠い匂いが、やっぱり本当に生き残れたんだなという実感ばかりを膨張させてくる。このままだと本当に思考が止まりそうだ。
「ちゃんとした療養は白街総合医療センターでやるとして、今からやるのはそれまでの凌ぎだ」
「了解です。賽さんは……」
「肉食ってりゃ2日で治る。自分の心配と対策をしろ」
そりゃ私よりはタフなんだろうけど、だとしてももう少し自分の身を労わって欲しい。私が気絶している間に奇跡術で散々爆撃されたみたいだし、一応見えないところで凄い傷が出来ている可能性もあるというのに。脳震盪や遅延性の血管損傷の怖さとか貴女から学んだんですよ。
車庫からの入り口を介して1階に入る。小奇麗なオフィスとしてまとまっている室内には、ヨツヨさんが羽織っていたのと同じジャケットを着た人たちが5人くらいで屯していた。女性は1人しかいない。自分の今の姿を思い出して急激に赤面する。辛うじて下着が残ってるだけでもありがたいと思うべきか。
「オラ退け退け下向け。女の子が通るぞ」
「うわ賽だ」
「賽!?と誰?」
「誰ですかその人?」
「賽かよ……」
「うるせえな賽じゃ悪いかよ!」
賽さんは普段からどんな扱い受けてるんだろう。過去に何をしたらこんな反応されるんだ。一応仲悪いわけじゃなさそうだから別に良いんだけど。
唯一何も言わなかった女性社員さんに誘導されながらオフィスを抜け、地下へと続く階段を下る。突き当りのドアを通過した先には小さな体育館と見紛うほどの空間が広がっていた。
壁沿いにぶら下がっているサンドバッグや散乱しているトレーニング器具から察するに、どうも基底現実滞在中に斡旋社員やフリーランスが使用する戦闘訓練施設らしい。更に観察してみるとプラスチック製のトレーニングライフルが二丁ほど転がっている。白街での特訓で使っていたやつと同じだ。HK416のコピーモデル。台湾で実物を触った記憶も一応残っている。
「医療キットここある。シーツあるから出血気にしなくていい。何も汚すな」
「どっちだよ」
「汚すと、殺す」
「怖えよ」
「殺すよ!」
「怖えってば!」
不慣れっぽい日本語の女性社員が颯爽と退出する。やっぱり特段気にするわけでも無く、賽さんは入口付近に置かれていた救急ボックスを開いて機材を展開し始めた。
唖然としたまま周囲を見渡す。火薬とガンオイルの匂いがしないあたり実銃の取り扱いはさせて貰えないのだろうか。白街の訓練施設よりは断然綺麗だけど、それでも使用感はある程度感じられた。つい最近まで誰かが戦闘訓練で使用していたことは何となく解る。
「……どうした?」
「何か、映画みたいだなあって」
「俺らの存在そのものが映画みたいなモンだろ」
「基底現実にもちゃんとフリーランスの活動拠点があるんですね」
「余剰次元都市に辿り着いて活動拠点にありつけるのは界隈でも上澄みの方だからな。服脱げ」
言われた通りに脱ぐ。グズグズになってしまった包帯を手際よく取り外し、溜まっていた血を拭き取った。賽さんは1つ1つの傷口を入念に見て回る。
数えた限りでは全身27ヶ所に爆片が食い込んでいたらしく、今こうして私が生き残っているのは本物の奇跡に他ならないらしかった。何なら立って歩ける時点で凄いのか。太い血管を1本も損傷することなくあの規模の爆発を耐えきるなんて二度と無いとも言われてしまった。
「傷跡は相当残るからな。そのつもりでいてくれ」
「そのつもりです。」
「綺麗な肌してんのにな」
「晒す機会なんかないので……」
「そういう問題じゃなくてだな」
怒らせてしまったのなら申し訳ない。口を閉じてもう一度室内を見渡した。
「……どこ、ですか?ここ」
「江東区新木場」
「お台場にちょっと近いとこだ……」
「探偵業者と便利屋派遣、あとは非正規かつ非公認の用心棒で表の金を稼いでる。超常フリーランスの存在を知ってる奴はその顧客の中でもほんの一握りだがな」
「なるほど……いたたた」
アルコールのジワリとした痛みが首筋に浸透してくる。トラロック社員を殺害した後に見て貰ったら一番最初にびっくりされた傷だ。あと1cmズレていたら助からなかった位置に大きな木片が捻じ込まれていたらしい。
「……やっぱり間一髪でした?」
「これで死んで無いのがおかしいって傷がパっと見2つある」
「わおわおわお」
「答えられる範囲でいいんだけどさ」
唐突に改まってきた。こういうのに弱いんだ。今このタイミングでどういう反応すればいいのか解んない。気不味い空気をすぐに終わらせようと、賽さんは続けざまに聞いてきた。
「このまま稼業続けるのはもう変わらないとして、お前がどう折り合いつけて人殺してんのか教えてくれないか」
それは私が一番知りたいことだ。けど、何かこの先も思った以上に他者を殺せそうなことは伝えておいた方が良いかもしれない。隠し事する必要なんて全くないわけだし。
「折り合いというか、いざその立場に立ってみたらやっぱり抵抗や後悔が無かったというか」
「……なるほど?」
「相当昔の話ですけど、父に聞いたことがあるんです。『警察は人を殺す仕事なの?』って」
「嫌なガキだなオイ。機動隊員とはいえヒラの警官に聞くかよ」
「いや本当に。無邪気ながら本当に良くない質問だったと思いますけど、警察組織と銃って切っても切り離せない関係にあるじゃないですか」
賽さんが手を止める。続きを待っているらしい。落ち着いて言語化しながら続ける。
「……小学校の帰りに、同い年の子から聞かれたのをそのまま聞いたんです。父がどんな顔してたかまでは憶えてないんですけど、すぐに返ってきた一言だけは今でも思い出せます」
「『そうだ』ってか」
「です。何一つ否定せずに言い切りました」
2週間前、初めて他人を射殺する直前に思い出したことだ。
理不尽、或いは因果応報に殺されることを受け入れた貴女を、その理不尽を強要する世界を許せなくて、私は引き金を引いた。結果的に賽さんと出会えた。私は生き残った。人として最大のタブーを犯してでも守るべき未来が確かにあった。そういう意味で言えば私は自分の殺人を少しも後悔していない。その過程で殺された人間の不都合なんて今から考えても仕方のないことだ。
「父には職業というライセンスがありました。私に何ら臆することなく、国の安全保障や治安維持のためとはいえ自分が人を殺す側に立っていることを表明できたのは、多分そういう理由があってのことです」
「お前には相応のライセンスがあるのか?」
「あるわけ無いです。在って欲しいとも思えません。……それでも私はこれを握っていましたから」
手当の過程でホルスターごと外したSIG P230-JPを、そっと撫でる。多少の錆が目立ち始めた灰色のフレームが指先を冷やす。父の言葉には続きがあった。
「『職業は資格に過ぎないが、銃は能力であり責任だ』。父の言葉です。私はあの瞬間、ライセンスが無くとも自分の責任能力を使命の為に行使すべき立場にありました」
「……『独りで死なせない』、か」
「私の否定すべき理不尽がそこにあるのなら、銃を握る限り何度でも引き金を引くつもりです」
「理解した。ありがとう」
再び手当が始まる。消毒はまだ済んでいない。痛みの地獄はここからが本番だ
「でもどうして急に?」
「忘れてくれ。俺の弱さの話だ」
「……?」
──20分程度の大工事が終わり、最後の包帯を巻き終えたところで新しい服を渡された。アーミーグリーンのジャケットと簡素な長袖シャツ。深い藍色のズボン。替えの下着。せっかく閉じた傷口を開かないようにそっと動きながら着込んでいく。
賽さんも血塗れの服を脱ぎ捨てて着替え始めた。驚くことにほぼ全ての傷跡が塞がりかけている。もしくは完全に塞がっていた。
「傷口ってこんな早く塞がるんですか……」
「強制的に再生速度を稼げはするが、デメリットがデカすぎて極力自然治癒に徹している」
「デメリット……?」
「将来的な損得の話だな。今まで教えてなかったのはタイミング逃してただけだ。ほぼ他人のお前の前で披露していいものでもなかった」
私が丁度着替え終えたあたりで、先程の女性社員さんが戻ってきた。
「まだ着替え中だ馬鹿」
「汚してないか?」
「汚してねえよ。そんなに血出てねえし」
「殺さないよ」
「怖えよ」
問答の最中、サカキさんが大皿を両手に携えて入室してきた。嗅ぎ慣れた匂い。早くもあの店が恋しくなってる。まばらに髭を生やした不気味な店長を想起する。
「終わったみたいだし餃子パーティーと行こうか」
「着替え中に餃子持ってくんなよ!」
「キレるポイントそこなんですか⁉」
「社長に楯突く奴殺すよ⁉」
:
「改めて、榊探偵事務所……サカキ斡旋基底現実本部へようこそ。社長の3代目榊トラです」
「お世話になっております。廃桃源ギルド所属のフタツキです」
「賽だ」
「知ってるからね」
休憩用ベンチにどっかりと腰かけたサカキさんを真正面に、賽さんと私が並んで床に座る。
背の低いテーブルの上には過熱後間もないドブガワさん特性餃子4人前が置かれていた。いつもお店でいただいているやつだ。キャベツの甘みと謎のピリ辛な下味がマッチしているのも素敵だけど、何より他所の餃子より圧倒的に油分の少ない配分で包んでいるせいかいくら食べても胃の負担にならないのが嬉しい一品。“げろまみれ”で晩御飯を調達する時は欠かせないメニューの一つだった。
「フタツキも余裕があるならしっかり食べておきなさい。昼にサンドウィッチ食べただけらしいじゃないか」
「あ、ではいただきます……」
酢醤油に浸してから小さく頬張る。温かさで既に泣きそうだった。これから本題に入るんだから気合を入れなければならないというのに。生活の実感を得る度に心が揺らいでしまう。暖かい部屋で食べる餃子ってこんなに美味しかったんだ。
賽さんは言われるまでもなくがっついていた。何気に「肉食って寝れば傷が治る」という能力は、生傷が絶えないらしいこの業界において凄く優位性のあるスキルなのだろう。何の異常性も持ち合わせていない私が相対的に足手まといになっている。この人の回復ペースについていけないのってかなり問題がある気がしてきたな。
「じゃ、さっそくだけど今回の襲撃事件について色々と詰めていこう」
「あ、はい」
「さっさとやれ」
サカキさんがファイルケースからいくつか資料を取り出す。賽さんは一度箸を止めて、その様子をやけに静かに眺めていた。計5枚のA4用紙が並べられる。書かれている内容はほとんど英語だ。
「まず始めに、君らへの襲撃を許したのは私の責任だ。改めて済まないと思っている」
「どっからどう見ても回避不可能だった事案に謝罪するとはアンタらしくもない」
「賽さん落ち着いて……」
「聞けフタツキ」
両肩を掴まれた。そのまま強引に向き合わされる。賽さんは少し俯いて、しばらく沈黙した後に顔を上げた。近い。また鼻先数センチ挟んで賽さんがいる。
いつ見ても真っ黒な瞳。ガサついた唇。中東系ともアジア系ともとれる独特な掘りの顔。会った瞬間から不思議な顔立ちだとは思っていたけど、改めて真正面から見てみると凄く、凄く丁寧な造形なんだなと納得してしまう。人を模したロボットに見つめられているような気すらする。ロボットというか実際バイオロイド?らしいんだけど。
「お前がフリーランスとして掲げる思想については今更否定できないし、否定する気も無い。孤独を否定するお前の在り方に救われちまったからだ」
「あ、えと……」
「それでも」
「あわ」
肩を掴む力が一気に強くなる。肩甲骨がストンと下がった。賽さんの顔も一気に近づく。一気に。圧が強すぎてより一層目が離せない。何でこんなに瞳が真っ黒なんだろう。もはや“げろまみれ”店内で食べてるのとそこまで変わらない程餃子の匂いが漂っていた。共用のトレーニングルームでこんなもの食べて大丈夫なんだろうか。
「これ以上俺の失態でお前に傷を負わせるわけにはいかない。建前と本音の両方でそう思っている」
「えと、あの……近……」
