されど結末は変わる
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『もう一度だけお願いできますか?』
「ドロップキックです」
『ドロップキック』
「はい。両足使って相手を蹴り飛ばすアレです」
 

青年はいかにも不機嫌そうな顔で眼前に座る白衣の職員を見つめる。見つめたあとに悠々と椅子から立ち上がり、二者間を隔てる机に転がったボードマーカーを取って近くのホワイトボードに横向きの矢印を書き始めた。ここは尋問室であり、他ならぬ尋問対象は彼である。

 
「この矢印がタイムラインだとするじゃないですか」
『当然の様に何が始まったんです?』
「するじゃないですか。で、この点がドロップキックの瞬間とします」

 
青年が矢印上にマーカーで点を描く。いつの間にか左手にはボードイレイザーが装備されていた。「するとビックリ」と言いながら、青年は描いた点を中心にぐるりとイレイザーを一周させる。円を描くようにイレイザーがインクをふき取り、矢印は点を中心にぽっかりと分断された。

 
「この様に前後30分の周囲の記録が綺麗サッパリ消失します」
『前後30分の"記録"が──ですか?』
「左様。30分以内に記録してたあらゆるデータは消えるしその後の30分に関してはまず記録が残りません」
『その現象のトリガーが、貴方のドロップキックだと?』
「ドロップキックです」

 
たった今生産した落書きを消しなおす訳でもなく青年は椅子に座り直し、再度職員と向き合う。傍目から見ても伸びた背筋と鍛えた体幹を感じさせる綺麗な座り方だが、その眼だけはどこかやる気に欠けた様な後ろ向きの覇気がこもっている。

「先日のイザコザについては申し訳なく思ってます。多分そちらさんの現場データ丸々消し飛ばしちゃったし」と語りながら、自らが下手に出る素振りは一切見せず、

 

「俺を捕まえにきたんでしょう?」

 

ド真面目にそう言う彼を前にして、白衣の職員は思わず頭を掻いた。
 

漆原六郎うるしばらろくろう

この物語の主演は、果たして彼であろうか。

 

 

 

 

 

されど結末は変わる

 

サイト-06 東棟4F 休憩室

 
がらんどうの観客席で、一人舞台を眺めている。

いつからかそんな感覚があった。劇場という名の箱、その三面が薄暗く空間を塞ぐ中でただ煌々とした舞台だけが終わらぬ劇をダラダラ続けている。舞台の上では自分以外の誰もが軽やかに物語を演じ、淡々粛々と今を生きていた。

自分はというと。そんな彼等の舞台をただ、眺めている。五感を無駄に冴えわたらせながら、鳴り響く音響を、演出される機微を逃さない様に情報を受け取りながら、その先の思考は何一つ動いていない。本当にただそこにある物を見ているだけだ。
 

「……つまり、ただの傍観者か」
「いつまで茶シバきながら独り言に励んでんだ漆原ァ」

 
バインダーで後頭部をシバかれる。

休み時間くらい自己陶酔に浸かりながら休んでもいいだろうがと顔を顰めながら、漆原は「衝撃の事実かもしれませんが珈琲って実は茶じゃないんすよ」とジャブ程度の皮肉を吐きつつ振り向く。最早"面白い"の域に突入している濃すぎる隈をこさえた虚裡曰うろうらいわくが突っ立っていた。

  
「つまんねぇ事言う暇あるなら動け~。仕事がァッ有り余りすぎてんだ」
「言っちゃなんだけど俺する事ほぼ皆無じゃないですか」
「オマエの教育係がオレの仕事。オレには他にもタスクがある。はいQED。くたばれ全員」

 
相変わらず酷い言い草だ。巻き込まれた無辜の数億人が気の毒でならないが、ともかくカップ内の珈琲をシンクに流して歩き出した虚裡を追う。微かに揺れる緑色のネクタイは、漆原が常に着けている愛用品である。

 
「調査の兄さん方が頑張ってくれてるおかげでクソ教会の拠点候補が何個か割れた。忙しくなるぞ」
「マクスウェリズムの連中でしたっけ。カチコミですか」
「ま~オマエはいつも通り補佐やってくれや。んで早く配属先しっかりさせてオレの元から去れ」
「多いっすね要望が」                                                  

 
サイト東棟四階の休憩室に人はいない。時刻にしてAM5:30、禄に寝もせずぶっ通しで働く社畜が二匹いるのみだ。中央に狭く分けた前髪をぼさつかせて虚裡の背中を追随する最中、ふと自らの首にかかる職員証が目にとまる。

漆原 六郎。クリアランスレベル2。現役職、フィールドエージェント補佐。職員証に載せられた少しばかし憮然とした顔の自分と、示された「監視中」のマーク。

 
 

人事評価ファイルより抜粋:

Agt.漆原の保持する異常性として、「Agt.漆原が誰かにドロップキックをする」という事象が発生した際に副次効果として「Agt.漆原の周囲██haに起きた前後30分のあらゆる事象記録が範囲内全ての記録媒体から消失する」という反ミーム的現象が生じます。

以上の点から、Agt.漆原は研修期間が終了するまでの間Lv.2監視対象として常時財団による監視下に置かれます。

 
 

今この瞬間も尚、支給された小物に内蔵されたカメラやら不可視の極小ドローンやらで漆原は監視されている。偏った思想に毒された痴呆老人の様な提言であるが残念ながらそれは紛れもない事実であり、同時に漆原自身もその事実を──半ば諦めつつも──了承していた。

財団に雇用されてから3年と少し。冗談の様な異常性と冗談では済まない効果規模が彼に与えたのは「扱い辛い監視対象」という立ち位置であり、未だに漆原は"補佐"とは名ばかりの見学仕事しか任されていない。幸か不幸か彼はただ静観に徹する事が好きではなかったが、嫌いでもなかった。

 
「お、早起きだねぇお二人さん。それとも仕事上がり?」
「早起きでもないし上がりでもねえわ飯尾ォ」
「キレんなよ虚裡うろうー。俺も同じだからさ」

 
廊下に出た途端、虚裡に肩を組む形で会話に入ってきたのは飯尾唯めしおゆいだ。他にも数人の白衣を連れているのを見るにどうやら対話部門の御一行らしい。明らかに女にしか見えない面でけらけらと笑いながら、流れのまま周囲の複数人を巻き込んで束の間の談笑を繰り広げはじめている。

 
「ねぇうろうー、ちょっとお願いがあるんだけどださぁ」
「その手には乗らんぞ。篭絡するならロリィタでも着てくるんだな」
「うわキッッショこいつ。成功例があるのが猶更キショいよ」
「声が頭に響くんだよ。ダル絡みは勘弁してくれ飯尾」
「飯尾さん私たちも予定ギッチギチなの分かってますか」
「えっ俺の味方いない感じ?」
「自明の理だろ」
「ハッハァ~~ッ。どうせずっと独りだよ俺ァ」

 
徹夜明けヤケクソ気味の空元気で、それでも和やかに会話の応酬を軽やかに繰り広げる虚裡、飯尾、同僚たち。その少し後ろで、漆原は全てをただ眺めていた。

質素だが柔らかい劇場の観客席に一人座りながら、舞台上の彼等の一挙手一投足を視界情報として緻密に処理を続ける。舞台の皆と観客の彼を隔てる見えない「第四の壁」に何かが阻まれているような気がして、その寂しさにふと頭を掻きながら。

 
その席に座る意味も理由も判らないまま、相変わらず一人傍観を為す漆原がそこにはいる。

 


 

横浜 日ノ出町 住宅街

 
「相変わらず酷い絵面が広がってんなァおい」

 
吐き捨てた虚裡が室内を一瞥する。

住宅街の一角、古ぼけたアパートの二階は部屋間を仕切る壁が全てぶち抜かれており、正しくアジトの様相を呈すだだっ広い空間が広がっていた。既に人がいた気配はなく、長く放置されたその名残たちだけが乱雑に転がっている。
 

「まぁオマエはほとんど突っ立ってるだけだけどな」
「動いてほしいんですか」
「言ってみただけだ。そこにいていいよ」

 
要注意団体「マクスウェリズム協会」が分派。日本に流れ着いた末にヤクザと癒着し、過激思想を発酵させた超常宗教組織の調査・解体が今回の任務だった。場には漆原と虚裡だけでなく、数人のフィールド・エージェントが集っている。
 

「虚裡さんと漆原さん、でございますか」
「ッスね。現場管轄の方?」
「です。まずは簡単な情報の共有から」

 
話しかけてきたのはスーツに身を包んだポニーテールの女性である。随分と几帳面かつ潔癖な雰囲気を隠そうともしない出で立ちだな、と漆原は彼女の顔をちらりと見る。かなりの眼力で睨み返された。そんなに喧嘩売ったかなあ俺。

決めた、たった今からコイツは"スーツ女"と呼ぶ。そそくさと目を反らしながらそんな事を勝手に決意する漆原を横目に、自らの名前を名乗ることもなくスーツ女は口を開いた。

 
「本調査の目的はご存知の通りマクスウェリズムの殲滅……解体です。というのも、どうやら最近彼等の動きがきな臭い。それまでは要注意団体の方でも優先度は低めだったのですが、警戒レベルが引き上げられた結果の第一次対策班が我々です」
「そりゃ勿論知っていますよ。本題は"引き上げられた所以"の方でしょう」
「人の話は最後まで聞くべきです。こちらをご覧ください」

 
軽やかに虚裡へ喧嘩を売りながらスーツ女が両方にそれぞれ何かを取り出す。片方は一匹のネズミが入った小さな透明のケースであり、もう片方は何やらボールペンの様な細長い形状をした機械だった。

「特別に使用許可を頂きました」とスーツ女は慣れた手つきで透明ケース上部のハッチを開け、内部のネズミに向けてボールペン状の機械の先端を向ける。瞬間。

ぐじゅ、と汚らしく空気が揺れる。
即ち、ネズミが破裂した音だった。

 
 

「──さて、何が起こったか分かりますか?」

 
 

「"情報の強制送信"」

 
返答。その主は、虚裡の少し後ろで眺めていた漆原。

スーツ女と虚裡の視線がこちらへ向く。意にも介せず漆原は二人の元へと近づき、虚裡の横へと並び立つ。

 
「本来俺たちが認識・受信しえない超常的なミームや高次存在やらのデータを、強制的に対象──ネズミへブチ込んで『ネズミの情報』に変換することで受け取れる様にする技術っぽいですね」
「……なら、このネズミの惨状は?」
「副作用に近いんじゃないですか? 高次的な情報を強制的にブチ込まれるんだ、当然相応の負荷は掛かるでしょう」