「今や事実上の同業とはいえ金でお前に雇われた護衛であることに違いはない。だから榊さんよ」
急に引き寄せられる。限りなく人間に見た目が近いとはいえ、やっぱり身体的なスペックは戦闘用のバイオロイドのそれだ。人間に掴まれている気がしない。賽さんは私の頭をボスボス撫でながらサカキさんに目を移す。
「コイツの保護は正式に委託された業務だ。謝罪より先に斡旋としてやるべきことやってくれよ」
「うん」
「うんじゃねえ。何だその目は」
「いや、まあ、ねえ」
「何だよ」「何だろうね」「何なんだよ」という応酬。やっぱりちょっと楽しそうというか、普段より明るそうな横顔だった。
ゼロイチさんと戦った時もそうだった。私の知らない賽さんばかり見せつけられているような気がして、ちょっと新鮮だったし、ちょっと寂しい気もする。会って2週間だから当然とはいえ、一緒に生活している筈なのに今日は知らない一面ばかり見せられてる。あまり抱いたことは無いけど、嫉妬というのはこういう感覚のことを指すのだろうか。
「MC&G東京支局からは真っ先に連絡来たよ。関係ありませんがお気を付けくださいってね」
「人をDクラス代わりに使っておいてお気を付けくださいかよ白々しい」
「半隔離時空への侵入経路が割れていた以上、十中八九嘘だ。調査は引き続きヨツヨのチームと彼女の息の掛かったフリーランス連中に任せてある」
「素人意見で申し訳ないがアイツに仕事振るのどうかしてるぞ」
クライアントの対応に関しては私も流石にムッとしてしまう。Dクラスというのはよく解らないけど、人に坑道用カナリヤみたいな扱いを強いてきた挙句、現場で事件が発生したら私は関係ありませんの一点張りで騒ぎから遠ざかる。戦略としては確かに理にかなってるんだろうけど、企業としては当然好きになれない。フリーランスとして評価するなら尚更だ。あまり関わりたくない会社として記憶しておく必要がある。
「で、ヨツヨの出発と同時刻にトラロック極東方面隊の仮拠点へバオリ・バイオレットを投入した」
「よりにもよってアイツかよ……」
「レッケと一緒に向かわせたよ。あの子の首輪なら君より握り慣れている」
「レッケはとやら知らんが何だっていい。連中の裏にカイナレスはいたか」
バオリ・バイオレット。賽さんによれば「全力の俺と素手で殴り合っても死なない中国人のガキ」らしい。体術訓練でしごかれた時何度かその名前を聞いた。太極拳という武術をベースに戦う人だということは知っている。
リスクを鑑みて格下狩りしかしないと宣言しながら要注意団体の術師を相手にあそこまで立ち回れる賽さんだったり、会ったことは無いけどあの術師の拠点を単身制圧可能なバオリさんだったり、私の父だったりと、サカキ斡旋が唾をつけてる人材って実は相当上澄みの方だったりするのかな。そもそもこの人たちよりもっと上の実力を持つフリーランスというのが存在するんだろうか。
「結論から言うと、君たちの襲撃作戦は社の独断専行によるものではなかった」
「結論を言え。カイナレスはいたのか」
「《カイナレスである可能性が捨てきれない何者か》が焚きつけた痕跡は確認済み」
「クソッタレが」
あっという間に4人前の餃子を完食されてしまった。私まだ5個しか食べてないのに。醤油皿も含めて全部空っぽだ。お姉さんいないから当たり前だけど、時々長女気質なんだよなこの人。
サカキさんは更に資料を取り出す。妙に汚れてたり何故か返り血がついてたりと、回収する時に何があったのかあんまり想像したくない書類がいくつか机上に展開された。
「制圧後は公安部特事課に匿名通報したそうだ。これ回収してきた文書」
「Anonymous local adviserねぇ」
「思い当たる節が全然ないのがね」
「俺は兎も角フタツキをメインの標的にする奴なんざパッと想像つかねえよ。鉄錆の果実教団が絡んでいる線だって薄い」
「やっぱり私も作戦目標なんですか?」
「メイン目標がまさかのお前だ。俺の処理は必須じゃないらしい」
賽さんが書類の真ん中あたりを指で示す。確かに「Futatsuki」と書き込まれていた。業界に入って2週間と少ししか経過していない私の名前が。知らないところで知らない風に有名になっているみたいで、経験してきたわけじゃないけどそういう虐めの真っ只中にいるような気持ちだ。
シンプルに気持ちが悪い。私はただ失踪した父を探しに来ただけだというのに、何でこんな意地の悪い真似に巻き込まれてしまったんだろう。
「賽が準標的にされてるのはまあいいとして」
「よくねえからな?」
「恨まれるスジがある以上理由なら自然なものがいくらでも用意できる。問題はフタツキの方だね」
「やっぱり父の名前が出てるんですか?」
「不自然なまでにね」
書類に目を凝らす。英語は全然解らないけど、よく見ると「Izume」の文字列がたくさんあった。
父の名前だ。私と違ってずっと本名で通していたんだと今になって驚く。凄い今更な話だけど正常性維持機関の目とか怖くなかったのかな。
そして更に書類全体に目を通すと、なるほど。そういう絵でも見ているんじゃないかってくらい、父の名前が散らばっている。線で繋いでいくと地図になる類の暗号みたい。Izume。Futatsuki。またIzume。「Sai」は逆に全然見当たらない。
「提携している中じゃ最高戦力、大多数のアンチJAGPATOフリーランスにとっては英雄にして希望。もっと言えば私の旧友で賽の先生だ。有志の捜索任務を取り仕切った経験もあるし、彼の名前は夢に出るまで見た」
「ふむ……」
「だからかな。フタツキ無害化とやらの口実として扱われる彼の存在があまりにも不自然というか、イズメを知る者からすれば口実から目標設定に至るまで違和感の塊でしかない」
「その無害化ってのも気になるよな」
賽さんが割って入ってくる。食後の心地よい熱気と餃子の匂いのせいか、そろそろ廃桃源が恋しくなってきた。
「作戦の立案理由は『イズメの信奉者による担ぎ上げでフタツキが再び廃桃源ギルドの象徴となり、超常社会の傭兵市場が更に冷え込む可能性があるから』らしいけど、単なる無力化が目的ならこんな書面でsanitizなんて書かん」
「無力化や殺害、あと……捕まえるとかじゃなくてですか?」
「全編通して意図的に無害化で統一されている。財団がGOCに処理を委託するレベルの災害クラス能力者とかにしか使わないんだよ。正常性維持機関でもそれ以外でも皆意識して使い分けていた」
「私が……災害……」
そう言われてみれば確かに引っ掛かる。トラロック社の刺客はあくまで無害化の一手段として「殺害」を目標にしていたらしいけど、逆に考えれば今の私を一種の害と見なしている人たちが裏で糸を引いているというのだろうか。業界の停滞や縮小を促しかねないとなると、確かに私自身の存在が災害ではあるのかな?
「……私って災害なんですか?」
「俺に聞くなよ」
「じゃあサカキさん……」
「今や随分古くなった風潮だけど、“無害化”は超常性を評価理由とした単純脅威にしか使わないよ。JAGPATO側からすれば機密漏洩防止ミームを摂取していない未確認フリーランスなんて全員やる気の無い災害みたいなもんだけどね」
「結論らしい結論を言えよ」
「流石に現段階で出せるものじゃないでしょ」
サカキさんはグニグニと背を伸ばし、机の上の資料を再度まとめてファイルにしまった。
少しの沈黙の後、サカキさんは身を乗り出しながら改まって口を開く。
「1つ言えるとするなら、フタツキ。君はトラロック社が恐れていたようなフリーランスの象徴にはなれないよ」
「というと……?」
「イズメにあったものが君には無い。仮にあったとしても私と賽がそれを阻止する」
「わはは……」
ちょっと安心してしまった。この業界に来て初めて、自分を護ってくれる方の大人に出会った気がする。涙腺が緩みそうだ。
忘れちゃ駄目だ。私は父になれない。父の後継者になろうとも思っていない。誰かがそう仕向けているとするならこの人たちが一緒に戦ってくれる。私の目標は父を見つけること。独りで死なせないこと。賽さんと一緒に生きること。他にも小さなものはいくらでもあるけど、この国の超常フリーランスを先導する人なんかになるわけがないし、その謂れも無い。
「カイナレスとやらもそれを知った上で君への攻撃を促しているように思えるね」
「作戦立案と俺たちの動向をまとめた書類には無駄に書かれたイズメの名前……俺たちの知り得ない先生関連の情報があるかもしれない。目的不明とはいえ避けては通れない障害か」
「となれば、やることは明白だ」
サカキさんが立ち上がる。元気いっぱいにぐるりとその場で一周した後、私たち2人を指差した。
「お給料出る方の依頼。《カイナレス》の調査と必要に応じた無力化お願いね。余裕があったらイズメの手がかりも見つけて来なさい」
「クソッタレだな」
「うえ、え~~~!?」
ちょっとよく解らない。いやちょっと解るからこそあまり理解したくは無いんだけど、ようするに「父に関連する未確認のヒントがあるかも」ってことでカイナレス陣営?との全面戦争を始めるのかこの人たち。じゃなくて私たち。
だとしたらちょっと、流石に、腰が引けるというか。ごめんなさい私まだ心の準備できてないかもです。保護してもらうとか遠ざけてもらうとか、そういう話の方を期待してたんです私。
「攻勢が最大の防御ってか。他に動員できる奴は?」
「繫盛期と人手不足でみんな手一杯だよ。三矢もギリシャ行ったきり帰ってこないし」
「バオリは」
「例の地下格闘技大会が近いとかでこの時期は契約切っちゃうのよね。レッケはその付き添い」
「ヨツヨんとこの護衛でも良いから頭数寄越せよ」
「これ以上社内から戦える人引っこ抜けないし、サカキ斡旋が巻き添え食らって壊滅した場合は次に死ぬのが君たちになるだけだと思うよ」
「結局俺たちが最前線かよ。まあ何か今になってムカついてきたな」
賽さんも立ち上がる。ニット帽を押さえながら一呼吸置き、
「弾と装備をくれ。喧嘩売ってきた輩は売れなくなるまで買い叩くだけだ」
宣言した。頼もしいけど不安だ。主に自分の実力と今の体たらくを鑑みると、本当に不安だ。
行動方針が大体固まって、ようやく会議から解放されたのは23時30分頃だった。車内でしっかり寝たせいか眠気はそこまで催していない。
賽さんがスリングショットの刺客から奪ってきた携帯端末、いわゆるジャンクロイドと呼ばれる再利用スマートフォンに関しては、通話機能以外の全てにロックが掛かっていたためサカキさんのツテへ解析を依頼する形となった。より詳細な任務内容を割り出せば、カイナレス陣営に近づくための足掛かりが見えてくる。かもしれない。これからやらなければならないことはたくさんある。
一緒に回収されたゼロイチさんは数十分前に意識を回復した。ヨツヨさんの尋問で新たに得られた情報は2つ。1つは「賽/フタツキ襲撃作戦の予備人員は第5波までを用意」している事。もう1つは「カイナレスの目的が私たちの襲撃だけでは終わらない」こと。それ以上の情報を得ようと所持品を漁るも、ゼロイチさんは私たちに回収される直前でジャンクロイドに自壊処理を施していたらしい。
予定されている5波目の襲撃については人数規模以外の詳細が解らない。恐らくは2人、多ければ4人を同時投入する予定らしい。それ以上の人数差を地形の有利と運で斃し切ったからイマイチ実感が湧かないとはいえ、油断は命取りだ。早急に迎撃準備を整える必要がある。
斡旋の人たちはほとんどが数キロ先にあるサカキセキュリティサービスとやらに移っていった。これは賽さんが5波目の襲撃を鑑みて実行させたものであり、その理由は非戦闘員の保護という余計なタスクが現場で付きまといかねないからであった。
かといって一斉に本社まで移動するにしても、山荘での人間爆弾オンパレードという前例もあって民間人を巻き込んだ形振り構わない攻撃の可能性は捨てきれない。現状辛うじて標的にされていない以上、サカキ斡旋の皆さんはサポート役として何としてでも生き残って欲しく、同時に一緒にいてもらうととても面倒な存在だった。ついでにゼロイチさんも専門の医療施設へ移送されたらしい。
ヨツヨさんの護衛さんに残ってもらおうと進言するもこれは聞き入れてもらえず、今のところこの拠点に残っているのは例の凄く強烈な女性社員さんと私たちだけだ。
それから帰還後の話。白街が殺人御法度の統治下にある以上、廃桃源へ帰った後はしばらくはギルドの経営するマンションに間借りすることになった。基底現実での調査活動が始まるまでは廃桃源で一番安全なエリアに拠点を移した方がいい。ドブガワさんの店に顔を出しづらくなるのが心の頃理だけど背に腹は代えられなかった。
そのまま地下トレーニングルームを間借りし、サカキさんが引っ張り出してきてくれた32口径弾と、新たに運用することになった12ゲージスラグ弾を丁寧に整理していく。32口径はそのまま各々の弾倉へ。スラグ弾は同じく提供された、シェルホルダー付きのガンベルトに1個1個差し込んでいく。その昔サカキ斡旋と提携していたフリーランスの遺品らしい。
「賽さんって意外と顔広いんですね」
「業界そのものが割と狭いのと、同じような奴ばっかり何度も鉢合わせるのと……あんま広い交流は無いけどな」
「ゼロイチさんに急に話しかけた時はちょっと驚きました……」
「弱かったろ」
「弱かったんですかアレで」
Vz61用の弾倉を全て満タンにしたのか、今度はPPK/Sの弾倉を手に取り始める。私は私でスラグ弾をベルトに詰め終えたので、とりあえずP230-JPの弾薬補給に移った。まだ1日経ってないのに初任務の朝を思い出している。弾倉への給弾作業は過度の緊張状態を和らげてくれた。1回現場を体験してみるとその絶大な効果に驚かされる。
「本領は人間相手の銃撃戦じゃなくて超獣の駆除だからな」
「というと……?」
「顔面が達磨の羊。全高6mのセアカゴケグモ。祈りを誘引するヒグマ。石化能力を持つ蛇。そういうのを単独で仕留めて賞金を稼いでいた」
「やっぱりハンターさんなんですね。人を撃つ感じが全然しなかった……」
「嫁さんをその類の何かに殺されたんだと。その上下二連は同じような経緯でフリーランスやってた奴の遺品だ」
「遺品切っちゃったんだ」
「命中精度確保のためにストックは残しつつ、取り回し向上のために銃身だけ大幅カットした対人戦闘特化型モデルだな。やりたいことは解るが服の中に納まらんサイズなのが難点だし、当然銃身が短くなれば射程も短くなる。弾速も遅くなる。距離が延びればフルスペックは発揮できない。癖は相当強いぞ」
まだ1発も撃っていないから正直言って使いたくは無いけど、賽さん曰く「対超常戦において大口径は正義」らしい。そもそも私たち2人の共通弾薬が未だに時代遅れで、防弾装備の無い人間相手でも確実なストッピングパワーを発揮しづらい、そしてやたら発砲音がうるさいのは無視できない問題でもあった。
照準調節とトリガープルの微調整は近いうちにどこかでやっておきたいけど、正面切っての撃ち合いで火力勝ち出来る可能性が僅かでも増えることを考えれば良い鹵獲品だと思う。装弾数2発なのはちょっといただけないけど。
銃の手入れも済んで弾薬の整理も終わりかけてるし、何となく暇になってきた。適当に話を振ってみようかな。
「賽さん賽さん」
「何じゃい」
「多人数を相手に戦う時のコツや心得って何かありますか?」
「多人数を相手に戦わないことだな」
「真面目に答えてくださいよ」
「真面目に答えてんだよ」
賽さんにほっぺたを抓られる。そのまま上下にぶにぶにと動かされてしまった。自分で思ってる以上によく伸びる。
「……前提として、数の暴力ってのは単純な力量じゃ覆せないもんだ。トラロックがどうにかなったのは前時代の戦争を仕掛けてきた相手に近代兵装でアドバンテージを取ったに過ぎない」
「なるほど」
「お前が危惧している通り、数の暴力に曝される機会はこの先きっと来る。そこでもう一度理解しておいてほしいのが、多人数を相手にしないことだ」
「……無理では?」
「無理じゃない。n対1に持ち込めってんだよ」
「むぃ」
「延びすぎだろお前」
「延ばし過ぎです。延びちゃう」
「つーか傷あったな顔のこっち側」
定位置にほっぺたを戻される。賽さんは正気に返ったのか、いつも通りニット帽のズレを正して講義を続けた。
「俺らの仮想敵の大半は情報処理能力だけがどうしても人間の域を出ない。人間の域を出ない奴ってのは2対1以上の戦力差で理詰めのゴリ押しに持ち込めば勝てる。負ける道理がそもそも無い」
「強制的に多対1の状況に持ち込んで押し潰すのが理想的、ということですか」
「そういうこった。だから絶対に現場で孤立するんじゃないぞ。お前だって例外じゃないんだから」
「1対1でも生きて帰れるか怪しいなあ……」
「俺だって毎回そうだよ。余程の事が無い限りは確実に勝てる相手と状況でしか戦わん」
単純な話ではあるけど勉強になった。事実上の連戦連勝を果たしているとはいえ、私はまだ前線での戦闘経験が不足している。賽さんから時々教わる心構えや教訓は有難く吸収しておくに限る。
「……一つの行動単位として組織された正常性維持機関の部隊なんかは、こちらの描きたかった戦闘構想からは意図的に脱するよう動くのが普通だ。日頃から俺とは比べ物にならんような超常を相手に命張ってるからこそ、数の利の生み方は俺たち以上に洗練されている」
「聞いている限りだとあんまり遭遇したくないですね……絶対勝てなさそう」
「お前な。今まで俺が手間暇かけて転がしながら何教えてきたかもう一度思い出してみろ」
「ぶえ」
もう一度ほっぺたを摘ままれたまま上下される。痛い痛い。
「逃げるんだよォ~そういう時こそ!足した肉を落とさん程度に毎日走らせてんだろ」
「最後の頼みが私たちの足なんですかぁ……」
「そういうこった。有酸素運動は絶対に欠かすなよ。走れない奴から死ぬんだからな」
「現場に出た後だと改めて実感しますね。どれだけ知識や知恵を得たとしても、本番はフィジカルに帰結しちゃう業界なんだって」
「俺たちは肉体が資本だ。鍛錬は怠るべきではないし、怠るという選択肢は初めから存在しない」
「だそうだ。どう思う」
「決して忘れてはならない心得だと思います」
聞き覚えの無い声。賽さんと一緒に振り向く。施錠したはずのドアはいつの間にかこじ開けられていた、
その手前に不明目標が2人。賽さんの反応からしてどう考えても味方じゃない。どちらも似たような黒服で固めた女性だった。1人は私と同い年くらいの顔立ち。もう1人は40歳くらいの、そこはかとなく近寄りがたい感じの初老の女性だった。
「上に残っていた社員は処理済みだ。救援は来ない」
「だから帰れっつったんだけどな」
賽さんは片手で私を後退させながら、Vz61を片手に数歩踏み出した。いつの間にか腰に拳銃を突っ込んである。
「1年ぶりくらいか。サヒビ」
「もう少し長い」
「弟子を取るタイプだったとは思わなかったよ」
「二条作戦のすぐ後に拾った。キルコという」
初老の方がサヒビさんで、私と同い年くらいの方がキルコさん。どちらも短く丈を詰めた黒コートに身を包み、脛のあたりまで伸びた古いブーツを履き込んでいる。
独特なシルエットと日本刀の柄。賽さんに詰め込まれた座学の記憶がフラッシュバックする。この人たちはフリーランスだけど、只のフリーランスじゃない。元要注意団体だ。
「……無尽月導衆!」
「バツニンしたっきりさね。キルコに関してはそもそも衆を知らんよ」
半分?合ってた。何となく小さめに拳を握る。サヒビさんは現代まで続く“忍者”組織の混成互助団体から生まれたフリーランスだ。バツニンはいわゆる抜け忍を指すと聞く。
現代社会と超常に適応し、二度の世界大戦と降伏後の日本を生き残った忍者は、強い。この国の正常性維持機関とも前線で互角に渡り合うし、無尽月導衆の忍を抱えているという事実そのものが超常企業の大きなステータスになる。賽さん曰く「接近を許せばまずお前から死ぬ」とのことで
既にだいぶ接近されてませんか、これ。10mもありませんよね。しかもここ地下ですよね。
「賽さん」
「慌てんな」
いつも以上に落ち着いてしまっている。私は気が気じゃないというのに。本当に殺しや諜報を専門としている人たちが来ている。私2週間前まで高校退学済みニートだった筈なんだけど。
ガンベルトを腰に巻き、P230-JPを右手に取って、新たにスリングを増設した散弾銃を肩から掛ける。一連の流れを全部スルーされた。「今更武装しようが遅い」とでも言われているような重圧に襲われる。トラロック戦の非じゃないくらい足が震える。
「数の不利の話については今考えなくていい。俺に合わせろ」
「合わせろって」
「お前ならできる」
「やるしかないんですか」
「当たり前だ馬鹿」
不毛な問答だった。逃げ道は緩く塞がれた1本のみ。後方に退路は無い。やるしかない。術師傭兵を相手に生き残り、3人のフリーランスを撃退してまで勝ち取った命だ。私はこんなところで死なない。賽さんを独りで死なせるつもりもない。
人を撃って泣き腫らしていた私なら、賽さんが殺してくれた。戦える。足の震えなんかどうだっていい。私は責任能力としての拳銃を握っている。為すべきを為せばいい。
「カイナレスってのは余程羽振りが良いらしいな。アンタを金で動かすとは」
「金ばかりが全てではない。ワシにはワシの義がある」
「忍に義とは恐れ入ったぜ。俺のよりよっぽど尊大であるとお見受けするが」
「縁があったのもそうだが、今はこの子の面倒を見なきゃならん」
初老のくノ一が弟子の背中を優しく押す。当の本人は押されるがままに抜刀して構えた。切っ先は私に向いている。単純な実力で戦力分配をしているとするなら当然のターゲティングだ。
私は私で拳銃を構えて返す。無駄弾は撃たない。術師傭兵が弾丸を無効化する術式を展開し、スシブレーダーが弾丸を箸で止めるように、忍者は内圧不足で初速が低くなった12ゲージスラグ弾など簡単に避ける。GOC極東部門の軍事顧問として吸収合併された一部派閥は45口径の亜音速弾も肉眼で捌き切るというし、どの道スラグが通用しないと仮定しておいた方が良さそうだ。
故に今一番初速を稼げる拳銃で対応するのがベストと考えた。この人にそんな実力、または拳銃を封殺するほどの超常能力ががあるのかどうかは疑わしい限りだけど、少なくとも無いという過信は私の足元を掬いかねない。
仮に銃というアドバンテージを活かして倒すなら、こちらの残弾数が許す限り撃ち続け、なおかつ私の安全を最初から最後まで確保しながら壊れちゃ駄目な部位に弾を捻じ込む。私に出来るのはそれだけだ。相手がどちらであれ同じだと思う。
沈まれ呼吸。止まってくれ動悸。動いてくれ私の身体。
「──最後に声を聴いておきたかった。奇襲を捨てた理由の1つはそれだ」
「嬉しい限りだね」
賽さんが拳銃を引っこ抜く。戦闘開始の合図。「対忍者戦は避ける方向とパターンをコントロールしながら理詰めで殺す」と豪語してくれた賽さんを信じる。敵の動きを予測しながらその行き先を封じる戦い方は、スリングショットの使い手と撃ち合って何となく掴んでいる。あれと同じことをするだけだ。
「制圧射開始」
「了か──」
言い終える直前。賽さんが視界から消えた。
「……!?賽さん!?」
『──新たに2名と会敵!内1名は結界術師だ!クソッタレ!』
賽さんが消えたんじゃない。いつの間にか賽さんと私を隔てる壁があった。真っ黒な壁。その向こう側から断続的な戦闘音が聞こえてくる。
あっという間に分断された。賽さんだけ隔離されて、凡そ斜めに等分された室内に私と忍者2人が閉じ込められている。やられた。先手を取らせないどころか今回も完全に後手だ。後手に回っている。賽さんは私の支援が届かないところでい対2を強いられている。
やられた。やられた!完璧にやられた!考えれば考える程思考が止まりそうになる!