 
んで、と漆原の言葉の矢印は再度スーツ女へ向く。何を言おうとしているかは最早明確だった。即ちこの技術を、日本国に潜むマクスウェリズムが所持しているという事の事実確認。

 
「……はい、正解です。こちらの機構はマクスウェリズムの拠点跡地から発見された物です。技術概要も漆原さんの見解の通りですね。今回は無害な情報を入力しましたが、場合によっては"破裂するネズミ"を介して見た者に情報災害を植え付ける事も可能です。後はお分かりで?」
「奴等の信仰している神やら何やらの高次情報を、人柱かなんかの身体にブチ込んで半ば強制的に認識・拡散が可能。ちょっとでも想像力があれば幾らでも儀式に悪用できるって訳だ。つまり、オレ達が警戒すべき最大のリスクは──」

 

「───"神降ろし"

 
結論を漆原に横取りされた虚裡が顔を顰める。スーツ女が微かに微笑んだ。

 
「急ぎましょう、日本に根付く神なんて何が出てくるか分かりませんから。文字通りね」

 


 

山梨 青木ヶ原樹海

 
漆原の仕事は明快かつ単純である。
見て、眺めて、記録する事だ。

 
「漆原ァ。生痕を微かに検知した。ちょっと来い」
「ラッキーすね。なかなかあったもんじゃないのに」
「粗方癒着先のヤクザだろうけどな」
 

樹海特有のコケの匂いが微かに鼻をくすぐる。不自然に高すぎる自然由来の湿度でベタついた衣服を纏う大の大人が数人、狭苦しく集いながら重苦しい雰囲気を形成していた。樹海内の廃屋、室内から検知された微かな生痕。見逃さないように、視覚を最大限まで駆使しながら観察する。

 
見る。そこに在る具象を捉えながら。

 

 

東京 秋葉原 雑居ビル

 
「これは……」
「札束じゃないですか?」
「見りゃ分かるよ。随分ぶ厚いのが出てきたな」

 
虚裡が所作だけの笑いをハン、と飛ばす。微かにカビ臭さを纏いながら顕現した、洗浄失敗の産物と思しき札束は、山と形容するには些か中途半端な量で物憂げに漆原たちを見つめていた。超常社会の沙汰すらも割と左右する紙切れを前にして、それらが用意された背景に思考を傾けることもなく漆原はただ観察を続ける。

 
眺める。内包する物語を受け取れないまま。

 

 

神奈川 川崎 工場跡

 
「……」
「虚裡さん」
「至急全員分の身元を調べるぞ。これは流石に洒落にならん」

 
死体。

ざっと数えて十数名、目測8〜12歳程の子供の全裸死体がそこには乱雑に並べられている。全員の首から上はすでに破裂して失われており、また身体の一部は不自然という領域を越すほどに歪に捻じれ、引き伸ばされていた。

虚裡が不快そうに顔を顰め、ちらと目線を伏せる。眼前に広がる悪意は明確に黒く色を結び、視認した者の肌をじわじわと蝕み焼いていく様だった。何処からともなく集い肉を啜るウジと、群れを為して視界を覆う蝿の音。趣味と底意地の悪さを煮詰めた様な光景。

故こそ、漆原は記録する。
記録する。決して目を逸らさず、表情も変えず。

 
見て、眺めて、記録する。

未だ観客席に座りこけたままで、只。
 
 


 

 

「漆原って結構根性あるよな。眼の前に広がるのがどんな惨状でも怯まない辺り」
「……いや実際まあまあ喰らってますよ。ただ何処か線引きがされてると言いますか、何と言うか──」

 

 



 
 

rokurouru_6.2.png

 

 



 

墨田区 錦糸町 繁華街

 
汗が垂れる。それが冷や汗か単に籠る小汚い熱気による物かは定かではない。

東京墨田区は屈指の滓の如し治安を誇る錦糸町の繁華街、その外れのビルが3Fにて。廃れたラブホテルをそのまま運用している聖堂とやらには、鬱屈とした面の野郎共が汗臭さを巻き散らかしながら群れている。さながら腐臭の香るゴミ捨て場に集うカラスの様だった。

そこにいるのはマクスウェリズム教会のシンパ達、並びに要注意団体「有村組」構成員や恋昏崎の超常反社が数匹。各々が各々の手段により武装をしているが、特にマクスウェリズムの連中は身体の所々に見受けられる近未来的なパブリックイメージそのまんまの改造機構を半ば見せつけるかのような振舞いだ。

 
「〆鴨さん、なんで僕達こんな集められてんですかね」
「"適正"のある子供の受け取りだ馬鹿野郎。随分な上玉らしいから気を引き締めろ」
「それでまた死体で回ってきたら処理すんの僕じゃないですかあ」

 
〆鴨シメガモと呼ばれた男が会話相手の白Tハゲマッチョを睨みつける。そのツラは中年とも壮年ともとれる顔つきだが体はやけに細く、腕輪とイヤリングという形で両の耳と腕に飾られた大きいリングが容貌を彩っている。室内は廃ホテルの立地からか太陽光が酷く差し込み、照明のない状態でも一定の明るさを保っていた。

 
「貴様がッ!雑な処理をしたせいで!我々教会がここまで急ぎ足にならざるを得なかったことが分かっているのか!?もしもあの死体共を回収したのが"財団"などの正常性維持機関だったらどうするつもりだ!」

 
ヒステリックに唾を撒き散らかす〆鴨を前に白Tハゲマッチョが「ちょっと趣味に走りすぎましたぁ」と所作だけの反省を示す。その態度、そして両者を黙って見つめる有村組所属の金髪男や恋昏崎の中年という構図に〆鴨の苛立ちは更に助長された様だった。憤りのままに室内の端に佇む二人組に指をさして怒鳴りつける。

 
「お前たちもだ!超常社会の底辺フリーランス共!"人除け"要員で雇われたからには分かってるな? 半端な仕事でもしたらまずお前らを贄にしてやるからなァッ!」

 
突如として怒号を浴びた漆原と虚裡は、二人して死んだ目をしながら「ウス」とだけ答えた。

 

:

 
「空間の疑似隔絶」によって招かれざる客を防ぐ役割で派遣されるはずだった二人組の超常フリーランスを襲撃し、漆原と虚裡が成り代わって内部から状況を調査する。マクスウェリズムの輩共の人員チェックが杜撰そのものだったから出来た襲撃作戦である。既に建物の陰にはスーツ女をはじめとしたエージェントが数人潜伏していた。

室内では相変わらず粘ったらしい怒鳴り声が響きわたる中、漆原は虚裡の方へ微かに目をやる。アイコンタクトと最低限の身振り手振りによる会話の応酬。
 

『救助対象がいるだなんて聞いてないんですけど』
『オレもだよ。臨機応変にってことだろ』
『持ち帰る優先順位は"情報"が先ですかね』
『だろうな。上はコイツらを限界まで泳がせるらしい』

 
会話の傍ら室内の"敵"を軽く観察する。マクスウェリズム分派の奴が四名────特に〆鴨とかいうおっさんと白Tハゲマッチョは要警戒だ。そして有村組の輩が三人。金髪の男が少々やり手感を出してるがまあ無問題。恋昏崎の中年も多分そこまで脅威ではない。しかし問題は

 
『もっと潜んでますね。多分二ケタはいる』

 
問題は、単純な数の利が絶対的に向こうにある事だ。

真正面からやり合うのはリスクがでかすぎる。妥当且つ明解な事実だった。本格的に神格や人員などの情報奪取────つまる所観察に腰を据えるのが安定だろう。結局やるべき事が通常運転に回帰したということに漆原は軽い安堵を覚える。

静観は好きでもないし嫌いでもないが、それでもすっかり慣れ切ってしまった。
微かに息を吐いて、見咎められないように軽く肩を回す。

 

瞬間だった。

 

「おい待てやあクソガキィッ!!!!!」

 
突如廊下の方から響く怒号と、こちらに向かって駆け出してくる、少女。

 
少女。目測12歳前後だろうか。裸足で駆けるその姿は全体的に汚れており、あくまで「商品」として危害は加えられていないが碌な扱いを受けていなかった事が一目で分かる容貌だった。その目元は腫れに腫れ、涙を既に通り越した先の破滅を孕んだ行動力がその眼には宿っている。

一瞬遅れて大の男が数名、少女を追ってこちら向かってきた。マクスウェリズムに少女を明け渡す有村組のメンバー共だ。ドタドタと間抜けに走るさまはさながら新喜劇の様である。
 

「は───」
「あぁ!?」

 
想定外に場の全員が一瞬だけ呆気にとられるも、事実として少女は不本意に男の集団に突っ込む形で逃げようとしている。つまる所、捕獲はあまりにも容易だった。有村組の金髪男ともう一人の無個性ヤクザが素早く動いて少女の行く手を阻む。

漆原は視界に収めている。少女の些か細すぎる真白な腕が野郎の濃い指毛を生やした手に掴まれる。地面に押さえつけられた胸がカヒュと小さな音を上げ、対して男は苛立ちのままに拳を振り上げていた。恐らく狙いは顔。眼窩底が折れれば雑な殴打でも失明する。

少女を取り囲むように敵が数匹群がっている。"群がる"と形容できるほど、いやそれ以上に敵はいるのだ。今動くのは得策ではない、と先ほど確認した事実が思考の電子伝達を塞いでいく。

自らが座る観客席の遥か向こう、舞台の上。今この瞬間、無辜の子供が、少女が。理不尽な暴力を顔面に喰らおうとしている。理不尽に何かを取り立てられようとしている。その刹那。

 
 
 
既に飛び出していた虚裡の背中が、漆原の前方を通過した。
 
 
 

「───ぇ」

 
虚裡の拳が少女を殴ろうとした男の顔面にめり込む。

その一瞬後、弾かれるように漆原も動き出した。漆原の背中、Yシャツの下に微細な光の線が走る。瞬く間に乱れた均衡の中で咄嗟に定められた自らのスタンス。場の全員がそれに従って動こうと身体を反応させる最中、鼻血を出しながら吹っ飛ぶ男と跳躍する漆原の二者だけが既に宙を駆けている。

服の下に着こんだベスト型の携行認可超常武装。背面に位置する装置が任意方向へのベクトルを生み出し、出力と受け身さえミスしなければ瞬間的にではあるが高い機動力を付与する。跳び掛かる先にいるのは───咄嗟に虚裡の姿を追随していた、白Tシャツのハゲマッチョ。