賽さんに教わったのと同じ状況!敵は2人で私は1人!「複数人で確実に1人を封殺する」状況!私1人だけならまだしも賽さんまで同じ状況に立たされている!
「賽さ……っ」
言いかけて止まる。少しだけ残っていた戦闘音もついに一切聞こえなくなった。戦闘が終わっているわけじゃなくて、結界が徐々に情報遮断の力を増しているんだと思う。落ち着くべきだ。いや落ち着かなくてもいい。現実を受け入れながら思考をリセットしろ。徒手格闘で転がされ続けている時と同じだ。テンパった瞬間から賽さんにボコボコにされるんだ。慌てちゃダメだ。
目的を忘れるな。私はこんなところで死ぬつもりは無い。生きて父に会う。賽さんと生きる。誰も孤独に死なせない。それを邪魔する敵はフリーランスとしての実力を以て排除するだけだ。
賽さんは向こう側の戦闘が一段落するまで助けに来てくれない。そしてあの賽さんの実力を知っているらしい人が組み込まれた襲撃作戦だ。実力的に申し分ない人員を選抜して賽さんに宛がっているという可能性は十二分にあるし、むしろそっちの方が有り得るだろう。
「用心せよキルコ。いついかなる瞬間であろうと慢心は隙を産む」
「御意」
これだけ自信たっぷり張られた結界だ。素人が物理的なアプローチに走ったところで壊れないのは解り切っている。対応すべきはバツニンした上で生き残っている精鋭忍者と、その弟子だ。
対抗手段は小口径で装弾数8発の拳銃と、鹵獲したばかりで使い慣れていない上下二連の散弾銃。手榴弾は無い。格闘用武器なんかもちろん持っていないし、あったところで私が勝てるがわけない。正直銃があるということそのものがアドバンテージになっていない気すらする。
「賽さん」じゃないだろ。考えろ私。それでも考えるんだよフタツキ!ここで死ねば全部終わる!終わってしまう!生き残れ!私!
「……生き、残り、ます!」
「誰に対する何の宣言だ?フリーランス!」
無尽月導衆が何だ。この距離ならどんな移動目標でも1発は当てる。戦闘経験の差は台湾で叩き込まれたらしい銃の腕で埋める。定点間での射撃戦闘にだけ限定すれば、賽さん相手でも十分戦える。それが私だ。埋まらない数の差は私の得意で埋めに行くだけだ!
発砲。射線から外れるべく、向かって左側に回避するサヒビさんの腹部を確かに弾頭が捉えた。予想外にも1発目がちゃんと当たった。当てることができた。
これで足は鈍るはずだ。2発目は弟子に充てる。1人につき弾倉1本まるごと使い切るつもりで、それぞれの脅威がもう二度と動かなくなるまで撃つ。対超常戦闘における無力化とは、「その場において二度と抵抗できなくなるまで攻撃すること」に他ならない。足が鈍ればそれが比較的簡単になる。
筈だったのに
「……!?」
そのつもりで撃ったし、ちゃんと着弾したのに、止まってくれない。サヒビさんが不気味に私を笑う。笑いながら犬のような低姿勢でこちらに突っ込んでくる。狭い室内。避ける避けない以前に防弾の策をちゃんと持ち合わせていた。それでも横っ腹への命中なんて絶対に痛い筈なのに、馬鹿にしているのかただの早歩きで接近してきた。眉間を撃ち抜くつもりで構え直す。
同時に首元へとてつもない衝撃が走った。直後に冷気。熱。激痛。形容しがたい違和感。衝撃後も首の中に何かが入ったままだ。爆片とは違う何かが私に突き刺さっている。
「お師匠!」
「続けよ」
視界の端。野球投げ直前のフォーム。キルコと呼ばれていた少女が私目掛けて何かを投げつける。
銀色が顔面に直撃する。刃物だ。棒手裏剣というやつか。今度はもっと深いところに痛みが来た。
──けど、何か、2発目だけ何かちょっとおかしい。
顔に当たる時に何か、プツンという閃光が、右目の中にだけ爆ぜて、目は開いてるのに。目は開いてるのに、何故か視界の左半分だけしか見えない。血液以外の何かと混ざり合って深紅が床を染め上げる。左目だけでそれを見る。出血箇所に右の掌が触れる。
人肌と血液で温もった金属。眼孔から伸びる鉄鋼の重さ。
真っ黒から少しずつ赤みを増す右半分の視界。血圧。
「……うぁ」
右目が潰れている。
「あああッッ!?」
残った左目を見開いて叫んだ。
人生で一番瞼を動かしたかもしれない。その間にも頭皮を、脛を、ヘソの下を、断続的な衝撃と痛みが、熱が襲う。立っていられなかった。威力自体は賽さんのシゴきに比べればどうってことない筈なのに、膝から地面に着けた挙句、謝る相手もいない癖に土下座みたいな体勢で倒れ伏せる。骨に刃が触れる度に声が上がる。
深々と突き刺さった刃は血管と肉を無意味に切り裂くだけで、血を外に流してくれない。全身が火照って動けなくなる。閉じた傷口がもう一度開く。紛れもない私の血がついに一斉に流れ出る。
最初の発砲から10秒足らずで勝負が決した。立ち上がることは愚か、首を少しも動かせないから忍者2人の位置確認すらできない。私だけ何もできていない。1発撃って1発当てただけ。ガサガサと赤く濡れた床だけを睨むことしかできない。文字通りの完封。負けるべくして負けてしまった。
「こっちは終わったぞ」
『だったら手ェ貸せ!ツレが痛んだ!』
敵の通信機越しに何となく状況は察した。賽さんはまだ戦っている。数的不利の中で尚果敢に立ち向かっている。生き残るために。倒れているのは私だけだ。
今まで全部上手くいったから、この先だって大丈夫だって思ってたのに、私だけ──
目を開ける。少し長い間気絶していたらしい。喉の渇きと全身の痛みで一気に目を覚ました。片側4:3の視界が一気に広がる。
右の視界はもう完全に真っ暗だった。左半分が眩しすぎて何も見えない。とりあえず起き上がろうと思って腕を動かすと、何故か反対側の手に痛みを覚えた。
後ろ手に硬く縛られている。足首も。そのまま俯せに転がされての前には2人分の靴と、見慣れてないけど見覚えのある禿げ頭が1つ。
「……賽!さん!」
外的損傷はそこまで見当たらない。けど返事が無い。俯せに転がったまま微動だにしない。また意識を失っているらしい。というか、下手したらこれ──
「死んどらんぞ」
「!」
歪に曲がった金属バットので賽さんを小突き、サヒビさんはそう告げた。白髪の目立つ頭に見慣れたニット帽を被せながら。
「何を被っているんですか」
「戦利品みたいなもんモンさね。持ち主は死んどらんわけだが」
即答。お腹の底が急に熱くなる。その感情が怒りであることに気付くのに数秒かかった。
「頭蓋まで防弾仕様とはワシも知らなんだ。他の2人には酷なことを頼んだな」
「誰の事を言ってるんですか」
「お前さんの相方を担当した在野の実力者だ」
「……結界術師と、もう1人」
「結界の解除時点で辛うじて息はしていたが、両名とも致命傷を負っていた故──」
「内弟子に処理させた」とそっぽを向き、サヒビさんが賽さんを踏み躙る。自分でも信じられないくらい顔に血が昇ってきた。
「やめろ」
「やめない」
「私の護衛です」
「クライアントから対処を依頼された処理対象だな」
「先に仕掛けてきたのはそっちでしょうが!」
「反論になっとらん」
蹴った。ああ見えて70㎏以上あるから並みの蹴りじゃ賽さんは動かない。けど、今は抵抗すらしない。抵抗してくれない。怒りのままに狭くなった視界を持ち上げ、目いっぱい襲撃者を収める。
サヒビさんの表情は私の予想とは少し違った。笑うわけでもなく、寧ろ一層の怒りを秘めているように思える。何でこの状況で私に怒っているんだこの人。
「刃を交える覚悟があったわけではない。事実こやつは良き戦友であった」
「貴女と賽さんの間に何があったのかなんて知らない。足を退けろ」
「年長者に敬語を程度の礼節があった筈だが」
「退けてください!」
「だいぶ来とるな」
自覚できる程度に正常な判断力を失っている。落ち着いていられない。トラロック戦で私が吹き飛ばされた時の賽さんもこんな気持ちだのかな。生きてるのか死んでるのか解ってなかったらしいからもっと辛かったかもしれない。辛いだけじゃない。許せない。賽さんが私の目の前で傷ついているという事実が許せない。それ以上に何も出来ない自分が一番許せなかった。
許せなかったのに、何かが心の奥底に引っかかる。自分の気持ちが純粋な怒りに傾いてくれない。
「ワシの目に何を見た。若いの」
「……怒り、ですか」
「ふむ」
特に何も言い返さず、初老のくノ一は賽さんの頭に金属バットの先端を乗せ、杖のように体重をかけて私を見下ろした。さっきから何が面白くてこんな酷い真似ができるんだ。
「怒りは否定せんが、それ以上に抱かざるを得ないのは呆れと幻滅だな」
「幻滅……?」
「賽に対してはな。お前については唯々呆れる他ない」
「……何が言いたいんですか」
「ここまでお師匠に言わせておいてまだ解らないのか?」
キルコと呼ばれていた方のくノ一がついに口を挟んできた。私の右目を潰した張本人。サヒビさんより二回りほど、私より少しだけ身長が高い。年齢的にはやはりそう違わない様相だ。唯一私との相違点を挙げるとするなら──
「今日この場に相応しくなかったのはお前だけだ。フタツキ」
業界入りして日の浅い私ですら何となく理解できる。潜り抜けた修羅場の数が違い過ぎた。後ろ手に縛られている筈の私に対してすら一切の隙を見せていない。辛うじて10人倒しているだけの私とは違う。何人殺したらこんな瞳になるんだろうか。賽さんも相当キツい眼光を持ってるけど負けず劣らず圧力があった。
恐るべきはあの投擲能力と速度だ。超常技術によるものなのか、それとも自力でここまで練り上げた技術なのか。手裏剣は人間の膂力で再現されていい速さじゃなかったし。2発目が眼孔に直撃して未だに私の脳が無事なのも一周回っておかしい。
シンプルな実力の差があった。1対1で切り結んでも絶対に私が負ける。踏んできた場数、対銃器の絶対的な自信、その心得、何をとっても勝てる気がしない。
「ただの一射でお師匠を捉えた手腕は畏敬に値する。だが所詮それだけだ」
「安易に散弾銃を使わんあたりイズメの娘というのも多少は納得はできたが……」
「どうでもいい。賽さんを返してください」
今の状況に余程の自信があるらしい。実際私は芋虫みたいに、何なら芋虫の方がマシなくらい無力に転がることしかできなかった。右目から銀色のプレートを生やしたまま刃を食いしばる。賽さんは意識を失ったまま起き上がらない。何度も殴りつけられた痕が辛うじて確認できる。
可哀そうだったし悔しかった。私を気遣ってくれた人が私の目の前で傷ついている。許せない。まずあそこまで友達面しておいて何でサヒビさんはこの人を侮辱できるんだ。
「お前がワシらに勝っていればこうはならなかった」
「実力で賽さんに並べていないのは私が一番知っています」
「ならば何故共に戦った」
「賽さんを独りにしないために、です」
「傑作だな」
何処までも神経を逆撫でされている気がして、それでもサヒビさんの言葉には妙な重さがあった。何故かは解らない。兎に角対話している気にならなかった。「お前は間違っている」と一方的に突き付けられているのは許せない筈なのに、そういった怒りを、敵意に変えて歯向かう気になれない。
「人の群れに馴染めず、認められず、結果を残せど最終的には報われず、それが自分の本質であると誰よりも悟っていたのが賽だ。誰かと共に在ったことなどただの一度も無い」