 
「あぁっコイツ!?」
「オイオイ何が起こっ」

 
ベキイッと骨が折れる音が鳴る。漆原が白Tハゲマッチョの首元目掛けて、肘から全体重を乗せて衝突したのだ。ハゲマッチョの頭が90度ねじ曲がる。初動で一名の殺害を達成した刺客に対して、恋昏崎の中年が銃口を向ける。銃声。だが鉛玉を脳天に喰らったのは、他ならぬ恋昏崎の中年その男だった。虚裡による一手先の銃撃である。

この間僅か二秒。既に二名の命が呆気なく散った。

 
「漆原ァッ!!子供の保護ォサポートしろ!」
「───ッ!承知」

 
漆原が何か言葉を呑み込んだ事を虚裡は確かに認識する。が、それどころじゃない。たった今撃った銃を横から奪われ、更に鳩尾を思い切り蹴飛ばされた。銃を手放し、少女に覆いかぶさる形で護っていた体制を崩されて硬い床を転がる。今この瞬間、自らの超至近距離に敵は三人。金髪男を始めとした有村組のヤクザ共だ。

三つの銃口が、虚裡に向いている。

 

「条件があるんだ。三つな」

 

引き金が引かれる。銃弾は発射されなかった。

何が起こったかと言えばヤクザ三人の持つ銃が全て弾詰まりジャムを起こしたにすぎない。無論偶然などでは全くなく、事前に撒いていた"呪い"の一種だ。脛がこすられて転びやすくなったり、釜が時折不思議な音を出す様に、小さな事象を呪いとして起こすのはそこまで難しい事ではない。当然虚裡自身が無効化している様に対処も容易な呪いだ。一発限りの防弾壁と言っていい。
 

一つ。あんたらとオレが半径6m以内の距離にいる事」

 
限りなく落ち着きを装って、あくまで交渉でもするかの様に伝えるべき事を伝える。そもそも自身の背後に少女がいる以上銃撃戦は避けたいのが本音だった。「二つ。この条件を嘘偽りなく伝える事」───と吐き捨てた瞬間、窓ガラスが割れる派手な音が響いた。

誰かが参戦して来たか。はたまた漆原が突き落とされたか?  電気信号となって脳を通過する刹那の選択肢が耳の裡を木霊する。が、すぐに切り替える。滅私。自身はやるべき事をやるのみ。状況が交錯し、殺意が混線する今この瞬間。

 
三つ───」

 
「場の全員が、地に足を着けている事」

 
ヤクザ達の足裏から、地面が消えた。

 

 

 
虚裡曰うろうらいわく。齢にして31、財団配属フィールドエージェント現場主任。現在は漆原六郎の教育係も兼ねている男である。重すぎる隈と捻くれた髪、細い身体の三拍子が揃っている社畜であるが、その実財団が抱える固有術者の一人でもあった。

自分と対象の両者が半径6m以内にいる事、当条件を嘘偽りなく対象に伝える事、対象と自分の全員が地面に両足をつけている事。以上の三つを条件に「アリジゴクを模した式神空間」を顕現させて対象と己を招き入れる。蒐集院やプリチャード大学など財団内部の術者に多い系譜・経歴を一切持たず、9歳の夏から6年かけて"0から独学"で技術体系から編み出した虚裡によるとっておきのリーサルウェポンだった。本人曰く「そういう家系とかコネがあったらこんな現場の使いっぱしりやってねえよ」との事である。
 

 

 

「ぁあんだァこりゃ!?」

 
突如として足元に広がったすり鉢型の窪みに身体が墜ち、その斜面に手を掛けようにも式神空間を構成するのは絶えず滑り落ちる流砂だ。廃ホテルの突き当たり、一室の入口周辺には侵入してきた蟻を狩る即席の地獄が出来上がっていた。

引きずり込まれた三人のヤクザのうち、一人なんとか流砂にしがみついた金髪男は認識する。すり鉢の底、ぽっかりと円く開いた奈落からかすかに存在を覗かせる何かを。対応が遅れて奈落へと真っ逆さまに落ちてゆくヤクザ二人の上半身と下半身を、今この瞬間真っ二つに割った怪物がそこにはいた。アレが蟻地獄の主なのだと直感で理解する。

この危機から脱するための方法は二つ。よじ登って脱出するか、この蟻地獄を顕現させた男を殺害するかである。有村組に入ってから早10数年、何としてもこんな所で死ぬわけにはいかなかった。必死で銃の照準を合わせるために虚裡の姿を追随する。少女を肩に背負った虚裡は流砂の斜面を突っ立っていた。

 
「舐めたツラしやがって」

 
引き金を引く。だが、鉛玉は当たらない。少女が「わ」と小さく声を漏らし、呼応するように虚裡が斜面を並行に駆ける。あたかも流砂など無いような挙動で距離を詰めてきた虚裡の拳を顔面に喰らい、金髪男の身体はあっけなく斜面を離れた。奈落に放り投げられる瞬間、金髪男は刹那の、だが致命的な判断ミスをようやく認識する。

あの怪物が蟻地獄の主ではない。
蟻地獄の主は、他ならぬこの男なのだ。

宙を舞う最中、己の直下を微かに見る。奈落から姿を現したのはウスバカゲロウの幼虫、と形容するには些か歪すぎる式神だった。本来のそれが獲物を拘束する為に生やす大顎が、獲物を真っ二つに細断する刃へと変質している。微かに光沢を纏い光景を反射するその刃に、金髪男は今際の際の自画像を見た。

 
鉛直上方向への斬撃。金髪男の肉体が右半身と左半身に分離する。

 

既に蟻地獄などハナから存在していなかったように、ホテルの一室はただ在るだけのホテルの一室に戻っていた。そこに居るのは息を切らしながら少女を抱える虚裡と、降り注ぐヤクザ三人分の細断された死体のみである。招き入れられた対象者が死亡した段階で式神空間は消失する。今の最善は少女を抱えてこの場を脱出することだと、たった今虚裡は判断した。ここまで戦闘開始から約25秒。救助対象を連れていると考えるとタイムロスもいい所である。

 
目指すは部屋の最奥に位置する非常用出入口。混乱の最中、そこまでたどり着くのは決して難しくない筈だ。

筈だったのだが。

 

「総員腹を括れぃッ!目的を遂行するのみだ!!」

 

〆鴨とかいう男だ。小物臭い言動とは裏腹にしっかりと出入口を塞ぐ位置に陣取っている。見れば、腕輪やイヤリングとして身に着けていた大きなリングが、自立駆動して〆鴨の周囲に展開されている様だった。隣でマクスウェリズム教会員に回し蹴りをかましている漆原といつの間にか参戦していたスーツ女には目もくれず、ただ虚裡を睨みつけている。

「充電完了」と小さくつぶやく〆鴨の右腕に、展開されていたリングが全て通っていく。すぐに〆鴨の右前腕はリングの装甲によってすっぽりと収まった。纏われた電磁がバチバチと音を立てている。

少女を〆鴨の延長線上から外れるように放ったのは、虚裡の本能と言う他ない。

 
「発射、今ぁッ!」

 
虚裡、ついでにその後ろにいた追手のヤクザ達が吹き飛んだ。

 

:

 

「虚裡さん死にましたァ!?」

 
〆鴨の正拳突きに合わせて射出された衝撃波が虚裡をぶっ飛ばした。漆原が目の前で視認した出来事である。些か雑すぎる生存確認を試みるも、「生きとるわボケ」の返答は返ってこない。要援護と判断した漆原の身体がなかば勝手に動く。〆鴨目掛けて一直線に駆け出していた。

背後にはつい先ほど回し蹴りを喰らわせたマクスウェリズム構成員の男が、呻きながら漆原を睨みつけている。まだ死んでいない。まだ無力化が完遂されていないが、それは一旦もう一人の戦力に任せようという漆原の判断だった。立ち上がろうとする男の頭がひしゃげる。背後から男を殴打したのはエージェント仲間のスーツ女だ。

つい先ほどガラスをぶち破って派手に参戦してきたスーツ女は金属バットを担いでいた。人間の頭部目掛けて全力のスイングをかまし、砕き、吹っ飛ばす。痛快を絵に描いたようなファイトスタイル。対して漆原はどこまでも堅実に対象の鎮圧に動いている。

 
「社会のゴミ共がぁぁぁっ!!」
「お互い様だろ」

 
吠える〆鴨が突き出したリング装甲の右拳をボクシングスタイルの要領でかわし、すかさず鼻目掛けてワンツーパンチを叩きこむ。「ひぎゅ」と間抜けな声を漏らす〆鴨の首をわしづかみ、腰の回転で投げて地に抑えつけた。腰に仕込んだ得物を首元目掛けて刺そうとした刹那、〆鴨の右腕からリングが抜けて自立飛翔を始める。

流音、鈍痛。

横から漆原を襲ったのは小型のファンネルと化したリングが放った小規模の衝撃波だった。人を殺害するには弱く、しかし大の成人男性一人を吹き飛ばすのは訳ない程度の威力。1m半ほど宙を舞った先で咄嗟に受け身をとったものの、その隙に〆鴨は素早く起き上がっている。漆原の顔面目掛けて力任せのキックを叩きこもうと、片足を上げて迫っている。

 
「なっ───」
 

が、叩きこむはずだったキックは完璧に受け止められていた。漆原が受け止めた〆鴨の脚を掬い上げる。今度は〆鴨が頭から派手に転倒し、再び地面に這いつくばる野郎二人の絵面が広がった。泥臭いド突き合い。形勢は互角。───だが正面戦闘で行使可能な超常の有無は、こういった状況でこそ絶対的な差を生む。

 

再びリングが〆鴨の右腕に収まる。
虚裡を吹っ飛ばした一撃が、来る。

 

それは態勢も禄に整っていない、単にそれ単体だけなら何の威力もない鳩尾への正拳突きだった。しかしあくまでその所作は引き金を引く微かな指の動きにすぎない。漆原の鳩尾を爆心地として、〆鴨のリングから微かに電磁のイナズマが迸る。それが何かを意味するかを認識した時には、身体は既に宙を舞っていた。

 
壁打ちされたテニスボールよろしく打ちっぱなしのコンクリに叩きつけられ、刹那、この惑星から酸素が消失したのかという錯覚が体を走る。

脱力。疲弊。ついでに激痛がない交ぜになって身体を遅効性で蝕んでいく。思わず声にならない声が過剰に混ざった息と共に漏れた。受け身自体は人間に可能な範囲での最良を叩き出した手応えはあったが、それでも喰らった攻撃の威力を殺しきるには遥か遠い。

 
「───」

 
聴覚が微かに麻痺している。

周囲の情報を集めなければ。衝撃にやられて不調をきたす五感を必死にフル稼動させながら、次の瞬間に自らを襲いかねない「最悪の可能性」に備える。〆鴨は自分を追撃に来てはいない様だった。言っちゃ悪いが爪が甘すぎる。こんなやつに負けたのかよ俺。

 
壁にへたり込みながら、取り敢えず吐き出したい言葉があった。
些か疲れたという事だ。

状況を鑑みるに、敵は俺達が「財団」の手先であることに気付いている。即ち、抵抗よりも逃亡を最優先事項としてこの瞬間を動いている筈だった。逃がすわけにはいかない。これでも一年所属した正常性維持機関エージェントとしての意地に賭けて、何としてでも今動く必要がある。

が、それはそれとして、疲れた。今が頑張りどころと言えばそうなのだけれども。生きててくれ虚裡さん、頑張ってくれスーツ女。微かに霧がかる視界をぬらりと動かして前方を見た。

 

 

 

「助けてください」

 

 

漆原の前方3mほどに居た一人の少女は。

震える脚をへたりつかせながら、涙と痣でぐしゃぐしゃの顔を歪ませながら、確かに漆原に向けて、そんな言葉を放っていた。

 
 

あれ?

 
それは漆原自身が致命的に認識した、刹那の動作不良。当然眼前にある保護対象の姿を捉えたその瞬間に、身体は助けようと動作を試みた。だが、上手く立ち上がれない。脚に力が入らないせいだ。それ自体に不条理はない。不自然はない。

しかし事実として、これまで経験した事がないほどに漆原の時間は止まっていた。且つ、今だけは、絶対に時間を止めてはいけない瞬間であった。それすらも自分で理解しているというのに。

 

「カス共!俺ァガキ受け取ってずらかるぞ!!」

 
少女の背後に迫る影がある。〆鴨である。

その角張った手がカサついた少女の髪を掴む。悲鳴は上がらない。ただ、発露した絶望と恐怖が吐息と涙になって滲み出るだけだ。おそらく10歳と少しの幼年は、今この瞬間に行き着くまでに果たして何を見たのだろうか。どの様な地獄を耐えてきたのだろうか。

まさに今しかなかった。確かに駆け出すべき刹那。
漆原は、未だ間抜けな二文字に縛られていた。

 
"あれ?"

 
足音。怒号。最早彼を気に留める者はいない。

 
そうして、残ったのは静寂のみ。座り込んだまま動けない漆原の前の舞台には、がらんどうの無人だけが広がっていた。

 


 

サイト-14 西病棟2F 病室

 

「───んで、結局動けなくなったのはオレだけかよ」

 
病棟の片隅に位置する病室には、些か強すぎるほどの西陽が差し込んでいる。

病的なまでに殺菌された白いベッドに寝伏しながら不満げにぼやく虚裡に対して、「そこは普通申し訳なく思う所じゃないんスか」と漆原が剥いた林檎を床頭台へと置いた。病室にいるのは虚裡と漆原の二者だけであり、漆原が持ちよった林檎以外にお見舞いの品は何もなかった。財団ではよくある光景である。

 

襲撃作戦は結果としては失敗に終わった。有村組の勢力は壊滅・特定に持ち込むことができたものの、肝心のマクスウェリズムが一人、〆鴨──及び取引されていた少女もだが──の捕縛には至らなかったのだ。得られた情報が多いのも事実だが、超常社会において最大限に警戒される正常性維持機関としては誰一人取り逃がしたくなかったのが本音である。

〆鴨のフル充電による一撃を喰らった虚裡は、割としっかりと生死の境目を彷徨ったらしい。完全な回復までにはもうしばらくかかる様だ。

 

「という訳で本来ならオレの代打がバディとして補充される筈なんだが、如何せん教育係という立場がどうにも面倒くさくてなァ。少しの間だが一人で頑張ってくれや」
「ぇえ……? それって」
「オマエも多少は信用されてきたって事だろ。適当に胸でも張っとけよ」

 
そう虚裡が言うなり、両者の間には静寂が走った。実は二人の間には話すことが、そんなに無い。

否。少なくともこの場においては、話すべき議題は確かにある。ただ、それをどちらが切り出すかという話だった。虚裡が漆原の顔を睨みつける。分かってるだろ先輩を敬って行動しろよ、と隈だらけの眼で雄弁に喚き散らかしている。その上で無言を貫いたまま、漆原はただ虚裡を見下ろし続けるのみである。

 
甲斐のなさすぎる火花がチリリと弾ける。戦いは最早どちらがより子供なのかという領域にまで達していた。

故に、敗者は当然のように確定している。
 

「……あの時、」

 
虚裡曰うろうらいわく。結局は意地よりも面倒見の比重が重い男である。

 
「あの時、突然飛び出して悪かったな。状況判断が難しいところではあったが───少なくとも、最低限タイミングを合わせるなりはするべきだったと思っている。明確にオレのミスだ」
「普通に数で不利でしたし状況判断としても間違ってましたよ」
「オマエって本当に可愛げの欠片もありゃしねえよな」
「事実っすから。それでも」

 

「それでも、きっと、虚裡さんが正しかった」

 

虚裡が漆原の顔を見た。

向けられた微かな驚きの視線に気づくこともなく、漆原はただベッドの純白を見つめていた。その純白の奥に渦巻くのは、繰り返し繰り返されるあの瞬間の二文字の果て。それは、何か漆原を根底から揺さぶるような"発露"。

ただ、想起する。飛び出していた虚裡の背中を見た刹那を。へたり込む自らに、少女が確かに助けを求めていた一瞬を。何もできず、ただ眺めるだけの、あの瞬間の、かつ絶対的にいつも通りの────漆原六郎うるしばらろくろうを。

 
"あれ?"。自分を縛り付けた二文字は、漆原自身が時間をかけて少しずつ解釈し、削り出し、溶かし込む末に全く違う二文字へと変質を遂げていた。即ち、"なぜ?"。当然のように自らの地盤として築かれていた基本的なスタンスが覆りうる、根本的な疑問。この二文字には、以下のように追記をすることができた。

 
なぜ、あの瞬間に虚裡は飛び出していたのだろう。
なぜ、あの瞬間に俺は傍観を選んだのだろう。

 

なぜ、いつかの俺は観客席に座り続けることを選んだのだろう?

 

:

 

サイト-14 西病棟2F 会議室A

 
「お疲れ様です」
「あぁ、お疲れ様です。えーと」

 
虚裡の見舞いを終えて会議室に向かったところ、待っていたのはスーツ女であった。思わず挨拶に詰まる。理由は明快、未だに彼女をスーツ女呼ばわりしているせいで名前を知らないからだ。

 
「早速ですが本題入りますね」

 
彼女は明らかに名前を覚えられていない事を察したようだったが、その上で強行突破を選んだ様である。それでもって名乗る気はないらしい。スーツ女呼ばわりする許可が出たってことなのかな、と漆原は少しだけ顔を顰めながら考える。

渡されたのは、数枚の書類だった。

 
「これは」
「こちらは先日の作戦で確認した子供に関するデータです。マクスウェリズムの連中のデータは既にご存じかと思いますが、こちらは先ほど上がってきたので、共有しておきたくて」
「あぁ、どうもです」

 
少女について。漆原は咄嗟に「俺は仕事に私情を持ち込む人間ではない、多分」と己を律した。あの時助けられなかった、駆け出すことができなかった。その罪が彼女に向けられることがない様に、罰や贖罪もまた彼女に向けられるべきではない。例え今色々と動揺していても俺はそういう人間なので、大丈夫だ。おそらく。きっと。

あくまで何気なく、漆原は書類を読んだ。
その後、もう一度読んだ。

ゆっくりと。事実だけを汲み取る為に。
 

「……成程ね」
「はっきりと申し上げますと相当に胸糞悪いですね」
「あっそういう事はっきり言うタイプなんすね、分かります、とても」

 
「──とてもね」ともう一度付け加える。露骨で過剰過多な悪意の前では、努めて無表情を保つように、漆原は常日頃から心がけている。

 

 

即ち少女は薄汚く醜い悪意の、紛れもない被害者だった。

 

 

「少し前までは解放された子供達を我々が保護することが出来ていたんですけどね。どうやら下衆共も馬鹿ではないらしい。最近では弄び倒した末に要注意団体に売り飛ばして金に返還するケースが複数確認されています」

 
スーツ女が半ば吐き捨てた台詞を、漆原は一人静かに咀嚼する。眼前に縋る少女を見たときに過った疑問、その過去への半ば"考えたくもない"と眼を逸らしつつあった疑念。その最悪な答え合わせが、手元の書類にはあまりにも不可分なく書かれていた。

想定通りに、想像以上の最悪さである。少女の過去。自らがこれまで築き上げてきた信頼を嗤われ、アイデンティティを破壊され、人生を否定される。それはきっと軽々しい共感を許さない、歪でおぞましい物なのだろう。

 
そして。今は少女の未来さえも想像がつく。ついてしまうのだ。

漆原は想起する。
──いつか肉体を破裂させ、赤い肉塊となったネズミを。

 

ギリリ、と何かが軋む音がする。
他ならぬ漆原が、真顔のまま自らの歯を噛み締める音だった。

 


 

首都高速道路 中央環状線 車内

 
「つまり?」
「余剰次元です」
「はあ」
「漆原さん、貴方分かってないでしょう」

 
in車内。首都高速道路を割と信じられない速度でぶっ飛ばすエブリイに、ぎっちりと大の大人が詰まっている。

助手席に座る漆原が、片手間でlofiな音楽を車内に流し始めた。それに涼しい顔で舌打ちをした運転手は、他ならぬスーツ女である。マクスウェリズム第一次対策班の緊急招集だった。

 
「いやァ、分かってますよ。要するに"マクスウェリズムの輩共が余剰次元──ポケットディメンションを本拠地にしていた"という事が判明したって事でしょ」
「だけならいいんです。問題は判明した経緯だ」