実際その通りだったから迂闊に反論ができない。少なくともサヒビさんの知る賽さんはそういう人なんだろうし、そっちの賽さんを期待してもう一度会いに来たことは明言されている。
何なら私は賽さんと出会ってまだ2週間だ。思いの丈でサヒビさんに対抗するのは御門違いだ。
「お前さんはハナっから誤解しとる。仮に存在が叶ったとして、こやつの隣に立つべきはお前さんのようにただ理解者ヅラを振りまくだけの赤の他人……弱者ではない」
「弱ければ他人を理解することすら許されないんですか?」
「逆に聞くが、お前の側にある不相応を一度も考えたことが無いのか?」
言葉を放つ度にそれら全てを根本的な否定で返される。何も言い返せない。賽さんに対する私の想いが、風で飛ぶようにその重さを失っているようだった。
サヒビさんが黒いビニール袋を取り出して広げる。キルコさんはその補助に回った。視線が無いだけで相変わらず警戒されているのは肌で理解できる。
「お前さんはこの短期間で異常な密度の死線を潜り抜けた。射的の腕も十二分なまでに磨き上げた。その上でキルコの言う通りだったの。『それだけ』だと」
「手裏剣だけでケリ着いたの久しいぶりでしたね」
「危うく殺すところだったがな。数ミリ深ければ脳を貫い取ったぞ」
「申し訳ありません……」
自分自身の不相応、賽さんの隣に立つべきではない、釣り合っていないという根本的な理由。言葉にされてしまえばそのすべてが嫌という程腑に落ちる。
ビニール袋は等身大の大きさにまで広がった。忍者2人がこれから何をしようとしているのかを察する。まだ生きている賽さん、何故か殺されていない私。この人たちが命じられたのは私たちの「無害化」ではない。別の目的があっての攻撃と捕縛措置だったんだ。
「……カイナレスに引き渡すつもりか!」
「お前さんについては生け捕りで追加報酬貰えるらしいからの。予定変更だ」
「賽さんはどうなる!」
「ワシの知ったことではない」
縛られて固まった背筋が、更に凍るような気がした。言葉を失う。賽さんがこれからどうなるのか具体的にイメージできたわけではない。けど、絶対にロクでもない目に逢うのは確かだ。
おかしいのはサヒビさんがそれを受け入れていることだった。受け入れるどころかその摂理を他人にも押し付けようとしていることだ。
「貴女の戦友じゃないんですか!?」
「絆し穢した張本人が知った風な口を聞くな」
「私はただその人が独りぼっちで生きて、誰にも愛されずに死ぬことを許せないだけです!そんなにおかしいんですか!?理解できないんですか!?弱いなりに誰かを想う私の意思が!」
「傑作だと言っている。今更イズメの娘として銃や殺人の正当性を説いているあたりは特にそうだ。お前に背中を見せた父親を何年見ていない。いつから見失っている」
「父が真の意味で目指したのは孤独の肯定じゃない!フリーランスという弱者の救済だ!白街もギルド式互助システムも、自分の本質を理解しながら抗い続けた結果だ!私は父には成れないけど、父も賽さんも救われて然るべきだと──」
「知りもしない理想を追って現実から逃げた結果がこれか。イズメの娘」
何も、言い返せない。覆す機会を失った現実だけが私をこの場所に縛り付けている。
サヒビさんの言わんとしている通りだ。理想を勝ち取れなかったのは私の方だ。たとえ正しさが私の側に在ろうとも、私はこの理想を、あって然るべきという理念を、悲しむべき現実から逃避する為の手段として利用し、敗北している。
「賽と組んだイズメの実子。耳にした瞬間から胸が高鳴った。旧知を別つ悲しみ以上に、もう一度奴の片鱗を、暴力装置としての賽をこの目に焼き付ける機会には少しばかりの感謝すらした」
口を広げた袋を賽さんの隣に置き終え、サヒビさんは踵を返して私の元に戻ってきた。
次は私の番なんだと初めて実感した。次目覚めるのはカイナレスの目の前か、それとも──
「出会ってみればこれだ。内弟子の足元にすら及ばぬ射的屋一匹と、それに絆されたかつての戦友を踏み躙って終わった。ワシの怒りの所以だ。恥知らず」
「だったら、だったら今更、私に何をどうしろと」
「どうもせんでいい。だが身柄を引き渡す前に一つワシに誓いを立てろ」
「誓い……?」
「賽に、そしてお前さんの父に心の底から詫びた上で、死ね」
金属バットの先端で頭頂を小突かれる。眼孔の中に人生最大級の激痛が迸った。神経が完全に死んでいない証拠だ。燃える痛みじゃない。爆ぜる痛みが頭蓋の中を駆け巡る。
「ぎ……ぁ……ッ!」
「『弱者は他人の理解すら許されないのか』と聞いたな。その通りと答えるついでに教えてやる」
痛みに耐えかねて反射的に閉じたせいだ。上下の瞼が棒手裏剣の刃に沿って縦に裂ける。傷が増え続けると逆に人の痛覚は鈍るらしい、鈍痛が渋滞を起こしている。
「否定という名の逃避に走る限り、実力があったところでお前がワシらに勝つ道理など存在しない。ワシらの本質の否定は叶わない。賽の抱える欠落を理解することも、真の意味でお前さんの父を救うことも出来ない」
鈍痛が無感覚に変わり行く中、残った左目で襲撃者2人を見上げる。視界の端が暗くなっていた。
今度こそ本当に駄目かもしれない。コンディションが最悪なのは勿論のこと、私の中の何かが完全に壊れている。賽さんのために燃やしていた筈の闘志が消え失せている。戦うつもりで自分がやって来た現実逃避を突き付けられて、今は全てを見失っている。
私は賽さんの隣に立つべきじゃなかった。ただ独りそれを自覚し、それを認めてしまったのだ。
もう戦えるわけがない。
「──誰もが現実と向き合っていた。ただ独りお前さんだけが逃げた。不相応にも戦場に足を踏み入れ、自分の愛した他人すら巻き込んで惨めに死を迎えた」
「……賽…さ……」
サヒビさんの合図でキルコさんが前に出た。
後頭部に強烈な衝撃が迸る。顎を床に打ち付けて、もう一度意識が薄れていくのを自覚した。
「災害が聞いて呆れる」
意識が途切れる。
「──あ、やっと来た?」
ブランコに座っていた。状況を理解できないまま目の前の声を見上げる。
「……誰」
「記憶処理については賽さんから学んだでしょ」
真っ黒なニット帽を被った、女の子。軋むブランコ。私。
それ以外の全部が何故か雪に包まれた空間。地平すら見えない無音の降雪の中で、中学生くらいの女の子が立っていた。息苦しさも寒さも感じない。私はいつからここにいるんだろうか。
賽さんじゃない。けど賽さんとちょっとだけ似てる顔立ちで、女の子は頬を赤らめながら私を見つめていた。
数秒遅れて気づく。顔は全く知らない人間を象りながら、声だけは明らかに、私のものだった。心当たりがないわけじゃない。これも賽さんに習った超常関連の現象だ。その名は──
「──“フレームアウトシンドローム”!」
「誤解してほしくないのは私も本当に何も知らない、今ようやく独立自我が発生してるってことね」
「え、じゃあその、私と今話しているのは」
「封印された方の記憶……に影響されて分岐派生した、いわば“私”本来の人格だと思う」
反JAGPATOの側で生まれた記憶処理方法については、賽さんからある程度教わった。
記憶情報を根底から焼き潰すのが財団のやり方であるとするなら、廃桃源の界隈で広く使われる疑似記憶処理は「記憶の封印」、というより「記憶に対するアクセス権の剥奪」と評すべきシステムらしい。その歴史の浅さ故か、後者は記憶野に重大な後遺症を患う事例も多いのだという。
廃屋調査の少し前に白街総合医療センターで検査を受けたのも、賽さんが私の潜在後遺症を心配してのことだった。脳に潜在的な障害を抱えているとでも発覚したら一大事だ。当然の処置だったと思うし、今更だけど診察代で自腹を切ってくれた賽さんには感謝するしかない。
フリーランスにおけるスキルアップから業界入りのルートは、大まかに4つ存在する。
1つ目はギルド公認の要注意団体、或いはフリーランスたちが独自に立ち上げた支援組織を頼り、基底現実のどこかで合同の対超常訓練を突破しギルドごとのライセンスを得るもの。白街の連合自制軍は構成員の殆どがコブウェブ、或いは蛇の手による訓練課程を終えた人だ。
2つ目は「そういう家」の人たちが通る道。それぞれの実家で基礎教練を経た後、財団、GOC、或いは穴倉の組合といった、どちらかといえば正常性維持機関の側のクライアントに雇われキャリアを積む。賽さんは「現代版武者修行、或いは丁稚奉公」と評している。
3つ目は逆に組織団体からドロップアウトして流れ着くもの。サカキさんは財団から、父は警視庁から離反する形でフリーランス化している。サヒビさんも無尽月導衆から脱退したクチだし、何なら賽さんも東弊とニッソから結果的な脱走した元構成員と言えなくも無い。
そして4つ目。同じフリーランスに個人的に弟子入りして地道に技術を磨く道だ。「イズメの娘」という余計なステータスで下手な注目を浴びたくなかった私には、背景事情を無闇矢鱈と詮索しない、私に関心を抱かない闇講師が必要だった。
母の遺体が少しずつ臭い始めた頃、遺産を引き出せるだけ引き出しての行動だった。台湾で接触した“誰か”が私に超常を教えることは無かったらしい。彼が代わりに教えてくれたのは脅威に相対したときの身の護り方、つまり銃の取り扱いだけだった。
午前は銃を触り午後は銃を握り、夜は銃を磨く。休む暇は無かった。約半年間、防音シートで多重コーティングされた貨物コンテナの中で、或いは海の上でひたすら銃を撃ち続けた。銃を握って走り続けた。銃を抱きながら眠った。賽さんと出会った時点で賽さん以上の射撃能力を持っていたのも、単純に私の発砲回数が彼女のそれを遥かに上回っていたからだと思う。
唯一、私にそれを教えてくれた人を思い出せずにいる。闇講師と呼ばれる稼業にはよくある話らしく、やはり余計な身バレを防ぐためか教え子の卒業が決まり次第特定の記憶領域を封印してしまうのだ。
斡旋業者からの募集メールで通知が埋まったジャンクロイドを片手に、もう片方の手には5連発のリボルバーを握りながら、気が付けば川崎市の安宿で目を覚ましていた。その2日後にACTKのリクルーターにそそのかされ、鉄錆の果実教団の内部抗争に参加している。
「え、あの、記憶封印されてからまだそんなに日が経ってない気が」
「診察されたとき何て言われたか憶えてる?」
「えと……段階的に記憶処理が施されている痕跡はあって、問題は見当たらないけど……今の時期はできるだけ強い精神的ショックや頭を強く打つような真似を……」
「精神的ショックの心当たりは別にないわけじゃないでしょ?」
吹雪が続く中、本当に雪原とブランコしか存在しない空間を改めて見まわす。仮にこれが私の心象風景なのだとしたら何か全然納得できない。何で寄りにもよって吹雪とブランコなんだ。再びもう一人の私らしい何かに向き合って答える。
「……教団員の殺害、あと賽さん関連で少しだけ」
「派手に失禁してたね」
「同じ私なのに何でこんなに恥ずかしいんですか」
「人格は個体ごとの記憶体験に彫り起こされて形を変えた自我って賽さん言ってたじゃん。互いに異なる過去を生きている時点で私たちは既にほぼ他人だよ。そっちも2週間でかなり変わったし」
「え、でもあの、私の中の記憶は……」
「同様に封印されている。過去を喪いながら残されたもう1つの結果、それが私だ」