 
スーツ女が片手間でスマホの画面を見せる。そこに映っていたのはどうやらライブ映像の様だった。

誰かがスマートフォンで撮影したと思わしきそれは、どうやらドーム状のライブステージの様な構造物を映している。中々の大きさだ。中央のステージ部分を囲むように設置された観客席。縦長の映像を参照する限り、観客席はほぼ全てが埋め尽くされている。それでもって席に座る全員がスマホをステージに向けている様は中々に異様である。いや、更に正確に表現するならば、

 
「聖堂、か」
「同様の中継映像が様々なSNS媒体に乱立しています」
「かつ、それだけではないと」
「……アキヴァ放射値が異常な数値を計測している。明白に、緊急事態、です」

 
アキヴァ放射。即ち、神格実体の存在強度を示す値である。この数値がイレギュラーを叩き出している時点で、最早御託をこねている暇が介在しないのは明らかだ。

即ち。

 
「想定しうる最悪のケースです。儀式が始まろうとしている」

 
首都高を無法な速度で駆け抜ける車体が大きく揺れ、急カーブを描く車に搭乗者達の身体が叩きつけられる。つまる所この車が向かう先はポケットディメンションのポータルであり、彼等がこれから為すべき事は一刻も早い襲撃と儀式の阻止であった。漆原が一瞬、微かに目をつむる。この車に虚裡はいない。

 

 
ここで、儀式について語る必要がある。

これまでの情報をもとに財団が確認・推測したマクスウェリズム分派の儀式概要は、なんとも回りくどいと形容する他にない物だった。とは言ってもその基本は既に確認されている「高次情報を強制送信・変換する技術」を応用したものとなんざ変わりはない。ただ変換する情報として"神格実体"を、情報をブチ込まれる対象に"生贄"を代入するだけだ。

 
「つまる所神格実体のデータを無理やり生贄にブチ込んで、普通は認識できない高次情報を『"生贄"という存在』を通して周りの信者たちにバラまく訳だ」
「重要なのは、"神格の存在強度は他者の認識に強く依る"という事です。奴らは本来顕現が困難な神格を、裏技じみた方法で認識させることによって強引に降ろそうとしている」

 
 
勿論、当然そんな情報をねじ込まれる生贄はたまったものではない。身体は拒絶反応を起こし、反動や副作用に近いそれはやがて「肉体の崩壊」という事象を招く。スーツ女がかつて見せたネズミがいい例だ。

生贄──少女が、そんな情報を送信されたとして。体を蝕む高次情報に、脳はまず崩壊するだろう。両の眼は歪み、潰れるだろう。内臓は捻じれ溶け合うだろう。身体は不出来なオブジェのように引き延ばされ、すぐに少女の存在は破裂した肉塊へと置き換わるだろう。

 
 

「───そして、その"情報"が拡散されてしまったら終わりです」

 
  

悪趣味でゴアな映像はすぐにネットワークの海を駆け巡る。拡散され、加工され、変換されてすり抜けるように世界の渦へ逃げていく。そうなったら完全な消去は困難だ。神格の存在は、認識に強く依る。

誰かが新しくその動画を見る度に。

流す度に。

再生ボタンを押す度に。

 
「半ば無条件で、神格存在はその存在強度を増していく事になる。そうなったら最早手が付けられない」
「そういう事です。何としても止める必要がある」

 

 

:

 

首都高速道路 辰巳第二PA

 

パーキングエリアの片隅、簡素な作りの階段。どうやらその踊り場が、ポケットディメンションへの入り口となっているらしかった。とは言っても"異世界の入り口"然とした分かりやすいものではなく、絵面としては単にその境目に足を踏み入れたものが神隠しの様に何処かへ転送される形になる。

 
「といっても従来用意されたポータルではなく、我々が余剰次元のほつれを無理矢理こじ開けている様な物です。絶対的に不安定、入れる保証はない」
「えっこじ開けるとか可能なんですか」
「労いは異常発見部門と概念的物理学部門にどうぞ」

 
そう言いながらスーツ女が懐から何かを取り出す。如何にもといった通信機器といった風貌のそれを、漆原が事も無げに受け取った。

 
「作戦をお伝えする時間は無いので、要約だけ簡単に言います。まずは、一人が目の前の不安定なポータルに突入します。そこから今渡した機器を元に余剰次元との接続を安定化させ、本格的な無力化み移る次第です」
「成る程。ファーストペンギンが必要と」
「そいう事になりますね」
「なら、俺がやります」

 
俺だけ今バディいないですしね、と漆原が一歩前へ出る。スーツ女は一言「了解しました」とだけ言って、周囲のエージェント達に待機中にすべき事について説明し始めた。流石は現場管轄と言うべきか。こういった話の早さが、漆原には割と好印象である。

軽く伸びをし、片耳に装着した小型スピーカーをチェック。そのまま着こんだベスト型の携帯超常武装の点検を流れるままに遂行する。もはや傍観と同じくらい、慣れた動きだった。

もう一歩前へ出る。先ほどスーツ女からもらった機器を胸ポケットの中へと仕舞う。目の前の階段を中腹まで昇れば、その先は挑むべき敵の本拠地だ。
 
 

「漆原さん」

 

呼び止められた方へと振り向いた。

スーツ女が、こちらを真っ直ぐに見据えている。
 

矢部やべかがりです」
「ヤベカガリ?」
「矢部かがり。私の名前です」
「……あっ、えっ、今?」
「そういえばお伝えしていなかったので」
 
 
真顔で押し通すスーツ女──矢部を前にして、漆原は咄嗟の返答に困った。今さら「よろしくお願いします」と言うのも違うし、「教えてくれてありがとうございます」と言うのは少しばかり癪である。少々無言を貫いた末、何にも関係ない質問を一つ投げ掛ける事にした。

 
「……突入したら、後は俺の自由ですかね?」
「基本はお任せしますが、我々が後から追い付くまで潜伏しておくのをお勧め致します」

 
粗方想像通りの返答だ。確かな納得と若干の諦観を含ませて返そうとした「そうですか」という言葉は、他ならぬ矢部の"ですが、"という台詞に遮られた。
 
 
「──もしも行動を起こすならば、派手にお願いします」

 
ニヤリと彼女の口角が歪に上がる。漆原の足が再度180°弧を描き、階段へと足を踏み出してゆく。

 
「了解です」

 
背を向けた状態での返答。

最後に、緑色のネクタイを締めなおす。チケットは生憎用意してないが、ドレスコードくらいなら整えてやってもいいだろう。最後の一段を踏みしめて、刹那、呼吸を止める。数秒だけ眼前の踊り場と相対して、いつも通りの気だるげな面で。

 
入場した漆原の足音だけが、踊り場には木霊していた。

 


 

余剰空間"聖堂" 観客席裏通路

 

異質。

 
熱狂。その空間は耳を劈くほどの歓声と騒めき、おまけにノイズ音がけたたましく満ちていた。圧倒的な数と信仰に裏打ちされた狂的な熱が、足を踏み入れた者を嫌でもじわじわと毒す様である。

電光。騒ぎ立てる様な聴覚とは矛盾すら覚える程に、視覚は静かであった。信者たちは皆統一された機械的な動きでスマートフォンやカメラ等の危機を掲げ、全員が同じものを淡々と撮影していた。

群衆。何よりも、信者の数が多い。余りにも。恐らく超常社会に巣くうマクスウェリズム分派信者のほぼ全てがこの場に集っているようだった。それでもって前述の機械的な撮影動作を全員が為すさまは異常を超えてひとつの宗教としての完成を見せつけられる。狂気と悪意の電工は群れを為し星雲となり、そしてその全てが中央の祭壇へと向けられている。

 
総じて、異質。

漆原は歩く。観客席の更に外周、楕円状の空間の最外殻にあたる通路を、事も無げに。

 
中央のステージは無機質を体現したかのように何もないが、その空間の所々にパッ、と何かの記号が表示されては消える。全てが電子上で完結する故のミニマリズム。故に空間の最上部からステージの上空にかけて鍾乳洞の様に吊り下がる厳つい機械だけが、殊更に唯々存在として浮いていた。恐らく"神降ろし"の為の機械なのであろう。漆原の推測だ。

観客席の端に一つ空席を見つけ、座った。

 
座った。その行動理由を、漆原自信でさえ明確に説明できぬまま。隣に座っていた信者──半ば禿頭に近しい初老の男が少し怪訝な顔をする。当たり前だ。漆原がこの空間を異質だと捉えた様に、この空間にとって漆原もまた異質そのものだった。無論そんな事も、漆原はとうに気付いている。

 
が、そんな事はどうでもいい。

 
というか、今それどころじゃないからほっといて欲しい。こちとらまだ己との決着がついてないんだ。普通に。今こうして観客席に座る自身という存在自体が、漆原にとっては最大の謎であり解明すべき命題であった。自らの行動方針、その核がどうやら気付かぬうちに抜け落ちているらしい。

気持ちが悪い、と表現するのは些か不正解だった。ただ、分からない。不意に落とした解を拾おうと、虚空に向かって腕を振りかざすような手応えのなさに苛立ちを募らせながら、また座っているだけ。自らが観客席に座り続ける限り解を手にする事はないと知りつつも、歩きだした所で向かう先が分からない。

 

ふと、視界に捉える。あらゆる観客がかざすスマートフォンのカメラの先、全ての視線が向けられたステージの上。何もないと思わしきステージに二つの人影が在る。

一人は何やら仰々しい格好と、何の装飾やデザインも施されていない黒仮面を被った人物。恐らく司祭のポシジョンに立つ物だろう。だが、身体の所々に装備している大きなリングがその正体を何よりも雄弁に語っている。〆鴨だ。

もう一人。ステージの中央に仰向けで寝かされ、その瞳を固く閉じた小さな人影。少女である。

 

これから彼女に起こる事は明白で、これまで彼女に起こった事もまた確実なものだった。

少女は今の今、この瞬間までずっと無辜のひとである。しかして世界は少女に対して優しく暖かな一面を見せる事はなく、少女はひたすらどす黒い悪意に晒された。人生を騙られ、これまで積み上げてきた全てを否定され、挙げ句の果てには体の良い生け贄として売り飛ばされた。

そしてこれから少女の身体は高次存在とやらの汚い情報に汚染され、蝕まれ、破裂する事になる。

少女だった肉塊の映像はネットワークを介して世界に出回り、便利で悪質な信仰の道具としてずっと運用され続ける。

救いはない。

希望はない。

露骨で露悪的なシナリオが、最後の最期まで続くのみ。

 

 

 
「そんなバッドエンドじゃ、つまらないな」
 

 

 