フレームアウトシンドロームは、超常技術によって意識野の深くに埋没した記憶に起因する複数の人格障害、或いは記憶障害の総称だと賽さんが言っていた。“極所記憶処理されて以降の私”である私に、“処理される前に形成されていた本来の人格”が発生、もとい復活してしまったのだ。
時系列を考えれば、後付けで生えてきた人格は寧ろ私の方らしい。
「もう1つの自分と意識の中で対話……頭強く打ったのが駄目だったのかなあ……!?」
「最後のトリガーはそれだと思う。大抵のフレームアウト人格って意識野の奥底で経年劣化するらしいけど、それこそ数時間前にも人体地雷の起爆に巻き込まれて復活しかけたっぽいんだよね」
「記憶処理されて以降に私が観てきたものは共有されてるんですか……?」
「今一括で数週間分の記憶を共有されてるって方が正しいかも。面食らってるのは私も同じだよ」
フレームアウト人格、本来今の私を構成していた筈の私。唐突な邂逅なのかといえば別にそうでもないらしい。自覚と記憶が無かっただけで、私は何度かこっちの私の思考基準で動いたことがある。例えば──
「トラロック社員への奇襲……教団員の殺害も、私の意思でやったのは本当なんですけど、ピッケル渡された瞬間とかは何かこう、私が私じゃなかったんです。普段の私ならちゃんと理屈を立てながら行動していた。身を危険に晒して我武者羅に突っ込むような真似はできません」
「人格の表層化は極限状態で稀に発生するってね。その瞬間だけは別人格の思考基準で行動するケースが多くて危険って言ってたような?」
「……呼びにくいので何か名前決めませんか?」
「IFのフタツキ。イフツキ」
「略してイフですね」
「略したモンを更に略すかね」
賽さんみたいなツッコミだった。賽さんの口調を元にイフがキャラを作っているのか、私を半年間育ててくれたらしいフリーランスがこんな喋り方だったのか解らない。外見がかなり賽さんに寄ってるのは、業界入りして一番身近にいた他人が賽さんだったからかもしれない。それにしたって幼い。幼い上に目が私で、横髪は賽さんより断然短かった。
私に内在する純粋な攻撃性。それを人の形に具象化すればこんな形になるのだろうか。そう考えれば納得してしまうかもしれない。私に銃を教えてくれた人は本当に技術のみを私に残しただけで、父は「銃とは責任であり能力である」と説いたきり、その内実に触れることは無かった。
最前線での在り方を教えてくれたのは賽さんだ。戦う人間として私が銃を握る瞬間、隣にはいつも賽さんがいた。戦って生き残る方法も、奪う方法も、賽さんの背中を追って学んだんだ。
「君は理屈のために力を行使した。理屈で自分の行動を正当化して、最終的には行動の結果で賽さんの在り方すら変えた。賽さんの影響というより“フタツキ”の善性によるものなんだろうね」
「……その理屈を、善性を信じて戦って負けました。真っ向から全てを否定されて」
「なら今までの信念や理念は全部無意味だったの?」
「解らないんです」
私相手だ。隠し事なんてできない。ここまで来て本当に解らなくなっていた。
「解らない。賽さんにも父にも母のような最期を迎えて欲しくなかった。道理を否定したかった!逃げたくて逃げていたわけじゃないんです!私は──」
「私が一番理解している。だからさ」
「原点に向き合うべきなんじゃない?」と、イフが歩み寄る。積雪の中を丁寧に一歩ずつ。
吸い込まれそうなくらい真っ黒な目で私と見つめながら、私の声で私に問いかける。
「……何で出国直前で記憶が消されたのかって考えたことある?」
「そういうものなんだって割り切ってはいました。でも今なら解ります。賽さんや父と同じで、多分その人もずっと独りぼっちで、独りでいるしかないって受け入れた人なんだと」
「母さんを看取れなかった時と同じだね。私も恐れている。誰かを独りで死なせることを」
始めてイフの表情が歪む。賽さんがキレた時みたいな顔。何処となく覚えがあってその実見覚えは無い。それでも私と殆ど同じで、ほんのちょっとだけ別の記憶に影響されているだけの他人だ。一番重なったのは他でもない私自身の顔だった。
「その純粋な思いは、恐怖は、祈りは、本当に逃避と断じて然るべき心だったのか?」
私そのものに胸倉を掴まれる。ブランコから引きずり降ろされる形で雪の上に膝立ちになった。
「フレームアウト人格として初めて君と対話して、あの人の面影が何一つ残っていない君を見て、私自身あの人の名前すら思い出せなくなっていて。……辿り着いた想いは君と同じだよ。絶対にあの人を独りで死なせるわけにはいかない」
「……私の中に在った筈の、私の本当の行動理念……?」
「賽さんを助ける瞬間、本当に私を動かしたものは、何だ?」
瞬間、吹雪が止み始めた。直感的に理解する。これが完全にに止めば私は現実に引き戻される。
イフも多分それを悟っている。本当なら今だって呑気にやっている場合じゃない。キルコさんに首を打たれてここに来たんだ。私が寝ている間にも取り返しのつかない事態が迫っている。
「イフ……さん!」
「フタツキ。君は既に答を見出して、それを実行している。何度もな」
「雪が……!」
「私にできるのはこの先も大して変わらない。『失った者として背中を押すこと』だけだ」
ニット帽の少女が私を抱きしめる。賽さんよりも細い体躯で。未だブランコの軋みが背後に響く中
「想うがままに求めろ、戦え、抗い続けろ。世界の全部を敵に回そうとも、私がお前を肯定する」
左右の両目を諸手で塞がれる。
擦り切れたタクティカルグローブが目の前一杯に広がるのを、ただ眺めていた。
「──待てよ」
いつから意識が回復してたのかは解らない。少し長い夢を見ていた気がする。最初に発した言葉はその3文字だった。
「落とせとらんぞ」
「落とした筈なのですが……」
「落ちとらんだろがい」
サヒビさんが不満げにバットが小突いたのは、やけに黒ビニール製の袋だった。中に入っているのは十中八九賽さんである。キルコさんは相変わらずゴミを見るような目で私を見下し、同時に警戒していた。
記憶は曖昧だけど、私の中で何が起こったのかはこの際どうだっていい。気が変わった。どうせ死ぬなら、否、まだ死ぬつもりが無いから、とりあえずコイツにだけは今のうちに言い返しておきたくなった。
「知ったことか」
「あ?」
「昔の賽さんを知ってるから何だっていうんですか。今の賽さんを知ろうともしないまま、勝手に人を決めつけて、私の祈りを否定して」
私たちを回収する別動隊はまだ到着していないらしい。賽さんは別所で処理、私はやはり生存状態のまま引き渡す魂胆だ。ならばもう少し時間が稼げる。打開策は無いわけじゃない。望みは限りなく薄いけど、どうせこのまま死ぬなら賭けてもいいカードが1つだけ残っている。
我ながら本当にみっともないというか、自分でも呆れるほど無様なやり方だけど、このまま事が進めば私たちは予定調和の中で死ぬ。それでも賭けろ。賽さんを変えるつもりの私がこんなところで生を手放すな。今は時間を稼げ。1秒でも長く。
「……勝手な期待で人を傷つけて!私の護衛を散々侮辱して!変わることを選んだ賽さんから逃げているのはお前だ!クソ野郎!」
「キルコ。黙らせろ」
キルコさんの指が喉にかかる。どうせ最初から滅茶苦茶な作戦だ。最後までみっともなく足掻いてやる。
「何度でも言ってやる。賽の本質を理解しようとしない貴様に、共に生きる資格など無い」
「賽さんは前に進もうとしている。私の隣に在ろうと戦っている。次は私が応える番だ」
「今更宣うか。それを決意するまでどれだけの時間を現実逃避に費やした」
「貴女の知る以上に賽さんは強い人です。自分の非業を無条件に受け入れて、勝手に苦しんでいるだけの貴女とは違う!あの人はこれから変わるんです。私も──」
身をよじってキルコさんの指を振りほどいた。後ろ髪を掴まれて顎を床に叩き付けられる。眼窩の中で金属製のプレートが緩く揺れた。激痛を歯軋りで耐えながら賽さんの方を向く。向いた瞬間眉間の数ミリ先に切っ先を突き付けられた。
サヒビさんの刀だ。私と戦っているときは抜刀すらしなかったのに。
「この期に及んでワシを侮辱できる立場にあるとでも思ったか。弱者」
「否定ですよ。侮辱以前の話だ。……私はもう逃げない。貴女からも、賽さんからも!」
一閃。左の眉の上を刃がなぞる。金属が頭蓋を駆け抜ける感触。残った眼球に血が流れ込んだ。
痛みと不快感で瞼を閉じる。視界が徐々に汚い赤で染まり始めた。私の今をそのまま投影したような色合い。目を閉じるな。私を守ると言い切ったあの漆黒を、私が信じなくてどうする。
答えなら賽さんと出会った時点で見つけている。あの瞬間の衝動と殺意を思い出せ。
「独りで死なせない」というフリーランスの本質に相反した信条は、誰かの基準によって正当性を保障されるべきじゃない。父を未だ想う心も、賽さんに対する恩義も、愛情も。突き詰めれば私の独り善がりで、要するに自分勝手のエゴだ。私は利他や慈善で動く前に、一つの利己的な原動力に突き動かされて貴女を愛した。私は私の感情であの人を求めている。
立ち向かえ。今は理屈を捨てろ。建前を踏み躙ってでも彼女を想え。
エゴを貫き通すつもりなら、救いたいと思えた他人を本気で救うつもりなら、私自身が誰よりも自分勝手でなければ始まらない。こんな連中に否定を許すような人間であってはならない。
原点に立ち返り、本能のままに敵を否定し、私を肯定しろ。屈するな。否定させるな。
それが賽さんと並ぶための、賽さんを独りにしないための戦いだ。私の決めた在り方だ。
「……貴女もいつまで寝ているんですか」
左目に血が沁みる。声が震える。さっきの衝撃でどこかが決壊したのか、右目の傷口からも血涙が一気に吹きこぼれる。
両頬に伝う不快感を別の言葉に紡ぎ直しながら、喉を締め付けられながら、血反吐と共に叫んだ。
「目ェ覚ましてくださいよ!」
「キルコ」
「やってます!絞めてるのに声出してるんですよコイツ!」
私は多分、この先も何度となく迷う。何度でも否定される。何度でも打ちのめされる。
「間違っている」「解っていない」と理解して、その都度自分自身を疑う筈だ。
知ったことじゃない。いうなればアレは一目惚れだったんだ。それ以外に貴女を想う理由なんか必要ない。
私は貴女が好きだ。貴女と生きている時間が好きだ。この先貴女を否定する者が立ち塞がれば、その全てを殺してでも貴女を肯定してやる。だから──
「……ッ!貴女は!」
──私を独りにするな。フリーランス。
「私が買ったんだ!」
「……キルコ!」
数秒の沈黙の後、サヒビさんが呆れて振り返った瞬間だった。籠ったようなガス音が響き渡る。
全員が息をひそめた。徐々に強まるガス音は確実に室内で発生しているものだ。
直後。黒のビニール袋が急速に膨張し、高熱の蒸気と共に弾け飛ぶ。忍者2人が飛び退き、同時にキルコさんも抜刀した。
鬼の形相で禿げ頭の相棒が立つ。拘束具は上下ともすべてネジ切れていた。
「賽さん!」
顔面の打撲痕が完治している。賽さんの奥の手である「デメリットがあるらしい緊急回復手段」に賭け、ひとまず状況打破の糸口は出来上がった。
復活直後の手が私の拘束具を力ずくで引き千切る。支えられるがままに立ち上がった。
「お前くらい自分勝手なのが一番健康的だな」
「……ッ!起きてたんなら返事してくださいよ!」
「奇襲の意味なくなっちゃうだろうが!」
賽さんに指差された方向には散弾銃とガンベルトが転がっている。急いで奪取して装着した。頭の右半分が重い。照準は左目でしかつけられない。瞼の裏側にまで入りこんだ血を拭い、隣に立つ。
トラロック戦直後の自分が可愛く思えるくらいの重症。それでもやる。賽さんに賭けて掴んだ勝利の糸口だ。無駄にするつもりなんか無い。既に抜刀して待機している忍者2人に並んで対峙した。
距離7m。トレーニング機材や剥がれたマットが散乱する室内。咽返りそうな蒸気の熱。場は整った。後は始めて終わるだけだ。
「……『自動蘇生が終わればいよいよ死ぬ』と抜かしとった気がするんだがの」
「たとえ先生相手でも奥の手は隠すしブラフも張る。お前から学んだ姿勢だ。あとそれ返せ」
「新しいの買った方がええぞ」
「解ってんなら奪うなや」
サヒビさんがニット帽を投げ渡す。賽さんはそれを一発でキャッチして、禿げて尚整った顔立ちを半分隠すまで、深々と被る。いつもの賽さんだ。手の甲にまばらに残っていた傷跡が全部消えているとこ以外は全部いつもの賽さんだ。自然治癒によるものじゃない。本当に完全再生している。
「お前の敗因は最初から俺の首を飛ばさなかったことだ。仮にも超常を狩る以上、追加報酬を捨ててでもマニュアル通りのリスクヘッジを取るべきだった」
「ヌシの敗因はそこの小娘の不始末だ。もう一度その未熟さに足を掬われて死ぬ」
「大体想像つくけど何がどうなってコイツらに負けた?」
答えかけた瞬間、賽さんの左手が私の目の前に差し掛かっていた。同時に軽めの血飛沫が顔を染める。
再び視界が開けた頃にはキルコさんが投擲の終了姿勢で立ち尽くしていた。今の一瞬で棒手裏剣を投げていたらしい。相変わらず速すぎるけど、それ以上に賽さんの反応速度が段違いだ。
「キルコっつったかガキ」
「……キルコです」
「良い速度だ」
左手の平を貫通した手裏剣を引き抜き、今度は賽さんがフルスイングで棒手裏剣を投げ返す。サヒビさんとキルコさんの丁度間を通り抜け、粗雑な造りの暗器が壁を穿つ。コンクリート打ちっぱなしの壁が一部砕け散り、鉄筋コンクリートが露出した。
「……すご」
「関心すんな。そんでこんなモンにボロ負けてんじゃねえ」
「こんなモンって、さっき数の利取られて──」
「お前の銃は飾りか?」
「……偶発的遭遇時における優位性確保の手段の一つであり、私の責任であり、能力です」
「サヒビは俺がどうにかする」
背中を押されて前に出る。出てくる言葉に反して何故か覚悟は決まっていた。
こういう瞬間だけは自分の身体じゃないみたいに動けるんだ。トラロックの社員を急襲したときもそうだった。私を動かす別の何かが私の中にいるような気がする。
「アゲてけよ。最初で最後の殺し合いだ」
「そう願いたいものだね」
──賽さんの加速にあわせてサヒビさんが舞う。数瞬遅れてキルコさんが私に斬りかかった。間一髪真横へ飛んで回避する。着地した瞬間に照準を合わせ、撃つ。当然のように避けられる。
解ってはいたけど本当にスラグ弾を避けられている。今の私じゃ勝てるイメージが湧かない。カートリリース。上段バレルの空薬莢ごと全弾を排出し、新たに2発装填。開口部を閉鎖しながら、今まさに距離を詰めようとしていたキルコさんに照準を合わせる。互いに動きが止まった。
撃ち合う前にやっておきたいことがある。何だかんだこの人はサヒビさんより話が通じやすそうな気がするから、今のうちに聞きたいことを聞いておくべきだ。
「キルコさん」
「何だ」
「フリーランス歴ってどれくらいですか」
「今日で丁度1年」
1年あったらこんな身体能力が手に入るのかといえば、多分違う。私がこの人と同じように訓練したところで、この人と同じような実力を手にすることは叶わない。
キルコさんはキルコさんの道を適切に超えて、フリーランスとしての実力を手に入れている。現代忍者としての才覚をここまで開花させている。私みたいな元吹奏楽部員じゃ当然再現できない。それでもこれだけは問わずにはいられなかった。
「私も貴女のように強くなれますか」
投擲動作。今度は見えた。また手裏剣が来る。咄嗟に回避行動に移すも、方向と距離を予測されたのかカーブ軌道を描かれた挙句お腹に直撃した。大丈夫。まだ立てる。本当に痛いけど一発の威力はタカが知れている。たかが金属が肉体に突き刺さるだけだ。こんなもので私は死なない。
膝を着くことなく、距離を保ったまま相手の右側面に回り込み、2発撃つ。回避方向の誘導自体は上手く行ってるらしいのに1発も当たってくれない。瞬時にリロードして、その隙を突こうと構えたキルコさんにもう一度構えて返す。再び同じ状況に陥った。
「強くなってどうする」
「賽さんを独りで死なせないだけの実力が欲しい。それだけです」
「私なんかに頼ってないでお前の相方を信じろ。師匠は何だかんだアイツをよく褒めていた」
「なるほど……?」
「あと」
忍者刀を上段から正眼に構え直し、キルコは若干の躊躇いの後、初めて真正面から目を合わせる。数m隣で展開される現代忍者対バイオロイドの大喧嘩が更にエスカレートする中、時々飛んでくる破片や埃に咽ながら対峙する。
本当に私と同い年くらいなんだなと納得した。殺し合っている仲とはいえ、こうも同年代らしいフリーランスと対峙してしまうと「お互い大変なんだなあ」という気持ちは嫌でも芽生えてくる。賽さんとはまた違った真っ黒さを持つ瞳。まだ2つとも残っている両目を片目で見つめる。
「それ、殺し切らずに無駄に苦しませたのは御免。許してくれなくていい」
「あ、いえそれはその、本当に、大丈夫で!生きてますから!」
「大丈夫じゃないし何か……申し訳ない……死んでもらうつもりではあるんだけど、その……」
「全然大丈夫ですから、えー……っと……こちらこそ気を遣わせてしまって……」
「グダグダ喋ってんじゃねえ!」と叱咤が飛んでくる。視界の外で賽さんとサヒビさんが殴り合いの激闘を繰り広げているんだ。賽さんなんか転がっていたダンベルでサヒビさんの剣戟を捌いている。こんなところで喋っている場合じゃない。お互いに慌てて獲物を構え直し、もう一度目を合わせた。
忘れるな。この人は私に切っ先を向けた。賽さんとも敵対した。どんな背景や実情があろうとも、キルコさんは敵だ。この人がどんな事情でフリーランス化したのかは知らないし、興味も無い。キルコさんだってきっと同じ感情で私たちと向き合っている。ならば特に難しいことはない。
迷わなくていい。私は私を信じて、貴女のように貴女を殺す。
「……生かして返すつもりはありません」
「こっちのセリフだ。ここで摘んでやる。射的屋」
不意打ちの射撃。予備動作が大きすぎて普通に避けられる。直後に凄く嫌な予感がして本能のままに仰け反った。
鼻先数ミリを一瞬で刃が通り抜ける。横一閃の斬撃を辛うじて避けている。二の太刀は絶対に振らせない。ガラ空きの胸元へ力任せに銃床を叩き込み、間合いの内側に入り込むように突進した。賽さんと訓練したのを思い出せ。あらゆる戦闘行為において、基本形の忠実な再現は他の何者にも勝る。訓練通りにやれば大丈夫なはずだ。多分。
「うらああッ!」
「……真面目に!やれ!」
流石に浅はかすぎたか。背中を柄頭で思いっきり殴られた上に、どこも掴まれてない状態から綺麗に投げ飛ばされてしまった。受け身を取って距離を取る。隙を狙った打ち下ろしを辛うじて散弾銃のハンドガードで弾き逸らした。間髪を入れずに腰だめで発砲するも当然僅差で避けられてしまう。
ばっさり切り詰められているとはいえ、一度でも銃身を掴まれたら終わりだ。無駄に接近して散弾銃を奪われたら本当に詰んでしまう。丁寧に照準を付けている余裕は無い。最接近時は銃本体を掴まれないように左前の半身で構え。腰の高さから本能射撃するしか無かった。当然命中率は落ちる。2発目は避けられるまでもなく意味不明なところに着弾した。
「……ぶはぁっ!」
──おかげでもう一度距離と装填の隙を確保できたけど、限界だ。息が上がる。これ以上は万全の状態で戦えない。長期戦になればなるだけこちらの不利が増えていく。
今私が生き残っているのは一種の奇跡でしかない。やっぱりこの人強い。今の感じだと単純な押し合いでも負けてしまうだろうし、仮に下手に殴り合ったら私が秒殺される。フィジカルにも技術にも差があり過ぎだ。接近戦じゃ未だにキルコさんに分がある。というか私が格闘戦に関して弱すぎる。
考えろ。私は弱い。銃程度じゃアドバンテージが利かない忍者を前に、銃ありきの私が勝てないのは自明だ。だったらどうする。実力の差を埋めながら格上相手を確実に倒す方法。私なら知っている筈だ。賽さんならとっくに教えてくれている。
想うがままに求めろ。抗え。戦い続けろ。
「賽さん!」
「何かァ!?」
「足止め頼みます!」
「!」
キルコさんを凝視しながら叫ぶ。表情に生まれた一瞬の迷いを見逃さなかった。散弾銃を槍のように構え、大きく踏み込みながら引き金を引く。狙うはその足元。避けるか否かを判断しかねる微妙なラインから、少しこちら側の位置。
「な……ッ!?」
ゴム張りの床を長々と穿ち、スラグ弾はその下の鉄筋コンクリートを破砕して跳ねた。キルコさんの股下を通り抜ける。一瞬の硬直。その隙を見逃さない。背後で突然止まった戦闘音の発生源へと振り返り、片膝立ちの姿勢で散弾銃を構え直す。
やっぱり賽さんは賽さんだ。私たちに傷だらけの背中を向けて、忍者刀の刃を素手で握り絞めながら、ほんの一瞬だけサヒビさんが静止する機会を作っていた。この距離。位置関係。散弾銃の性能的に賽さんの顔面を削り切る可能性は捨てきれないけど、私が撃つ分にはこれで十分だ。
照準開始から0.25秒。やや上方に傾いた下段バレルの性質を考慮する。
何発か撃った限りで掴んだスラグ弾の癖。若干左上に逸れる弾道。目算距離9m。0.50秒。狙うべきは標的の若干右下。首と肩の、境目。
0.75秒。
「お師匠──」
1.00秒。銃声が全てを掻き消す。
サヒビさんが仰向けに倒れた。フローリングに血液に混じったピンク色が撒き散らされる。スラグ弾は頭蓋骨の一部を確かに破壊し、その内容物をを抉りながら壁にめり込んでいた。
「……貴様ァアッ!」
現状考え得る限りではこれが最良の選択だった。泥試合の末に2人とも殺されるなんて線はこれでなくなるだろう。
正真正銘の弾切れ。確実な隙を与えた。負けなら既に確定している。負ける道理なら十分すぎるくらい与えた。あと数秒で私の首は飛ばされているかもしれない。
……それでも、抗え、戦え、私。独りで死を受け入れるな。
こんなところで死ぬ謂れなんか無い。「仮に私が死んでも」じゃないだろ。生きてあの人の孤独を否定するために、殺せ。フタツキ。
怒りのままに仕掛けてくるキルコさんに、怒りのままに銃口を向け、片膝立ちの射撃姿勢に移る。やってやる。ここで死ぬようなタマじゃない。私は利己の暴力だ。
迫る理不尽を否定し、力を以て意思のままに生きる、超常フリーランスなんだ。
「キルコォッ!」
「フタァツキィッッ!」
本能のままに互いの名を叫ぶ。同時に頭上を何かが掠めた。