衝動。

時間が止まる。止まって、止まって、十数秒経って、酷く目の渇きを覚えて、やっと自らでその事を自覚した。そしてその言の葉が他ならぬ自身から飛び出ていた事も。

隣に座る禿げ頭の初老が微かに顔をしかめる。その表情は迷惑客に向けた苛立ちから、徐々に警戒のそれへと表情を変えてゆく。余所者。侵入者。じわりと染みだした疑念はすぐに広がり確信へと変わる。思わずその肩を掴んで話しかける。

 
「なあ、あんた教徒じゃ」

 
初老の顔に肘が激突し、骨が折れる音と共に凹んだ。

ガタガタと身体が崩れ落ちる音が鳴り、周囲の信者数人の視線が集まる。警戒が向く。にわかに殺意が生まれる。その中心、今この瞬間発生した台風の目となる男は、変わらず目を見開いたまま。刹那、微かに呼吸を止めたまま。

 
 

観客席から、その腰が離れている。

 


 
 

「俺を捕まえに来たんでしょう?」

 
ド真面目にそう言う青年を前にして、白衣の職員は思わず頭を掻いた。
 

3年と2ヶ月前。

尋問室に座ったまま相手の返答をどっかりと待つ漆原に、白衣の職員は言う。「それは貴方の返答次第です」と。職員として雇用され超常を収容する者として闇の中に立つか、逆に収容される側として、安全を保証されながら檻の中で生きるか。この二つが案外単純な一択に成り得ない事を、白衣の職員は知っている。

 
「まず、我々は貴方を職員として雇用する事を考えています」
「成程。よろしくお願いします」

 
即決である。「そもそもの話、あなた方みたいな超常を管理する組織は日本国内に確実に存在すると思っていた」と続ける漆原に対して、白衣の職員はその返答が想定済みかのように言葉を投げかけた。

 

「"返答次第"ですよ、漆原さん。我々は貴方の本音が聞きたい」

 


 

余剰空間"聖堂" 観客席

 

駆ける。席と席の空間、座る信者共を軽やかに避けながら。

自らが直前に通過した場所に閃光が走り、残るのは劈かれた焦げ穴のみ。過密を極める人の気配に紛れ、猫の様にぬらりと向けられた殺気を躱しながら、中央部分のステージを見据え続ける。

状況は最善ではない。しかして最悪でもない。誰が騒ぎの元凶か既に有耶無耶になりかけている。大混雑のごく狭い通路、自身の真正面。攻撃態勢の信者が一匹。義手と思わしき右腕の手首に装填された、武骨な杭状の機構に全警戒を集中させる。いわゆる某ロボットアニメなどで見られるパイルバンカー、

 
「───って奴かァ!?」

 
啖呵は周囲の歓声で響かない。勢いと体重を限りなく乗せた横蹴り。踵と拳が交差する。

時間が引き延ばされる刹那、漆原は突き出した自らの脚をかすかに捻っている。足先を信者の右腕に引っ掛ける。杭が射出される、その直前。掛けた脚ごと地に墜とし、僅かに射出角度をズラす。刺突。狙いから外れた伸縮性の超常が付与された杭は、容易に観客席の虚空を貫いた。

席の手摺を踏み台にして、顔面目掛けて膝蹴りを叩き込む。
まだ止まらない。己の瞬きさえも、今だけは許されることはない。

 


 
本音。

白衣の職員の言葉を受け止めた漆原は想起する。数日前に起こした事件、自らが財団に捕捉された発端を。

 
起こった事としてはアナーティスト集団に憧れた超常かぶれの少年たち4名による、中年サラリーマンの集団リンチであった。基礎的なサイコキネシス作用を操る少年たちに中年サラリーマンが蹂躙され、既に彼等をマークしていた財団エージェントが今にも突入しようとした直前、乱入者は現れた。

一瞬の出来事だった。緑色のネクタイを揺らしながら、ドロップキックによってスマホを構えていた少年達の一人を2.5mほど吹き飛ばしたのである。財団エージェントが記録していた映像データがドロップキックを捉えた瞬間を除いて消失したのも、また同じ瞬間の事だった。その後、乱入者はエージェントが制止に入るまでの間に超常行使者である少年3名を素手で戦闘不能に至らせる事になる。

 
ただ、見ていて面白くなかった。

正直にいって、行動要因はそれだけだった。理不尽が理不尽としてただ振りかざされる絵面が嫌で、変えようとした。それは表層の倫理や正義感が及ばぬ、幼稚で原始的、故に最も根本を射抜く"衝動"だ。

 


 

"聖堂" 席間通路

 
視認する。ステージ上に立つ〆鴨が大げさに両手を挙げた。呼応するように歓声とノイズはより大きく鳴り響き、掲げられるスマートフォンの電光は群れを為して輝きを増していく。そして、少女の身体が仰向けのまま微かに上昇し始める。

即ち、儀式の本格始動。

猶予は既に尽きていた。狂乱と狂騒を一閃の稲妻が走ってゆく。緑色のネクタイに煌めきが反射している。雑多に飛んでくる攻撃をいなしながら、ただ駆けて目的へ到達するのには些か時間がかかりすぎる。咄嗟の判断だった。

残された時間が最早無いように、選択肢もまた一つへと絞られていく。漆原の背中、Yシャツの下に微細な光の線が走る。ベスト型の携帯認可超常武装を最大出力に設定。

 
跳躍。

 


 

「貴方はこれから様々な物を見る事になります。様々な物を、見続ける事になります。闇の中で立ち続ける側の人間として、他ならぬ貴方の心得を聞かせてほしい」

 
問われている。今現在の自分、その支柱の根幹を。
そして、その上で何になりたいか。

漆原は少し考えて、僅かに視線は虚空を泳いで。

 


 

観客席最前部

 

身体が地から離れた瞬間、ステージ上の黒仮面を確かに捉える。

 
体勢を整える。足裏を然るべき標的へ向ける。
最高加速。矢の如く一直線に宙を切り裂いてゆく、刹那。
 

 


 

 

「俺は、きっと観客席に座り続ける類の人間だと思ってます」

 
 

 

呟く様に言った。

その言葉は少々揺らぎを伴っていて、確かなおぼつかなさを感じさせた。海面に揺れる薄い布切れを、慎重に両手で象った盃に納めてそっと掬い上げる様な危うさが、両者の鼓膜をいたずらに震わせている。

 
「別に何かを見続ける事は好きでも嫌いでもない。でも、得意ではある。それが役割だというのならお構いなしに座り続けると思うし、ひたすらに傍観者でい続けると思います。例え、最初の目的を忘れたとしても。元々そういう性分だ」
「つまり、"役割を遂行する"事こそが貴方の本質だと?」

 
白衣の職員に、漆原は再度沈黙する。

その質問に対する解はきっと朧気で、吹けば消えてしまうような弱々しい物だった。何か修辞や比喩の支柱がなければ、きっとバラバラと崩れ落ちてしまう。

でも、だからこそ。

 
「……その上で、どうせならなってやりたいとも思ってます」

 
そう、思っているんだ。
余りにも馬鹿らしくて、言えたものじゃないけれど。
 
 
 

「たとえ独りでも、最後まで俯瞰して舞台を見続けて」
 

然るべき瞬間に場を制し、悠々と歩みを進めながら。

 
「露悪に穢れたドブ煮込みの大団円にカットを切って」
 

血反吐まみれでも脚本と演出を矯正して。

 

 

 

 

 

 

 

 

「───物語を、在るべき形へと導けるような、"監督"に」

 

 


 

 
インパクトの瞬間、視界の端。仰向けで宙に浮かぶ少女が映る。

 
 

微かに笑った。

そうだよな。こんなシナリオ、つまんねえにも程があるよな。どうせなら景気よく、全部纏めて蹴り飛ばそう。

 
お見舞いしてやろうぜ。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

ドロップキック。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

ON STAGE.

 
衝撃。反動。超威力。黒仮面に漆原の両足がめり込む。直後、〆鴨の肉体は既に超速度でステージから姿を消している。宙で自らの身体をよじる。派手な激突音が木霊する、出来得る限界の受け身で着地のダメージを殺す、全てが同時に起こっていた。同時に完結していた。漆原がステージに着地する。

 
秒針が、動き出す。暗闇
電光の群れが、吹き消されたろうそくの様に吹き飛んだ。

 
真っ暗闇を走り出す。〆鴨は、観客席に真正面から弾丸のごとく激突した。信者達が掲げていたスマートフォンは、もう誰一人としてその画面に光景を映していない。そして信者達も。彼等の大半はその視聴覚を改造し、機械兵装に換装している。

 

Agt.漆原の保持する異常性として、「Agt.漆原が誰かにドロップキックをする」という事象が発生した際に副次効果として「Agt.漆原の周囲██haに起きた前後30分のあらゆる事象記録が範囲内全ての記録媒体から消失する」という反ミーム的現象が──

 
最早誰も見えちゃいない。聞こえちゃいない。悪意の群れが、目線が、映像が。綺麗に一掃されて、跡形もなく吹き飛ばされている。他ならぬドロップキック、そのたった一撃が、一蹴が齎した物だった。最早信者どもの喚き声すらも、暗闇に呑まれて届かない。

唯一無二の最前線。

独り、ただ漆原だけが目掛けてゆく。
確かに手を伸ばしたいと思った、独りのもとへ。

 

 

「貴様」

  

ステージを何かの光源が照らす。瞬時の警戒。病的に白く、目障りな光の出所を咄嗟に追った先。見覚えのある数個のリングがステージ上に浮かび、その大きさに見合わぬ光を煌々と放って漆原を照らし出している。

人影が一匹、舞台の上へと昇り立つ。歪に割れ、その下のツラが一部露出している黒仮面。血眼の目と血だらけの顔面を晒しながら、立ち止まった漆原に迫る男だ。

 
「〆鴨か」
「貴様ァァァァァァッ!!!」
 

半狂乱の咆哮を真正面から睨み返す。片や無様な逃走を迫られ、片や何もできずに取り逃がした。どちらも辛酸を舐めた前試合、双方にとってのリベンジマッチ。〆鴨が吠えながらこちらへと突っ込んでくる。

 

その鳩尾目掛けて、漆原の拳が全速力でめり込んだ。

殴り飛ばす。呆気なく吹き飛んだ攻撃対象をそのまま追いかけ、仰向けに転がった〆鴨──その顔面目掛けてもう一発。今この瞬間の漆原の行動指針は〆鴨を殺す事ではない。儀式の阻止、そして少女を救出する事だ。致命的な事に、未だ儀式自体は止まらず進行が進んでいる。