見慣れたハイカットスニーカーと、ニット帽。微かな餃子の匂い。やたら長い横髪がなびく。賽さんのドロップキックがキルコさんの顔面を捉えていた。
トラックに真正面から衝突したみたいに吹っ飛んでいく。大勢を立て直す隙は与えない。これで決める。排莢。上段バレルにのみスラグ弾を捻じ込み、銃身をロックして狙いを定める。
キルコさんと一瞬目が合った。躊躇うことも無く引き金を引く。
「ッ……あ……」
着弾。逆手に構えた忍者刀でスラグ弾を叩き割ったらしいけど、結果的に飛び散った破片の一部がキルコさんの右ふくらはぎを浅く消し飛ばしていた。ついでに忍者刀も完全にへし折ってしまったらしい。
興奮しすぎて照準がブレてるけど、これでキルコさんの機動力は半分以下になってくれた筈だ。攻撃手段も多くは残されていない。勝てる。勝てるからこれ以上苦しませずに終わらせたい。御免キルコさん。次で殺してやる。
装填終了。照準。簡略化されたアイアンサイトを介してもう一度見つめ合う。悲痛と絶望の表情。抵抗はない。このまま殺せる。失せろ──
「──痛ッた!?」
左の肩甲骨に慣れた痛みが迸った。賽さんと一緒に振り返る。
「……あぇ!?」
「冗談キツイぜダチ公」
サヒビさんが立っている。立つどころか忍者刀を手に攻撃姿勢を取っていた。頭蓋骨から脳味噌色の脳味噌をボタボタと垂らしたまま。あろうことか発話すら試みているらしい。
「……生きよキルコ!」
「!」
「忍が本懐、フリーランスとあらば尚の事!」
「お師匠、私は──」
それほど長くない沈黙の後、キルコさんは懐から何かを取り出して地面に叩き付けた。煙幕手榴弾である。苦渋の決断だったろう。現代忍者はその姿を一瞬で眩ませた。師匠を見捨てなければ生き残るチャンスは無かったし、何の収穫も得られないまま全滅するよりはマシなんだろうと思う。
もっと早く殺せばよかったと未だ思える反面、心の何処かで彼女の生還を祈っている自分がいることも否定できない。
キルコさんは戻ってこない。残る脅威は脳を吹っ飛ばされたサヒビさん1人だけだ。
「あれも忍術なんですか!?」
「脳死はしている。文字通りの脊髄反射で精密行動できるように訓練した結果だな」
「人間技じゃない……」
「忍者に人間を期待するな。サヒビは超常の住人だ」
いつの間にか顔に生傷を増やしていた賽さんが、ピッケルを振る。私を押し退けて歩き始めた。
「何もしなくていい」
上段の構えで待機するサヒビさんへ近づく。数歩進めば忍者刀の間合い。刃は振り下ろされない。それでも賽さんは前進する。
「アンタより古い仲がいないもんでな。世話になった」
「……」
「弟子に関しちゃ心配すんな。次ツラ見た瞬間俺かフタツキが殺してやる」
「……良い子だろう」
「実力はお前以下だがポテンシャルはある。それ以上でも以下でもない」
力なく振り下ろされた刃を肩で受け止める。賽さんは片手をポケットに突っこんだまま、あと数分もせずに事切れるであろう忍者と目を合わせ続けていた。今の彼女がどんな心境に立たされているのかは私にも想像できない。間にあるのは多分信頼だ。あの人たちとて一時は背中を預け合った仲らしい。信じ合えたからこの期に及んで言葉を交わし合える。
ちょっと申し訳なく思う反面、未だ欠落したままの罪悪感に少し救われた。あそこで撃たなければ賽さんごと死んでいた。生きている限りは私たちが正しい。何なら私よりもサヒビさんの方が心得ていると思う。
「耄碌したな。イズメの血は健在だったか」
「誤解すんな、先生の後釜になんかに仕立て上げるつもりはない」
「そんなもん最初から承知しとる」
「独りで死ぬのが寂しくなって俺に会いに来たってか?可愛いババアだなオイ」
「……キルコには悪いことをした。イズメがお前に残した呪いと同じものを、あの娘にも」
「世の常だ。今だって完全にフタツキに絆されたわけじゃない」
「……あの娘を頼めるか?」
「殺してやるっつってんだろ。カイナレスの情報吐いてからくたばれ」
「賽さん……!」
「すっこんでろ」と一言で遠ざけられる。それはその、本当におっしゃる通り私に出る幕は無いんですけど、もっと色々やって良いことがあるんですよ。別れ際って。最後までフリーランスらしく振舞って見送るのがせめてものリスペクトだっていうんですか。
「襲撃者はバックアップ含めてお前らで最後らしいが、これ以降いつ次のネタが来るか解らん」
「ネタ……?」
「カイナレスとやらはいずれ俺たちが殺す。今は何より情報が必要だ」
「……そうか」
「ちゃんと脳死してんだよなお前……?」
「ワシの口から割る前に──」
「フタツキとやら」と、サヒビさんは唐突に私を指差す。反射的に背筋を伸ばした。
「ヌシぁ、奴に何を託された?」
「……はぁ……!?」
言い終える直前、コツンと軽快な衝突音が室内に響き渡った。先程まで賽さんの肩に乗っていたはずの切っ先が床にめり込んでいる。
「……クソババアッ!」
賽さんの怒号は二度と届かない。賽さんの目の前で血反吐を撒き散らし、1人の忍者が今度こそ、泥人形のように崩れ落ちる。
少しの沈黙の後、賽さんはふらつきながら180度反転して戻ってきた。右肩から胸にかけて盛大に流血したまま。
「暇か!?」
「どわああああああああ!?」
見た感じの出血量が過去一すぎたせいか、自分でも聞いたことの無い叫び声を漏らしながら跳び上がった。潰れた右目からステンレス鋼を生やしたまま、散乱していたTシャツを適当にひったくり、この期に及んで未だニット帽のズレを正している専属護衛の元へ大急ぎで走り寄る。
「クソ……ッ!」
降り始めた小雨に髪と肩を濡らしながらジャンクロイドを握りしめる。肉の抉れた右足を引きずりながら、明かりも人通りも無い片側一車線の路地を進む。
フリーランス歴2週間の若輩を相手に形成逆転を許し、師匠を殺された。4人の精鋭が型落ちのバイオロイド1機と同年代の素人相手に全滅。筆舌に尽くしがたい。里の忍なら腹を切って詫びるであろう醜態。役目を果たせなかった屈辱。羞恥。自己の否定。中学高校を通して何度もいじめ殺されそうになった日々を思い出す。
「……動け」
動かなければならない。私は忍だ。超常フリーランスだ。陰に潜み技を磨き、誰に知られることも無く影を討つ者の1人だ。私だって師匠のように在りたい。師匠のように在りたかったから実生活の全てを放棄してここまで進んできたんだ。
「動けよ!」
何故私はここにいる?
何かに躓いて倒れる。靴の中が自分の血液で溢れかえっていた。貧血には程遠い一方不快感だけが徐々に増す。アドレナリンが切れた後のことを想起するだけで嫌になる。心とは無関係に身体が行動を否定している。
フタツキは片目を潰されながら戦った。アイツは道理を自力で捻じ曲げて勝った。2人で生き残った。
何故私はただ1人で、こんな場所で倒れているんだ。
「……動いてよ」
脚は愚か腕にすら力が入らない。忍者刀も手裏剣も全部失った。今の自分はそれっぽい服を着て死にかけてるだけの、戸籍不明の誰かでしかない。もはや涙を堪えることすら馬鹿馬鹿しい。殺されに戻った方がまだマシだったかもしれない。
師匠は生きろと言った。それが忍びの本懐と、フリーランスとして生きる私の使命と断じてくれた。それでもこの屈辱を引き摺って生きるのが怖い。何故だフタツキ。何故だ。何で奴の隣に賽がいる。私の後ろに師匠がいない。
「──大丈夫ですか」
一滴目の涙が雨に混じってうやむやになった瞬間。“それ”は私の目の前に棒立ちしていた。顔を上げて覗き返す。
銀髪ツインテールでよく解らない服を着た、美少女。言葉通りの容姿ではあるが、それ以上に言葉に出来ない違和感が大きすぎる。この世界に作画といった概念があるなら決してそれに相応しくない顔の造詣をしていた。世界観にマッチしていない。
アニメのキャラクターがそのまま現実世界に描き起こされて、不気味の谷を上手いこと越えた直後のような形に落ち着いているような、推定する限りでは女性であろう何か。説明されるまでもなく、同じクライアントから依頼された者であることは理解できた。今になって来たということは潜伏待機していたフタツキの回収担当者だろうか。
「……確保は失敗した。樫木之サヒビ、鳥居ユウジ、橋本イサムは死亡。生き残ったのは私だけだ」
「お疲れ様です」
「回収担当者か?」
「ちょっと違います」
「何だっていい。アイツの小間使いならそう伝えてくれ。違約金を──」
肉を削ぎ落されたふくらはぎを指さす。未だ出血は止まらない。
アニメ顔は少し青ざめながらも気を保とうと、両頬をペチペチと叩いてから私の頭上に手をかざした。
「01101011101011010110」
「……!?」
数秒足らずで痛みが和らいだ。咄嗟に傷を確認する。ブーツの上からこぶし大に抉られた傷口は、壊れかけた液晶画面のように、テクスチャのバグでも発生しているように、グリット線がバチバチと弾けるような形で修復されていく。
どんな発音方だったのかを明確に説明ない、ただ文字データとして書き起こそうとすると2進法で記された不明な数値に落ち着いてしまうような、ともあれよく解らない詠唱だ。何から何まで未知の術である。
「応用奇跡術じゃない……何を使った!?」
「僕だって知りませんよ」
「……助かった。私はキルコ」
「ヤナギバ。でした」
「でした?」
「でした」
アニメ顔が人間らしく難しそうに歪む。現実世界に寄せて再設計されたアニメキャラみたいな顔立ちのまま、ヤナギバとやらは私が歩いてきた方向を見つめる。何も予測できない。連中との因縁があってカイナレスに接触したフリーランスだろうか。
ブーツも含めて嘘みたいな完全回復を遂げた足で、立ち上がる。私よりも若干の低身長。やはり嘘みたいな銀髪ツインテ―ル。見てるこっちが馬鹿馬鹿しくなってくるような風体の少女は、息継ぎの生じない不気味な発声法で1人呟く。
「この手で賽を殺さなければならない。カイナレスと契約した理由はそれだけです」
「私が殺したいのはフタツキだけだ」
言葉の方が先に出ていた。
実力を評価するまでもなく言い切れる。他にどんな異能を持っていようが、コイツは賽とフタツキに勝てない。
ほんの一瞬の連携ではあったが、連中は超常フリーランスの癖に2人で1つの戦闘機構として確立されていた。独りのまま戦って勝てるような道理が無い。師匠が敗北したのも、4人のフリーランスが連中を殺しきれなかったのもそういう理由があってのことだ。
事実に則せ。己を見誤るな。フタツキを殺すためにはこちらも2人以上で挑まなければならない、だけじゃない。私自身が連中以上の一心同体にならなければ勝てない。今はフタツキ以上に私の孤独に打ち勝つべきだ。そのためなら誰だって利用してやる。誰にだって利用されてやる。
悲劇のヒロインならあの日に捨てた。私はキルコ。抜忍サヒビの一番弟子で、超常フリーランスだ。
「賽の手札ならこの目に焼き付けてある。手を貸そう」
「……何が目的ですか」
「私と組め。師匠の仇を討つ」
雨が一層強まる。土砂降る水滴の中を、何故か一切濡れることなく棒立ちしているアニメ顔に手を伸ばす。
体温の無い右手が指先に触れた。脆くも確かに出来上がった形だけの握手。
アニメ顔が僅かに緩む。生唾を飲み込んで握り返した。
── 02 ──
JUNKDOG-S
文字数: 51334