恐らく、仮面。あれで機械を制御している。先ほどのドロップキックでひび割れはしたものの、未だその機能停止には至っていなかった。

追撃は止まない。咄嗟に脇腹を蹴られ、その隙に立ち上がる事を許してしまったが、それでも攻勢自体は渡さないスタンスだ。周囲を舞うリングの操作を許さず、何もさせず制圧する。右腹部、肝臓狙いのレバーブロー。二撃、三撃。連打を重ねていく。最小限の体重移動をこなしながら後ろ手で顔面へもフックを放ち、アッパージャブで間を潰す。

漆原の猛攻の最中、辛うじて防御大勢をとった〆鴨の右腕に、周囲を浮かんでいたリングが収まっていく。反撃の一発、その装填が完了していた。虚裡を吹き飛ばし、漆原を一撃でKOした衝撃波。

 
一瞬の隙。〆鴨が腕を突き出す。電磁が迸る。
漆原は、既に動いていた。

 

その場で身体を丸めながら跳躍し、本来自らを吹き飛ばしていたであろう衝撃波を紙一重で回避する。最小限の助走で最大限に勢いを乗せ、その足裏はとうに照準を捉えている。

 

 
ドロップキック。
 

 

蹴り飛ばした。漆原の異常性自体は、既に記録を消し飛ばした30分の間は「"消し飛ばす対象"となる記録」が無いために不発となる。このドロップキックは、ただ漆原が持ちうるだけの暴力であり、磨いた技であり、無二の武器だった。

 
しかして反撃は止まらない。ドロップキックを顔面に食らいながらも、〆鴨は血眼で正拳突きを繰り出していた。その所作をトリガーに衝撃波が放たれる。すかさず左腕。両腕にリング達を装備しながら、衝撃波で充電を使い次第、すぐに周囲のリングと取っ替えて最高威力を撃ち続ける。

絶えず射出される衝撃波、一発でも喰らえば戦線離脱は免れない。連撃の僅かな間隔、微かな隙間を縫う。縫い、掻い潜り、距離を詰めていく。
 
 
「単調なんだよ」

 
衝撃波、その最後の一発が射出されるタイミングに合わせて身体を低く屈めた。半ばタックルに近い体勢、頭上の数cm程上を衝撃波が通過する。加速は落とさない。狙いは、変わらず黒仮面。

もう一撃──ドロップキック

 
「──ッ!!」
 

黒仮面に大きなヒビが入り、〆鴨が仰け反った勢いのまま地面を景気よく転がる。受け身をしながらその事実を視認し、思考を纏める。このまま勝てる。あと数秒でカタをつけられる。そう判断してからは、身体は自ずと前のめりに前へと走り出していた。

 

即ち、油断であった。

 

「あ?」

 

身体が進まない。

 
咄嗟に地面を蹴って退こうとしたものの、足を動かしても宙を藻掻く形になるのみ。何が起こったか。漆原の身体はその座標に固定され、微かなプラズマを纏いながら、ゆっくりと上昇していっている。少女と同じ様に。

少女と、同じ様に。

何をされたか、思考が漸く追いついた。どうやら、唯一つに等しかった逆転のカードを切られたらしい。

 
「──お分かりだろうが、貴様を"儀式"に巻き込んだ。とは言ってもこの行為に儀式的、呪術的な価値はないがな。あくまで贄は子供だけだ」
「……お前」
「だが、拘束さえできればそれでいい」

 
〆鴨の右腕に収まったリングが電磁を纏う。

 
直後、衝撃と痛みで脳が揺さぶられる。衝撃波を真正面から叩き込まれていた。座標を固定されている故に吹っ飛びはしないが、その分その斥力がモロに内蔵を、身体を軋ませる。一発で喉から血が飛び出てきた。

当然、一撃で終わる訳がないのは自明である。

 
「貴様の様な!!ゴミカスが!!儀式を邪魔するなぁッ!!!4回死んでこいや!!」

 
空を劈く様な音と共に衝撃波が連打され、宙に磔にされたまま真正面からそのすべてを喰らい続ける。意識にノイズがかかり、激痛と共に途切れ途切れで暗闇が視界を支配する。少し隣に浮かぶ少女に当たらない様に、あくまで丁寧に、殺意を以てして漆原に衝撃波を叩き込んでいく。

4回、5回。既に漆原はうめき声すら発していない。
自らも血塗れの身体で、〆鴨が吐き捨てる。

 

 

「貴様如きが、主役にでもなったつもりか?」

 

 

その挑発に、漆原は答えない。

答えない代わりに、ゆっくりと眼を開いた。一旦血反吐を吐き散らかし、その後震える表情筋を動かして口角を上げる。彼は歪に笑っていた。

息を少し吸って、何やら観客席の方を緩やかに向く。「多分」

 

「多分、今です。スーツ女さん」

 

〆鴨が追随する。漆原が向けた視線の先、観客席の奥の奥。

招いた覚えのない人影が複数人。その中心に立つ一人の女が、顔を顰めながら微笑んだ。

 
 

「───誰が"スーツ女"ですか」

 
 

空気が揺れる。

霊子論的電磁パルス。矢部かがり率いる突入班が、余剰空間の全域に放った攻撃だった。GOCが保有するVERITASや他の異常組織への対抗策として開発された小型ドローン。機械兵装には強烈なEMP及び探知妨害の現実子を、対抗措置をとっていないヒトガタには超弩級の耳鳴り及び頭痛をばら撒く必殺兵器である。既に漆原のドロップキックで視聴覚を消し飛ばされている信者たちにとっては、死体蹴りもいい所の一撃だった。

自立駆動していた〆鴨のリングが重力に抗えず墜落し、当の本人も頭を抱えてその場にうずくまる。頭蓋を割らんとする様な激痛にのたうち回る〆鴨は、この瞬間、頭上を認識していない。

 
背部スラスタを起動。EMPで乱れ弱まった拘束を抜け出した。

 
そのまま宙でもう一度スラスタを起動し、急激に方向を転換する。目標は直下。〆鴨がようやく面を上げた。その瞳孔に、迫りくる足裏が反射する。もう遅い。更に加速する。更に威力を上げる。

 
「待っ──」

 
待つわけねえだろ。喰らいやがれ。

 

ドロップキック。

 

両足で〆鴨の顔面を踏み抜いた。ビリビリと空気が揺れ、確かに鼻を、頭を踏み潰す感触が足裏を殴り付ける。黒仮面が五片六片に割れて砕け散った。

頭上に吊り下がる機械が微細に発していた光が消失する。即ち、機能停止。ステージを支配していた力場の様な物が消え去り、捻じ曲げられた重力が正しく帰還する。

 
浮かび上がっていた少女の身体が落下する。
ピクリとも動かない〆鴨を踏み台にして、漆原は駆け出した。

 

 

 

 

 
 

"貴様如きが、主人公にでもなったつもりか?"

 

言葉が脳内に木霊する。

 

愚問である。そんな訳がない。俺は、主役の座につけるような人間ではない。もっと言えば、監督になれる様な器でもないんだ。脚本を一から書き換えられる程、偉大な存在になれる筈もない。デウス・エクス・マキナなんざ、それこそ俺に言わせりゃつまらない。

確かに地面を踏み、蹴る。余す事なく、前への推進力として。それは最早走行と言える程行儀の良いものじゃない。ただ、飛び出していく。重力に叩き落とされた少女、その落下先へ確かに存在する為に。

結局俺が観客席から舞台に上がった所で、特に世界が劇的に変わる事はないのは自明である。それでいいと思う。そうあるべきだとも思う。

でも、今は。今だけは。
舞台上に追加された「只の一役」として、この瞬間を限界まで足掻いてみたい。

足掻いていたいんだ。

 
少女の力ない背中が確かに頭上から迫る。届け、なんて祈りを刹那に思う事もない。絶対に届かせる。前方へ跳躍する。伸ばした両手に全霊を賭ける。

 
 

漆原六郎うるしばらろくろう

この物語の主演は、果たして彼ではない。たとえ傍観せど舞台へ上がれど、結局変わるのは一役分の有無、ただそれだけに過ぎなくて。

 
 

たかが一役。
されど、されど───。

 

  

  

 

 

 
 
───凡そ30kgの質量を受け止めた衝撃を全身で吸収し、上半身全体をフルに使いながら些か不格好に着地を決める。殺しきれなかった鉛直方向への運動エネルギーを膝を擦り剝かせて半ば無理やり止めた。己の腕に収まる少女、その胸が微かに上下している事を確認する。

 
36度と少しの体温が、血の温度が確かに伝わる。

暖かい。率直に、そんな事を思った。

 


 

サイト-8 西病棟5F 休養室

 
「……それで、君が助けた女の子は後程我々が回収した。検査したところ、まあ若干の後遺症は見受けられたけど生活する分に損傷は無し。これから彼女の身をどう振っていくかについては我々の管轄だよ。ひとまずはよく頑張った、お疲れ様」
「そうですか、どうもです」
「相変わらず対応が塩だねぇ。虚裡うろうーに似たのかな」
「禁煙っすよここ」

 
けらけらと悪戯に笑いながら飯尾唯めしおゆいが燻らせる煙を、真顔の漆原が片手で振り払って抗議の意を示す。

病室、相も変わらずそこに居るのは二人だけ。ただ異なるのは面子が漆原と飯尾である事、今度は漆原が見舞われる側であることくらいだ。「まあまあ、いいじゃんか」と言いながら、飯尾がベッドの傍に置かれた職員証を軽やかに抜き取った。

 
「あんまし盛れてないね」
「一体全体どういった要件でございますか、飯尾さん」
「俺が普通に見舞いに来ただけの可能性は?」
「冗談キツいぜ」

 
口先では皮肉を飛ばしつつも、漆原は半ば全てを諦めながらうんざりとしていた。緊急事態、余剰空間内とはいえ監視対象に許された範疇をあまりにも超えすぎたドロップキックの行使、暴走、暴挙。「お疲れ~」と病室のドアを開けて現れた飯尾が、漆原にはまるで鎌を構えた死神に見えていた。

怒られることが確定していながら職員室に呼び出された生徒の様な、憮然とした顔つきで漆原は飯尾の言葉を待つ。

飯尾は何も答えずに、職員証を漆原へと手渡した。

 
「とりま、これ返すね」

 
受け取る。職員証に映る不機嫌そうな己の姿を見て、今も何も変わってないなとため息をつく。漆原 六郎、クリアランスレベル3。……3?

思わず二度見していた。クリアランスレベル3、状況に応じて4───ちょっと冗談にしてはキツすぎる。示された監視中のマークは、元から存在しなかったかの様に消えていた。代わりに記されたのは、見覚えのない役職。

 

漆原六郎 "常任監査員"

 
「───常任監査、員」

 
飯尾の方を見上げる。いつもの転がす様な笑みはすっかり消え失せていて、その顔はどこか自分の事を挑発的に試す様な、それでいて優しさも確かに滲ませたような色を帯びていた。これはこれで死神みたいだな、と漆原は思う。

 
 

「エージェント・虚裡の推薦だよ」

 
 

「まあ、それを受理ったのはもっと上のお偉いさん方だけどね。ともかく今日、俺はこのポストを君にお届けしに来たわけだ。乗るかどうかは君次第ってとこ」
「はあ」
「まあピンと来ないわな。簡単な業務内容なんだけど───」

 
飯尾がすらすらと紡ぐ説明を、微かにぼやけた頭で咀嚼する。自分なりに、自分の言葉で。

常任監査員。曰く、職員たちの勤務内容・職場環境・実験における安全確保まで。あらゆる物を見る、確認する、監査する役職。多分それが本質ではないのだろうな、と漆原は思う。それならばわざわざ自分に話が回ってくる理由が見当たらないし、何よりも漆原六郎という存在を些か持て余しすぎている。

漆原の顔を見て、飯尾がピンと指を立てた。

 
「お察しの通り、この役職の本領はそこじゃあない」

 
ドロップキック。

記録が支配する世界のタイムラインに、前後で合計1時間の風穴を開ける漆原だけの"超常"。その異常性は敵対組織の妨害にも、微かにめくられてしまったヴェールを繋ぎとめるのにも運用が可能。───故に、監査を続ける中、防ぎきれない不祥事が発生してしまった時。

 
「ドロップキックしてから異常性が継続する30分間。君には、その間に頑張って場を制してもらう」

 
飯尾が楽し気な顔で言い放つ。
漆原はひとり、静かに納得した。

即ち、自らに課せられるのは絶体絶命の確定したピンチヒッター。傍観者の様に場を眺め続けて、いざ行動するのは火急、修羅場の最前線。不祥事を30分以内に鎮圧し、隠蔽し、何事もなかったかのように立つのが常任監査員という役職だ。

 
「……なるほど。大体理解しました」
「なら良かった。その上で返答は」
「前向きに考えさせて頂きます。追々話しましょう」

 
即答。迷いのない返答を前に、飯尾唯は"分かってたさ"とでも言うように微笑んだ。

 
「ふふ、いいのかい? 正直言って割の合わない仕事だよ。これから君がどんなに血と汗を滲ませながら全力を尽くした所で、後に残るのは過程が全て消し飛ばされた"結果"のみだ」

 
例えば、今回助けた少女。彼女は自身が何者によって助けられたのか知らないし、そもそも社会復帰の為の記憶処理で全ての事を緩やかに忘れてゆく。エンドロールにその名が載る事は無い。周囲の人々が見るのは「傍観者」の漆原六郎だけだ。

それは待ち受けるのが孤独である事を意味していた。

 
漆原はその言葉に少しだけ考える素振りをして、やっぱり考えるだけ馬鹿馬鹿しいと顔を振って。そうして飯尾に向き直り、まるで独り言の様に語る。「──生憎なんですが、」

 

「踊るなら、誰も見ちゃいない舞台の上が俺の性に合っている」

 
 
それに、と漆原が続けた。

 
「孤独は、漸くあんたと同じ土俵に立てるって事でしょう?」

 
数秒程病室を無言が駆け抜けて、飯尾が少しだけ観念した様に笑う。普段は"何処の陣営にもつかない"と顔で雄弁に語る様な仏頂面をしている癖に、誰かを皮肉るときだけは随分とニヒルに口角を上げる男なのだ、とは他ならぬ飯尾の結論だった。

飯尾が漆原から背を向けて、病室の扉へと向かっていく。ドアノブに手を掛ける刹那、「そんな事もないぜ」と振り向きながら、また、少しだけ意地悪に笑い返した。

 
「最近後輩ができてね。案外、そこそこ面白い奴でさ」

 


 

 

 

権限称号中……

 

 
 

 

漆原常任監査員は、20██年██月██日に財団に雇用された財団内部常任監査員です。雇用以前は行政所属███官の職を務めていましたが、財団エージェントとの接触によって引き抜かれ、雇用が決定されました。

身長173cm、体重61kg。外見的特徴に特筆事項はありませんが、常に緑色のネクタイ・緑色のイヤーカフのどちらかを身に着けています。

 

轟音。

荒い呼吸と血塗れの白衣を纏いながら、研究員は確かにサイト内部の廊下を走る。背後から聞こえるのは悲鳴に似た何か、ひっきりなしに肌が叫ぶのは他ならぬ死の気配。

情報災害。僅かに収容違反してしまった"それ"はインクの染みの様に急速にそのサイトに広がり、牙を向いた。汎ゆる映像が、音声が、記録が次々と災害曝露のベクターへと変貌していく。秩序で構築されている筈のサイトは、今この瞬間において混沌の棺桶と化していた。

研究員は、一人ひたすらに走る。目的地は自分でも分からない。ただ、この場に留まり続ける選択が即ち死を意味する事だけを強く理解していた。散逸的に視界を通り過ぎてゆくのは、同じく白衣を着た人影たち。立ち止まっていたり、同じ方向に走っていたり、倒れていたりするものの、努めて気に留める事なく走り過ぎていく。通路には何処からか風が強く吹き込んでいる。背中を打ち付けるそれに押し流される様に、罪悪感と恐怖心を生存本能で塗り潰しながら。

情報災害にやられた彼等は脳内を蝕む狂気を、致命的な暴力性として発露させている。こちらを追いかけて来る可能性を考慮すれば、決して足を止める訳にはいかなかった。走る。呼吸を止めていた事に気づく。躓きそうになって、吐き出し忘れていた息を吐いて、また前方を見る。

 
そこには、一人の男が立っていた。

 

財団内部常任監査員の職についており、財団職員の勤務内容・職場環境・実験における安全確保等、日々多種多様な物を監査しています。この監査内容は財団環境部門や生活委員会、[データ編集済]に報告される他、場合によっては不祥事の際における職員の処遇決定や場の調停も本人が担当します。

 
「大丈夫ですか」

 
男は事も無げに言う。それに対して思わず足を止めてしまったのは、確かにコミュニケーションが取れたという安心と、男の凪いだ表情のせいだ。こちらとは逆方向に歩く人影は、未だ見たことが無かった。

 
「あ、あんたは」

 
返答にならない質問を返してしまった。通路に吹き込んだ風が二人の頬と髪を些か雑に撫でる。男が身につけた緑色のネクタイが、その翡翠を瞬かせながら静かに靡いていた。

男が返答しようと口を開く。
直後、嫌な気配が背後に粘っこい足音を鳴らした。

 
白衣を着た中年。恐らくこのサイトで働いていた研究員の一人だと思われるが、その瞳孔は既に忙しなく動き回り、力なく開いた口周りには黒い血がべったりと付着している。手に握られた──何処で拾ってきたのかも分からない鉄パイプ。情報災害に頭をやられているのは一目瞭然である。

中年が、"敵"がこちらを見もせずに、だが正確にこちらを向いて鉄パイプ片手に迫りゆく。思わず背中を向けた。逃げなければ殺される。窮地で冴え渡った、どこまでも正しい本能である。一歩目を踏み出す。ちら、と隣の男を見る。

 

男が、一目散に敵の方へと駆け出している。

 

咄嗟に呆気に取られる。その姿を視界で追っていた。中年が鉄パイプを振り上げる。男が、刹那に犬歯を見せて笑う。

二者が会敵するその一歩前、男が跳躍する。限りなく地面と平行な姿勢。

 
その足裏は、既に中年を捉えている。

 

漆原常任監査員の所有する異常性として、「漆原常任監査員が誰かにドロップキックをする」という事象が発生した際に副次効果として「漆原常任監査員の周囲██haに起きた前後30分のあらゆる事象記録が範囲内全ての記録媒体から消失する」という反ミーム的現象が生じます。結果としてドロップキックの記録のみが残され、第三者から観測可能となります。

 
ドロップキック。

鈍音、中年が重力を置き去りにして吹っ飛んだ。乱雑に纏われていた中年の白衣が宙を舞う。蹴り飛ばした当の男は宙を半回転、軽やかに膝から受け身を取って着地する。

一撃で、空気が変わった。

呆気に取られた研究員が、最初に言語野に出力した感覚である。何故か男のあの一撃で、たったそれだけで、今も尚こちらを見つめている監視カメラの嫌な気配が消し飛ばされた様な。

 
立ち上がった男が、右腕に着けたアナログの腕時計をちらと見る。

 
「0735、ドロップキック行使。これより30分の間にサイト-17の鎮圧・調停を実行します、と」

 
そのまま動けないでいる研究員の方へと振り向いた。掛ける言葉に少しだけ迷って逡巡した挙げ句、申し訳程度に口角の端を上げて言葉を紡ぐ。

 
「漆原 六郎。常任監視員をやっている者だ。もう会うことはないかもしれんが、以後よろしく」

 
 

「──この場は俺が何とかする。取り敢えず今は逃げるといい」

 
耳を劈く声が聞こえる。廊下の端から現れるのは、狂気に苛まれた情報災害のベクター達だ。殺意と狂気に際限はなく、今も尚ここが修羅場の最前線である。

 

漆原常任監査員は30分以内に鎮圧可能と判断された不祥事の元へ出向き、速やかなドロップキックの元事態の鎮圧を遂行、詳細な報告を提出する義務があります。

 
襲撃者の一人が、金切り声に似た咆哮を上げる。

通路には何処からか風が強く吹き込んでいる。ふわりと宙を舞っていた白衣が押し流され、軽やかに男の足元まで運ばれた。簡易的な上昇気流に乗り、白衣が再び鉛直上方向へと舞い上がる。

 
幕が、上がる。
男は、漆原六郎うるしばらろくろうは。

 
 

備考: 漆原常任監査員がドロップキックをしている姿が映像・記録に残された時は、逆説的に必ず「何らかの緊急事態」が生じています。特殊クリアランス取得済の職員はその旨をよく理解した上で業務に臨んで下さい。

 
 

緑色のネクタイを締め直し、独り、犬歯を見せて笑った。

 

文字数: 35872

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